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第十七話


「嘘でしょう。六条さんと藤堂さんってまだキスしかしていないの?」


「あまり大きな声でおっしゃらないで。」


泉さんが突然大きな声をあげたので、私はあたりを見回した。休憩スペースには人がいないけれど、それでも誰が通りかかるかわからない。


「あ、ごめんなさい。でも、本当に驚いてしまって。」


泉さんが大して悪びれもなく、口元を押さえて言った。


「でも、そんなに驚くことなのかしら。結婚前まではそんなことしないのではないの?」


「六条さん、一体何十年前の話をしています?それは2世代は前の常識ですよ。六条さんって本当に世間知らずなんですね。」


泉さんは、はぁ~っと大きくため息をついた。

心底呆れたという目で私を見てくる。確かに、六条の家は厳しかったけれど、まさかここまで呆れられるとは予想外だった。


ただ、最近は自分が世間とずれていることはわかって来ていたので、大人しく泉さんに教えてもらおうと思った。


「そうすると、今時の人はどうしているの?」


「今時は、結婚前にキス以上のことをするなんて普通ですよ。」


「そうなの?」


「そうですよ。むしろ、それこそがカップルの証という人もいますし。六条さんは藤堂先生に本当に愛されているんですか?」


「えっ」


「普通のカップルはイチャイチャするものです。男の人の方が積極的ですしね。私だったら、イチャイチャが減ったら愛情が薄まったのかと気にしますけど。」


「でも、和磨さんはとても紳士的で、優しいのよ。」


和磨さんは変わりなく優しい。私のことを嫌いになったとか、冷めたとか考えられなくて、泉さんの言うことを否定した。

しかし、泉さんはわかってないなと言いたげにため息をついた。


「そう。藤堂先生は大人ですから、もしかしたら内気な六条さんに気を使っているのかもしれませんね。

でも、あんまり奥手すぎると、藤堂先生だって見捨ててしまうかもしれませんよ。」


「み、見捨てて…。」


確かに、あんなにモテる和磨さんなら、きっと恋愛経験も豊富だ。

それに引き換え、私はこれまで恋愛らしいものはしてこなかった。…婚約者はいたけれど。


そんな私に気を使っている可能性はある。

それが和磨さんに負担を強いているとしたら、いつかは、飽きられて捨てらてしまうかも。


「どうしたらいいのかしら。」

「私にいい考えがあります。」

泉さんはいたずらが成功した時のようにニヤッと笑った。



「和磨さん、今度のドライブのことでご相談があるの。」


「どうしたの?どこか行きたいところでもあるの?」


さすが和磨さんだ。私の考えを呼んでいるわ。


「ええ。ここに行ってみたいの。」


私はスマホの画面を和磨さんに差し出した。

泉さんに紹介された場所だった。


「旅館じゃないか。日帰りの予定だったけど、予定を変えるの?冬桜子がいいなら変えてもいいよ。」


「違うの。日帰り入浴プランがあって、とっても評判が良いんですって。」


そう言いながら、プランが記載されたページを示す。

和磨さんが人差し指でそっとスマホの画面をなぞった。


「うん、いいね。偶には温泉でゆっくりするのも楽しいし。じゃあ私が予約しておくよ。」


和磨さんの申し出に私は慌てて首を横に振って答えた。


「いいのよ、私が予約しておくわ。」


「でも、」


「いいから。私がお願いしたのだし、私に予約させて。」


和磨さんは怪訝な顔をしたけれど、私が重ねてお願いするとわかったと言って引き下がってくれた。

私は良かったと、ほっと胸をなでおろした。


なぜなら、私の名前で予約してくれると泉さんが言ってくれていたから。泉さんの彼氏の伝手で特別良いお部屋を準備してくれるみたい。


次の日、泉さんに会って和磨さんに確認したことを伝えた。


「わかった。それじゃあ彼に伝えておきますね。」


「ありがとう。これ、気持ちだけですけど…。」


快く引き受けてくれた泉さんにお礼の気持ちを伝えたくて準備していた紙袋を渡した。


「なんですか?」


「サブレです。もしお口に合えばと思って。」


最近見つけた研究所の近くにあるケーキ屋さんのサブレだ。几帳面に箱詰めされたサブレはサクサクして東京でお持たせに使っていたお菓子よりもおいしい。

難点は壊れやすいので持ち運びが難しいこと。


泉さんはそのシンプルでシックな包みを一瞥すると、お礼を言って受け取ってくれた。


良かった。泉さんはお嬢様育ちでお洒落さんだから、受け取ってくれないかと、ヒヤヒヤしたわ。


泉さんと別れて、研究室の自席に戻ると小路さんが私のところにやってきた。


「六条さんは、泉さんと、最近仲がよろしいんですね。」


突然、泉さんの名前が小路さんの口から飛び出したので驚いた。


「はい。色々とお話を聞いてもらっています。私が余りに物を知らないので。」


私の返事に、小路さんは神妙な顔をした。


「泉さんには気を付けてください。良くない気がします。何かあれば藤堂先生に。」


それだけ言うと、小路さんは立ち去った。


「なんだったのかしら…。」


さっぱりわからない。確か前にも同じようなことがあって、その時は和磨さんに気をつけてと言っていたのに。今度は泉さんに気をつけてだなんて。

小路さんは少し変わったところがあるみたいだから、何のことか見当もつかなかった。


「六条さん、室町教授が呼んでますよ。」


賀久士(がくし)君が声をかけてきた。いけない、ぼうっとしていたわ。

「教えてくれてありがとう、賀久士(がくし)君。

今行きます。」


小路さんの言葉は気になったけれど、室町教授から仕事が沢山降ってきて、忘れてしまった。



―――


待ちに待ったドライブの日になった。

私は朝早く起きて、お弁当を作る。気合を入れて重箱を用意した。

おかずを詰めきった重箱を風呂敷でつつみ、準備万端だ。


「できたわ。」


達成感で満足げにお重を眺めていると、後ろから抱きしめられた。


「おはよう。」


「和磨さん、おはよう。」


「それはお弁当?」


「そうよ。」


和磨さんはキッチンを眺めた。

使った道具からお重の中身を当てようとしているみたい。乾燥機に並べてあるのは、おひつにしゃもじ、それからボウルや菜箸など。

一通りさっと観察してから和磨さんは言った。


「ちらし寿司かな?」


おしい。近いけど違う。


「ちょっと近いけど、ちがうわ。」


「なんだろう。楽しみだな。気になるけどお昼まで取っておこう。朝早くから作ってくれてありがとうね。」


そう言って和磨さんは私の頬に軽くキスをした。

いつもよりテンションが高めの和磨さんに私も嬉しくなった。



ドライブで来た先は海辺の公園だった。

見晴らしがとても良くって、水平線がどこまでも広がっていた。和磨さんはお重のほかに何やら大きな荷物を抱えて、車を降りた。


「このあたりがいいかな。冬桜子はどう?」

和磨さんが示した場所は眺めがよさそうだったし、地面も平らで座りやすそうだった。


「じゃあ、ちょっとこの重箱を持っててもらえる?準備するから。」


私に重箱を渡すと、和磨さんはレジャーシートを広げて、それから例の大きな荷物を取り出した。荷物はパラソルだった。


「これでよし。ほら、日陰に入りなよ。」


和磨さんは自分の隣を叩いて、私を急かした。


「パラソルまで準備しているとは思わなかったわ。」


「うん。だって日も長くなってきたし、日焼けしちゃうでしょう。それよりほら、お弁当を食べようよ。」


待ちきれない和磨さんが催促する。

その無邪気な様子を私は微笑ましく思いながら、お重を広げた。


「すごい!おいしそうだね。茶巾寿司だ。」


「そう。お外だから、食べやすい方がいいかと思って。少し小さめに作ったの。」


「さすがだね。冬桜子は。」


和磨さんは茶巾寿司を一つ摘むと、口に入れた。


「美味しい。ほんのり梅の味がする。梅酢を使った?」


「気づいた?そうなの。梅を使ったちらし寿司が好きだから。」


どうかしら?と思っておずおずと和磨さんの反応を待つ。


「私も好きだよ。」


ニコッとして和磨さんは答えた。

爽やかな初夏の青空を背景に笑う和磨さんが素敵。こんな人が私の恋人だなんて未だに信じられない。

和磨さんは私のどこが好きなのかしら。

キラキラした笑顔が眩しくて見ていられなくて、顔を背けた。


「冬桜子、こっち向いてよ。」


和磨さんが私の顔を上げさせると、そのまま唇を落とした。


梅の甘酸っぱい味がする。

久々の深いキスに私は思わず口を押さえた。


「ごめん、顔が赤くて美味しそうだったから、つい。

嫌だった?」


和磨さんは困ったように笑って言った。

私はせっかく和磨さんが恋人らしいことをしてくれたのに、こんな受け身ではだめだと思い直し、手を下ろして近づいた。


「ううん。ただ、ちょっと甘酸っぱくて、驚いただけ。」


それから意を決して顔を近づけて、和磨さんの口に自分から重ねた。


今度のキスはなぜか、甘い味がした。


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