第三十四話
「じゃあ、彼女が来るまで僕の部屋で待ってましょう。」
そう言って、安里さんは私をCホテルで予約してあるという部屋に案内した。その部屋は安里さんがスケッチをするためによく泊まる部屋らしい。庭が一望できる上に、キッチンまで備え付けられている。
「こんなお部屋があるのね。」
私は感心して、部屋の中を見ていた。
「うん。長期滞在用の部屋らしいよ。絵の構想を練る時にはこの部屋を使うんだ。こう見えて料理が好きだから、キッチン付きの部屋がよくて。
さて、冬桜子さん、窓の前に立ってくれる?」
「窓の前ってここかしら?」
「そう、そこ。いいね、そんな感じ。」
安里さんは満足そうに頷くと、いつの間にか持ってきた椅子に座って、鉛筆をスケッチブックに滑らし始めた。
「ちょ、ちょっと待って、何をしているの?」
突然に絵を描き始めた安里さんに戸惑って私が尋ねると、なんてことない風に安里さんが答えた。
「今日の冬桜子さんの格好、とても綺麗だから絵に残しておきたいんだ。ああ、そうだな。もう少し首を左に傾げて。それから腕は胸元に添えて、そうそう。いいね。じゃあそのまま動かないでね。」
「動かないでって、ちょっと安里さん?」
私は安里さんに声をかけたけれど、安里さんから返事が返ってくることはなかった。集中してしまったみたい。返事をもらうことを諦めて、私は黙ってポーズを取り続けた。
傾いていた夕日が落ち切ってすっかり部屋が暗くなってしまった。視界が暗くなったことに気がついてようやく安里さんが顔を上げた。
「もう夜になっちゃったか。そろそろ彼女が来そうだし、やめようかな。冬桜子さん、ありがとう。もうポーズは取らなくていいよ。」
「もういいのね?」
ようやく終わった、と腕を下ろした。ただ立っているだけなのにこんなに疲れるなんて思いもしなかった。それに少しでも動くと安里さんが『動かないで』と言うし、大変だった。夏用の絽の振袖とはいえ、結構重い。
「冬桜子さん、大丈夫?このソファに横になりなよ。」
「そうするわ、もう腕も足も疲れちゃって……。」
よろよろとソファの方へ近づく。足が棒のようになってもつれそう。そう考えていたら、振袖の裾に足が絡め取られてよろけてしまった。
「あっ!」
「冬桜子さん、危ない!」
着物が破れてしまうと、気を取られたせいで床に転びそうになったところを安里さんが抱きとめてくれた。
「怪我はない?」
「ええ、どこも痛くないから、大丈夫そうです。ありがとう。でも着物が着崩れちゃったから直さないと。」
「なら、もう一つ部屋があるからそっちを使いなよ。いい加減、電気もつけよう。」
安里さんがそう提案した瞬間に電気がついて明るくなった。魔法でも使ったのかと思ったけど、当然ながら違う。誰かが入ってくる物音がした。
「彼女が来たのかな。」
「ほんとうに?安里さん、早く離れて……!」
私は慌てて安里さんから離れようとした。事故とは言え、私は安里さんの腕の中にいる。それも着物が着崩れた状態で。こんな格好を彼女さんに見られたら誤解しかないから。だけど、着物の長い袖が絡まって間に合わなかった。
廊下に続くドアが開いて、人影が入ってきた。そこには、私が予想もしなかった人たちがいた。
「和磨さんに、祐美……?どうして?」
婚約者の和磨さんと、親友の祐美がそこにいた。和磨さんは私と安里さんを見ると、顔をさっと強ばらせた。それから誤解を解く暇もなく、安里さんに掴みかかった。
「冬桜子から離れないか。」
「痛い、痛いですよ。腕が関節の可動域の限界を迎えてます。簡単に言うと折れちゃいます。」
「当然だ、痛くしているんだから。お前は松浦理事長の息子だな。親子揃って冬桜子に何をした?」
「誤解ですって、何もしてませんから!
さっきまで冬桜子さんには、デッサンのモデルをしてもらっていましたけど。それで、冬桜子さんが転びそうになったので咄嗟に支えただけですってば。」
「デッサンって、もう少しマシな言い訳をしたらどうだ。私たちがここに来た時、電気がついていなかった。暗闇の中でどうやって絵を描くつもりだ。」
私はどうにかして状況を説明しようと安里さんのフォローをしようとしたけど、言葉に詰まってしまった。
た、確かに。和磨さんの言う通りだ。普通の人はあんなに暗い中で絵を描こうとしない。だけど、安里さんは日が暮れても気にせずに鉛筆を動かしていた。理屈じゃ説明できないけれど。
本気で怒っている和磨さんを前に狼狽えていると、祐美が大きくため息をついた。
「藤堂さん、申し訳ないですけど安里は嘘をついていないと思います。その人はよく、電気をつけるのも忘れて絵を描いていることがあるんです。それに、ここにあるスケッチブック一杯にデッサンが描かれています。全部冬桜子です。おそらく本当だと思うのでとりあえず離してあげてくれませんか。」
祐美がスケッチブックを差し出すと、和磨さんは渋々ながら安里さんを拘束していた手を離して、スケッチブックを眺めはじめた。ページを一枚めくる毎に和磨さんの眉間に刻まれていた皺が解けていった。
「確かに、藤原さんの言う通りデッサンをしていたようだ。特に28ページ目の冬桜子はよく描けていると思う。
だけど、それとこれとは別だ。なんでデッサンをしていて、さっきの状態になるんだ。説明をしてもらいたい。」
和磨さんは私を抱き起こしてソファに座らせると、その長い足を組んで私の隣に座った。安里さんは地面に座ったまま、弁解を始めた。
「だから、さっきも言ったじゃないですか。冬桜子さんが転びそうになったので、抱きとめただけだって。」
ただ、ヘラヘラと笑っているので全く説得力がなかった。なんだろう。安里さんはズレているから和磨さんと歯車が合わなさそうだった。和磨さんもそう考えたのか、私に尋ねてきた。
「この人はこう言っているけど、本当?」
真っ直ぐに和磨さんが見つめてくる。その眼差しがいつになく縋るようで、嘘をつかれても信じてしまいそうな危うさがあった。私はいくら脅されていたからと言って、お見合いを受けてしまったことを猛烈に後悔した。
「誓って本当よ。私が疲れてしまって着物の裾を踏んで転んでしまったの。ほら、ここに草履の跡があるでしょう。もう少しで破けてしまいそうで、咄嗟に踏ん張れなかったの。誤解を招くようなことをしてごめんなさい。」
「そう。それなら良かった。怪我はない?」
私は無言で首を横に振った。和磨さんが優しすぎる。
「お見合いのことを黙っていてごめんなさい。六条のおばあさまに言われて断れなかった。でも、やっぱり断ればよかったと思ってる。和磨さんにそんな顔をさせたくなかったから。」
「確かに、正直に言って冬桜子に隠し事をされるのは辛かった。」
和磨さんに率直に言われて胸をナイフで突き刺されるような心地がした。自業自得だけど。
「でも、私も冬桜子に黙って夏秀さんに会ったりしていたから、お互い様だよ。それに、話を聞いていると六条家の問題もありそうだから夏秀さんに報告しておく。しっかり家庭内で交通整理してくださいって。
……冬桜子は、私と結婚することに納得しているんだよね?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、冬桜子より私の方がずっとずっと好きだと思うから。不安で仕方がないんだ。冬桜子がいつかどこかに消えてしまうんじゃないかって。」
私は驚きで息が止まった。まさか、いつも余裕そうな和磨さんがそんな風に思っていたなんて。私は何を見ていたのかしら。
「ごめんなさい。和磨さんをそんなに不安にさせていたなんて思いもよらなかった。
はっきり言うけど、私は和磨さん以外の人とは結婚するつもりも、手を繋ぐつもりもないわ。」
「本当に?私以外の人に手を触れさせないって誓ってくれる?」
「少なくとも、私から手を触れるのは和磨さんだけよ。」
和磨さんの手に私の手を重ねた。和磨さんの手は冷たくなっていた。
「よかった。」
和磨さんの手が私の手を握り返した。体温が混じり合って境目がなくなってくる。和磨さんの人並外れて整った相貌が近づいてくる。私はそっと目を閉じた。
「ちょっと、ちょっと。そろそろ誤解も解けたと思うので、改めて説明をさせてもらってもいいですか?」
安里さんの声に、私達はここがどこかを思い出してすぐさま身を離した。目を開くと、変わらず律儀に床に座っている安里さんがヘラヘラと笑っていた。
「さて、まずは自己紹介させてもらいましょうか。僕の名前は松浦安里。S大学の理事長の息子で、そこにいる藤原祐美の彼氏です。」




