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第十話


和磨さんと泉さんが抱き合っていた。

私は何も言えずにその場から逃げることしかできなかった。


日が落ちて暗くなった廊下をやみくもに走った。

一人になりたくて、落ち着ける場所を探した。


和磨さんは私の恋人でもましてや婚約者でもない。

だから誰と何をしようが関係ないのに。

なんで誠一さんに婚約破棄されたときのことを思い出して辛いの?


行きついた先は誰もいない廊下の突き当りにあるバルコニー。

風が吹いて日当たりも悪くて寂しかった。


「冬桜子、捕まえた。」


背の高い影が私を包む。和磨さんだ。

ぐしゃぐしゃで、まとまりのない気持ちを抱えているのに、こんな時でも和磨さんはいい香りがする。


「泣いてるの?ごめん、私のせいだね。」


私は首を横に振る。

和磨さんのせいじゃない。私が勝手に思い出して傷ついただけ。


溢れる涙を和磨さんが優しく拭ってくれる。


「ねえ、冬桜子。これからはちゃんとする。

他の女性と二人きりにならない。だからさ、

私をもう一度信じてくれる?」


私はまた、首を横に振った。


「そんなことしたら、和磨さんの研究に支障(ししょう)が出ちゃうわ。」


「それくらいで、支障はでないよ。みくびらないで欲しいね。」


和磨さんが眉を大袈裟(おおげさ)に寄せてしかめっ面をして見せる。

子供っぽいその表情に私は思わず笑ってしまった。


和磨さんもつられて笑う。

たったそれだけのことで、私のさっきまでの荒れた気持ちが嘘のように穏やかになった。


「もし、私をもう一度信じてくれるなら証が欲しい。いい?」


「私でできることなら。」


私が頷くと、和磨さんは神妙な顔をして言った。


「じゃあ、キスして。」


「え!」


「口じゃなくてもいいよ。オデコでも、頬でも。冬桜子の方からキスして欲しい。」


私は慌ててしまった。誰かにキスするなんて初めてのことで、どうすればいいのか、お作法も何も知らない。


ベンチに座って目をつぶって待ちの体勢を取っている和磨さんを前にして途方に暮れつつもぎこちなく近寄った。


和磨さんの肩に手を載せて、少しずつ顔を寄せる。頬かオデコか。

迷っているせいで、どこでもない微妙な場所、目の下の辺りにつきそうだった。


どうしよう!軌道修正できない。


もうすぐ口先がつきそうな時、扉が開く音がした。

私は反射的に和磨さんから離れた。


「すみませんねー、もうすぐバルコニーの扉の施錠の時間なので中に入ってもらえますか。」


「はい!わかりました。」


私はとっさに返事をする。暗くて顔が見えないけれど、どうやら守衛さんらしい。


「和磨さん、行きましょう。」


「いや、まだ冬桜子からキスしてもらってない。」


「でももう時間みたいですよ。」


ブスッとした和磨さんを立たせて、2人でベランダを後にした。



―――


研究室に戻ると、室町教授は帰っていた。

荷物の数を見ればまだいる人の数もわかる。

ポスドクの小路さんと修士の前野さんの鞄は残っていたから実験室にいるんだろう。


「結構帰っちゃってるね。私達もさっと出張の打ち合わせをして帰ろうか。」


切り替えの早い和磨さんは、私のデスクに椅子を持ってきて私の隣に座った。


私としてはさっきの余韻でドキドキするのだけど、なんとも思ってないのかしら。


「そ、そうですね。早くやりましょう。

これが過去の講義の資料です。…」


マウスでクリックしてまとめた資料のページを送る。


「あ、ちょっと待って、前のページのところでさ…」


和磨さんが私の手の上から手を重ねてマウスをクリックした。

長くてすらりとした指が私の指に触れる。

ぎゅっと力を込めて握ってくる。


そんな、濃厚接触、ダメです!たえられません!


心のレッドカードが出そうになった時、和磨さんの手が離れた。


そのあとも、ちょっと前にとか先に進んでとか何度も何度も手を握ってきて、その度に鼓動が早くなりすぎてもう心臓がもたない。


「か、和磨さん。」


「なに?」


「マウス代わりましょうか?」


「だめ。」


精一杯の提案だったのに、あっさりと却下された。

それからはずっと手を離してくれなかった。

一通り終えた頃、研究室の入り口の方から声が聞こえた。


「お先に失礼します。」


前野君だ。実験が終わって帰るところみたい。


「お疲れさまです。」

「おつかれさま。」


私と和磨さんも挨拶を返した。時計を見ると19時を回っている。


「もう帰りましょうか。」

「そうだね、そうしよう。」



2人揃って帰ることにした。

研究室には小路さんの鞄だけが残された。

頑張り屋さんだな、と私は思った。



―――


東京出張の日を迎えた。私はすっかり忘れていた。和磨さんと私の席を隣同士にしたということを。


室町教授とは池袋のホテルに集合なので、私と和磨さんは2人で新幹線に乗った。

当然のように和磨さんは私をエスコートして、窓側の席に座らせてくれた。


「ちょっとした旅行みたいだね。」

そう言ってニコッと微笑みかけてくる。私はたまらなくなって顔を背けてしまう。

そんな私に追い討ちをかけるように私の耳元に和磨さんが口を寄せた。

「今日もかわいいね。」


もう、恥ずかしい。

一昨日からずっとこんな調子で二人きりの時は和磨さんの距離が前にも増して近い。

和磨さんが近づくと鼓動が速くなって心臓が持ちそうになり。

寿命が縮む心地がする。

だから、新幹線で和磨さんに大人しくしてもらうために、準備をしておいたわ。


「藤堂先生、こちらの資料をご覧になっていただけますか?」


カバンから分厚い紙を取り出し、和磨さんに渡した。


「ん、これは?」


「火曜日にご確認いただいた資料について、ご指摘くださった点を修正して、補足資料を足しましたの。よろしければコメント頂けますか?」


和磨さんは資料をチラッと目を通すと笑顔で言った。


「ありがとう!助かるよ。」


そうして、静かにページをめくり始めた。

よかった!と心の中でガッツポーズをした。

この資料は一昨日の3倍の量に増やしてある。読み終わる頃には東京に着くはずだった。

これで、行きの時間は落ち着いて過ごせわ。

と思い、私は本を読み始めた。


しばらくして、和磨さんが私の肩を叩いた。


「読み終わったよ。」


時計を見ればまだ1時間しか経っていない。予想よりも大幅に早い。


「ずいぶんお早いですね。」


「うん。冬桜子が作ってくれた資料が分かりやすかったからね。それに1/3は一度読んだ資料の修正版だったし。」


そう言って和磨さんは期待に満ちた目でこちらを見た。


「何もありませんよ?」


「でも、早く読み終わったよ。」


皮肉げに和磨さんが分厚い資料をビラビラと揺らしてみせる。


「今は仕事中ですので…。大人しくしてください。」


そう返すと、和磨さんはふーん、と意味ありげにしてから言った。


「わかった。今は、ね。」


東京駅に着いたので新幹線を降りた。

降りる時に室町教授を見かけたけれど、楽しそうにいそいそとどこかに行ってしまったので声をかけるのをやめた。

室町教授は1人の時間を邪魔されるのを何より嫌がる。


それから、東京駅で簡単にお昼を済ませた。

和磨さんは美味しいエスニック料理屋があるからそこに行こうと言ったけれど、私は打ち合わせの前に匂いのキツいものを食べると相手に迷惑がかかると訴えて、結局蕎麦屋さんになった。

約束の時間にホテルに向かうと室町教授がやや遅れてやってきた。


「ごめんごめん。お昼のお店が混んでてね。」


「どちらでお召し上がりになられたんですか?」


「京橋のほうに有名なエスニック料理屋があって、そこに食べに行ったんだよ。

六条さんも時間があったら食べるといいよ。」


ややスパイシーな香りがする室町教授はそう答えた。


「冬桜子が正解だったね。」


和磨さんがボソッと耳打ちした。

あとでリンゴジュースを買おう。気休めかもしれないけれど。


一旦、ホテルに荷物を預けて、S大学に向かった。

もちろん、途中でコンビニに寄ってリンゴジュースを買い、室町教授に手渡すのは忘れなかった。


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