第一話 婚約破棄
現代で婚約破棄モノを書いてみました。
恋愛に限らず人間関係って、気が付いたら誰かにとっての悪者にされていたりしますよね。
20話で一旦完結します。
「君とは結婚できない。別れてくれ。」
30歳を迎えた次の日、夜に呼び出されたカフェで告げられた。
私はその言葉を飲み込むのに時間がかかり、次に言うべきことを探しているうちに手元にあったアイスコーヒーのグラスがカランと音を立てた。
いやだわ、氷が溶け始めているみたい。
早く飲まないと緩くなるわ。
理性はそう訴えたけれど、ストローに口をつける気にはならなかった。喉は乾いているのに、何かを飲む気分ではない。
先程いわれた言葉を口の中で反芻していた。
「私と、結婚できないって、」
口に出すと、その言葉が急に現実味を持って重くなった。
重さに耐えきれず、頭が痛くて吐きそう。
「どういうこと?」
やっとのことで頭を上げれば、婚約者である誠一さんはイライラしたようにこちらを見ていた。
「どうもこうもない。
君にはもううんざりだ。やっていけない。
結婚なんてとてもじゃないができない。別れよう。
冬桜子だって分かってるだろ?ただ、親に言われて俺と婚約してたんだからさ。」
「そんな、ことないわ。」
私は誠一さんのことを、これからずっと一緒に歩むのだと、初めて会った時から、私は信じてきたのに。
私は必死で言葉を探したけれど、口にすることはできなかった。
「もういいだろう。そういうことだから、冬桜子の方からご両親には伝えてくれよ。」
そう言うと彼は去っていった。
引き留めることもできずに私は一人泣いていた。
婚約破棄をされた。
彼に嫌われたら生きていけないと思ったのに夜は空けて朝がやってきた。
今日は月曜日。会社に出勤しないといけない。
鏡を見ればひどい顔だった。腫れた瞼を氷で冷やして誤魔化しながら通勤する。
会社で誠一さんと顔を会わせたら、どうすればいいのかしら。
私が務める会社は誠一さんのお父様が創業者兼オーナー社長をしている。
会社の名前は株式会社白典。IT業界で目覚ましい成長を遂げている白典グループの本体だった。
婚約者である誠一さんがいるから冬桜子はその会社に入社した。というより、より正確に言えば誠一さんが継ぐ会社だから、婚約者である冬桜子は勉強のために入社せざるを得なかったのだ。
しかし、婚約破棄となってしまった今ではそれも全く意味がない。会社に行く必要もなかった。
だけど、私には突然黙って会社を辞める度胸なんてなかった。
それに、私はまだ希望を持っていた。
もしかしたら、もう一度話し合えば婚約破棄をなかったことにできるかもしれないと。
だけどそれは全くの見当違いだったと後で知ることになる。
―――
会社に着き、職場である秘書室に行くと同僚たちは皆揃っていて、仕事を始めていた。
私は挨拶をすると、自分の席に座ってパソコンを起動した。
「具合が悪いの?顔色が良くないけど。」
隣に座る主任が話しかけてきた。
私は大丈夫です、としか答えられなかった。
「そう。もし体調が悪くなったら無理せず帰ってね。今週は社長は秘書室長と一緒に海外出張で不在なんだから。」
「お気遣いいただきありがとうございます。」
私の仕事は社長秘書補佐だった。これも次期社長である誠一さんを支えるためだった。
だけど、それももう―
昨日のことを思い出したら涙が出てきた。
私は急いでハンカチを片手に席を立った。
気配を察した主任が声をかけてくる。
「六条さん、どうしたの?」
「少し、席を外します。」
―――
お手洗いに行って水で冷やしたハンカチを目蓋に当てると少し気持ちが落ち着いてきた。
仕事にプライベートを持ち込むなんて駄目。
職場で泣くなんて、恥ずかしい。社会人失格だわ。
鏡に映った自分を見るとメイクが崩れてぐしゃぐしゃだった。
崩れたメイクを直すにもメイクポーチは秘書室に置いたままだったので、崩れた部分を拭く事しかできなかった。
メイクを直していると、トイレの個室から誰かが出てきた。
同じフロアの広報の比呂さんだった。
いつもの溌剌として明るくて可愛らしい比呂さんと違い、顔が真っ青でふらふらとしていかにも深刻に具合が悪そうだった。
「比呂さん、大丈夫ですか?」
私は駆け寄って倒れそうになっている比呂さんを支えた。
「う、うう。気持ちが悪い。」
「気持ちが悪いのですね。医務室に行きましょう。私もご一緒しますから。」
比呂さんはうつむいたまま無言でうなずくと、歩き始めた。
幸いなことに医務室は同じ階にある。ここからだとエレベータの前を通り過ぎればすぐだ。
「大丈夫ですよ、すぐですから。」
歩くのもつらそうな比呂さんに声をかけた。比呂さんはありがとうと言って、こちらを見上げた。すると、驚いたような表情をした。
「ろ、六条さん?」
「そうですが…、なにか?」
「いや、来ないで!」
私のことを比呂さんが思い切り突き飛ばした。私はしりもちをついた。
比呂さんは私を睨んでいる。私が何か粗相をしたのかもしれない。
「どうしましたか?何か気に障ることでも…」
「触らないで!」
ふらついている比呂さんを支えようとした私の手は、比呂さん自身によってはたかれた。そして、比呂さんは足に力が入らないようで、倒れた。
「比呂さん!」
私は比呂さんを抱き起そうとして近づこうとした。その時、エレベータの扉が開いた。
「比呂!どうしたんだ。」
誠一さんの声がした。エレベータから誠一さんが出てきて、私を突き飛ばした。
比呂さんは誠一さんに縋りつく。
「誠一、私怖かった…。」
「何があったんだ。まさか会社でこんな…。」
誠一さんは比呂さんを抱きかかえたまま、私をにらんできた。
「冬桜子!見損なったぞ。比呂にこんなことをするなんて。」
「誠一さん、私は何も…。」
「言い訳は聞きたくない。いくらなんでも、俺の愛する彼女に危害を加えようだなんて。比呂は俺の子を妊娠しているんだぞ。」
誠一さんが私の言うことを一切受け付けてくれなかったことはショックだったけど、それよりも私は耳を疑った。
「比呂さんが妊娠…?」
「しらを切るつもりか?妊娠しているのを知って危害を加えてきたんだろう。
せっかく穏便に婚約をなかったことにしてやろうとしていたのに。
そんなに未練があるなら、俺の方からもう一度言ってやる。
冬桜子、お前との婚約を破棄する!」
誠一さんは私を氷のように冷たい目で見下ろし、鋭い声で告げた。
私は決定的に婚約を破棄された。それも騒ぎを聞きつけてやってきた大勢の人の前で。
頭が真っ白になった。
それからのことはあまり覚えていない。
気がつくと会社を出て駅にいた。
応援よろしくお願いします!