第一話~最終話
この物語が素晴らしい。
第一話 おばあちゃんの入院
おばあちゃんが入院した。
おばあちゃんはその日のお昼頃から変だった。いつもなら十分もかからない部屋の掃除に一時間もかけたり、洗濯し終わったばかりの洗濯物をまた洗濯しなおしたりしていた。
夜中、僕は台所のガタゴトする音で目が覚めた。時計をみると二時だった。明かりのもれる台所のドアを開けると、おばあちゃんが黙々と人参を切っていた。その目が変だった。とろんとしていた。おばあちゃんの横で、鍋のお湯が沸騰していた。テーブルの上にはキャベツだの玉ねぎだのが山のように置かれていて、その野菜の山のむこうで卵が割れて、テーブルの端からたらりだらりと床にこぼれていた。冷蔵庫も冷凍庫も開いたままだった。
怖くなって、とにかくお母さんに電話した。
お母さんがようやくやってきたとき、おばあちゃんは出来たてのお味噌汁を流しにドボドボ流しているところだった。
おばあちゃんは、お母さんがいくら呼びかけても、「ああ」とか「そうね」とかモゴモゴ言うだけで手を休めない。
しばらくしてお母さんの呼んだ救急車がピーピーやって来た。
僕は生まれて初めて救急車に乗った。
夜中の病院で、おばあちゃんは大勢のお医者さんや看護士さんたちに取り囲まれていた。
ガヤガヤうるさい輪の真ん中でおばあちゃんは、一人ぽっちで、ポツンと座っていた。
そんなおばあちゃんを、お母さんがじっと見ていた。
おばあちゃんは脳溢血で、病院に来るのがもう少し遅れたら死んでいた、とお母さんはお医者さんに言われたそうだ。
手術の終わったおばあちゃんが運ばれたのは四人部屋だった。
残念なことに、おばあちゃんのベッドは窓際じゃなくて廊下側だった。
おばあちゃんが手術を受けた日から四日間というもの、僕はお母さんと一緒に毎日病院に通った。僕は夏休みだからいくらでも時間はあったけど、お母さんは会社を休まなければいけなかった。車に乗ってる間も仕事の電話にかかりっきりだった。しょっちゅう前の車にぶつかりそうになっていた。
学校は夏休み。空手の道場も一週間のお休みだったおかげで、僕にはたっぷりと時間があった。だから僕は、けっこう張り切ってお母さんのお手伝いをしようと思っていた。でも、僕に出来ることはたいしてなかった。
おばあちゃんの着替えの入った大きなバッグが二つ。それを病室に運び込んでしまうと僕のすべきことは終わった。お母さんは入院の手続きで一階に行ったり、お医者さんと話したりして忙しそうにしていた。僕はお母さんの邪魔をしないように、手術の日からずっと眠り込んでいるおばあちゃんの傍にただ座っているだけだった。
手術から三日目の夕方、おばあちゃんが目を覚ました。僕の顔を見ると、「おはよう」と言った。僕も、「おはよう」と言った。
お母さんが来て、そして、お医者さんが来た。おばあちゃんは誰の顔を見てもぼんやりしたまんまで、お医者さんが、「園崎さん、気分はどうねぇ?」という質問に、「ああ、いいですよぉ」と言っていたが、お母さんの顔を見ると「ここ、どこかねぇ」と聞いた。自分がどこにいるかわからなく途方にくれているおばあちゃんをお母さんはしばらく見ていたけど、結局、怒ったような顔をして病室を出て行った。
四日目の夕方、お母さんは忙しそうにおばあちゃんの服や下着を、ベッドの横にある物入れにしまいながらおばあちゃんと僕に向かって、「じゃ、かあちゃん、私、もう行くからね。信二、あとはよろしくね。なにかあったら携帯に電話するのよ。ご飯はちゃんとおばあちゃん家で作って食べるのよ。あ、そうそう、お金、置いとくわね。かあちゃん、私、また来週来るから!」とポンポン言うと出て行った。
病室を出て行くお母さんの背中をぼんやり見ていたおばあちゃんは、やがて僕に顔を向けて、「香代子はどこ行ったんだろうねぇ」と不思議そうに聞いてきた。
「お仕事なんだって。」
「あぁ、そう・・・」
何分か経って、おばあちゃんがまた聞いてきた。
「香代子はどこ行ったんだろうねぇ。」
「・・・お仕事なんだって。」
「あぁ、そう・・・。」
たまらなく心細かった。
「信二君のお母さんは元気やねぇ!」
突然、おばあちゃんのベッドの横のカーテンが開いて、声が飛んできた。
隣のベッドのおばさんだ。たしか、波田さんといった。さっきお母さんの挨拶に答えていたときもその声の大きさに驚いたけど、いきなり聞くと心臓が止まる。
波田さんは、『逞』という字を人にしたような人だ。ガタイが大きくて、腕も足も胴も太い。声も大きいし、低い。髪が長いから髪の長い男の人に見える。道場にいる、『ヒグマ』というあだ名の入江さんによく似ている。色だけ違う。入江さんは真っ黒だけど、波田さんは真っ白なので、波田さんはヒグマではない。
初めて波田さんを見かけたとき、お母さんに波田さんの男女の別をそっと聞いた。そしたらお母さんは、「女の人に決まってるじゃない。女の人だけの病室にいるんだから」と言っていた。
「園崎さん!いい娘さんお持ちやねぇ。頼りがいあって、ねぇ?」
波田さんがおばあちゃんに声をかけると、おばあちゃんは「はい」とも「ええ」とも聞こえるような返事をモゴモゴと口にした。
「信二君、そういえば何年生って言っとったっけ?」
僕は波田さんのことを無口な人だと思っていた。でも、違っていたらしい。ピシピシと物を言うお母さんに遠慮してたんだと思う。男同士ではあまりおしゃべりはしないもんだ。
「ご、五年生です。」
「あら、じゃあうちの子といっしょやね。あした来るから仲良うしてちょうだいね。」
はい、とは言ったけど僕は嫌だった。夏休みになってようやく学校から開放されたというのにどぉしてまたあんな連中と・・・。
病室の夕食の時間、僕はお母さんの買っておいてくれた夕ご飯をおばあちゃんの横で食べた。塩っぽい物が大好きなおばあちゃんが、僕のお弁当にあった焼鮭をじっと見ている。そっとあげたら嬉しそうに喉を鳴らして骨まで食べていた。
次の日、僕は病院には行かず、家でゴロゴロしていた。おばあちゃんの居ない家は、まるで空き家のようにガランとしている。お母さんの家に行こうかとも思ったけど、遠いし、どうせお母さんはいないだろうし、ここよりもっと空き家のような家だし、というわけでやめた。
(病室には今頃、波田さんの子供が来ているんだろうな・・・)そう考えると、「病室中を我が物顔で走りまわる猿」の様子がリアルに頭に浮かんだ。エンドレスの活動量、その一つ一つの無意味な行動・・・
学校にいる連中はみんなそうだ。際限もなく飛んだり、跳ねたり、いつもなにかしら動き回っている。それだけなら害はない。ほっとけばいい。でも、あいつらの最悪な点は、いつも群れで行動することだ。群れで動き、群れで喋り、群れで笑う。そして、仲間じゃない者を群れで笑う・・・
第二話 病室
おばあちゃんの入院一週間目に、簡易ベッドが病室に届いた。
毎日家と病院を往復するのは大変だろうからと、お母さんが買ってきてくれたものだ。その夜から僕は病院に寝泊りするようになった。夜中に二度は必ずトイレに行くおばあちゃんに付き添いができたので看護士さんたちはけっこう喜んでいた。
僕がおばあちゃん家に帰るのはおばあちゃんの荷物を持って帰るときと、自分の一日分のご飯を作るときだけだ。だから一日一回は必ずおばあちゃん家に帰るけど、三時間もそこにはいない。ようやく夏休みの明けた道場に通うときでさえ、僕は病院から通った。
病院生活は静かで良い。夜中に僕を起こすことに気兼ねしたおばあちゃんが時々、自力で立ち上がろうとしてテーブルをひっくり返したり、花瓶を割ったり、僕の上に倒れこんできたりして大騒ぎを起こすけど、それさえなければ病院生活は単調で快適だった。
お昼の二時頃の病室は特に静かで、病室ごとポコンッと世界から切り取られてしまったようになる。聞こえるのは病室の前を時々通りかかる看護士さんたちの忙しそうなスリッパの音、そして、そのガタイから想像されるよりはずっと静かな波田さんのいびき、それだけ。
そんな静まり返った世界で僕は、じっと床を見つめていた。床にはたくさんのヒビがあって、そのうちの一番大きな黒いやつをずっと見つめていると、吸い込まれそうな気がしてくる。何かが這い出してきそうな気がしてくる。
床からふと顔を上げると、向かいの小出さんのカーテンが風に揺れていた。今日も小出さんには来客が来ていて、カーテンを閉め切っている。でも、何の物音も聞こえてこないから気持ち悪い。
朝の小出さんは目元のぱっちりした美しい人で、周りを華やかにさせるオーラを持っている。だから朝の病室は明るい。
朝の小出さんににっこり微笑まれたらきっと、その日一日なんだか幸せな気持ちになれる、と思う。僕は小出さんに微笑まれたことはない。
小出さんは入院しているというのに、ずいぶんと忙しかった。朝から夜までひっきりなしにお客さんが来ていた。だから、夜の小出さんはベッドの上でしぼんでしまっていた。見る影もない。きっとお客さんへの気苦労でぐったりと疲れてしまうんだろう。もったいない。
小出さんを一番頻繁に訪ねて来るのは、真っ白な髪をかっちり後ろに固めたおじさんだ。暑いというのにいつもきちっとスーツを着ていた。小出さんのお父さんだと思う。
小出さんと小出さんのお父さんは仲が良くて、二人で病室から出ていく→病室に帰ってくる→ベッドの上に座って話す・・・そのあいだずっと手をつなぎっぱなしだ。
ご飯のとき、小出さんはきっと、お膳の中のおいしそうなものを、「はい、アーン」って言いながら、小さい子供にあげるみたいにしてお父さんにあげる。小出さんのお父さんがまたそれを、子供のようにして口で受ける。病人は小出さんで、病院食においしいものはなにもない。見ている方が恥ずかしくなる。
でもまあ、それくらい二人は仲が良かった。
来るたびに高そうなお菓子や果物をどっさり持ってきて、みんなに配ってくれる小出さんのお父さんが来るのは病室のみんなに大歓迎された。
もちろん僕もチョコやケーキは嬉しかった。でも、僕が小出さんのお父さんの来るのを楽しみにしていたのはそれだけではない、もう一つ別な理由があった。
小出さんのお父さんは時々、みんなに知られないように僕にだけお小遣いをくれた。小出さんのスパイをすることで五百円。スパイといっても、その中身はいつも決まっていて、小出さんを訪ねてくるお客さん達のことを小出さんのお父さんに話すだけ。それだけで五百円。
もちろん、最初に小出さんのお父さんに五百円渡されたとき、僕は断った。でも、小出さんのお父さんはニコニコしながら、「いいから取っとき。そん代わり、これは誰にも内緒だよ」と僕の手に五百円玉をぐっと押し付けてきた。
考えてみれば、小出さんのお父さんはお金持ちだ。(・・・たぶん、小出さんのお父さんにとっての五百円というのは、僕にとっての一円みたいなものなんだと思う。それに小出さんから「ダメ」と言われたわけでもないし・・・)そう考えると、人からお金をもらうやましさは結構おさまった。そう、要は、これは仕事だ。
僕はその五百円玉をポケットに入れた。
小出さんのお父さんは週に二回来た。そのたび僕は呼び出された。五百円ももらって毎回同じ話をしていては申し訳ない。僕は小出さんの来客にこれまで以上の注意を払って観察した。
小出さんを訪ねてくるのは小出さんのお父さんを除いて八人いた。怖い顔をしたおじさんもいれば、大人しそうな人もいたし、年寄りもいれば若い人もいた。女の人は一人もいなくて、みんな男の人ばかりだった。
小出さんはお客さんが来るたびにカーテンを閉めてしまうので、小出さんがお客さんとどんな話をしているのかはまったく分からない。ただ時々、小出さんの小さな笑い声が少し聞こえるだけだ。
八人が重なって来ることはなかった。みんな別々の時間に来た。どの人も決まって一時間居てから、帰る。三時間も居座っているのは小出さんのお父さんだけだ。で、一人帰って一時間くらいすると、また一人、という具合にお客さんは来た。だから小出さんは、一日に最低四人のお客さんと会っていた。
一度、「あの人たちみんな小出さんの兄弟かな?」とおばあちゃんに聞いてみたことがある。(その頃にはおばあちゃんもだいぶよくなっていた。舌を動かさない変な話し方と、時々僕の名前を忘れたり、トイレに行くことを忘れたりはしたけど)おばあちゃんは首をひねって、「さぁ・・・、どうだろうねぇ」と言っていた。
でも、残念ながら僕のこのアルバイトは三週間で終了となった。
ある日の夕方、僕が道場から帰ってきたら小出さんはもう居なかった。
小出さんの居た場所は、まるでこれまで誰も居なかったようにガランとしていて、ベッドも、ベッドの横の壁も、真っ白で、ピカピカ光っていた。
小出さんがいなくなると、病室は急に広くなった。僕は寂しく思ってたけど、波田さんはなぜか嬉しそうだった。
向かいにいる増田さんに向かって小出さんのことを何度も、「夜の女」と呼んではニヤニヤ笑っていた。普段の波田さんは、気のいいおっさんのようで僕は好きだけど、ニヤニヤ笑いながら小出さんの噂をする波田さんはどうしても好きになれなかった。
おっさん(波田さん)の向かいのベッドに入院している増田さんは、波田さんの話を聞いても静かに笑うだけだ。
増田さんは笑うと両頬に小さな、でもはっきりとしたえくぼができる。白い髪が頭の半分くらいに混じっていて、そのせいで普段の増田さんは僕のお母さんよりもずっと年上に見える。だけどにっこり笑った増田さんは五歳くらいの女の子のようにも見えるから不思議だ。
増田さんは自分からは話さない。いつものんびりと窓の外を見て暮らしている。話し方ものんびりしてて、なんだか寝ている人が話をしてるみたいだ。
増田さんには、毎日夕方の五時ぴったりにお見舞いに来る旦那さんがいた。時間にきっちりした人で、病室に入ってくるのが五時から一分もずれない。
増田さんの旦那さんは背が低く、百五十二センチの僕とあまりかわらない。僕と違うのは足の長さで、旦那さんの足は腿の付け根からすぐふくらはぎがはじまって、すぐにかかとがくる。足の長さは体全体の三分の一くらいだ。それでいて旦那さんは早足なので、その短い足を猛烈に動かしてタカタカタカタカ歩いてくる。だから旦那さんの足音は遠くからでもすぐ分かる。
病室に来る見舞い客は(何度も病室に来ている人でも)病室に入った瞬間、まずは波田さんのジロジロ光線を受けてびくっとする。もし波田さんが目から熱光線を出すことができていたら、小出さんにお見舞いに来ていたお客さんたちは今頃みんな消されてるだろうな。
だけど、増田さんの旦那さんだけは違った。旦那さんは波田さんの熱線にもビクともしない。
旦那さんは病室に入ってくると一直線に増田さんのベッドに向かう。増田さんのベッドは病室の一番奥にあるから、旦那さんは病室に入ってから増田さんのベッドにたどり着くまでのかなりの時間、波田さんの視線を浴び続けることになる。それなのに旦那さんは決してたじろがない。まっすぐ床を見つめてまっすぐ増田さんのベッドに向かってまっすぐシャカシャカ歩く。そして、ベッドにたどり着いたときにはじめて、クルリと体を返してペコリとみんなに頭を下げる。
頭を下げ終わった旦那さんは次に、増田さんのベッドの下に横向けに寝かせてある、旦那さん専用の折りたたみ椅子を取り出す。その椅子を取り出すときには、いつも、何か小声で増田さんに言っている。そうして椅子をいつもの位置にセットした旦那さんは、背広の上着を脱ぐと、バサバサと二回振って、椅子の背もたれにそれを掛ける。掛けながら自分も座る。座ると鞄から新聞を取り出して、これもバサバサ言わせながら読み始める。読んでいる最中、「うん、うん」とうなずいて、頭を振っている。声は出さないで、頭だけ振ってる。
旦那さんが新聞を読み終わる頃に、病院の夕食の時間になる。
病室に夕食が運び込まれる、ちょうどニ、三分前に、旦那さんは新聞を読み終わってきれいにたたんで、鞄の中にしまう。そしてベッドの下に椅子を戻すと、病室のみんなにペコリと頭を下げてシャカシャカ出て行く。
その最初から最後までがロボットみたいで、ほんとうにカッコイイ。
僕はその旦那さんと一度だけ話をしたことがある。
その日、トイレから帰ってきた僕は病室の入り口で旦那さんとあやうくぶつかりそうになった。なんとかよけた僕に向かって旦那さんが、「あ、すいません!」と、「給湯室はどこですか?」を、同時に言った。僕は確かにこの二つの言葉を同時に聞いた。一体どうしたらそういうことができるのかは分からない。
とにかく旦那さんを給湯室まで連れて行き、僕は病室に帰ろうとした。その僕に向かって旦那さんが、「ありがとうございました」と、深く頭を下げていた。仏壇になった気分。見ていた看護士さんの二人が爆笑していた。
急いで病室に帰って、おばあちゃんにそれを話した。横でそれを聞いていた波田さんが笑いながら、「ねぇ、増田さん。あんたんとこの旦那さん、家でもああなの?」と聞いた。増田さんは、「え?・・・」と言って、ちょっと考えていたけど、やがて、「あの人、あの服ばっかりですの。他にも服はありますのに、ねぇ?」と真顔で言った。
第三話 タクチカン入室
「ええと、皆さん。ちょっとすいません・・・」
その日、お昼ご飯が済んでしばらくすると美濃先生が病室に来て、改まった口調でそう言った。その声に、みんながいっせいに美濃先生の顔を見た。見られた美濃先生は照れくさそうに咳払いすると、「あの、明日の午前にですね。・・・おそらく、十時くらいだと思うんですが、その、・・・ええ、もうお一人入室されます・・・、が・・・」と言った。
そして、美濃先生はまた咳払いすると、天井を見やった。
「みのぉ~ちゃん、もったいぶらぁんで、はよ~話しんさいよ。」
波田さんはいつも、若い美濃先生を呼ぶとき、「みのぉ~ちゃん」と呼ぶ。時々美濃先生の彼女がどうとか、夜がどうとか、結婚がどうとか大声で話している。だから美濃先生は波田さんが苦手だ、と思う。でも、かわいそうに・・・美濃先生はきっと波田さんに好かれている。
「いやぁ、あのですね、それが、その・・・その患者さんなんですが・・・」
「男とか?」
波田さんの声に美濃先生がむせた。
「やっ!あ、あの、まぁ、・・・じ、実はそうなんです。」
「えぇ~。何、ホントに?」
「はぁ、いや、本当に申し訳ございません。あの、大学の方からどうしても、と・・・。何度も、断わろうとは、したのですが・・・。むこうの方も、び、病床数がヒッパクしております関係上、どうしてもウチで受け入れるしか・・・。いや、しかしですね、あの、患者さんは八十三歳とご高齢の方ですので、あの、そ、その点はご安心を・・・」
「どの〝点〟よ、みのぉ~ちゃん。何が言いたいのぉ?」
波田さんがニヤニヤしながら言うと、美濃先生はしきりに額を拭きながら、「はぁ、いや、あの、決してそんな、・・・いや、ご安心を、と・・・」ブツブツつぶやくように言った。それを聞いた波田さんがふき出した。
「いやっ、あ、あのっ!奥様がいつも付いておいでの方でですので!」
「くっ、くっ、くっ。もういいわよぉ、みのぉ~ちゃん。わかった、わかった。私たちは構わんよ、襲われても。なぁ、園崎さん、増田さん?」
「いやぁ、そういう・・・」
「ええ。」
増田さんが微笑みながら言った。おばあちゃんは相変わらずぼぉっとしている。
「あ、ありがとうございます。・・・あの、本当に申し訳ございません。」
「その代わり入院費、まけなさいよ。」
「ははぁ~、いやぁ、それはですねぇ、いやぁ、それは・・・」
「あははは、冗談よぉ。もう、だからあたし、みのぉ~ちゃん、大好きよぉ。」
美濃先生がまたむせた。
「あらぁっ?そういえば昨日、みのぉ~ちゃんに今日入ってくる人の名前とか聞くのすっかり忘れちゃってたわあ。」
朝ご飯の後、波田さんがふと呟いた。といっても波田さんの呟きは病室全部に響き渡るものだからもう呟きではない。
朝の十一時を過ぎても新しい人はまだやって来なかった。
日曜ということもあって増田さんの旦那さんは十時頃やって来ていた。ぼんやりと窓から外を見ている増田さんの横で、いつものようにせわしなく新聞を読んでいる。病室に入ってきてから新聞を広げるまでの動作が、相変わらずロボットみたいでカッコイイ。
僕はといえば、不意にやって来た波田さんの息子さん二人に紹介されていた。ほっとしたことに、僕と同じ歳だという子は友達と遊びに出かけた、ということで目の前の二人は僕よりずっと年上で、高校生だった。
「まあ、いいわ・・・。でね、リョウタ、ケイ。この子が信二君。五年生なのにおばあちゃんの面倒、ずぅっと見とるんだから!えらいでしょう?」
波田さんの前で固まっている僕に、それから一時間、波田さんは僕がいかにおばあちゃん孝行であるかを一つ一つの例を挙げながら得々と息子二人に話して聞かせた。プラスチックの箱で黒板をおもいっきりキィーッとされてる感じだ。
お昼ご飯が来て、僕はようやく波田さんから解放された。鳥肌疲れで、全身がグンニャリと溶けだしている。
波田さんの一日も早い退院を僕は切に願った。
そして、昼の二時。
波田さんの息子さん二人が帰っていったのと入れ違いに、病室に美濃先生が入ってきた。美濃先生に続いて、僕のおばあちゃんよりもおばあちゃんなおばあちゃんが、そしてそのおばあちゃんの後ろから、看護士さんに車椅子を押されたおじいさんが入ってきた。
「多口完さんと、奥様の郁江さんです。」
美濃先生に紹介されて、多口郁江さんがすっと頭を下げた。
ところで・・・
世の中には怒っているところを絶対に見たくない人たちがいる。例えば僕の空手の師範。一つの家くらいある大きな筋肉の塊をバチバチ叩いて人間の形にしたような人で、でも、僕ら小学生の指導のときには、その岩みたいな顔をいつもニコニコさせている。その師範の車に一度、乗せてもらったことがある。僕がこの町にお母さんと越してきて一ヶ月くらい経ったときのことだ。
青信号でスタートの遅かった師範の車が、すぐ後ろのトラックからクラクションを鳴らされた。師範はニコニコしながら車を降りると、後ろのトラックに向かって歩いていった。信号は青に変わったばかりで、トラックの後ろにも車が列をつくっているのに、だ。
どんな話を師範がトラックの運転手にしたかは知らない。ただ、帰ってくる師範に向かってトラックの運転手が何度も頭を下げているのがドアミラーから良く見えた。
また、師範のような、暴力に服を着せたような人達とは違った種類の怖さを持っている人達もいる。見た目はか弱そうでも、目の光の強さが普通ではない人達だ。そういう人達はトラックにクラクションを鳴らされても、決して車を飛び出したりなんかしない。法廷速度をきちんと守り、ゆっくりと走る。トラックの前をいつまでもいつまでも・・・
「田口郁江と申します。今回のことは、皆様にはさぞご迷惑だと思います。主人は私が責任を持って世話いたしますので、どうぞしばらくのあいだご辛抱のほど、宜しくお願い申し上げます。」
郁江さんはそう言って、頭を下げた。
まっすぐな姿勢。皺一つない着物。真っ白な髪が一本の例外もなく、きっちりと後ろに束ねられていて大理石のように光っている。前に組まれた両手の指の一本一本が定規ではかったようにきっちりと揃っている。
頭を上げた郁江さんがやさしく微笑んでいる。細面の顔で色が白い。皴も白い。その白い皴に埋もれるようにして目があって、その目の光の鋭さが尋常でない。よく言えば、蛇だ。そう、郁江さんのような人の怖さは筋肉の怖さを上回る。
あの波田さんが、「いえいえ、とんでもございません」とか何とかモゴモゴ口にしながらしきりに頭を下げている。増田さんはいつものようににっこり笑いながらのんびりと、「どうぞ宜しくお願いいたします」と言い、その横で旦那さんがすごい速さで頭をヘコヘコしている。僕のおばあちゃんは相変わらずぼぉーっとしている。
「さ、あなた。ご挨拶してください。」
郁江さんが後ろの車椅子のおじいさんに言った。柔らかな声だ。
ビルの屋上で、郁江さんにじっと見つめられて、同じ声で「さ、あなた。飛び降りてください」と言われて断れる人はきっといない。
郁江さんにそう言われて、看護士さんに車椅子を押されたおじいさんが前に出てきた。
びっくりするくらいに痩せたおじいさんだった。骨にペラペラの皮膚が貼り付いてる。病院の着物がおじいさんのあちこちでダボダボ余っている。
肌がおそろしく黒い。日焼けなのか、病気のせいなのかわからないけど、焦げたように黒い。はだけた着物から見える、あばら骨の浮き出た胸元も、きれいに禿げた頭も、黒い。眉毛があるかどうかさえわからないくらい真っ黒なその顔に、ギョロリと開いた目が付いている。黒焦げになったメザシみたいな人だ。
僕はこのおじいさんが病室に入ってきた瞬間から僕を見ていることに気付いていた。じっと見てるんじゃなくて、チラチラと盗み見るような感じ。それでいて僕と目が合うと、僕が視線を逸らすまで絶対に視線を逸らせない。僕はすぐに視線を逸らせるのでおじいさんが僕のことをどれだけ見ているのか知らない。知りたくもない。
郁江さんに紹介されて、おじいさんのシワだらけの口がパカリと開いた。一瞬の間があり、タクチカンが始まった。
「タクチカンといいますっ!いまっ!この瞬間もダイトウアカイホウのため、トーナンカクショトーにおきまして、ワガテイコク数万のセイエイはベイコクのヤボウをソシし、これをセンメツせんとハチクの勢いでゼンシンしておるところであります!そのっ!サイゼンセンでのコンナンコック、想像を絶するぅっことでありっ!ナイチに置かれたままのこの身っ!じ、実にカ、カッカソウヨウ!堪え、堪え、えませんっ!シンシュウイチメイをかけたこの重大な局面、たかが足の骨一本で入院を余儀なくされ、ヘイカに対し、ま、まったく恥ずかしい限りであります!一日、一刻でも早く回復し!ケトウ共に一矢でもぉっ!二矢でもぉっ、多く突きたててっ!ワガテイコクのお役に立つっ!つもりでぇあります!」
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病室の中にタクチカンの錆びた鉄棒をこすり合わせたような怒鳴り声と、唾と、そして?が飛び交った。波田さんも増田さんも旦那さんも、みんな口をぽかんと開けている。
一方、タクチカンは目を閉じて口をモゴモゴさせながら、満足そうに顔を天井に向けた。
「や・・・、あ、あの、ま、まぁ、まずはお荷物を置かれて・・・」
度肝を抜かれた美濃先生が汗を拭き拭きようやく言うと、看護士さんたちも夢から覚めたように動き出した。
「あらあら、どうもすみません。では、その二つの鞄はベッドの向こう側に、そちらの大きな鞄だけこちらに置いてもらえますか?」
郁江さんがやさしく、しかしテキパキと指示を出している。
その間、タクチカンは同じ姿勢のまま、口をモゴモゴさせている・・・。
第四話 サクラちゃん
僕が初めてサクラちゃんに会ったのは、タクチカンが入ってきて二日目のことだった。
大会も近くなり練習時間も次第に長くなってきたせいで、その日、僕が病室に帰ってきたのは夜の八時を少し過ぎていた。
おばあちゃんはいびきをかいて寝ている。タクチカンと郁江さんはおそらく寝ているのだろう、カーテンが閉まっている。波田さんのとこも増田さんのとこも、どちらもカーテンが閉まっているけど、波田さんのところからは、着替えでもしているのか、カサカサ音がする。
僕はなるべく音を立てないようにそぉっと椅子に腰掛けた。腰掛けた瞬間、ふぅ~っとため息が出た。こうやって休むと、体中の筋肉がパンパンに張ってるのがよく分かる。首も、腕も、お腹も、足も、体のあちこちがジンジン熱い。特に、浅田さんからきれいにもらった下段蹴りで右腿の付け根がビリビリする。それでも気分は良かった。大会向けの調整はかなりうまくいっているし、道場の中学生たちとも互角に組手できるようになってきている。師範からは最近、特に誉められる。
そのとき突然、「信二君、おかえり!遅かったねぇ!これ食べん?」と言いながら、波田さんがカーテンの隙間からニョッキリ顔を出して、手を出した。波田さんの巨大な手の平に巨峰の入った皿が埋まっている。
「あ、ありがとうござい、ます」僕は波田さんの声で潰されそうになった心臓と一緒に、急いでカーテンをまわって波田さんのベッドに向かった。
波田さんはトドのようにベッドに横たわっていた。その波田さんのベッドの横に僕は、ちょこんと座って僕を見ている、・・・天使を見た。
「サクラ、信二君よ。お兄ちゃん達からも聞いてるでしょ?信二君はほんとぅにおばあちゃん思いでね、もぅっ・・・」
・・・生きてる、んだろうか?
それは、ものすごくよく出来たお人形のような女の子だった。
手も顔も、天井の光をほのかに反射するほど白い。その真っ白な顔の上に、細い筆先のような眉がある。眉の下には、大きくて、まっくろで、キラキラ輝いた瞳があって、それが僕に向けられている。鼻がスッとのびてて、その鼻の下には、真っ赤な、小さな唇があって・・・
髪は軽く後ろに結ばれている。余った髪は、小さな貝殻のような両耳の後ろを通って、肩に落ちている。その髪の隙間から見える細い喉もまた真っ白で・・・
ぱちっと僕の目が瞬きした。僕はハッとしてあわてて巨峰を見た。(大きな、おいしそうな巨峰・・・大きな、おいしそうな巨峰)
「・・・なのよ!すごいでしょ?ケイたちにも見習って欲しいわよ、ほんと・・・」
波田さんが喋っている。僕は巨峰を口にした。まったく味がわからない。
「・・・でね、信二君。悪いんだけど、ちょっとお願いがあるのよ」
波田さんの、全然悪そうじゃない声がした。
「信二君?」
「・・・あ、は、はい、何ですか?」
「これ食べてからでいいんだけどね、サクラと屋上まで行っておばさんの洗濯物取ってきて欲しいんよ。ちょっと重いからサクラだけだと無理なんよね。」
「大丈夫だって、私だけで!」
〝チリン〟と鳴る風鈴のような、サクラちゃんの声だった。
「無理よぉ、あれは。看護士さんがようやく運べたくらいに重たいんやから。ね、信二君、お願いできる?」
「は、はい。僕は、何でもできます。」
何を言っているのだ、僕は・・・
波田さんが僕を見てニヤニヤしてる。僕はハッとした。波田さんは・・・、僕とサクラちゃんを結婚させようとしている!
しかし・・・
サクラちゃんの気持ちも考えてあげねば・・・。
「じゃ、サクラ、これんなか入れてきてね。」
波田さんがベッドの脇に置いてある大きなプラスチックの籠を指差した。
「信二君、お願いね。」
二人で病室を出た。僕はサクラちゃんの後になって歩いた。サクラちゃんはかなり早足だ。サクラちゃんが歩くたびに真っ黒いきれいな髪の束がサラリサラリと左右に揺れる。
エレベーターの前で、サクラちゃんが籠を床に置いた。その拍子にティーシャツの袖口からサクラちゃんの真っ白な二の腕が一瞬見えた。僕はそこに、小さなホクロを二つ見つけた・・・。
将来、・・・そう、これから十年くらい後だろうか?サクラちゃんと一緒に洗濯したり、料理したりする毎日が来るのだろうか。手をつないで散歩するのは仕事のない日曜日・・・、がやってくるのだろうか。
「ねぇ、これ、重いから持ってよ。」
サクラちゃんが足で籠を蹴りながら言った。
「あ、うん。」
サクラちゃんとの初めて会話だった。
エレベーターがゆっくりと下りてきた。
籠を持った。なるほど、けっこう重い。でも、空のプラスチックの籠が持てないほど重いわけはない。サクラちゃんはもしかして病弱なのかもしれない。二人で手をつないでする散歩は病院の庭なのかもしれない・・・。
「汗臭いわねぇ。」
エレベーターの中でサクラちゃんが言った。
「そ、そうかな?」
僕はあたりを嗅ぎまわるふりをした。
「あんたよ。」
屋上は広かった。
サクラちゃんが洗濯物を籠に入れている間、僕はまわりを見回した。フェンスで囲まれてなければいい夜景が見れただろう。星だけはよく見える。
けっこう人がいて、いくつかあるベンチが全部埋まっている。男女の二人連れが何組か、暑いのに寄り添って座っている。あれは僕らの将来だ。隣に座って僕の肩に頭をあずけるサクラちゃん・・・。不治の病気で、もう長くないサクラちゃん・・・。胸が熱くな・・・
「なにしてんの。帰るわよ。これ持って。」
巨体の波田さんの洗濯物で満杯の籠はおそろしく重かった。
サクラちゃん、僕の順で病室に帰る。
「お帰り!信二君、ありがとね!」と波田さんが出迎えた。初デートが終了した。僕はがっかりし、ほっとした。
ふと後ろを見ると、タクチカンのベッドのカーテンが開いてて、タクチカンがこっちを見ている。タクチカンは僕の視線に気付くとあわててサクラちゃんから視線を逸らし、ギョロリと僕を睨むように見ると露骨に目をそむけた。
「重かったでしょう?ごめんねぇ。」
ねぎらってくれる波田さんの横でサクラちゃんが帰り支度をしている。
「じゃ、帰る。」
「気をつけて帰んのよ。」
サクラちゃんが行ってしまった。小出さんが退院したときとは比べものにならないくらいに病室が暗くなった。
胸の中にぽっかりと穴が空いた。
とりあえず、おばあちゃんの横で夏休みの宿題だった算数の問題を片っ端から解いていった。
五話 屋上にて
また夕暮れ・・・
今日もサクラちゃんは来なかった。あの日から僕はずっとサクラちゃんのことを考えているような気がする。ウンコしててもサクラちゃんのことを考えてる。考えれば考えるほど自分が嫌になってくる。それでいて考えないようにすればするほど考える。
(死ぬ前にもう一度だけサクラちゃんに会いたい。・・・いや、いっそもう会わないで死んだほうがいいのかもしれない)頭の中を、同じ考えがグルグル果てしなく廻る。僕は病気になっちゃったんじゃないだろうか?
病室はシンッと静まり返っていた。
おばあちゃんも波田さんも増田さんも、死んだように寝ている。
タクチカンは、・・・そういえば今日もいない。彼が病室に来てからこの三日間というもの、タクチカンはこの時間帯にはいつもいない。お昼ご飯のあと、郁江さんと一緒にどこかに行き、夕ご飯まで戻ってこない。きっと病室のほかの人たちに郁江さんが気を遣っているのだろう。僕は宿題をしようと本を開いた。開いたら眠くなって、横になったら、寝ていた。
「よく寝てたぁねぇ。死んだかと思ったよぉ。」
起きた僕におばあちゃんが言った。驚いたことに翌日の朝の十時を過ぎていた。三十時間くらい寝ていたことになる。
「ごめん、トイレは?」
「かんごふぅさんに連れていってもらったから、いいよ。」
「信二君、顔洗ってらっしゃい。涎がついとるよ。」
波田さんに言われて病室内にある共同の洗面台に向かった。なんだか波田さんはだんだん『お母さん』になっていく。一昨日なんかは、『そんなもち方じゃ、出世できないわよ』と、箸の持ち方を叱られた。それから一時間の指導。箸の持ち方と出世がどう関係しているのか、分からないままの一時間。
とりあえず顔を洗う前にトイレに行こう、と思って僕はトイレに向かった。途中、ふと思いついて屋上に行った。
屋上は陽炎が立つくらいに温まっていた。風が止まっているから気持ちが悪くなるくらい暑い。二、三歩歩いただけで汗が染み出てくる。最初はストレッチだけのつもりだったけど、つい夢中になって僕は、いつもの稽古のメニューを一巡していた。
「どうして顔洗いに行って汗だくになってんのっ!すぐシャワー浴びてらっしゃい!」
汗でずぶ濡れのまま病室に戻ってくると波田さんに怒られた。波田さんの大声に体がびくっと反応する。(波田さんがお母さんじゃなくて本当によかった・・・)心の底からそう思った。
お昼ご飯が終わり、道場に行こうと準備していると、いつものようにタクチカンと郁江さんが病室を出て行った。僕は二人が出てしばらくしてから病室を出たんだけど、彼らはまだ廊下の先をゆっくり歩いていた。追い越すのもなんだか気まずいので、僕は彼らの後ろを歩いていた。すると自然と彼らの会話が聞こえてきた。
「母さん!今日のあいつの格好見たか!あれはなんだ!エーコクコッキだぞ!コウコクの恥だ!あんなのがいるからサイパンとられんだよ!」
タクチカンの声はうるさい。まるでどなり声だ。通りかかる他の患者たちがびっくりしている。タクチカンのザラザラ声と比べると、リンッとよく通るはずの郁江さんの声もか細く聞こえる。
「・・・から、いいじゃないですか。」
「いいわけないっ!あんな・・・」
「それにしても、あなた、よく見ていらっしゃるわね。」
「なっ!そ、そんなことはないっ!」
「はい、はい。わかりましたよ。そういえば昨日はあの子の髪のことで何かおっしゃってましたわよ。」
「ん?・・・そうだったっけ?」
「はい。今度あの子とちゃんとお話してみたらどうですか?」
「いやだっ!誰があんな女の腐ったようなヤツとっ!」
「あら、私は女ですよ。」
「か、母さんは別さ!」
「あら、そうですか・・・」
まるで子供と母親との会話だ。
そのうち、廊下の先にあるエレベーターにたどり着くと、二人はエレベーターに入っていった。どこに行くのかと思って表示階を見ていると、行く先は屋上だった。病院で気晴らしのできる場所は確かに屋上だけしかない。でも、屋上は僕とサクラちゃんの場所だ。郁江さんだけならいい。でもあのだみ声が僕らの聖域に響き渡るのは許せないことだった。
(それにしても・・・)と僕は思った。(二人はいつも、夕ご飯までずっと屋上にいるんだろうか?)
あそこには何もない。金網越しに見えるのは下界のごちゃごちゃした街だけだ。あんなところに夕方までは居れない、と僕は思うけど、多口夫妻ならあり得そうだ。
エレベーターに入って、「上」のボタンを押した。屋上での二人の様子をちょっと見てみたかった。
屋上でエレベーターが開くとすぐ正面に汚い壁、右は非常階段のドア、左には廊下があって、その廊下が広場までつながっている。廊下は短くて、二十歩も歩かずに広場に出るのだけど、電気がついてても薄暗い廊下は気味が悪い。廊下を抜けて明るい広場に出るとホッとする。
広場のすぐ右手には洗濯機が十台、ずらりと並んでいる。手前から三台目の洗濯機がサクラちゃんと僕の洗濯機だ。
風が出ていた。
入院患者の洗濯物を干すための紐が左右に張られていて、それが奥に向かって五本ある。朝には数えるばかりだった洗濯物が、今は隙間なくびっしり干されていて、それが風に合わせて波のようにうねっている。そのうねりを抜け出ると、ポカリと空が広がる。目の前の広場は四角で、その左右と正面にベンチがいくつか置いてある。
タクチカンと郁江さんは右手一番奥のベンチに居た。目を閉じてても彼らの居場所は分かった。なぜならタクチカンが歌って(?)いたからだ。僕の立っているのは風上だった。にもかかわらず、タクチカンのがなり声が平気で風を遡ってきた。
フキテェシィヤァマヌゥ~
シンクゥオォクノォ~・・・
タクチカンは歌いながら、金網にへばり付いて下を見ていた。ギョロ目が落ち着きなく左右に動いている様子はまるで、二階から下を覗いているときの猫だ。郁江さんはタクチカンの横のベンチに腰掛けて本を読んでいる。時々タクチカンは歌を止め、頭を上げて、郁江さんに何か言っている。郁江さんはその度に本を閉じ、タクチカンをまっすぐに見ながら答えている。
まわりには、タクチカンたち以外に四人の人間がいた。一人の女性患者は、連れの男の人と一緒にタクチカンと郁江さん(というか、タクチカン)を見てクスクス笑っている。他の二人はどちらも老人で、目を閉じて身動きもせずに陽を浴びている。・・・生きてるんだろうか?
「あら、信二君。」
思いがけないほど大きな郁江さんの声だった。あわてている僕をまっすぐに見ながら郁江さんが、「こちらへいらっしゃい」と言った。
僕はここに来たことを心底後悔した。だんだんと重くなっていく足を引きずりながら二人のところへ向かった。タクチカンがギョロリと僕を見ている。
「信二君、お暇?ちょっとお願いがありますの。」
道着を入れたバッグを持ち、外行きの服を着て屋上に立つ僕に、郁江さんが聞いてきた。
「私、少し用事がありまして出掛けなければなりません。夕方までには戻りますからその間、タクとごいっしょに、こちらにいていただけませんでしょうか?」
「・・・はい。」
断れるわけがない。屋上で郁江さんから『飛び降りて』と言われたら、飛び降りるのだ。
そして、郁江さんの後姿はだんだんと遠のいていった。
タクチカンと二人っきり。
僕はベンチに座って正面を見ている。
タクチカンはじっと下界をのぞいている。
沈黙・・・。
ああ、せめて風がもう少し強かったらこんなに耳を持て余すことはなかったのに・・・。
「があぁぁっ!」突然、タクチカンが咆えた。僕の体がビクッと震える。次の瞬間、タクチカンが絡んだ痰をペッと下界に吐き捨てた。その一部始終が僕の耳に残る。
「・・・あ、あの」
『いつもここに来ているんですか?』と聞こうと思った。ようやく思いついた話題だった。それが、タクチカンにかき消された。
「おい、きさまっ!五年だよな?」
「あ、はい・・・。」
「はぁっ?聞こえんっ!声はもっと腹から出さんかっ!」
「す、すいません!」
「で、きさまっ、名前はっ!」
「そ、園崎信二、です!」
「ふんっ。」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
ああ、サクラちゃん・・・
「あ、あの、多口さんはいつもここ・・・」
「来てるよ。」
沈黙。
言い切るまでもう少しだった・・・。
沈黙。
沈黙。
破ったのはタクチカンの方だった。
「俺はカイグンに入るっ!きさまはっ!」
「え?」
カイグン?海軍?・・・自衛隊?
「将来のことだよ!」
タクチカンがギョロリと僕を睨んだ。
「あ、ああ・・・。ええと、あの、ち、中学に行って、高校に・・・い、行けたらいいなって・・・、思ってます。」
「ほう、コウクウかっ!よしっ!」
そう言うとタクチカンの顔が変わった。ギョロ目が三分の一ほどに縮まり、目元と鼻の辺りに皴が寄った。口がパカリと四角に開かれて、所々間の空いた黄色い歯が見えた。その何本かが斜めを向いている。これは・・・タクチカンの、笑顔?
「ムサシだ。俺はムサシに乗る!そしてまずサイパン!それからハワイ!最後にケトウの本国で決戦だっ!」
・・・コノヒト、ナニイッテル?
「きさまのその服っ!」
突然タクチカンが僕のティーシャツに指を突きつけてきた。お母さんから去年もらったもので、胸元にイギリスの国旗が描かれている。クレヨンで描いたようなデザインで格好いいから僕は気に入っていた。
「・・・あ、はい、これ?」
「それにその髪っ!テイコクグンジンッ・・・ん?まあ、将来の一員としてっ、だ!恥ずかしくないのかっ!」
お母さんの趣味で僕の髪は茶色に染められていた。これが学校で目をつけられる原因でもあったから僕は自分の髪を気に入ってはいなかった。しかし・・・、赤の他人であるジジイにしかられる覚えはない!
「・・・あ、あの、ご、ごめんなさい。」
「ふんっ!」
沈黙・・・。
「きさま、喧嘩は強いのか?」
「えっ?あ、いや、強く、ない・・・、です。」
「空手やってんだろ?」
「・・・は、はい。あ、でも・・・」
亮たちの顔が浮かんだ。あいつらに囲まれると体が重くなって、動かなくなる。空手やってんだろ、っていいながら蹴られる。俺も、俺も!って他のヤツらも笑いながら蹴ってくる。殴ってくる。あいつらの下手糞な蹴りは全然痛くない。あんな腰の入ってない、あいつらの遅い突きなんて全然痛くない。僕は、道場だったらあいつらになんか絶対負けない。
「弱そうだもんな、きさま・・・」
僕の全身を見回しながら、タクチカンがため息でもつくように言った。大きなお世話だ。
「俺はな、治ったら俺は・・・、柔道するんだ。ケトウはガタイと力だけだ。俺があいつらを投げ飛ばしまくってやるっ!」
タクチカンは叫ぶようにしてそう言うと、ガリガリに痩せた腕を、ええ~いっ!おお~っう!と言いながら振り回し始めた。そばに居ることが、とてつもなく恥ずかしい。さっきのカップルが笑いを押さえようと苦しそうにしている。と、五回もそれをしないうちにタクチカンは苦しそうな顔でゴホゴホとむせた。
「大丈夫ですか!」
むせている彼の背中をさすった。布の下の薄い皮膚、そしてその皮膚のすぐ下にある骨の一本一本の位置が、手を置くとよく分かる。背中に置いた手を動かすとまるで、並んだクレヨンの上をなでているような気がして気持ちが悪い。
しばらくしてタクチカンの発作はようやくおさまった。
「があぁぁ~っ、ぺっ!」
また、タクチカンの痰が地上に落ちていく。
「お前、東京からだろ?」
まだ少しゼイゼイしながらタクチカンが言った。
「あ、は、はい。一年前に、こっちに越してきました。」
「言葉でわかる。俺も、だ。サンヤだ。」
「え?」
「サンヤ!ドヤだよ!」
「・・・あ、はい。」
「母さんの田舎だからこんなとこにソカイしてるけど、田舎のやつらは意地が悪いから嫌いだ。お前もそう思うだろ!俺は治ったらカイグンに入る!で、大尉になってサンヤにガイセンしてやる!あいつらに、見せつけてやる!」
「あ、あの・・・、『あいつら』って?」
「クズさ!あいつらの脳みそには酒と飯と女しかない!俺は違う!俺は偉くなってやる!あいつらとは違うんだ!」
怒鳴るようにして話すタクチカンと話してると耳が痛くなる。
郁江さんが戻ってきたとき、もう夕方になっていた。真っ赤に溶けた太陽がずっと向こうの空に落ちかかっている。僕はタクチカンの車椅子を郁江さんに代わって病室まで押した。タクチカンは驚くほど軽かった。
第六話 タクチカンのいる世界
次の日、お昼ご飯を済ませたタクチカンが病室から出て行こうとしたとき、僕はおばあちゃんの横で本を読んでいた。ふと目を上げるとタクチカンと目が合った。タクチカンはギョロッと僕を見ながら顎でぐぃっと外をさした。
「あらあら。」
郁江さんがにっこり、僕に向かって微笑んでいる。
ああああああああああ・・・・
「あなた、よかったわねぇ、信二君と仲良くなれて。」
僕らの横を歩く郁江さんが微笑みながらそう言うと、焦げたメザシはむっつりした顔のまま、「手下は多いほうがいいからね」と言った。
その日から、タクチカンを屋上に連れて行き、また夕方つれて帰るのは僕の役になった。空手の練習日以外はほとんど一日中といってもいいくらい、僕はタクチカンと居た。
最初は一緒に屋上までついて来てくれた郁江さんは、そのうち僕らを病室で見送るようになった。
郁江さんは波田さんや増田さん、そしておばあちゃんとけっこう仲良くやっていたようだ。
夕方、ぐったりした僕がタクチカンを連れて帰ると病室にはいつも笑い声があった。そのほとんどは波田さんのものだったけど・・・。
二回だけ、波田さんが泣いているところにばったりと帰ってきてしまった。一回目は僕もタクチカンも気まずい思いをしながらも、もう病室に入ってしまっていたのでそれとなく手を洗ったり、顔を洗ったりしてやりすごした。二回目は病室に入る前になんとなく雰囲気でわかったから、僕らは意味もなく病室とエレベーターの間の廊下を行ったり来たりしていた。
それにしても・・・
タクチカンほどうるさい人間はいなかった。車椅子を押せば押したで、「遅い」だの、「気合が入ってない」だのどなる。
車椅子押すのに気合ってなんだ?
屋上に行けば行ったで、金網に、その黒い頭皮に痕が残るほど頭を押し付けて下界を眺めながらひっきりなしに、「あっち側に連れて行け」「やっぱり戻れ」と怒鳴る。ちょっとでも僕が遅いとすぐに「このばかっ!」と怒鳴る・・・。それだけではない。郁江さんというタガの外れたこのジジイは、気分がいいと周りに人がいようがいまいがお構いなしに大声で歌う。人の洗濯物のタオルを盗んで顔を拭っては、後で僕に戻させる。下界を通る人目掛けて唾をたらす・・・。
僕はその度に他の人が注意してくれるんじゃないかと心待ちにしていたけど、誰も何も言わない。たぶん怖くて、言えない。しかもこの焦げメザシには、病院の関係者が屋上にいるときにはなりを潜める、という知恵があった。
このタクチカンのうんざりする行動形態は僕のよく知っているものだった。学校のあの連中だ。
もう二週間もすると学校が始まる。
ため息が出た。
僕がタクチカンを抑えるには彼より優位に立つ必要がある、そう考えると、彼がいつも言うような、『ソコクボウエイ』だの『ダイトウアノハシャ』だのを論破するのが一番だと思った。
僕は図書館から一冊の本を借りてきた。子供用で、『戦争とは』という題の本だ。
本を読み終わり、いよいよタクチカンとの決戦の日が来た。屋上で陽光にあぶられながら、切り出したのは僕だ。
「あ、あの、・・・か、海軍に入ってどうするんですか?」
壁に止まっていた蝉をタオルで打ち落とそうとしていたタクチカンの動きが止まり、僕を睨んだ。
「あ?決まってるだろ、ベイエイどもを叩き潰すんだよ。」
「でも、本には日本が勝たなくてよかったって・・・」
「・・・」
タクチカンが無言で僕に向き直った。
「もう一度、言ってみろ。」
怖かった・・・
「あ、あの、・・・に、日本の大東亜共栄圏は間違いだったって・・・」
一瞬の間・・・
その間に、タクチカンの真っ黒な額にみるみる血管の束が浮き上がってきた。
「この大ばかやろうっ!アジアがこれまでどれだけ西洋のやつらにサクシュされてきたかを考えてみろっ!香港を見てみろっ!フィリピン、マレー、インドネシアを見てみろ!みんな血の涙を流してきたっ!いったい誰のためにだ?欧州のためだ!米国のためだ!同じアジア人としてほぉっておけるかっ!今、アジア圏で欧米列強と喧嘩できる国が日本以外どこにある!」
僕の知識では一言もない。でも・・・「で、でも、あ、あの、・・・喧嘩なんてしなくても、話し合いで・・・」
「話し合いの結果ぁっ!香港は中国から引き剥がされた!話し合いの結果ぁっ!フィリピンはフランスにジュウリンされた!話し合いの結果ぁっ!インドは英国にアヘン漬けにされたっ!話し合いだぁっ?!こっちは丸腰だってぇのに、銃や爆弾突きつけてくるヤツらとどう話し合えってぇんだよ!このばかっ!欧米の言ってる話し合いってぇのは茶菓子囲んでのんびり談笑することなんかじゃねぇんだ!毒盛りあって殺し合うことなんだよ!このばかっ!」
今までで最高数の「ばか」と言われた。
僕はもう何にも言えなかった。
タクチカンの唯一の良いところは、とても忘れっぽい、というところだ。昨日の話の八割は、今日はどこかに消えている。それどころか、さっき話したことも忘れてしまい、また一から繰り返すこともよくあった。だから僕は再戦を賭して勉強した。
結局、第二次世界大戦は第一次世界大戦へとつながり、そして明治維新へとつながっている。それは、僕のおじいちゃん、そしてそのまたおじいちゃんたちの辿ってきた、延々たる歴史の大海原だった。時間的、距離的な大きさに最初は目が眩んだ。
けど・・・
結局のところ、〝西洋〟という主人公に振り回され続けた世界の物話、というだけの話だ。僕にとって大して面白いものではない。
僕はただ、タクチカンに負けたくなかった。知識が増えるたび、僕はタクチカンに挑んだ。その都度、タクチカンに言い負かされた。
彼はいつも最後にはこう言った。「自分に対してさえ理想のないきさまが御国のことで何を言っても薄っぺらなんだよ!俺には陛下がついてて下さる!御国のために一丸になって戦ってる一億の皇国臣民がついてる!忘れるなよ!俺は将来、帝国を背負って立つ男になるんだぞ!」と。
タクチカンは何でもすぐ忘れるくせに、このセリフだけはいつもきまって言う。
頭にくるジジイだ。
理想がなくて何が悪い!そう思いながらも、言い負かされて何も言えなくなる自分が悔しかった。
第七話 サクラちゃん、そして、タクチカン
夏休みは、残すところあと一週間になっていた。
病院→屋上→道場→家→病院→屋上という毎日。二学期早々に大会があるせいで空手の稽古もかなりきつい。
その朝、病室の朝ご飯が済んで、僕はおばあちゃんの食器を回収棚にしまっていた。その日は火曜で、空手の稽古は休みだ。僕のスケジュールをすべて把握しているタクチカンがすぐに僕を呼び出しにくる日だった。
今のうちに、とトイレに行って戻ってくるとタクチカンはギョロッと一瞬僕に目を向けただけで、こちらに来る様子がない。体の中心にまっすぐな棒が通っているような姿勢で本を読んでいる郁江さんの傍で大人しくしている。
体調でも悪いのだろうか?と手を拭きながら僕は思った。よかった、と・・・
「これでいい?お母さん?」
- 風鈴が、鳴った -
波田さんのベッドの周りに掛かっていた緑のカーテンを片手で引きながら、ひまわり色のタンクトップを着たサクラちゃんが僕の方へとまっすぐ歩いてくる。カーテンが開くにつれて窓から差し込む朝陽が徐々にサクラちゃんを照らし出していく。
僕がトイレに行っている、あの短い間にサクラちゃんが来ていた。〝運命〟を感じた。
挨拶しようと思って急いで濡れたタオルを脇に挟んで待った。
サクラちゃんがさらに近付いてくる。
「失礼します、園崎さん。」
サクラちゃんがおばあちゃんに向かってそう言った。僕は頭の中で最後の練習をした。意を決して、でもさりげなく、サクラちゃんに挨拶しようとした。と、そのとき、「サクラ、これ、皆さんにお配りして」ベッドに上がったトド、のような波田さんがしきりに髪をいじりながら、お菓子の箱をサクラちゃんに手渡した。サクラちゃんはまだカーテンを開け切っていないというのに・・・。僕の『おはよう、サクラちゃん』はまだ口に残っているのに・・・。
ああ・・・。
濡れたタオルを無性にたたんでいるとおばあちゃんに、「信二、それは干してて」と言われた。
お菓子を持ったサクラちゃんは最初に僕らのところに来た。
朝陽が後光のようにサクラちゃんを照らしている。
「はい、園崎さん」とサクラちゃんは言うと、にっこり笑ってお菓子を一個、おばあちゃんに手渡した。
サクラちゃんが笑うと増田さんと同じようにえくぼが出来ることを僕は初めて知った。サクラちゃんの右目が左目より少しだけ小さいことを知った。今度は増田さんのベッドへと向かうサクラちゃんを目で追うような未練がましい真似は、もちろんしなかった。代わりに学校の宿題に目を向ける。問題文の日本語の意味すらわからない、手付かずの問題がいくつかある。『ねぇ、サクラちゃん。ちょっとこれ教えてよ!』と、さらりと心で言ってみたりする。
サクラちゃんの靴の音・・・
「増田さん、どうぞ。」
優しい声だ・・・
そして、サクラちゃんはタクチカンの方へ・・・
「き、きさまぁっ!そ、そんな、かっ、格好してお国に対して、も、申し訳ないと思わんのかっ!」
突然の怒声が響いた。
どうしてアレは、ああなんだろう・・・
「まぁ、あなた。せっかくお菓子を持っていらしたのに失礼ですわよ。すいません、サクラさん。」
郁江さんがいつものように微笑みながら言った。
「いいんですよ、おばさん。」
サクラちゃんはやさしくそう言うと、波田さんのベッドへと帰ってきた。足取りにいささかの動揺もない。さすがサクラちゃん。そういえばサクラちゃんはどこか郁江さんに似ている。
「おいっ!信二っ!行くぞっ!」焦げニボシが怒鳴った。
「あら、信二君、お勉強中でしょう?よろしいのですか?」
ニボシをベッドから車椅子に乗せようと立ち上がりかけた僕に郁江さんが言った。
―その通りです。僕は宿題を、もしチャンスがあればサクラちゃんと一緒に出来るかもしれないと思ってやり始めたのです。それをあなたのニボシが邪魔しようとしているのです―
「そんなもん、俺が教えてやる!早くせんかっ!」
「あっ、はいっ!」
僕は出来るだけ急いでいるように見えるように、ゆっくりと行動した。
「じゃあ、信二君、宜しくね。」
「あ、は、あい。」
ニボシの入った車椅子を押して病室を出た。僕はふと、もう一生サクラちゃんに会えないんじゃないか、という予感がした。思い切って振り返ってみた。サクラちゃんが波田さんの湯呑を傾けて、お茶を注いでいる。僕は、・・・湯呑になりたかった。お茶でもいい。
廊下を抜け、エレベーター前に来たとき、「おいっ、きさまぁっ!勉強道具をもってきてないじゃないか!このばかっ!」とニボシに指摘された。ニボシをそこに置いて、僕は急ぎ足で病室に向かった。病室の入り口で湯飲みを持って出てくるサクラちゃんと危うくぶつかりそうになった。
「あ、ご、ごめんなさい!」
僕はとっさによけた。サクラちゃんは、まるで何事もなかったかのように、少しも変わらない歩調でゆっくりと去っていく。
病室で宿題一式を急いで鞄に詰め込み、僕はまたニボシの元へと急いだ。
「あんたさ、アレの奴隷?ばっかじゃないの!」そう小さく鳴った鈴の音が僕の耳にずっと響いていた。
「アバズレ」「バイコクド」「フタナシ」などなどなどなど、タクチカンのサクラちゃんへの悪口は止まることを知らなかった。額には血管が浮き上がり、血走った目であたりに唾を撒き散らしている。
汚いし、うるさい。もういい加減うんざりしてきた頃、タクチカンが、まるで電池でも切れたかのように突然止まった。僕はタクチカンの電池が本当に切れてしまったのではないかと心配して彼を見た。すると、タクチカンは空を見ている。彼につられて僕も空を見上げた。
きれいな空だった。
透き通っていて、宇宙まで見えるような薄い青。その広大な蒼白にぽかりと浮かぶ太陽。その太陽を捕えようと手を伸ばす巨大な積乱雲。
「・・・美しい。」
言ったのは僕ではない。タクチカンだ。タクチカンが、腐った金網のきしるような声で、聞こえるか聞こえないかギリギリの小声で、つぶやいたのだ。
「え?」
「何でもないっ!はやく宿題をみせろ、ばかっ!」
いったいなぜ、僕が怒鳴られるのだ?
タクチカンは僕から宿題のノートをひったくり、バサッ、バサッと苛立たしげにページをめくった。問題を読むとか、僕の解答をチェックするとかいうスピードではない。僕のノートにただ何かをぶつけているだけだ。ため息が出そうだった。
「はぁ・・・」
ため息をついたのはタクチカンの方だった。
「きさま、航空なんてやめとけやめとけ。こんな初歩の数理でつまづいててどうやってリキガクやるつもりだ?え?」
メザシが、哀れむような目で僕を見ながら言った。
ため息はこっちの方だ!と、僕が思ったとき、
「大問の三、丸三の二以下三問撃沈。大問の五、全滅。まぁ、大問の六以降の文章題では途中式は出来てる。でも過程の計算間違いで全滅。」
哀れむような視線はそのまま、タクチカンは指でノートをコツコツと叩きながら言った。
言葉が出ない、という言葉がある。僕は息も出ない。
「ほら、今から一つ一つ解き方を教えてやるから計算用の紙を出せ。」
タクチカンの講義はそれからたっぷり三時間続いた。図形の面積、立体図形の体積、表面積、速さや道のりに関する問題、などなど・・・。
タクチカンがさらさらと問題を解いていき、僕が必死でそれを理解しようとついていく。タクチカンの解答の中でどうしても理解できず(まあそれがほとんどだったけど・・・)、質問すると、タクチカンはちゃんと答えてくれる。ただ、ため息と、あの、僕を哀れむような目が付いてくるけど・・・。
タクチカンには、異常なほど計算が早い、という特技があった。僕が二桁の掛け算を筆算し、答えを出すのに一分はかかるところを、タクチカンは問題を見て、なにやら指を上下にパチパチ動かしてたかと思うと、三秒くらいで答えをだしてしまう。まるで見えない計算機を使っているようだった。
「そ、それ、計算機使ってるみたいだね。」
僕が誉めると、「ばかっ。ケサキン?なんだそれ。ただのソロバンだよ」と彼は答えた。
ソロバン?
夢中で問題に取り組んでいた僕がふと見ると、タクチカンがつまらなさそうに下界を眺めている。
癪にさわるけどそのつまらなさそうな様子がちょっとカッコよかったりした。
僕のタクチカンへの尊敬の念が続いたのはそれから二十七時間、翌日の午後三時までだった。
その日は回診日で、僕らの病室にはいつものように美濃先生が来ていた。
いつもと違うのは、美濃先生は一人ではなく、後ろに九人の‟おっさんを従えていることだった。(そのお医者さんたちの「眼鏡率」が九割五分、「肥満率」が八割七分、という計算がすぐ頭の中で出来たのはタクチカンのおかげだ。「額の広さと顔の広さがニ対一率」などという複雑な計算も、やろうと思えばすぐにできた)
こんなにお医者さんがそろっているのに、おばあちゃん、波田さん、増田さんを診るのは美濃先生一人だけだ。他のお医者さんたちは何もせず、黙ってぶすっと美濃先生の後ろに立ってるだけ。罰ゲームでも受けてるように見える。
その九人のお医者さんが一斉に口を開いたのは、タクチカンのベッドに来たときだった。
― チホウのイッシュだとは思われるのですが・・・ ―
― トウショのショケンによりますと・・・ ―
― ・・・ケンボーの度合いもまた同時にかなり進んで・・・ ―
― ジュウダイゼンハンのキオクだけイジされているという・・・ ―
― シーティーの結果に問題はありませんでした・・・ ―
― ・・・をケイキとしまして・・・ ―
― ・・・の恐れは確かにありますが・・・ ―
― コウドウショウガイ等は見られなく・・・ ―
そのときの、お医者さんに囲まれたタクチカンの哀れな様子を思い出すと今でもお腹が痛くなるほど笑える。
ひきつって、青黒くなった顔。落ち着きなく動くギョロ目。でも絶対にお医者さんの顔を見ない(見れない)。普段は自分があんな大声で喋るくせに、お医者さん達の声がちょっとでも大きくなるとビクッと首をすくめている。落ち着き無く動く指がしきりに腿に何か書いている。
いったい何を、腿に書いているのだ!タクチカン!
デジカメを持ってないことが本当に残念だった。
第八話 夏の終わり
とうとう学校が始まってしまった。
朝、教室にカバンを置き、体育館での始業式を終え、教室に戻ってくるとカバンの中身が消えていた。朝、何度も点検したのだ。そこには、タクチカンに助けられた宿題が全部入っていた。
こういうとき僕は、動揺して辺りを探し回る、という愚かなことはしない。それがあいつらの目的なのだから。だから僕は、ただカバンを開けて、そして閉めただけだ。軽くなったカバンを机の横にあるカバン掛けに掛けておいて、先生が来るまで黙ってまっすぐ前を見て座ってる。こういうとき、耳だけは敏感だから、誰と誰がクスクス笑ってるのかよく分かる。
一時間目は国語だった。二時間目は算数。三時間目は社会。四時間目は理科・・・。結局、宿題を一つも出さなかったのは僕だけだ。
背は低いけど、ほっぺたに大きな傷があって、目がキュゥッと細くて、眉毛の薄い、担任の畑中先生は、見た目はヤクザで、中身もヤクザだ。畑中先生は生徒を決してどなりつけたりなんかしない。ただ眉間にシワを寄せて「あ?」というだけだ。それがとっても怖い。
四時間目の終わり、僕は皆の前でこの「あ?」をされた。これまでのどの「あ?」よりも恐ろしくて、クラス中がピンッと静まり返っている。しばらく僕の目を抉り取るように見ていた畑中先生はぼそりと、僕だけに聞こえるように、「お前が何されたかは大体わかっとる。ワシに任しとけ。とりあえずお前はもう一回宿題やりなおせや。ええな?」
いや、関西弁ではなかったけど・・・。
「なにぃっ!きさまっ、それで、黙ってたのか!」
タクチカンのガラガラ声が辺りに響いた。夕方の屋上には僕らのほかに誰も居ない。もうそろそろお夕飯だ。何か甘く焦げたようないい匂いが病院の食堂からする。今日は煮魚かな?
「きさまの味方は誰もいないのかっ!」
「あ、あの、えぇ~っと・・・」
転校してきた僕に、最初の三ヶ月だけ普通に話をしてくれていた小野寺さんを思い出した。やさしい彼女は亮たちに、「おまえ、空気読めよな、小野寺!」と言われてからは結局、〝向こう側の人〟となった。そういえば学校で、先生以外の誰かと最後に話したのはいつだったっけ?
タクチカンがじっと僕を見ている。
僕はじっと地面を見ている。
僕はみんなにバカにされる。バカにされないように何をしても無駄だった。愛想笑いをしたこともある。おべっかを使ってみたこともある。でも、どんな方法もやつらの一番面白い遊び ―僕が本当に困る姿を見ること― を止めることはできなかった。
底なし沼は、もがけばもがくほど沈んでいく。だから僕はもがくことを止めた。今はただ、時間が過ぎ去ってくれるのを待っている。大丈夫、この苦しさだってずっとは続かない。いつかは終わるものだということを、僕は知っている。学校は明日もあさっても、あさっての明日もある。あと何年もある。でも大丈夫。いつか終わる日が来る・・・
クーラーの換気扇の音が耳元でフォンフォン鳴っている。
「この戦争が終わって・・・」
しばらく僕を睨んでいたタクチカンは僕から目を逸らすと、真っ赤な空に目を向けながら言った。ガラガラと静かな声だ。
「もし生きてたら・・・、もしまだ生きてたら、・・・俺は西欧に行くつもりだ。腹の立つことだけど、世界の歴史は西欧の歴史だ。科学も文学も服装も、そして戦争のやり方も、だ。なぜだ?あいつらと俺たちと、いったい何が違う?俺はそれが知りたい。それが分かれば、・・・それを分かる日本人が一人でも多くなれば、日本はきっと世界を引っ張っていける。だから西欧の国を一つ一つ徹底的にまわってやるつもりだ。・・・お前は俺についてこい。」
タクチカンは、真っ赤な空を見上げている。
風が吹いた。
その風の中に、もう夏の熱はこもってなかった。
もうすぐ秋だった。
第九話 ラブレター
空手の大会がちょうど一週間後に迫っていた。
その日曜日、サクラちゃんが病室にいた。真紫色の変なシャツを着ていたけど、その可愛らしさは少しも減ってない。
そのサクラちゃんがさっきから波田さんに向かって、二学期の新しい出来事を次から次へと話している。普段おしゃべりな波田さんが、うんうんとうなずきながらサクラちゃんを、時々口を挟みながら聞いている。口が言葉に追いつかない、とでもいった様子で次から次へと話題を変えているサクラちゃんの様子が実に可愛らしい。
僕は、いつ波田さんから話を振られてもいいように二人の話題の移り変わりに注意しながら、おばあちゃんの横で本を読んでいた。でも、波田さんは気付かない。
タクチカンはサクラちゃんが来るとすぐにカーテンを閉めてしまった。相変わらず大人気ない・・・。
おばあちゃんは寝てる。増田さんはかなり前からぼんやりと外を眺めて身動きもしない。きっと寝ているのだと思う。目は開いてるけど。
「あ、そういえば参観日があるの。お母さん来れる?」
「当たり前でしょ。いつ?」
「十月十三日。」
「あと一ヶ月近くもあるじゃない。ギプスもその時までにはきっと取れてるわね。」
そういえば、僕も参観日の知らせを学校からもらっていた。どうせお母さんは来れないから捨てたけど。
・・・僕にもいつか、僕自身の子供の参観日に行く日が来るんだろうか?あ、でも普通は母親が行くものだ・・・。とすると、サクラちゃんが・・・。
「おいっ、信二っ!行くぞ!」
いつの間にかタクチカンのカーテンが開かれており、ベッドの上のタクチカンは何だか怒ったような顔で(いつものことだけど)ベッドの上からわめいた。郁江さんが「信二君、宜しくお願いします」と言っていつものように頭を下げた。
あれ?と僕は思った。郁江さんの様子がなんとなく普段と違ってるような・・・。なんだろう?と考える間もなく、「早くせんかっ!」とタクチカンに怒鳴られた。
周りの人達はもうタクチカンの怒鳴り声には慣れてしまって見向きもしない。もしかしたら、とちょっとした期待をもってサクラちゃんをそっと見たけど、その真っ黒な瞳は波田さんだけしか見ていない。
なんて素直で、真っ直ぐで、そして美しい目だろう!
タクチカンにため息を気付かれないようにして僕は彼の元に行き、いつものように彼の体を抱き上げて車椅子に乗せ、屋上へと向かった。
屋上に行くまでのあいだ、タクチカンは珍しく無口だった。屋上に着いてからも文句がない、喋らない。
歌うわけでもなく、下界を食い入るように見るわけでもない。時々、頭上の真っ青な空を見上げては、頭を落として息を吐いている。何かの健康法だろうか?
「あ、あの・・・」
たまらなくなって声を掛けた僕をタクチカンはギロッと見ると、何も言わずに、また無言でその健康法を繰り返している。
僕は不意に思いついた。もしかしてこれは〝ため息〟なのではなかろうか?
「あ、あの、・・・何か、あったんですか?」
「・・・はあ」
ああ、やっぱりそうだった。ため息だった。喉元まで出掛かっていてどうしても思い出せないものをやっと思い出したとき、のように僕はすっきりした。
「おい・・・」
タクチカンの声が低い。
「あ、は、はい?」
またしばらくのため息。そしてタクチカンはシワシワの顔を右手でひとなでしてから、ようやく決心したように言った。
「俺、波田に恋文を出す!」
・・・波田さんに、
ラブレター?
「だからぁ!」よほど要領を得ない顔を僕がしていたのだろう。タクチカンは怒鳴りつけるように言った。「付け文しようってんだよ!」
ツケブミ?
もっと分からん。遺書のことか?
言い切ったタクチカンが、ギョロリと太陽を見ている。いくら日差しが弱くなったとはいえ、太陽は太陽だ。彼はそれを、まぶしくもなさそうにまっすぐ見ている。
「戦争に行ったら俺は死ぬかもしれん。いや、おそらく、・・・死ぬ。」
・・・この前の話と違う。
「だから、その、・・・死ぬ前に、だな、その、お、女の体を知っときたい。」
多分、タクチカンの顔は真っ赤になっていたと思う。漆黒だからわからない。
「か、体を知る?」
「そ、そうだよ!そ、その、なんだ・・・。つまりは波田と一緒にだな、お互いの体を・・・知るってことだ!」
は?
「あ、あのさ、波田さんに『お互いの体を知ろう』って頼むってこと?」
「こ、こ、このばかっ!そ、そんなこと!かっ、書けるわけないだろがっ!」
タクチカンは怒鳴ったけどいつもの勢いがない。
「だからそうはっきりとは、うん、・・・書かないほうが、いい・・・、はずだ・・・。」
・・・つまり、タクチカンは波田さんの、あの巨体の、裸を見たいってこと?・・・見てどうするんだ?
「あ、あの・・・。それなら波田さんに直接頼めば・・・」
波田さんなら大声で笑いながら裸を見せてくれると思う。
「ばかっ!それができたら最初から・・・ゴ、ゴホッ・・・そ、それじゃあ、じ、情緒がっ!情緒がぁねぇだろうがっ!」
さっきの郁江さんの、怒ったような、困ったような顔が頭に浮かんだ。
「で、でも、郁江さんに、その・・・」
「母さんはかんけぇねぇだろ!」
「いいのかなぁ・・・。」
「いいさ。もうガキじゃねぇんだから!」
それならもう言うことはない。どうせ、「がんばってね」とでも言うとまた怒鳴られるだけだろう。
僕は黙っていた。タクチカンもまた、黙って太陽を見ている。
雲ひとつない、気持ちよく晴れた日だった。
学校がないのがいい。
暑くなくなったのもいい。
久しぶりに、伸びでもしたいようなのんびりとした気持ちになっていた。あんまり陽が暖かいので僕は目を閉じた。そして目を閉じた瞬間、僕はハッと気付いた。
タクチカンの言う『波田』って、もしかして、・・・サクラ、ちゃん?
「あ、あの、波田さんって、あの、もしかしてサクラちゃんの、こと?」
「当たり前だ。他に誰がいる・・・。」
頭がクラクラした。気持ちが悪くなった。必死で目を閉じても世界はグルグル回っている。
「うん、よしっ!こうするっ!」
タクチカンが叫んだ。
「な、なに?」
「きさまも書けっ!で、二人の文のだな、最大公約をとる!明日までに書いてこい!」
要は、自分だけ書くと恥ずかしいから、僕にも書かせようってことだ。
僕は、動揺していた。
・・・認めなくなかった。
僕の初恋のライバルは、どこかの国の王子様とか長身長足でカッコイイお金持ちとか、そういうものであるべきだった。
それが、・・・この目の前の黒色の物体が、コレが僕の初恋のライバルで、コレに僕は嫉妬している。
事実は事実だ。認めなければ・・・
なんだか心臓も痛い。
翌日の夕方、屋上で僕らはお互いの「付け文」を見せ合った。徹夜して頭がぼぉっとしているところを植村さんの蹴りがきっちりみぞおちに入って死ぬ思いをした、二時間ほど後のことだ。
「まず、お前のからだ。」
僕の「付け文」↓
はじめまして。園崎信二といいます。
同じびょうしつの園崎静代のまごです。
お母さんは園崎香代子といいます。
僕は一人っ子です。兄姉妹弟妹はいません。
しゅ味は空手です。でも、自転車には乗れません。
好きなものが三つあります。
二番目に好きなのはやきそばです。理科も好きです。自転車には乗れませんが、乗っている人を見るのお三番目に好きです。
でも
一番好きなのは
サクラさんです。
園崎信二
「お前、一年からやり直せ!いや、生まれ直せ!」
そう言ったタクチカンの、数十枚の「付け文」。長いので省略しておく。↓
拝啓
残暑今ナヲ厳シク、蒼空ニ浮カブ白 点ニ間断ナク汗流シツツモ、筆ヲトルニ不思議ト身ニ冷水アビタル如ク感ジ居リ候、己ガ身トノ感ジセザルモマタ不思議ナコトト思ワレ候。
戦況壱百、弐百転ノノチ、対欧米列強ノ聖戦、最早佳境モ近ヅキ、帝国ノ絶対ノ勝利ヲ確信スル念、昨今マスマス強マルコト岩ノ如シ・・・
(中略)
モツタイナクモコノ身、陛下ニ奉ゲアゲ奉リ、一日ヲ千秋ノ如ク感ジヲリ・・・
(中略)
・・・ト、コノヤウニ大本営ヨリノ呼出、心願致シヲリ候。
(中略)
大日本帝国海軍志願予備兵
多口完
「どうだ!」
タクチカンは誇らしげにそう言うと、まるで、僕が触ってると穢れる、とでも言いたげに僕の手から手紙の束をひったくり、丁寧にそれを折り直すと、アバラの透けた胸元に大切そうに仕舞い込んだ。
「・・・う、うん。あの、・・・カタカナ多いね。」
「当たり前だ!男がひらがななんて使えるかっ!」
タクチカンが上機嫌で怒鳴った。
それが三日前の日曜日。
どうやらタクチカンはあの手紙を本当にサクラちゃんに渡してしまったらしい。
タクチカンの口からそれを聞いたとき、僕はまた心臓が痛くなった。気分もそれ以来ずっと悪かった・・・昨日までは。
今日も病室にサクラちゃんが居る。相変わらず可愛く笑ったり、お話したりしている。
ああ、なんて可愛いんだろう・・・
タクチカンも居る。こちらは哀れなほど落ち込んでいる。
僕の心臓をあれほど責めさいなんでいた苦しみは昨日、ある看護士さんの話を聞いた瞬間にさっぱりと抜け落ち、今はまるで晴れ渡った秋の青空のように気持ちよい。
その看護士さん、昨日、廊下を歩いていて紙くずで溢れかえったゴミ箱を発見したそうだ。で、(まったく)と彼は思い、(しょうがない)と決心して、そのゴミを片付けようとゴミ箱に近づいた。そしてその紙くずの一番上、開いたまま捨てられていた一枚を読んでみた。そしたら俄然興味を惹かれた。
一枚からもう一枚、さらにもう一枚、と読んでいるうちに、結局、彼はその場でタクチカンの書いたラブレター、全数十ページ全てを読み上げてしまったという。読み終わった彼は、手紙の最後にあった署名の主に親切にも届けてあげた・・・
―あれはねぇ、候文といってね。今、あんなの書ける人は滅多にいないんだよ。さすが田口さんだね。捨てるにはもったいないからさぁ、俺がもらおうと思って田口さんに断りに行ったんだけど、田口さん、すごい顔してその手紙持ってっちゃったんだよ―
残念そうにそう言うと、その看護士はスタスタと歩いて行ってしまった。
タクチカンは昨日から絶食している。心配した看護士さんやお医者さん達から質問責めにされても、「なんでもない」「なんでもない」と言って逃げ回っている。でも、そうやって秘密を守ろうとすればするほど、必死で逃げ回れば逃げ回るほど、可哀想に、事は大きくなっていく。
今もまた、タクチカンは不必要に採血されている。針の大嫌いな彼は、ギュッと目を閉じて耐えている。
泣いてるかもしれない。
僕は腹筋が痛い。気を緩めるとまた、笑いが爆発しそうで大変である。
ああ、今日もさわやかな秋空だ。
第十話 試合
タクチカンがようやく、屋上まで行けるほど元気が出たのはそれから二日も経ってからのことだった。
日差しが強く、風のある日だった。
この炎天下、屋上にはさすがに誰もいない。夏休みですっかり長くなってしまった僕の髪が、風に煽られて顔を叩く。うるさくてしょうがない。
しょっちゅう風向きに合わせて顔の向きを変える僕を、不思議な生き物でも観察するように見ていたタクチカンが口を開いた。
「おい、きさまの空手の大会ってあさってだったよな?」
あの渦中によく覚えていたもんだ。
「あ、はい。」
「どうだ?勝てそうなのか?」
「あ、う~ん・・・。わ、分かりません。」
「ばかっ!こんなときは嘘でもいいから勝つって言うんだよ!」
そう言ってタクチカンはしばらく夢中になって鼻をほじっていたけど、突然その手を止めて空を見た。そして、「よしっ!俺が応援に行ってやる!」と宣言した。
「ええっ!い、いや、いいよ!」
「いやっ、行く!」
「で、でも、あの、い、郁江さんが・・・」
「うん。母さんには・・・黙って、行く。」
「だ、駄目ですよっ!」
「う、うるさいっ!俺が行くって言ったら行くんだよ!」
このまま興奮させていたら本当に天国に行ってしまいそうな勢いだった。
「ん?なんか暗いな。ひと雨来るかも知らん。病室に戻ろう。」
暗い?ひと雨?
照りつける太陽がまわりを白く浮かび上がらせて眩しいくらいで、空には雲ひとつない。何を言っているのだ?
それにしても、このジジイを止められるのは郁江さんだけだ。僕はジジイの車椅子を押して病室に戻りながら、郁江さんに密告することを決心していた。
僕は、甘かった。
郁江さんに言う隙なんていくらでもあるだろう、と思っていた。郁江さんがトイレに立つ時、ちょっと病室を出る時、そしてタクチカンがトイレやシャワーに出ている間・・・チャンスはいくらでもある、と思い、油断していた。
そのチャンスのことごとくが、タクチカンによって潰された。
ジジイの勘で何かを察したのか、その日以来、彼は僕の傍を一秒も離れない。僕がトイレから出てくるとそこに居る。シャワーを浴びて出てくると、居る。そして、自分がどこかへ行くときには必ずあの巨大なだみ声で僕を呼ぶ・・・ウザイことこの上ない。そのうち僕は、夢の中でもタクチカンの声を聞くほどになった。立派なノイゼローだ。
大会当日、になってしまった。
タクチカンはいつものように大威張りで僕に車椅子を押させて病室を出た。そのまま僕らは急いでエレベーターに乗り、一階まで行き、病院を抜け出した。
僕はもう、どうにでもなれって気持ちだった。
大会会場に向かうタクシーの中、タクチカンは車の窓に、まるで顔を埋め込むようにして外を見ていた。「暗くてよく見えん!」と怒鳴ったときには運転手もビクッと驚いていたけど、それからは一言も言わなかったのが有り難かった。ただ、大会会場に着く寸前、「・・・」とぼそっと何かつぶやいたような気がしたけど、何と言ってたのかは分からない。
師範に事情を話すと(といっても反対されるようなことは全部はぶいたけど)、タクチカンは演武場のすぐ正面に設置されている役員席の傍に居ることが許された。
「さ、叫んだりしちゃ駄目ですよ!」
僕は何度もタクチカンに言ったけど、聞いているのかいないのか、タクチカンはいつものギョロ目を半分にしてぼんやりしている。なんだか怖くなってその薄い肩をちょっと揺すると、突然目をかっと開いて僕を見ながら「お前、負けたら切腹だぞ」とぼそりと言った。
開会式が始まった。
場内にはおそろしいくらいに人がいた。クーラーを使ってはいるんだろうけどまったく役立ってない。じっとしてるだけで汗が出てくるくらい蒸し暑い。僕は開会式が終わるとすぐ、近くの自販機でアクエリアスを二本買った。一本をタクチカンに渡しながら、他の選手の試合を見た。
みんな、すごい。
強い。
突きも蹴りも、速いし、重そうだ。
僕は必死で僕より弱そうな選手を見つけようとしたけどダメだ。みんな明らかに僕より強く見える・・・いや、実際に強いんだろう。膝がフフフと笑う。
僕と対戦する相手が反対側に見えた。大きい。僕の三倍くらいはある。色が黒いうえ、頭を剃ってる。頭を剃ってるから眉毛が濃く見える。目が据わっている。少年院にいっぱいいそうだ・・・
と、その時・・・
ゴトン、と横で音がした。見るとタクチカンがジュースを落としている。僕が拾って手渡したら「ありがとう」と言われた。一瞬何が起こったのか分からなかった。気がついたら体の毛が全部突き立った。相手の少年院より、お礼を言うタクチカンの方が百倍怖い。
「じ、じゃあ、次僕の番だから行きますね。」
そう言って演武場に向かおうとしたとき、タクチカンが僕の手を掴んだ。
「負けたら切腹だぞ・・・」
ギョロリと僕を見て言った。試合場の光の加減かタクチカンの目が真っ白く光っている。
「わ、分かってます・・・」
「両者、前へ!」
審判の合図で演武場に出た。
少年院も出てきた。
僕より背が高い。高いけど、それはほんのニ、三センチくらいの違いだった。大丈夫、大丈夫、と頭が体に繰り返し告げている。でも、体の震えが止まらない。
「はじめっ!」
審判が叫んで試合が始まった。
少年院がいきなりワンツーから下段蹴りをうってきた。何度も何度も練習したんだろう。技の一つ一つが丁寧で、重い。その蹴りをなんとか受けきって、がら空きになったハゲを狙って上段の蹴りをうった。
それがあっさり、かわされた。
少年院の師範らしき人が必死の形相で何か叫んでいる。僕の師範も何か叫んでいる。少年院の師範の声も、僕の師範の声も良く聞こえる。聞こえるけど、何を言っているのか理解ができない。
また少年院が仕掛けてきた。同じパターンでくると思った次の瞬間、ガツンと頭に衝撃が走った。ピィーと笛が鳴って僕らは二つに分けられた。「技あり!」審判が言った。
取られた!
もう一つ取られると、負ける。
気持ちがあせる。あせるけどどうしようもない。リズムに乗っている少年院の攻撃が激しすぎて、防ぐので精一杯だ。腹に、頭に、足に、少年院の攻撃を何度も受けた。攻撃を受ける度にちくしょう!と思った。そしてふと、『ちくしょう!』と思う自分に(あれ?)と思った。僕は今、勝ちたい、と思っている・・・。変な気持ちだった。
これまで、師範と道場生以外に僕の試合を見られたことはない。お母さんは、息子が殴られるのを見たくないと言って決して試合には来なかった。
だから僕はいつも一人だった。
勝っても負けても一人だった。勝っても負けても納得してた。だから僕は、『負けたくない』と思ったことはあっても、『勝ちたい』なんて思ったことはなかった。でも今の僕は、(勝ちたい)と考えている。タクチカンがまたちらりと視界の端に映った。
変な気持ちだ・・・
少年院がまた前に出てきた。こいつは突きと蹴りのコンビネーションが本当にうまい。あっ、また来た、と思ったとき、僕の前蹴りが真っ直ぐに少年院のみぞおちに入った。足先にぐにゃりとした感覚があって、少年院が床に倒れた。
「一本っ!」
審判は旗を上げると急いで少年院の様子を見に駆け寄った。少年院は苦しそうにのたうちまわっている。可哀そうだけどしょうがない。僕は自分の立ち位置に戻って、正座をしながら待っていた。
防具まで脱がされた少年院はようやく落ち着いたようで、ふらふらしながらも自力で立っている。それがちょっと残念だった。
「勝者っ!園崎信二っ!」
お腹を押さえている少年院に礼をしながら、ちらっとタクチカンを見た。タクチカンが、ニヤニヤ笑っている。・・・気持ち悪い。
次の試合も僕は勝った。その次も、そのまた次も・・・。
師範が来た。そして、僕の肩をドコッと叩いて言った。
「決勝だ!」
決勝・・・。勝てば優勝・・・。
自分が嬉しいのか、嬉しくないのかも、もう分からない。気を抜くと気が遠くなりそうになる。
体が熱い。殴られたところ、蹴られたところが、火を噴いてる。足も手もパンパンに腫れ上がっている。
「はい、これ・・・」
準決勝の試合が終わって師範からマッサージを受けたあと、タクチカンの傍に行くと、またアクエリアスを床に落としていた。拾ってそれを渡そうとすると、「もういらん」と言い、「それより・・・、お前、勝ったんだろうな?」と聞いてきた。
「あ、はい。勝ちました。次は、決勝らしいです。」
「そうか・・・。そうか。」
見てなかったのか?居眠りでもしていたんだろう・・・
―それでは決勝戦を始めます―
まるでプロの試合のようにアナウンスが流れた。
「両者前へっ!」
審判の声に、僕は前に出た。相手は・・・牛だ。いや、成牛ほど大きくはない。〝青年牛〟といったところか・・・。
お互いに礼をかわして向き合った。牛の左のほっぺたには小さなニキビが二つある。髭がうっすらと生えてる。声も体も太い。・・・本当に小学生だろうか?首はどこにあるんだろう?
頭の中で作戦を立てようとしたけど、轟々鳴っててダメだった。
「始めっ!」と合図があって、その合図と同時に「うやあぁぁっ!」と牛が来た。中段の回し蹴り。速くない。それを外にかき出して、同時に突きを頭と脇に一発ずつ、それからつなげて上段蹴り、と思ったら体が飛んだ。
「やめっ!両者中央に!」
僕は場外に居た。わけが分からない。いや、分かってる。牛の蹴りで飛ばされたんだ。
「おい、園崎!速くないぞ!さばいてワンツー入れろ!」
師範の声がワンワンと頭の中を回る。
「はじめぃっ!」
牛が来て、また同じ蹴りがきた。なんとか体を変えて、よけた。手を使ったら折れそうだ。
「ふぇいっ!」
牛の前足がとんできた。また僕は場外に飛んだ。「おい、よけるんだ!」と叫ぶ師範の声の後ろに、僕は笑い声を聞いた。みんな、僕がポンポン飛ばされるのが面白くて笑っていた。牛もニヤニヤ笑っている。
「両者、中央にっ!」
また場外に飛ばされた。
「まてっ!」
「両者、中央にっ!」
また場外だ。
観客が笑っている。
ぼくの体が、だんだん強張っていくのが分かる。頭の中が真っ白になって、もう師範の声も聞こえない。ブーンといううなりのような音が耳の奥で鳴っている。
体から力が抜けていく感覚。いつもの、亮たちにやられるときの感覚。もうこうなるとどうしようもなかった。負けるとか、勝つとか、・・・どうでもよかった。僕は、場外に飛ばされる度に笑われ、笑われるために審判に呼ばれているようなものだった。牛も審判も観客も、みんなグルだ。
こういう雰囲気が出来上がってしまうともうどうしようもない。とにかく終わりまで、耐えなければ・・・。
「はじ・・・」審判の声が妙にゆっくりで、「・・・めぇいっ!」意地悪い。
もう何回、牛に飛ばされたんだろう?
よく分からなくなっていた。まわりも、もう笑わない。飽きたんだ。
もうこれで終わりにしようと思った。僕の体はもうこれ以上動かないし、その気もないし。僕の役はもうすんだ・・・。
そのとき、
「信二っ!このばかっ!」
誰かが叫んだ。
タクチカンだった。
怒鳴るなって言ったのに・・・。
牛がまた迫ってきていた。
「勝てぇっ!勝たんと・・・」僕を断ち切るような声だった。
「・・・切腹だぞ!」
セップク?・・・
しらけ切っていた場内が一瞬静まり、次の瞬間、どぉっと笑いの波が跳ね上がった。
ハハハハ
ワハハハハ
ホホホホホ・・・
―切腹だって・・・―
―せっぷく・・・―
―セップク・・・―
場内、割れんばかりだ。
・・・ブチッと僕の中で音がした。
巨大なものが僕のお腹の底から膨れ上がってきた。一瞬、目の前が真っ白になって、それが爆発した。
お前ら!
お前ら!
お前らっ!
群れるだけの
お前らっ!
クソ笑いのお前らっ!
タクチカンを笑う
お前らっ!
僕の相手はもう牛ではなかった。この世界だ。僕を、タクチカンを、あざ笑う世界が僕の相手だった。
その突きも、蹴りも、何もかも重いし、痛い。でも、耐えられないほどじゃない。僕はもっとひどい痛みを知っている。
お前らっ!
僕の蹴りが牛に入った。牛が顔をゆがめている。こんなもんじゃない!こんな痛さで顔をゆがめるな!
お前らっ!
僕は突いた。
蹴った。
また突いた。
蹴った。蹴った。突いた。蹴った。突いた。突いた。
全部牛の体に叩き込んだ。
「や、やめえぃっ!やめいっ!こらっ!やめんかっ!」
審判が僕を止めた。僕の前に牛が倒れていた。牛の師範が、牛の仲間達が、何か叫びながら牛のもとに駆け寄っている。
僕はじっとしていられなかった。まだまだ動けた。まだ思いっきり牛を殴ってはいなかった。ドコドコ溢れ出てくるこの何かを搾り出し尽くしてはいなかった。
どうだっ!っと思ってジジイを見た。
・・・まったく
タクチカンが、半目で静かに座っていた。
喧騒も何もかも僕から遠くなっていった。
タクチカンが、静かに座っていた・・・
第十一話 季節の変わり目
おばあちゃんの退院の日が決まった。十一月三日。たまたまおばあちゃんの誕生日でもある。
タクチカンの居たベッドにはもう新しい人が入ってきていた。中学校の先生で、新井さんといった。なんだかとってもやさしそうな人で、僕の担任のヤクザと代わって欲しかった。
波田さんの居たベッドはまだ空のままだ。
その波田さんが病室に遊びに来ていた。サクラちゃんと一緒だ。
退院してまだ二週間にもならないというのに、「なぁつかしぃわぁ!」を連発している。
「あら、じゃあ、園崎さんも退院決まったのねっ!よかったわねぇ、信二君!」
鼓膜を突き破るようなその声が懐かしい。
「あら、そうだったんですね、おめでとうございます!」
向かいの新井さんがニコニコしながら言った。
「ほんと、よかったわねぇ、信二君。」
増田さんがにっこり笑った。久しぶりの増田さんの笑顔だった。
増田さんは、波田さんの退院する日の夜中、突然何かを叫びながら、病室を裸足のままで飛び出した。看護士さん四人、そして僕が増田さんを追いかけて病院中を走り回った。ガランとした暗い待合室で、ぐったりしている増田さんを見つけたのは僕だった。増田さんの顔はいつものぼんやりとしたものに戻っていたけど、「・・・コウちゃん、コウちゃん、コウちゃん」とぶつぶつ呟くのを止めなかった。病室に戻って、駆けつけた美濃先生が注射すると、しばらくして増田さんは眠ったようだった。
「信二君、すまなかったね。」
そのとき美濃先生が暗い病室を出掛けに僕にささやいて行った。
おばあちゃんは何も気付かず寝ていた。新井さんは多分気付いていたと思うけど静かだった。そして退院を翌日に控えていた波田さんが、声を出さずに泣いていた。
朝、増田さんはいつもとまったく変わりなく、ぼぉっとしていた。誰も昨夜のことには触れなかった。息子さん二人と退院の準備に忙しかった波田さんが、病室を出がけに増田さんのベッドに寄った。増田さんがにっこり笑って、「さよなら」と言った。波田さんは顔をくしゃくしゃにして、何にも言わずに退院していった。
増田さんが笑うと、やっぱり女の子のようだ、と僕は思った。
波田さんが喋ると、増田さんはよく笑う。あらためて気付いた。
波田さんとサクラちゃんは、それから二時間くらい居て、帰っていった。
波田さんは、居ればうるさいけど、居なくなると寂しい。波田さんの居なくなった病室ではもう誰も喋らないし、笑わない。
僕はおばあちゃんの横でサクラちゃんの余韻に浸っていた。サクラちゃんはやっぱり可愛い。サクラちゃん、今日は髪を下ろしていた。サクラちゃんが笑うたびにその髪がサラサラと揺れていた。
波田さんは今日、帰り際「信二君、いつでも家に遊びにおいで」と言って、家までの道順を教えてくれた。
僕は、冬休みまでに波田さん家に行かなければならない。来年の春までにサクラちゃんの部屋を見なければならない。そして来年の夏には、サクラちゃんと一緒に花火を見に行かなければならない。
結婚の話は、それからだ。
波田さんがやって来て数日経った日曜日、郁江さんが病室にやって来た。やさしそうな笑顔とピンと張った氷ガラスのような雰囲気は三週間前と少しも変わらない。郁江さんは寝ているおばあちゃんに遠慮して、僕に向かって静かに頭を下げると、まっすぐ増田さんのベッドに行った。
持ってきた蜜柑を増田さんのために剥きながら、「お寒くなりましたわね」「ほんとに」とか、二人でニコニコと話し始めた。
僕はすることもないので、郁江さんと増田さんが話し終わるのを本を読みながら待っていた。字を追っても何が書かれているのかまるで分からない。同じページを何度も何度も読み返したりしていた。
とうとう郁江さんが立ち上がった。「お元気で」と郁江さんが言うと、増田さんもにっこり微笑みながら「お元気で」と言った。
僕は顔だけ本に向けていた。
郁江さんがやって来て、僕から少し離れたところに立ち止まった。
「信二君、ちょっといいですか?」
郁江さんは小声でそう言うと、先に病室を出ていった。
こんないい天気なのに、屋上には誰もいなかった。
空には雲ひとつない。
真っ青に晴れ渡った秋の空に、太陽だけがぽっかりと浮かんでいる。
「ここはいつも暖かいですわね。」
それだけ言って、郁江さんは目を閉じた。
郁江さんの言うとおり、陽の光は暖かく、柔らかかった。ほんの一と月前にはあんなにギラギラと殺気立っていたのに・・・
目を閉じたまま郁江さんは、顔を、まるで光の中にうずめるようにして、少し持ち上げた。郁江さんの真っ白な横顔が、少しずつ陽に溶け出して消えていってしまいそうだった。
そういえば、こんな近くで郁江さんの顔を見たことはなかった。
「あの人とはいつも、こちらにいらしてたんでしたわね。」
郁江さんはゆっくり目を開けると、まっすぐ僕を見ながらそう言った。
「いろいろありましたが、ようやく落ち着いてご挨拶ができるようになりました。・・・遅くなりましたけど、信二君にはあの人の生前中、本当にお世話をおかけいたしました。」
郁江さんが僕に向かって深々と頭を下げた。
「あ、あの、いえ、・・・」
謝らなければいけないのは僕の方だった。連れて行くな、と言われていた外界にタクチカンを連れ出し、そして結局、郁江さんからタクチカンを一生奪うことになったのだ。謝らなきゃいけないのは僕の方だ・・・
急変したタクチカンを試合会場から病院に運ぶ救急車の中、僕の頭の中を打ち続けていたのは、『外はあの人には刺激が強すぎるので、どんなに頼まれても連れて行かないでくださいね』という郁江さんの言葉だった。
病院に到着してからいろんな人からいろんなことを言われたような気がする。でも、あまり覚えてはいない。
あわただしい一週間がそれから過ぎた。そのあわただしさだけは覚えていても、細かい部分の記憶となるとなんだか水槽を通して向こう側を見るように、ぼんやりとしてしまってよく分からない。それでいて耳の奥ではざぁ~っと大雨が降っていた。
今でもはっきりと思い出せるのは、お母さんの真っ青な顔、増田さんの旦那さんの困ったような顔、お葬式のときのお坊さんの神妙な顔、だ。
そのときの郁江さんの顔だけどうしても思い出せない。
「あの人は、本当に幸せでした。」
郁江さんが言った。
「あの人は、あなたのことが子供のように思えて・・・、いえ、多分、弟のように思えて、可愛くてしょうがなかったんだと思います。」
ごめんなさい、と言おうとしたけど声が、どうしても出なかった。
「私たちには・・・。子供が一人いたんです。」
僕を見ながら郁江さんが静かに言った。僕の考えてること、言いたいことすべてを包み込んでくれるような、優しい声だった。
「あの子は・・・、海路は、五歳のときに病気で亡くなってしまいました。それからはずぅっと二人っきり・・・。決して口に出しては言わなかったけど、あの人も、そして私も、寂しかったんです・・・ずっと。だからあの人が信二君を離そうとしなかったのも、自分がどうなるのか分かっていながら外に出て行ったのも、私には分かるような気がします。私があの人でもきっと同じ事をしたと思いますもの。・・・本当にあの人は、憎らしいほど幸せそうな顔をしておりましたわ。」
にっこり微笑みながら郁江さんが言った。
「あの人は、・・・信二君をムリに外に連れ出したとき、・・・本当はもとのあの人に戻っていたんじゃないかと思うの。」
タクシーの中で、妙に無口だったタクチカンを思い出した。
「私はずっと、あの人を、なるべく現実の世界から遠ざけようとしておりましたの。あの人にとって思い出すということは、あの時に戻ること・・・。そうすると、あの人はきっと生きる土台を失うことになるんじゃないか、そう考えておりましたの・・・」
郁江さんはそう言うと、また目を閉じて秋の陽に顔を埋めた。
車のクラクションの音が遠くに聞こえた。
郁江さんと僕の間を通り抜けていった風が、屋上の巨大な換気扇のたてる、フォンフォンと不規則に鳴る音を運んできた。換気扇はそれから二、三回鳴って、止まった。
郁江さんは目を閉じたまま、淡々と話を続けた。
「そうね。・・・そう考えようと、私は努めていたのでしょうね。・・・でも、そうではなかった。私の怖かったのはきっと、あの人があの時に戻ることよりも、あの人の中の〝子供〟が消えてしまうことだったのでしょうね・・・。変なものでね、あの人に、『お母さん』って呼ばれてるうちに私は本当に〝お母さん〟になったような気になっていたの。海路に、『お母さん』って言われてるような気に、ね。・・・結局、あの人だけじゃなくて私も、現実の世界には住んでいなかったのね。・・・ずっとこのままでいてくれたら、と。二人で夢の中にいたのね・・・。」
郁江さんが静かに、ため息をついた。「・・・でも、無理でした。子供はなかなか言うことを聞かないものね」と言って、微笑んだ。
僕はどう言っていいかわからなかった。
「で、でも、あの、カンさんは外に出たとき、何にも、変わってなかったように見えましたけど・・・」
僕がそう言うと、郁江さんは目を開けて、しばらく空を見ていたけど、やがて、にっこり笑って僕を見た。
「ありがとう。でもね、あの人が『外に出よう』って信二君だけを誘った・・・。それは、おそらく私の中の海路を消したくなかったから・・・。長い間一緒にいた者としての〝勘〟で分かるの。」
「・・・。あっ!で、でも、試合の最中に、『負けたら切腹だぞ』って、叫んでました。あれはいつものカンさんでした!」
「ほほほほ。あの人はご自分の患者さん達にもよくそう言って励ましておりましたわ。」
「か、患者さん?」
「そう、患者さん。あの人はああ見えてもけっこう腕のいいお医者様でしたのよ。」
郁江さんがまた目を閉じた。
「・・・あの人のお家は代々の医者の家系でしたの。だからあの人もお医者さん・・・。」
「で、でも、海軍に入るんだってしょっちゅう・・・」
「そうね。『俺は〝武蔵〟に乗るんだ!』ってね。」
そのとき、母親に手を引かれた女の子が屋上にやって来て、僕らの向かいのベンチに座った。女の子はベンチに座ると、一心にオレンジジュースを飲みはじめ、母親がその子に何か話しかけている。その子の腕に巻かれた包帯が、まぶしいくらいに白い。
「・・・あの人が、今までの記憶をなくしたのが五年前でした。二回目の脳溢血で倒れたとき、すぐに近くの大学病院で手術を受けたんです。手術も、術後の経過も順調でした。そして、手術から一週間後に目を覚ましたら、信二さんも知っているあの人がおりましたの。私のことをお母さんだと思い込んだ、あの人が、ね。最初は戸惑いましたわ。だって、昨日までは主人だった人が突然子供になっちゃったんですもの・・・。」
僕はちらっと郁江さんを盗み見た。郁江さんの真っ白な顔にはまた微笑みが浮かんでいた。
「お見合いで知り合って、結婚して、それから何十年も一緒に暮らしてきた人に『お母さん』って、ね・・・。・・・そういえば信二君、お見合いってご存知かしら?」
郁江さんが目を開けて僕に尋ねた。
「あ、はい。」
「そう。」
そう言って郁江さんは向かいに座っている女の子をしばらく見ていたけど、また目を閉じた。
「私たちが結婚したのが昭和二十九年。戦争が終わって九年にもなるというのにあの人はまだ、『俺は本来、海軍軍医として死ぬはずだったんだ。死んでいった戦友たちのことを考えると俺だけ幸せになるわけにはいかん』って言っててね・・・。それでいてあの人は私とお付き合いしてたんですから・・・。」
目を閉じたまま、郁江さんが静かに笑った。郁江さんの横顔が陽に照らされて淡く光ってる。郁江さんはなんだか、・・・楽しい夢の話でもしているようだ。
「海路が生まれたのが昭和三十一年の三月四日。生まれたときからお父さんに似て体の弱い子でね・・・。あの人、『海軍だ、海軍だ』っていつも申しておりましたでしょ?」
「あ、はい。」
「ところがあの人、海軍どころか、水が駄目ですのよ。」
「え?」
「あの人、泳げませんの。」
あのジジイ!
「あの人はね、戦争に行かなかったのです。いえ、『行けなかった』でしたわ。いつも言い違えてあの人に怒られていましたっけ。」
「ど、どうしてですか?」
「あの人はもともと体が丈夫じゃなかったの。生まれた時、二十歳まで生きられないって言われたそうよ。医学生になってすぐ徴兵検査を受けたらしいんですけど、『そんなカトンボみたいな体でお国を守れるか』って軍の人から怒鳴られたんですって。」
タクチカンの悔しがる様子が目に浮かぶ。
「もともと体が弱かったせいで学校にもほとんど行ってなくて、千葉の疎開先でよくいじめられたって話をよくしてたわ。何年も前の話なのに本当に悔しそうに・・・。それで、結局戦争には行かずじまい・・・。『だから海路も大丈夫だ。見てみろ、俺を。ピンピンしてるぞ』ってね。・・・そういえばあの人、『柔道するんだ』ってよく言ってましたでしょ?」
「い、言ってました。アメリカを投げ飛ばすって。」
「ほほほほ。柔道場には本当に通っていたそうです。ただ一週間も行かないうちに『肌に合わない』って止したそうよ。あの人のお母さんは、『練習が辛かっただけよ』って言ってましたけれどね。」
何が『米英本国で投げ飛ばす』だ!あのジジイっ!
「海路が病気になったとき、あの人はちょうどイギリスでの学会に出席してたの。今のように便利じゃないから二ヶ月も留守にしてて・・・。その間に、あの子は亡くなったの。」
「・・・」
「・・・帰国してからあの人は、何にも食べられない私の傍にずっとついててくれてね。ただ傍にいてくれて・・・。一緒に何にも食べないで何日も過ごしたの。そのうち私の方が心配になってしまってね。『もういいんだ』って言うあの人を励まして二人でお蕎麦をいただいたの。・・・おいしかったわぁ、あのお蕎麦!」
郁江さんがまた淡く笑った。
「あの人はそれからずっと私の傍にいてくれたの。・・・五年前までずっと。そのあとは海路も一緒に私たちの傍にいた。私も、幸せ者だわ。」
まったく、あのジジイ・・・
何から何までどうしようもない。
負けてばっかりじゃないか・・・
また、秋の風が吹いた。
「お母さん、寒い。」
オレンジジュースを飲み終えた女の子がそう言うと、「帰ろうね」と母親は女の子の手をひいていった。
完
ぽかりと心に穴が開く。