第二話 旅立ち
ようやく旅立ちます。
冬桜子は友達には恵まれていたようです。
誠一さんから婚約破棄を突き付けられた。
周りには大勢が詰めかけていて、視線に耐えられなかった私は、ショックを受けつつも、おぼつかない足元でその場を立ち去った。
その時の記憶はあいまいだけれど、霧がかかったような頭でなんとか秘書室に行って早退をしたことはわかっている。
それから、家に帰る途中、駅のホームで電車を待ちながらスマホで検索をした。
婚約破棄 どうしたら
こんな曖昧な検索にもネットは答えてくれる。
それらしいサイトがいくつかヒットした。
そこには、弁護士に相談したらいいと書いてあった。
弁護士と聞いて私が思い出したのは、学生時代の一番の友達の藤原祐美だった。裕美はたしか、ロースクールを卒業してすぐに司法試験に受かり、都内の弁護士事務所に勤めていたはずだった。
私はスマホでメッセージを送った。
―婚約破棄されて、相談したいことがあるの
すぐに既読がついて電話がかかってきた。
裕美が務める事務所は虎ノ門にオフィスがあった。虎ノ門と言えば官僚のイメージが強かったけれど、なんでも、裁判所とかに行くことが多いからその近くにオフィスがあると何かと便がいいらしい。
「ごめんね。ここまで来させちゃって。わかりにくかったでしょう。」
「ううん。駅から近かったから大丈夫。それより突然ごめんね。」
「いいのいいの。そういう職業なんだから。
お客さんから突然電話がかかってくることもよくあるんだよ。」
からからと明るく裕美は笑った。
裕美はさっぱりした気持ちのいい性格で一緒にいると安心する。
頭の中にかかっていた霧が晴れていくような気がした。
「ありがとう。」
「いいから。ようやく冬桜子の助けになると思うと嬉しいし!
と言っても私はまだ駆け出しだから、ボスが担当するんだけどね。」
「ボス?」
「そう。勤め先の事務所では上司のことをボスって呼ぶんだよ。大丈夫、頼りがいのある人だから。」
そういって応接間に通されると、そこには先客がいた。
「ボス、六条冬桜子さんがお越しになりました。」
ボスと呼ばれた人は、想像していたよりも若かった。
でも眼鏡をかけて、目つきが鋭くて、確かに頼りがいがありそうだった。
「どうぞ、座ってください。」
私は勧められた席に座った。革張りのふかふかしたソファだ。
裕美は私の隣に座ってくれている。
「私は弁護士の御堂です。藤原の上司をしています。
まずはご相談についてうちの藤原から大体のことは聞いていますが、もう一度お話していただけますか?」
私は思い出そうとすると苦しくなって、息が詰まりそうだった。
そんな私の背中を裕美が撫でてくれた。
「話せることから少しずつ言ってくれればいいから。」
裕美に促されて、私はつっかえながらも少しずつ話した。
誠一さんとは15歳の時から親のつながりで婚約していたこと。
昨日、誠一さんから突然別れを告げられたこと。
そして今日、誠一さんから会社で婚約破棄を突き付けられたこと。
御堂先生は落ち着いた声で頷きながら聞いてくれた。
「なるほど。お相手から婚約破棄を告げられた原因は何だとおもいますか?」
御堂先生に尋ねられて私はためらいながらも言った。
「誠一さんには私のほかに…好きな人がいるみたいです。」
「誠一さんとその人はどのような関係性ですか?」
「おそらく、恋人だと思います。彼女は妊娠しているみたいなので。」
「妊娠ですか。どうしてその人が妊娠しているとわかりましたか。」
「誠一さんがそう言っていたのと、彼女がお手洗いで気持ちが悪くなっていたので、確かだと思います。」
「なるほど…。」
御堂先生は難しい顔した。私は気まずくなって俯いていた。誠一さんに浮気されたなんて私がしっかりしていなかったせいなんだから。
「それは、お辛かったでしょう。」
しかし、御堂先生は優しく声をかけてくれた。責められると思っていた私は気が抜けてしまった。
「でも、私が誠一さんとしっかり向き合っていなかったからいけなかったんです。もっと魅力的だったら誠一さんに浮気されることなんてなかったと思います。」
「そんなことない。
冬桜子は私が知っている中で一番素敵な女の子だよ。
冬桜子は悪くない。浮気したその誠一が悪い。」
裕美が勢いよく席を立って私に向かっていった。
「藤原さん、落ち着いて。」
御堂先生に言われて立ち上がっていた裕美は大人しく座った。
私はそれでも裕美の気持ちが嬉しかったのでありがとうと小さく言った。
「六条さん、藤原の言う通り浮気というのは大概の場合、してしまった方が悪いんです。ご自身を責めることはありませんよ。
それで、婚約破棄をされたとのことですが、六条さんはどうされたいのでしょうか。」
「そうですね、誠一さんとその恋人の比呂さんは愛し合っていて、子供もいるので私は身を引きたいと思います。慰謝料もいりません。」
「それでいいんですか?六条家と言えば日本有数のグループ会社を経営する一族ですよね。お相手の白条誠一さんのお父様が創設した白典グループにご援助されていたりしませんか。」
「確かにそういったことはありますが、それは経営上メリットがあったからしていただけで、婚約と関係はないと思います。」
「そうですか。それでは婚約は破棄される、ということですね。」
「はい、そのつもりです。もう何もかも、嫌になってどこかに消えてしまいたいんです。こうなっては会社にも行けませんし。」
御堂先生は鎮痛な面持ちで私を見た。
「わかりました。婚約破棄と、退職の手続きについてはこちらで進めます。このことはご両親にはお伝えしましたか?」
「いいえ、まだです。父も母も多忙を極めておりますし、誠一さんのお父様は海外出張中ですので何も。」
「なるほど。それでは、ご自身でお伝えになりますか?」
そう言われて私は困った。もちろん自分で伝えた方がいいけれども両親が私のために時間を作ってくれるとは思えない。何より、こんな失態を犯してしまったから会わせる顔がない。
首を横に振ると御堂先生は頷いた。
「わかりました。それでは、ご両親へも私から伝えます。都度連絡を取ることはあるかもしれませんが。
六条さんはこれからどちらに行かれますか?」
「東京からはもう離れたいので、大叔母が残してくれた地方のアパートに移ろうと思います。」
「そうですか。転居されたら私には連絡してください。また、ご両親には転居先をお伝えしますか?」
「両親には伝えてください。それ以外の方には漏らさないでほしいです。」
「わかりました。」
そのあともいくつか今後についての質問とか、書類の作成などあったけれど、そうして言葉にしていくことで段々と自分の気持ちが整理されていった。
「本日はご多忙の中お時間を作っていただきありがとうございました。」
事務所を出る時に改めてお礼をした。
「いいんですよ。それにまだ終わっていませんからね。」
「そうそう。まあ、向こうも破棄の意思があるし、すんなりいくといいね。引っ越しが終わったら連絡してね。」
裕美がエレベータの扉が閉まるまでずっと手を振ってくれていた。
私は久しぶりに笑った。
―――
自宅に戻ると、私はスーツケースに荷物を詰め込んだ。と言ってもそんなに多くはないので、海外旅行用の大きなスーツケース1つで済んでしまった。
荷物を見て、私はなんだかワクワクしてしまった。たぶん、色々なことがありすぎたせいで、頭が疲れていたんだと思う。沈んでいた反動で気持ちがこれ以上ないくらいに浮き上がっていた。
初めての家出。初めての一人暮らし。30歳になって遅すぎるかもしれないけれど、未知のことに期待が止まらなかった。
「そうだ。なにか、書置きを残した方がいいかしら。」
私はその辺にあった一筆箋を取って書き始めた。
―探さないでください。 冬桜子
「これじゃあ縁起が悪いわね。変えましょう。」
―旅に出ます。 冬桜子
「いや、旅に出ないわよ。」
―しばらく一人で暮らします。 冬桜子
「これでいいかしら。後はこれに御堂先生の連絡先を書いておきましょう。」
私は書置きをダイニングのテーブルの上に置いてスーツケースを持って駅に向かった。
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