水瓶の神の世界 ファルブーク① 緊急回避
初めて目を覚ました俺の視界に映ったのは、俺に向けてキスしてこようとするおっさんの分厚い唇だった。
「オギャアーーーーッ!!」
自分の耳がおかしくなりそうなほどの泣き声で、この未曾有の危機を回避してみせる。
俺の身体は、おっさんから母親と思われる女性に手渡された。
どうやら、俺は無事に転生出来たようだ。ふんわりとした赤毛の、母親と思われる女性は、素朴な顔つきで特に美人だというわけではないが、俺に微笑みかける笑顔からは優しさが滲み出していた。
出産直後の張った乳を口元へ差し出され、ちょっと恥ずかしさを覚えながらも生きていく為には遠慮もおかしいと、黒ずんだ乳首を咥える。
少し甘味のある生暖かい母乳を飲み続けていると、先ほどの父親と思われるおっさんから話かけられる。
当初何を言っているのか理解出来なかったが、意識を集中してラジオの周波数を合わせるかのように調整していくと、この世界ファルブークの言葉が聞き取れるようになってくる。
「はーい、クリスちゃーん。パパでちゅよー」
三十代位のおっさんが甘えた声を出して、俺をあやそうと必死なのは、ちょっと滑稽に思える。
母乳を飲みながら冷めた目で一瞥した後、視線を戻すと、おっさんは分かりやすくショックを受けて「嫌われた」と嘆いていた。
どうやら俺はこの世界ではクリスという名前を付けられたようだ。
腫れぼったい目をした岩のような顔をした父親からは、ちょっと思い付かない名前だなと、勝手に俺の名前は母親が付けてくれたのだろうと思っていた。
「ダメだ、ダメだ。落ち込んでいては。オレは今日からパパになるんだ」
父親はぶつぶつと呟きながら、リベンジとばかりに満面の怖い笑顔を俺に向けて再び話かける。
「はーい、クリスちゃーん。そんな目をしちゃパパ泣いちゃうよ。折角の美人さんが、台無しでちゅよー!」
どアップで映り込む満面の笑みのゴツゴツしたおっさんの顔が怖かったが、それよりもおっさんの言葉で俺の表情は固まった。
なんだと──美人だ……と!?
固まった俺を満腹になったのかと勘違いした母親が、俺の背中を叩いてゲップさせる。
嫌な予感をした俺は、とある場所を確認しようと手を伸ばすが短すぎて届かない。
しかし、俺はすぐに自分の目で確かめることとなった。
オシメを替える時に両足を持ち上げられて、俺の視界に映った場所に──あるはずと思っていたモノが無い。
「ウウゥ……オ、オ、オギャアーーーーッ!!」
泣いて抗議をする。目の前の両親ではなく、恐らく見ているであろう水瓶のちゃらついた顔を思い浮かべて。
俺はクリス。産まれたばかりの女の子だ。
◇◇◇
クリスとして転生してから早五年が過ぎた。
牧歌的な素朴な土造りの家は、あまり裕福な生活ではなかったが、贅沢しなければ特に食べるものに困ることはなかった。
同じように土造りの家が並ぶ集落であった、ナバナというこの村は、生まれてこのかた犯罪らしい話を聞いたことはなく、平和な村であった。
俺は元々転生体ということもあり、他の同じ年頃の子供に比べて身体能力は、ずば抜けて高く、「おてんばクリス」の二つ名を頂いた。
そんな俺を両親は、注意することなく、暖かい眼差しで見守ってくれていた。
仮初めとはいえ、両親には感謝しかない。
初めは女の子であったことに、戸惑っていた俺ではあったが、五年もやればもう慣れた。
元に戻った時が却って怖いくらいだ。
「お父さん、行ってきまーす」
「クリス。お父さんじゃない、パパと呼びなさい」
「いやだー」
朝、俺は家を出ると、向かうはシロさんの家。
シロさんは、今年二十三歳になる女性で、都会の学校へ通い終えた後、故郷であるこのナバナ村に戻ってきて、俺みたいにまだ年端のいかない子供に勉強を教えてくれていた。
「シロさーん、遊ぼー」
「もう、クリスちゃん。遊びじゃなくて、お勉強よ、お、べ、ん、きょ、う」
家から出てきた女性は腰に手を当てながら、指で俺の額を軽く押す。
俺がシロさんに、勉強を教えもらい始めてからのいつものやり取り。
軽く頬を膨らませて怒ったフリをする、シロさん。
そんな仕草が可愛らしく、腰まで伸びた艶のある黒髪が美しい女性である。
一見、細身のスレンダーではあるが、着痩せと、この世界特有の締め付ける下着で隠してはいるが、かなりの大きさを誇る。
そんなことを何故知っているかというと、今の俺は同性だからな。
そういう機会も増えるってもんさ。
この世界の識字率は、典型的で都会でそれなりの富がある者ほど高く、田舎になればなるほど低くなる。
では、このナバナ村はどうかというと、田舎ではあるが、シロさんのお陰で他の田舎より一つ抜きん出ていると思われる。
シロさんが、教えてくれるのは簡単な計算と、読み書き、それとこの世界の歴史である。
計算や、読み書きは俺にとっては容易で、普段から机の上で涎を垂らしてしまうことも、しばしば。
ただ、歴史に関しては興味を抱いた。
何故、このファルブークは文明が発展せずに停滞しているのか。生まれて五年、探ってはいたが、いまだにその理由が判明せずにいた。
そこで目をつけたのが歴史である。何かしら原因はある筈だと、この時ばかりは、お行儀良く座る。
シロさんは、「なんで、この時だけ……」と頭を悩ませるが、俺はそんなこまった顔をしたシロさんを見るのが好きだった。
歴史で判明したこと、それは在り来たりと言えば在り来たり。魔王と魔物に悩まされていたこの世界は、勇者によって四十年前救われた。
それからは、勇者が王となり、この世界を牛耳っているが、魔物は消え盗賊等も居なくなり平和が訪れて、誰も文句を言うどころか、崇め奉っている。
平和ボケすぎて停滞──なんてことも考えたのだが、この村の住人を見る限りでは、生きる為に精一杯働いて過ごしている。
平和すぎると、却ってその日暮らしのことしか考えなくなっていくものだ。
何せ平和だからな、明日が来ない──なんてことは、全く考えから失せてしまう。
ダメだ、何となく引っ掛かりはあるのだが、それが何か判らない。
一旦俺は考えるのを止めて、シロさんを眺める事に集中する。
コロコロと表情を変えながら、小さな子供に振り回されているシロさんを見るのが好きだった。
俺はまだ気づいていなかった──この中に、ファルブークが停滞している理由が隠れていることを……。
◇◇◇
更に月日は流れて、俺は十歳の誕生日を目前に控えていた。
俺のお転婆ぶりは健在で、屋根にしょっちゅう上がったり、裏山の大人でも登るのが大変な崖を登ったりと「上を見上げたらクリス」という、村の中で諺みたいな通り名まで頂いていた。
「シロさん、凄い綺麗です」
十歳になると俺は、両親の勧めもあり寮制の学校へ行く事が決まっていた。
一人娘だからと、無理してくれたらしい。
既にシロさんの所は卒業って扱いになっていた為に、会う切っ掛けが、中々無かったのだが、今日久々に偶然出会ったシロさんは、御粧しをして、清楚な真っ白なドレスで着飾っていた。
そう、まるで花嫁衣装のような──。
「あ、あれ!? し、シロさん、もしかして結婚するの!?」
ちょっとショックを受けてしまう。いや、今は同性なのだから俺がどうこう言うわけにもいかないけれど、やはり少し寂しさを感じてしまう。
恥ずかしそうに赤く頬を染めたシロさんは、俯きがちのまま、首を縦に振る。
やがて、話を聞き付けたのか、村の大人子供がゾロゾロとシロさんの周りに集まってくる。
その中には、両親もおり俺は両親の元へ行き、何処に嫁ぐのか聞いてみた。
「ああ、シロさんは勇者様に見初められたのさ。光栄なことだよ」と、村の誇りだと父親は付け加えた。
「クリス。あなたも、もうちょっと御淑やかにすれば、きっと
勇者様に見初められるよ」
母親が俺の頭を撫でてくれるも、全く嬉しくない。中身は男だ、誰が嫁に行くっていうんだ。
しかし、俺はふと、おかしな事に気づく。
四十年前に魔王を倒した勇者……今、一体幾つなんだ……!?