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第七話


次の出勤日、私と和磨さんは二人揃って研究所に行くことになった。

私は「急に二人で出勤したら恥ずかしいから、別々に行きましょう。」と主張したけれど、「行きも帰りも冬桜子一人じゃ危ないでしょう。」と譲らない和磨さんに折れた格好だ。


研究所までは市内のバスで一本。駅から乗ってくる人ですでに混み始めていた。

バスの乗客は殆どが私たちが勤める研究所か、その近隣の研究所に勤務する人だった。そのため、降りる駅まで席が空くことはない。


「冬桜子、ここに捕まりなよ。」


和磨さんが通路にある手すりに私をエスコートした。このバスは車体が高いせいかよく揺れるので遠慮なく捕まらせてもらう。


そして和磨さんは片手を吊革(つりかわ)に、もう片方の手を私の腰に添えた。触れるか触れないかという絶妙な間隔で。

掌の体温が伝わるような気がして、落ち着かない。


「和磨さん」


私が小声で和磨さんを呼ぶと、和磨さんは顔を寄せてきた。


「なに?」


「ち、近すぎませんか?」


「そう?普通の距離だと思うけど。」


私は気づく。和磨さんの普通は、もしかしたら外国流なのかもしれないと。

思えば完璧なエスコートは日本で普通に暮らしていたら身に着くものではないし。


誠一さんはもうずっと『自分大好き』という感じでこんな風にエスコートしてくれたことはなかった。私はいつも誠一さんの後ろ姿ばかり見ていた気がする。

それを思えば、公衆の場で男の人とこんなに近寄るのはいけないことのような気がする。


「日本では、近すぎると思います。」


私はそれだけ言うと、またうつむいた。

本当の恋人でもない和磨さんが私のことをこんなに丁寧に扱ってくれるのに対して、誠一さんは私のことをどう思っていたのだろうと考えて。


「好きな人を思う心に国は関係ないよ。」


その時、カーブにかかりバスが大きく揺れた。

和磨さんが何か言ったけれど揺れのせいで、よく聞こえなかった。

それよりも、揺れた体を和磨さんに受け止められて抱きしめられたことで頭がいっぱいになった。


「ほら、危ない。」


和磨さんはそういったけれど、私としては今の状況の方が危なかった。

婚約者はいたけれど、30年の人生で男の人に抱きしめられるなんて初めてで。


なんだかすごくいい香りがする!


と私は変態じみたことしか考えられなかった。


ずっとこのままだったらどうしよう、いやそれでもいいかも、とドキマギしていたらすっと体を離された。


「ごめんね、危なかったから。でも冬桜子がいやなら自重するね。」


和磨さんは少し寂しそうに言って、私からちょっと離れた。

この距離なら偶然隣に並んだだけの他人に見えるかもしれない。

変な噂を立てられることもなくて安心する距離。

なのに、私は心細いと感じてしまった。

研究所に着くまでその距離は保たれたままだった。



―――


「六条さん、今週の予定は何かな?」


室町教授が尋ねた。


「本日、月曜日は講義と研究室のゼミがあります。火曜日は企業と進めている外部研究の定例会、木曜日は夏季に開催している東京のS大学での短期講習について打ち合わせ、金曜日は厚労省の委員会に参加する予定です。なので木曜日と金曜日はご出張ですね。」


「うん。ありがとう。木金の新幹線とホテルの手配だけど、僕の分しかないよね?」


「はい、そうですが。」


「なら二人分増やしてもらえる?藤堂君と六条さんも今回は一緒に来てほしいんだ。」


「…藤堂さんと、私もですか?」


「そう。今回の短期講習は折角だし藤堂君にやってもらおうと思ってね。

でもいきなり講義というのも大変だろうから六条さんにサポートしてもらいたいんだ。あと、今回の委員会は藤堂君の研究にも関わることだから聞いてほしいんだよ。」


正直に言えば、東京に行くのは気が進まない。誠一さんが私を探しているみたいだし。それに和磨さんとは今朝のバスでのことがあってから、ちょっと気まずい。

行きたくない理由はたくさん思いついたけれど、行けない理由はなかった。


仕事に私情を挿むのは良くないわ。


「わかりました。藤堂さんにはお伝えしましたか。」


「まだだけど、僕から伝えるよ。でも、六条さんからも話しておいてもらっても構わないから。」


「わかりました。」


室町教授のスケジュール確認が終わると、すぐに私は新幹線とホテルの手配をした。室町教授と同じ車両の座席はほとんど埋まっていた。

ただ、ドア近くに2席の空席があった。


和磨さんは並び席はいやがるかも。


例えば室町教授がそうだ。同行者とは離れて座りたいタイプの人だ。

マイペースな人は大抵の場合、業務上必要でなければ離れた座席を指定する人が多い。それでも、万が一のことを考えて、私はなるべく同じ車両を手配するようにしている。


和磨さんが嫌な場合は、私が自由席に行けばいいわ。


私はそう判断して、ネットの予約ボタンを押した。

帰りの新幹線の座席は混んでいたため、悩む必要もなくバラバラの席を手配した。



お昼休み、私はカフェテリアで一人お弁当を広げていた。

本当は和磨さんに声をかけたかったけれど、研究室に籠っていて忙しそうだった。


「藤堂さんって本当に物知りなんですね。尊敬しちゃう。」


「そんなことないよ。ただ新しい機械が好きなだけで。しかし、最新の機器が整っていて、流石が室町先生だ。泉さんはここで研究できて幸せだね。」


「ええ、本当にラッキーです。藤堂さんみたいな優秀な先生と研究できて。」


和磨さんと泉さんが話をしながらカフェテリアに入ってきた。

私にはわからないような専門的な会話も交えて、とても楽しそうだった。


私は仮初の恋人なんだし、和磨さんが誰と仲良くしても関係ない。

なのに、少しだけ胸がチクリとした。


お弁当を食べて早くここから出ていこう。

今日は食べやすいおにぎりでよかった。

おにぎりと、唐揚げと、卵焼きと漬物。

シンプルな献立だけどこれは和磨さんの希望通りだった。

昨日の和磨さんの言葉を思い出す。


「コンビニのおにぎりってさ、機械が握っているんだよ。知ってる?

コンビニのおにぎりはすごいけれど、やっぱり久しぶりに人が握ってくれたおにぎりが食べたいんだ。」


そういう風にキラキラした目で言われたら断れない。

むしろ、断れる人なんているのかしら。


和磨さんは素直な人なんだ。欲しいものは欲しいと言うし、嫌なものははっきりと拒絶する。

でも、いつも相手を気遣って無理強いはしないし、優しい。


そう思うと、今朝の私の態度は冷たかったかもしれない。

無理なお願いを聞いてもらっているんだから、ちゃんと話し合わないと。

東京出張のこともあるし、仲良くしたい。


私は食べ終えてお弁当包みを縛ると心に決めた。

今日の夜に話す!

(私情は仕事に持ち込まない!)


カフェテリアを出る時、盗み見た和磨さんがおいしそうにおにぎりを食べていて、ちょっとだけ安心した。



―――


席に戻り、パソコンを開いていると、声をかけられた。


「六条さん」


声の主はポスドクの小路(しょうじ)さん。博士課程を卒業した後、お金を貰って研究している人だ。学生の方達のまとめ役でもある。

この1ヶ月過ごしただけだけど、小路さんはとても寡黙(かもく)で話したところは数回しか見たことがない。

そんな彼が私に何の用だろう。


「小路さん、何かご用でしょうか。」


「この間は、無事でしたか?」


この間ってなんのことでしょう?と思ったけれどきっと歓迎会のことだと思い当たった。


「お気遣いありがとうございます。この通りなんともありません。

羽目を外してしまい、ご迷惑をおかけしました。」


私が謝ると、小路さんは小さく機敏に手を振って答えた。


「六条さんが、謝ることはない、です。

とにかく、藤堂准教授には気をつけて。」


それだけ言うと、小路さんは去っていった。


何だったのかしら。

和磨さんに気を付けて、と言われたけれど…。


そういえば、あの日のことは和磨さんから詳しくは聞いていない。

ただ気にしないでと、言われただけ。

事前に清算しておいたから、お金については迷惑をかけなかったみたいなので、あまり深く確認しなかったけれど、何かあったなら聞かないと。


それから終業時刻になるまで作業をしていたけれど、研究室はがらんとしていた。

ゼミが白熱しているらしく、みんな会議室に集まっているからだ。

いつもならこういう時には先に帰ってもいいと室町教授は言ってくれている。

だけど、今朝、和磨さんが「一人で帰るのは危ない」と言っていたことを思い出して、どうしたらいいか決めかねていた。


「一人じゃなければいいのかしら。」


そうであれば、秘書仲間の真中さんや事務の人を誘えばいい。でも、そうすると、和磨さんは寂しい顔をするような気がした。


「一緒に帰りたいのかしら。」


う~ん、そうしたら、何のために?


「私を守るため?」


そうだ。和磨さんは私のお願いを聞いてわざわざ恋人の振りをしてくれている。でもなんで私のお願いを聞いてくれたんだろう。

住む家を探さなくていいくらいしかメリットがないけれど。


「和磨さんのこと何にも知らないわ。」


私はそんなことを考えているうちに眠くなってしまった。


目が覚めて、慌てて時計を見ると8時を回っていた。

いけない、寝すぎちゃったみたい。


起き上がると肩から何かが滑り落ちた。

誰かのジャケットみたいだった。色や形を見る限り和磨さんのだと思う。

和磨さんを待っていたら眠っちゃうなんて。

ミイラ取りがミイラだわ。

和磨さんはどこにいるのかしら。きっと待たせてしまっているに違いないのに。


「冬桜子」


声がした方を振り返ると和磨さんがいた。白衣を着ているので、実験室から戻ってきたばかりなんだろう。


「良く寝てたから起こさなかった。もう夜も遅いし、一緒に帰ろう。」


そう言われて、私は素直に(うなず)いた。


帰り道、バスの中で私は言った。


「和磨さん、家に帰ったら言いたいことがあるの。」

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