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第十八話


和磨さんに自分からキスをした。それからお互いに離れられなくなって、お弁当を食べるのも忘れて、見つめあっていた。


「そろそろ、時間かな。」


風が吹いたからかもしれない。そんな何かの些細なきっかけで、和磨さんがふと、腕時計を見て言った。

時計の針はすでに開始から1時間を回っている。

旅館の予約の時間が近づいていた。


「たいへん!早く残りのお弁当も食べなくちゃ。」


「そうだね。うっかりしてた。」


私と和磨さんは笑いながら、お弁当を口に運んだ。



泉さんが紹介してくれた旅館は古くからありそうな立派な老舗だった。

歴史ある外観に、綺麗に改築されたモダンな内装。清潔感あるお香が漂ってきて、当初の目的を忘れて私はとてもワクワクした。

綺麗な客室に案内されて、期待が高まる。


「お庭が綺麗ね。それにお部屋もイグサの香りがして素敵だわ。」


「ここは離れみたいだね。広い部屋を用意してもらえて良かったね。」


久しぶりの和室にはしゃいでいる私を微笑ましそうに和磨さんが見ていた。


いけない、はしゃぎすぎたと思い直し、今更ながら大人しくした。

ここに来たのは、温泉に入るためではない。

和磨さんとの、恋人としての関係性を深めるためだった。


泉さん曰く、温泉に入って浴衣を着ると色っぽくなるらしい。

部屋にあった浴衣を探し出すと、和磨さんに言った。


「温泉、一緒に行きましょう?」


この旅館には広々とした大浴場がある。

何故だか和磨さんは顔を赤くし、それからぐっと何かを決意するように口を噛み締めた。


「いいよ。いこう。」


真剣な表情で頷く。気合の入った顔をしていた。

和磨さんったら、そんなに温泉が好きなのかしら。きっと久しぶりだものね。

一緒に大浴場に向かった。


大浴場は当然ながら、男女に分かれている。

向かって右が女性で左が男性。そして、大浴場の入り口の前は合流できるように休憩スペースになっていた。


「じゃあ、ここで一旦お別れですね。

お風呂上がったら、入り口前の休憩スペースで待ち合わせでいいかしら?」


和磨さんの顔を見上げると、表情が一切なかった。茫然とした様子で、男湯と書かれたのれんを見つめていた。


「ああ、そっか。勘違いしちゃったな…はは。」


そう呟くと、私の方を向いた。


「休憩スペースで待ち合わせだね。わかった。冬桜子、ゆっくりしていいから。」


私の手を取ってキスをすると、和磨さんは手を振って男湯ののれんを潜っていった。


「どうしたのかしら。」


和磨さんの様子が少しおかしかった。

もしかしたら、久しぶりの温泉で戸惑ったのかしもれない。

ヨーロッパの温泉といえば、水着を着て入るものだもの。

日本の温泉は裸で入る。世界から見ればちょっと変わっている。

そのことを忘れて水着を持ってきてたりしたのかしら。後で聞いてみよう。

私はそんな事を考えながらのれんを潜った。


温泉はネットで見た通り広い。

脱衣所ですら迷路のようで、迷ってしまいそうだった。

キョロキョロとしていると、声をかけられた。


「こちらいかがですか。サービスのお茶です」


旅館の人だった。


お茶のサービスなんてやっているのね。


さすが老舗は心遣いが違うと思って、お茶をいただいた。

少し苦かったけれど、濃いお茶だとこういうものかしらと思って飲み込み、それから、旅館の人へ渡りに船だとばかりに言った。


「ありがとうございます。お茶美味しかったです。

それでお尋ねしたいのですが、着替える前に貴重品を預けたいのですけど、どちらにありますか?」


こんなに広いと荷物の取り違えが起きそうで、心配になったので、貴重品だけでも預けたいと思った。

旅館なら、大抵は貴重品ボックスがあるはず。


「はい、貴重品でしたらこちらでお預かりいたします。少し込み入った場所にございますのでご案内いたしますね。」


旅館の人が親切にも案内してくれるということなので、大人しくついていくことにした。

確かに込み入っているようで、かなり奥まで案内される。

次第に、蛍光灯が光るスタッフルームのような場所に通された。


不安になり、旅館の人に尋ねる。


「こちらまで入ってよろしいんですか?」


「はい、大丈夫ですよ。…そろそろ薬が効いてきた頃でしょうから。」


旅館の人が振り向いたとき、後ろから誰かが襲ってきて、目と口元を布で覆われる。

くらっとして体が崩れ落ちた。

私はそこで意識を失った。


―――



目が覚めると、全く知らない場所にいた。


「ここはどこ?」


私は起き上がろうとしたけど、出来なかった。

体に力が入らないだけでなく、腕と足が縛られていたからだ。身動きができない。


「誰かいませんか?」


声を張り上げて問いかけてみるものの、薄暗い室内は静まり返って、誰も返事はしなかった。

それでも繰り返し声を上げた。

誰かが返答してくれることを願って。


「どなたか、返事をしてください。」


しかし、誰も答えない。段々と薄暗さに目が慣れてきて、周りが見えてきた。


そこは、どこかのホテルか、それか別荘の一室のようだった。


厚いカーテンが閉められた窓の側にはソファにテーブル、ワインバーがある。

私は広いベッドの上にいるらしい。

そして身につけているものが、見覚えのない服に着替えさせられていた。

白い繊細なレースでできた、ドレスだ。


「ウェディングドレスみたい…。一体誰がこんなことをしたのかしら。」


私は誘拐された訳だけど、ただの身代金目的には思えなかった。身代金を要求するのにドレスを着せるだろうか。

誘拐の時にはまず、身代金目的を疑えというけれど、むしろ、こういう強引で手の込んだことをする人物には、1人だけ心当たりがあった。


もし、本当に考えた通りの人物なら、私は今すぐここから逃げなければいけない。


私は体を捻って転がり、ベッドから抜け出そうとした。しかし、勢い余って端から落ちてしまう。肩から床にぶつかった。

ドン、という大きな音がした。床に体を打ち付けて痛いけれどそれどころではない。

今の音で、私が起きたことが確実にバレてしまっただろう。

どうか、気づかないでと一縷の可能性にかけながら、静かにしていた。


しかし、無情にも扉の向こうから、誰かが歩いてくる音がしてくる。

年季の入ったフローリングは、廊下の足音がよく響く。特に、耳が床についてしまっている状況では、ギシギシという足音が頭まで伝わってきた。


お願い、扉を開けないで…。


だけど、私の望みも(むな)しく扉が開かれた。


「冬桜子、起きたのか。」


磨かれたエナメルの靴が視界に入る。かつて聞き慣れた声が上から降ってくる。声音から顔が見えなくても表情が分かる気がした。

ーたぶん、口の片端だけを上げて笑っている。


「床に這いつくばって、見苦しいな。

そんなに俺に会いたかったのか?」


私は違うと言いたかったけど、怖くて体が固まってしまった。

声の主は硬直したままの私を抱き上げると言った。


「ほら、お望みどおり迎えにきたぞ。さあ、結婚しようじゃないか。」


誠一さんは、口の片端を上げてニヤリと笑った。


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