聖女は笑顔でウェディングブーケを受け取った。
「アンナ、読唇術をいっしょに習いましょう」
と、オリヴィアは言った。
「お嬢様、『どくしんじゅつ』とは……何ですか?」
アンナは怪訝な顔で問い返す。
「それを覚えれば、声が聞こえなくても唇の動きで何と言ったかがわかるのよ。声に出してしまうと、こっそりでも先生たちに気付かれてしまうでしょう? 授業を抜け出す際、落ちあう場所や時間を私たちだけがわかるようにできたら、すごく便利だと思うの。聖女の旅に必要だって言えば、きっと許可してもらえるはずだわ。ね、いっしょに習ってみない?」
ああ、なるほど、とアンナはうなずいた。
「それはいいかもしれませんね」
彼女が答えると、オリヴィアは「そうでしょ?」と、嬉しそうに微笑んだ。
公爵令嬢オリヴィアは一人前の聖女になるため、休む暇もなく毎日さまざまな授業を受けさせられていた。
魔法の訓練、世界各地の文化習俗の勉強、時には体術の稽古まで。彼女のスケジュールは大人が閉口するくらいにみっちりだ。
オリヴィアは侍女見習いであるアンナといつもいっしょだったが、最近はプライベートの時間もほとんど取れなくなり、以前のように二人で遊ぶことも少なくなっていた。
まだ十二歳の少女たちにとって、それは到底受け入れられないものであり、令嬢は何とかして友人との時間を捻出しようと、子供ながらにさまざまな手段を試そうとした。読唇術はその一つだった。
とはいえ、彼女たちは聖女という役目の重要性も理解しているつもりだった。
この国では、数十年に一度の周期で聖女が擁立される。
聖女は専属の護衛を伴い、世界中を旅して回り、やはり数十年に一度、各地で発生する邪悪な魔物を聖なる力で浄化する役目を負っている。
聖女の名声は国境を越えて響き渡り、各国の民から畏敬の念をもって讃えられる。
そして、生まれ持った魔力の高さや、家柄なども勘案した結果、次の聖女にオリヴィアが選ばれることはすでに数年前から決まっていた。
幼い頃からそう言い聞かせられていたがゆえに、オリヴィアもアンナも、いずれオリヴィアが聖女となるであろうことは当然のこととして受け入れていた。
オリヴィアは自分が聖女になることを誇りに思っていたし、オリヴィアを慕っていたアンナも、彼女の従者として聖女の旅についていけるよう、めいっぱいの努力を惜しまなかった。
オリヴィアは心優しい少女だった。
少なくとも、侍女のアンナにとってはそうだった。
オリヴィアは目下のアンナを蔑視したり、こき使ったりすることもなく、いつも真摯な目線で彼女に接した。
立場の違いはあれど、周りが大人ばかりの中、二人は最も近しい距離にある友人であり、親にも言えない思春期の多感な思いを打ち明けられる相手だった。
ある日、二人が授業を抜け出し、アンナの部屋でくつろいでいた時のこと。
オリヴィアは机の上に置かれた一枚の写真に目を留める。
「ねぇ、アンナ。ここに写ってる殿方はどなた? あなたは一人っ子のはずだから……お兄さん……じゃないわよね?」
それはアンナの見合い相手の写真だった。
アンナはオリヴィアの侍女見習いとはいえ、男爵家の令嬢でもあり、例に漏れず他家の貴族の子弟と将来結婚することが決められていた。
本人の気持ちよりも家柄が優先される貴族社会。
しかし、アンナはその見合いに異議を唱えることもなく、写真の少年──クリストフが未来の夫になるであろうことを、特に不満に思ったりもしていなかった。
一方、それを聞いたオリヴィアは、驚いた顔でアンナを見る。
「……結婚!? 私たちまだ十二歳なのに、そんな先のことがもう決まってるっていうの!?」
「普通は……そうだと思いますけど?」
聖女候補であるオリヴィアは、その身が清いままであることが求められ、数年にわたる聖女の旅が終わるまで浮いた話も持ち上がらない。
少なくとも、聖女本人の耳に婚約関連の話がもたらされることはなかった。
今まで聞かされていなかった慣習にオリヴィアは目を見開く。
彼女はいくばくか考える様子を見せると「それは良くないわね」と、アンナに言った。
「良くない……ですか?」
「だってそうでしょう? 結婚って、一生をともにする相手を選ぶ大事なことよ。親や家柄がどうとかよりも、まず大切なのは自分の気持ちじゃない。誰かの決めたことに従うんじゃなくて、お互いがその人を好きなのかどうか……何よりも、自分の心で決めることが重要よ! 私だって、聖女になることは自分がそうすべきだと思ったからお勉強しているのだし。どんなことでも、無理矢理従わされる必要なんてないはずよ」
「お嬢様……」
アンナはオリヴィアの素直な心に胸打たれる思いがした。
ただ、実際のところ、アンナ自身もクリストフには何回か会ったことがあり、彼と結婚することにさほど悪感情を抱いてはいなかった。
見合いの場での彼は礼儀正しく、丁寧にアンナをエスコートしてくれて、「こんな素敵な人が婚約者だったら」とアンナは思ったのである。
彼女がそのことをオリヴィアに話すと、令嬢は拍子抜けした表情となって、「そうだったの。ごめんなさいね」と、謝罪の言葉を述べた。
けれど、それからもう一度考えるような仕草を見せると、やはり気を抜いてはいけないと言わんばかりに、真剣な瞳でアンナに語り掛けた。
「でも……その方とはまだ数回会っただけなのよね? あんまり疑っても良くないけど、本当はどんな人なのか、まだアンナも完全にはわかってないんじゃない? ああ、そうだわ、一度その方をこのお屋敷に連れてきたらどうかしら。アンナの前でだけ良い格好をしているのかもしれないし、本当にアンナの婚約者にふさわしいか、私が見て、テストしてあげるわ!」
「ええっ!? お、お嬢様が……ですか?」
「心配しないで。別に変なことをするつもりはないから。こっそり観察するだけよ。来月の私のお誕生日パーティーなら、口実にもちょうどいいんじゃない?」
いささかぶしつけな提案ではあったが、それはアンナを案じてのことであったし、アンナ自身もそのことはよくわかっていた。
そして、オリヴィアが予定した誕生パーティーの日ではないが、後日三人は面会し、無事クリストフもオリヴィアのお墨付きを得ることになる。
オリヴィアはクリストフのことを「なかなか素敵な婚約者ね」と褒め、アンナはそれに安堵するとともに、彼が評価されたことを嬉しく思った。
自分には将来結ばれる思い人がいて、尊敬する友人にも恵まれている。アンナは自らが幸せな少女時代を送っていると思い、その幸運にとても感謝していた。
そんな感じで、オリヴィアとアンナの関係は変わることなく、三年の月日が過ぎる。
オリヴィアの聖なる力がピークに達するその年、旅の準備は万端に整えられ、彼女はまもなく国を発つことになっていた。
聖女の旅は、すべてが終わるまで少なくとも五年の時を要する。
だいたい平均して七、八年。長くておよそ十年。世界に復活した数多の魔物を打ち倒すため、オリヴィアは過酷な旅を続けなければならなかった。
それに随伴するのは、国内から選出された選りすぐりの護衛たち。
選ばれるのは聖女と同じく聖なる力を身にまとう、特別な力を持った精鋭たちである。
実のところ、アンナも護衛としてオリヴィアの旅に同行するつもりでいたのだが、残念なことに彼女に聖なる力は発現せず、その一員には選ばれなかった。
そして、アンナが選ばれなかったこと以上に、それと併せてさらに不運なことがあった。
それは、彼女のフィアンセであるクリストフが、聖女の護衛に選出されてしまったこと。
クリストフは幸か不幸か聖の力を身にまとうことができ、聖騎士として聖女のもっとも近しいボデイーガードの役目を拝することになった。
尊敬する令嬢と、将来結ばれるはずの婚約者と、その両方とも離れ離れになってしまう。
しかも両人とも、魔物を討伐するという危険な旅に身を晒さなければならない。
アンナはとても心配で、悲しく、不安な気持ちに襲われた。
それは二人の身を案ずる気持ちと、二人に会えない寂しさからのものだと、その時は思っていた。
いずれにせよ、一人安全なところにいる自分が駄々をこねて皆を困らせるわけにはいかない。
アンナは我を通すことを慎み、ただ粛々とオリヴィアの旅の準備を手伝うしかなかった。
そして、出立の日。
オリヴィアはアンナに餞別として、ロザリオのネックレスをプレゼントした。
「お嬢様……これは……?」
「別れの品……なんていうほどのものでもないけど、まあ、私からの気持ちよ。この十字架のお守りに、聖属性の力を込めてあるの。身に着ける者の魔力に応じて、小さな結界を張ったりもできるのよ。王都にいる限りは大丈夫だと思うけど……私たちが旅に出ている間……アンナ、あなたもどうか健やかに」
オリヴィアはいつも通りの明朗快活な口調で、アンナに別れの挨拶をした。
「ありがとうございます、お嬢様……大切にします」
アンナは揺れる気持ちを表情には出さず、笑顔でオリヴィアとクリストフを見送った。
けれど、その内面では叫びたいくらいの衝動にかられており、それともう一つ、どこか言いようのない不安が彼女の胸にべったりと張り付いていた。
その不安は、オリヴィアとクリストフの距離が近ければ近いほどアンナの心をかき乱していたのだが、彼女自身まだそれに気付いてはいなかった。
そして──三人が別れてから、ちょうど三年目の冬をまわったある日のこと。
一匹の魔物が、アンナのもとを訪れる。
その魔物は実体を持たず、いわゆる精神体とでもいうべき瘴気の形をしており、靄のようにアンナの足もとにまとわりついた。
靄はアンナの体を傷つけることなく、しかし彼女の心を侵食するかのように、穏やかな声でささやいた。
『君がアンナだね。聖女と聖騎士に運命をもてあそばれた哀れな少女。僕は君を救うためにここにやって来たんだよ』
「な……何をわけのわからないことを言っているのですか……! あなたが邪悪な存在であることは、そのオーラを見ればわかります! 出て行きなさい! さもなければ、私があなたを退治しますよ!」
『ああ、可哀想なアンナ。自分が裏切られたことも知らずに、二人の帰りを健気に待ち続けているなんて……。でも、もう我慢する必要はないんだよ。僕がこれから真実を見せてあげるから』
靄はアンナの警告を意に介した様子もなく、ぐるぐると自らの瘴気を渦巻かせると、その中心に一つの映像を浮かび上がらせた。
ちょうど鏡のような楕円形をした空間がアンナの眼前に突き付けられる。
その空間には鏡面のごとき映像が映し出されており、アンナはその光景のリアルさに思わず息をのんだ。
否。それだけではない。
彼女が息をのんだのは、その光景のリアルさにではなかった。
映し出された映像の先には、オリヴィアとクリストフがいた。
しかも、二人とも裸で、互いに肌を寄せ合っていて。
一枚の毛布に二人して身を包み、ぴったりと身体を密着させている。
三年ぶりに目にする親友と婚約者の姿。長い月日が経過した今、二人の容貌は少年少女のあどけなさが薄れ、大人のそれへと成長していた。
そして二人は、まるで恋人どうしのような距離で寄り添っていた。
(な……何……? これは……私は……何を見ているの……?)
『これが真実だよ』
アンナの心の声に呼応するかのように、靄は答える。
『聖女といえど一人の人間なんだ。どんなに高潔さを称えられようと完璧じゃない。ましてや三年という歳月は、人を変えるのに十分な長さがある。君の友人と婚約者は、過酷な旅を続ける中で、互いの傷をなめ合うように惹かれあっていったんだよ』
アンナはその光景に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
ガクガクと膝が震え出す。
自分が何を見せられているのかすらわからなくなり、彼女はかろうじて短い拒絶の言葉だけを絞り出した。
「う、嘘……嘘よ……」
『信じられないかい? 嘘だと思うならそれでも構わないよ。でも、この映像は本物だし、僕は好意からこれを見せてあげているんだ。何なら二人が帰ってきた時に問いただしてみればいい』
その映像の中では、オリヴィアもクリストフも安心しきった顔を見せていた。
声までは聞こえてこない。通り雨にでも見舞われたのか、二人とも髪が濡れていて、それを乾かすために洞窟の中で焚火にあたっているようだった。
単に暖を取っているといえばそれまでかもしれないが、それでも二人の表情は互いを信頼しきっており、無防備さを見せ合ってもまるで気にしていないという感じだった。
(お嬢様も、クリストフも……。あんな顔……私にだって見せたことがないのに……)
そうしてアンナは自分の感情にはたと気付く。ずっと胸の奥に押し込めていた不安な気持ちの正体を。
旅立ちの日、アンナの心をかき乱したのは、もしかしたら二人が惹かれ合ってしまうかもしれないという恐怖と嫉妬の感情だったのだ。
尊敬する二人に限ってそんなことはないと思っていた。そう自分に言い聞かせ続けていた。
しかし、目の前の光景は、いともたやすくその信じる心を打ち砕いていく。
「やめて! こんなものを私に見せないで!」
『目を背けないで、アンナ。今逃げたって、いずれ二人は君のもとへ帰ってくる。そして、申し訳なさそうに君に告げるに違いないんだ。『ごめんアンナ。私たち結婚することにしたの』──ってね。だから君は、今から覚悟を決めなくちゃいけないんだよ』
「覚悟って……あなた、何を言っているの……」
『二人の告白にどう応えるか。それはすべて君次第だ。でも、いくら親友だからって、おめでとうと簡単に祝福できるのかい? 二人は君を裏切り、信じる心を踏みにじったんだよ。何もためらう必要はない。君は二人に憎しみをぶつける権利がある』
「私が……憎む……。二人を……?」
『いいかい、アンナ。こんな非道な行いをした彼らを、許す理由なんてどこにもないんだ』
実体を持たない瘴気の悪魔は、巧みな話術でアンナを引き込んでいった。
『ご覧の通り、僕には肉体が存在しない。だけど、君が身体を貸してくれれば、聖女を倒せる大きな力を手に入れられるんだ。僕と取引をしよう。僕が君の身体を使って聖女を殺してあげる。君は心をゆだねるだけでいい。面倒なことは僕にすべて任せてくれればいいんだ』
足元で淀んでいた真っ黒な瘴気は、そこでアンナの両肩まで這い上がった。
彼女が胸にかけていたロザリオに亀裂が入る。
オリヴィアが贈ったロザリオは、聖なる力でアンナの身を護る効果を有していたが、所有者であるアンナの心に呼応して力を発揮するため、今の状況ではさしたる防護も望めなかった。
黒く、醜く、おぞましい、負の感情がアンナの心を侵食していった。
アンナの内側で自らの心の声がリフレインする。
(どうして……どうしてなの。この三年間、二人がいなくてずっと寂しかったけど、いつか帰ってきてくれると思っていたからこそやってこれた。私はずっと二人の帰りを待っていたのに。それなのに、お嬢様もクリストフも、旅の向こう側であんなに楽しそうに笑って……!)
そう、二人は一つの毛布にくるまって笑い合っていた。
まるで互いを知り尽した、家族のような朗らかな笑顔。
オリヴィアの唇が動いて何かの言葉を紡いだ。
アンナは涙を浮かべて呆然とその動きを見る。
──いいこと? クリストフ。あなたにはアンナを幸せにするっていう、何よりも重要な任務が残ってるんですからね──
(……え……?)
アンナはその言葉に、思わず目を見開いた。
声が聞こえたわけではない。しかし、オリヴィアの唇はそのように言っていた。
読唇術。いつかの幼い日、オリヴィアが二人の時間を作るために習おうと誘ったその技術で、アンナは聖女が紡いだ言葉を読み取っていた。
アンナは再度、オリヴィアの口もとを注視する。
(……『これは聖女としての命令よ、クリストフ』……)
続いて彼女は、クリストフの唇に視線を移した。
(……『わかっていますよ、オリヴィア様』……)
「──本当にわかってるの? 言っておくけどね、私の方があなたよりもアンナとの付き合いはずっと長いのよ。だからアンナのことなら何でも知っているの。あの子を少しでも悲しませたら、それは全部私に筒抜けなのよ。そこのところをよく肝に銘じておくことね」
「ええ、承知しています。アンナが俺にはもったいないくらいの女性だということも、あなたのアンナに対する愛情の深さも」
「本当なら、あなたをこの旅に同行なんてさせたくなかった。アンナといっしょに居させてあげたかった。でも、世界の秩序がかかっていることに、個人的な感情は挟めない……」
「仕方のないことです。だからこそ、早く任務を終わらせて、俺たちは彼女のところに帰らなければ」
「……知ってる? アンナってね、実は自分もこの旅についていくつもりでいたのよ」
「……そうなんですか?」
「しかも私が正式に聖女になるずっと前から考えていたらしいの。魔法の訓練も同じ授業を受けることはなかったけど、いつも私が訓練してる間は、別の場所で練習してたんですって」
「それはつまり、あなたの役に……立つために……」
「そう。あの子はこの旅についていけなくて申し訳ありませんって謝ったけど、役に立たないなんてことは全然ないのよ。アンナはずっと私を支えていてくれた。私を助けようとするその心が、姿勢が、どれほど私の気持ちを奮い立たせたか。彼女がいたからこそ、私は聖女になることができたのよ」
「……わかるような気がします」
「本当のことを言うと、聖女になるのはすごく不安だった。怖かったのよ。みんなの期待に応えられないんじゃないかって。それに、旅の途中で死んでしまったらどうしようって、私は一人でいる時は、ずっと怖くて震えてたの」
「それは……当然の感情ですよ」
「でも、アンナの前ではそんな弱音を吐くわけにはいかなかった。だってあの子、自分にそんな義務はないのに、ついていくことが当たり前って顔で、いつも私に話してくるのよ? お嬢様を守ることは当然ですって! それなら私が怖がるわけにはいかないじゃない! あの子の前でカラ元気を作ってるうちに……いつしかそれが本物の感情になっちゃって……何故だか怖くなくなっちゃったのよ。ほんと、何なのかしらね」
「ちなみにアンナには、その話をしたことは?」
「あるわけないでしょう。恥ずかしすぎるわよ! ……でも、だからこそ、私は聖女でなければいけないの。『高潔でかっこいい聖女のオリヴィアお嬢様』、それを信じているアンナのためにもね」
「……素敵な関係ですね」
「アンナがそんな子だからこそ、あなたにもアンナを幸せにする義務があるのよ。たとえば今、こうやって私たちは凍えないために肌を寄せ合ってはいるけれど、この状況をアンナに見られたとしても、私がきちんと説明すれば、あの子は不純はないって信じてくれるに違いないわ。そんないい子だからこそ、あの子は幸せにならなくちゃいけない。きっとアンナはこの瞬間も、慎ましやかに私たちを待ち続けているはず。それに報いるためにも、私たちはさっさと任務を終わらせて、一刻も早く帰らなきゃいけないのよ」
「世界の秩序に、個人的な感情を挟んじゃいけないんじゃなかったんですか?」
「おろそかにしなければ別にいいのよ。それに本当は、世界の平和なんてアンナの幸せに比べたら、クソくらえってなものなんだから」
「……い、今のは、聞かなかったことにしておきます」
「……とか言いつつ、顔が笑ってるじゃないの! もう、怒るわよ?」
「だって、仮にも聖女がクソくらえって……いえ、俺はあなたの素を知ってるからいいんですけど、それでもその物言いは……ぶはっ、ヤバいですって。あはははは!」
「ちょっと、笑いすぎよ!」
クリストフが笑うと、オリヴィアもつられて笑った。
だが、そこには後ろめたさなどない。アンナのことを大切に思い、彼女を信頼しているがゆえの解放された笑顔だった。
そこに至るまでのオリヴィアたちの会話でアンナは理解する。二人にやましいところなど何もないと。
同時に彼女は己の猜疑心を強く恥じた。
自分は何を考えていたのだろう。どうしてこんなに素晴らしい二人を、一瞬でも疑ってしまったのだろうと。
オリヴィアたちの会話を注意して見ていると、どうやら彼らが訪れた地の魔物は、搦め手を用いてパーティーを分断にかかったらしいことがわかった。
オリヴィアとクリストフは二人きりで孤立させられ、豪雨に晒されたため、近くの洞窟に雨宿りすることになったという。
風邪を引くおそれはあるにせよ、こんな程度で聖女を倒せるとは思えない。
何を考えているのかと二人は首をかしげていたが、アンナだけはその魔物の真意に気付いていた。
つまり魔物の狙いは、遠く離れたアンナにあったのだ。
彼女の心に入り込み、操り、王都に帰還して油断した聖女を、最も信頼する者の手で刺し殺す。
搦め手とは、言うなればそれだ。
迂遠ながらも悪辣で確実性の高い方法。危うくアンナはその手先として利用されるところだった。
しかし、それを防いだのは、そうはならなかったのは、オリヴィアたちがアンナを思い続けていてくれたからだった。少なくともアンナには、そう思えてならなかった。
(私一人だったら取り込まれるところだった……! お嬢様とクリストフがいたからこそ、踏みとどまることができたんだわ……!)
胸のロザリオが、聖なる光を取り戻す。
アンナの信じる力に呼応して、十字架はこれまでにない輝きを放った。
『さぁ、アンナ。今こそ、君の身体を僕に──』
「黙りなさい!!」
アンナは魔物に叫んだ。
渾身の力で、声を張り上げて。
「卑劣な手段でお嬢様たちを害そうとしても、無駄なことです! あなたが話しているのは真実なんかじゃない! ようやく理解することができたわ……私はずっと大きな力で守られていたということを! そうよ、たとえどんなに遠く離れていても!」
アンナの強さを取り戻した心に魔物はたじろいだ。
彼女の内部に入り込もうとしていた瘴気はロザリオの光に当てられ、外へと押し戻される。
『な……何故だ。どうして付け入る隙がなくなっているんだ!? さっきまで揺らいでいた心が、今はまるでびくともしないなんて……!』
「消え去りなさい! ここから、私の心の中から──!」
強く念じる。
アンナは愛しい二人の顔を思い浮かべ、それを支えにしてロザリオに魔力を込めた。
『うぐあぁっ、やっ、やめろ──!』
断末魔の叫びをあげ、魔物は光に飲み込まれてゆく。
肉体のない瘴気の魔物は、並みのそれよりも知能が高く、人の心に付け入ることを得意としていたが、反面、力押しの攻勢には弱かった。
黒い霧はアンナの魔力で完全に消滅し、彼女は窓から入る陽の光に目を細める。
その光に反射した彼女の涙は、嬉しさと自責の念の入り混じった、とても一言では言い表せない複雑なものだった。
そして、その日から二か月後──これまでにないわずか三年と数か月という早さで、聖女たちは任務を果たし帰還する。
「お嬢様……クリストフも。お帰りなさいませ。ご無事で……何よりです」
アンナは彼らの無事を祝う言葉を述べた後、二人がねぎらいの言葉を返す前に、自らの罪を告白した。
魔物が自らのところに現れ、彼女をそそのかしたことを。
二人の雨宿りの映像を見せられ、危うく魔物の虚言を信じかけたことを。
一瞬でもオリヴィアとクリストフを憎んでしまったのは、自分が彼らを信じ切れていなかったからだ。アンナはそのように己の邪な心を深く悔いて、オリヴィアたちの処断を待った。
「……あちゃー……。それじゃあ、洞窟で私たちが裸になってたところを、見られてたってことなのね……。って、そこはどうでもいいか。それよりもアンナ、あなたは大丈夫なの? 怪我とかさせられてない?」
「え? は、はい。それは問題ありませんが……」
オリヴィアは一瞬だけばつの悪い顔をした後で、すぐにアンナの身を心配する。
聖女は数か月前に魔物が雨を降らせた意図を理解し、その元凶が倒されたことを確認すると、深く安堵の息を吐いた。
「まあ、あなたに何事もなかったのなら良かったわ。というか、私たちが倒すべき魔物を退治してくれてたなんてね……。ありがとう、アンナ。あなたのおかげで助かったわ」
「いえ、魔物を討てたのはお嬢様から頂いたロザリオがあったからこそですし……。私は……お嬢様たちを信じることができなくて……。あの、ですから私、お嬢様から感謝の言葉をいただく資格も、クリストフの結婚相手にもふさわしくは──」
「あのね、アンナ」
アンナが続けて懺悔の言葉を述べようとすると、オリヴィアはピンと人差し指を立て、アンナの謝罪をさえぎった。
「えーと……実を言うと私ね、旅を続けるうちに無性に結婚願望が湧いてきちゃったのよ。今までそういうお話に全然縁がなかったけど、各地で教会とかを訪問したり、たくさんの人と触れ合ったりするうちに、自分もそうだったらいいなって思い始めて……。でも、あなたとクリストフを放っておいて、私だけ幸せにはなれないじゃない? だから私が結婚するなら、あなたたちが結ばれてからだってずっと考えてたの。婚約相手を探すのもそれからだって」
「は? はぁ。あの、でも私、彼と結婚する資格なんて──」
「いいから最後まで聞いて。……それでね、とりあえず旅を早いとこ終わらそうと思って頑張ってたんだけど……。なんと最後の任地で、そこの国の王子様と結構いい仲になっちゃったのよ。これがまた結構な男前でね。私の方もまんざらでもないかな、なんて思えてきちゃって……。ええと、だから、つまり、何が言いたいかというと──」
オリヴィアは少しだけ顔を赤らめながら、どこか拙い感じで言葉を重ねてゆく。
アンナは聖女が何を言いたいのかわからず、首をかしげてしまう。
自分の罪を裁いてくれるのではないのか。断罪の言葉を待っているのに、まるでおかしな方向に話が進んでいる。
そのことにアンナがきょとんとしていると、オリヴィアの後ろでクリストフがくつくつと笑い出した。
「オリヴィア様、もっと手短に言えないんですか」
「わ、わかってるわよ! 今、一生懸命そうしようとしてるじゃない! あー、だからね、アンナ。要するに私は、結婚とか結婚式にあこがれてて、あなたが結婚した後で、その王子様と式を挙げたいの! で、あなたが持つであろうウェディングブーケが欲しいのよ! 『ブーケを受け取った女性が次に結婚できる』、『幸せになれる』っていうのをやってみたいなって……そういう話、あなたも聞いたことあるでしょう? だからあなたが下らない事にとらわれて、クリストフとの婚約をやめてしまったら、私が結婚できないわけ。あなたには幸せになってもらわなきゃ困るのよ! 私のために……そして、あなた自身のためにもね」
オリヴィアは一気呵成にそこまでの言葉を吐き出すと、スッと静かに身体を引いた。
同時にクリストフが一歩前に踏み出す。真剣な表情で。けれど、その瞳は万感の思いを込めた優しいまなざしをたたえていた。
「アンナ……今まで、ずっと待たせてすまなかった。この三年間、君のことを思わなかった日は一日もない。約束しよう、今この時から君の傍を離れることはないと。だからどうか──俺の妻になってくれないか」
「クリストフ……」
アンナが罪悪感に耐え切れなくなって視線をそらすと、オリヴィアが先回りして彼女の顔を覗き込んだ。
聖女はウィンクして小さく唇を動かす。
『逃げちゃダメよ』
声には出さず、彼女はアンナにそう告げた。
それを目にして、アンナの瞳から涙があふれ出した。
こんなに幸せでいいのか。自分は二人のように気高くなんかない。彼らを憎悪し、一度は傷つけようとすら考えた。
そんな自分が、この二人に、これほどまでに愛される資格があるのかと。
けれど、進む道は決まっていた。
オリヴィアが手を引いて導いてくれる。クリストフが傍にいてくれる。
信じられる聖女と聖騎士の優しさに包まれて、アンナは彼らとともに歩もうと心を決める。
固く揺るがない決意の証を、彼女は言葉として外へ発した。
「こちらこそ……あなたといっしょに居させてください、クリストフ。そして、ありがとうございます……お嬢様……!」
すでに冬は過ぎ、暖かな春の日差しが降り注いでいた。
それは長き別離の日が終わり、暗闇を抜けた三人の行く先を指し示しているかのようだった。
それから幾日か後の小さな教会で、世界を救った聖女は、無二の親友でもある一人の花嫁から──笑顔でウェディングブーケを受け取ったのだった。