六話 百円と筋肉
荒野と言っても、村と城を結ぶ街道のようなものはあって、年月を掛けて人々が往来してできた草木のあまり映えていない場所とでも言えばいいのだろうか。要するに僕はでたらめに走っていたのではなくて、無意識にその道を走っていたらしい。
その道とは、ホヘット村とチリヌール城とを直線で結ぶ街道である。
「名前は特にないんですけど、この大陸の中心はチリヌール城なので、城から見て東を東道、西を西道。北も南もそれぞれ北道、南道と便宜的に呼ばれてはいます」
転んだあと、近くにあった岩陰に凭れ掛かったまま朝まで眠ってしまった。
日が昇り、目を開け視界に入ったのはお城だった。前世では実物を一度も見ることが叶わなかったが、生で見ると迫力や美しさはひとしおである。
東道を走った僕は、本来なら一日掛かる距離を僅か数時間で城の手前まで来てしまったらしい。生きる意志ってすごいね。
城下町が見えると、そこには数えきれないほどの人がいた。東道を通って来たときは誰も見なかったのに。
「それはそうですよ。殆どの人が西道を使うんですから。わざわざ何もない過疎地の東部に用がある人なんていませんよ」
「そんな過疎地で僕らは出会ったんだけどね」
「あ……そうでした…………もう、せっかく戻って来たんですから、暗い気分にさせないでくださいよ。アリィさんはこれからどうします?」
さて、どうしたものか。彼女はこの街の出身なので家に帰ればいいのだが、生憎僕はこの世界に帰る場所なんてない。彼女との旅もここで終わってしまうのだろうか。
「特に行く当てのない旅だからねぇ」
この世界で生きていくしかないと思うのだが、それにはやはりお金が必要だ。となればまずはギルドで依頼でも受けるべきだろうか。
「ギルドは……城の手前の尖がった場所でいいの?」
「そうですよ。もしこの街に滞在するんでしたら、その間でしたら私の家を宿代わりに使ったらどうです? もちろん、食事代はいただきますけど」
お泊りオッケイだと。それは厳しい。あまり何日も一緒にいるとそのうち我慢できなくなってしまいそうだ。それとも良いのか、良いということか。
「アリィさん、なんか顔が気持ち悪いです」
真顔で言われるとさすがに凹むが、諦めたくはないんだ。
……いや、そうじゃなくて。
「いいんですか、泊めてもらっても。お金もないですし凄く助かります」
「旅は道連れ、世は情けですから」
そっか、情けを掛けられているのか。言い方にいつも悪気はないんだろうけどさ。
「荷物を持ったままもなんですし、まずは我が家に戻りましょう」
彼女の家は中央のチリヌール城を挟んで反対側にあるらしい。距離で言うなら城の西側を通った方が近いのだが、初めて訪れた僕の為に案内がてら東側のルートを通ってくれた。
「どうして東なの?」
「西側は城の兵士や貴族の家が多くて、お店なんて殆どありませんから。観光するなら東以外ありえません」
言われて見ると城を挟んで西側の道は人通りが少なく、見える限り店など見えないが、東側にはすでに何十もの店が立ち並んでいて人々が活気づいていた。
ギルドは道が二股に分かれる数十メートル手前にあって、そこを境に人々は東西に分かれていた。
「お金がないアリィさんには、まず我が家に泊まるための賃金を手に入れていただきたいのですが安心してください。後払いでも結構ですから、まずは旅の疲れを取りましょう」
信用がないのかあるのか分からないが、それなりに人として信頼はされているのだろうか。微妙な言い回しに返す言葉を迷っていると、
「やだ……じょ、冗談ですよ? 真面目に取られると、なんだか私ががめつい女みたいじゃないですか」
「安心してください、僕はそういうことは意外ときっちりしてますから」
「だからぁ、そんなこと言われると……あ、見てくださいあの屋台。名物のチリヌール煎餅ですよ」
話を逸らされてしまったが、確かにいい匂いである。
足を止め、作り立てだろうか湯気の立つ手のひら大の煎餅を凝視しているとマッチョでマッチョなマッチョの店主に声をかけられる。
「どうだい、二枚で1リンだよ」
煎餅を売るのにその筋肉は必要なのだろうか。
後ろに立つ弟子のような人たちも全員マッチョである。
別にマッチョに興味はないが、少しばかり筋肉に覚えがある身としては、その腕の太さ、服を着ていても分かる胸筋の隆々とした様は目を見張るものがある。
前世だったらその筋肉だけで生計を立てられるだろう。
見習うべきポイントはいくつもある気がする。
そうはいってもこんな所で無駄遣いをしてるほど余裕がある訳ではない。持っている自前の財布に入ったお札も硬貨も無価値だろう。
「お、珍しいもの持ってるな。モーヤの皮か、それともシルファン?」
まさかこんなボロボロの皮の財布に興味を持たれるとは思わなかった。
「もらい物なので、なんの皮なのか分からないんですよ……ちなみに、これじゃ買えませんよね?」
小銭入れから出したのは百円玉。
この世界でも通用すれば、もう少し心にゆとりが出るんだろうけど。
「おい、いくつほしんだ? 十枚か? それともに二十枚?」
「は?」
何この店主、急に顔を近づけてきて怖いんですけど。顔は触れてないが、勇ましい胸筋は僕の腕をぐいぐいと押してくる。
「いや、ちょっと」
「五十枚か? なあ、何枚ほしんだ?」
だから顔が近いって。
一刻もこの場から離れたくなった僕は、逃げるように「百枚」と言い放って逃げようとしたが、余りにたくましい腕に手首を掴まれ動けなくなり、さらには鼻息荒く僕を見つめる。
完全にテイラさんが引いてるんですけど。
誤解しないでください。僕が好きなのはちゃんと女の子だけだから。
「待っててくれ……ください。いま準備します、お客様」
急に低姿勢になってどうしたマッチョ。
店主は急いで弟子たちに支持を出し、あっと言う間に百枚入った袋を用意した。
「五枚ほどおまけさせていただきました」
異世界でもサービスはあるのね。
「こちらでお支払いで?」
「はい……どうぞ」
受け取った手が、異常なまでに汗ばんで震えていたんだけど。
「それでは、またのご来店お待ちしております。ありがとうございました」
弟子一同も声をそろえて。
「ありがとうございましたっ」
とにかく気持ち悪かったので、煎餅の入った袋を持って、テイラさんと逃げるように東街の奥へと進んでいった。
もちろん走って、後ろが見えなくなるまで。
「アリィさん、なんですか今の?」
「僕が聞きたいよ」
気持ち悪かったので、もう思い出したくもない。
「それでテイラさんの家は――――」
まだ着かないの?
そう聞こうとして、目の前に人が転がっていることに気づいた。
若いのに……やっぱり異世界は厳しいな。ボロボロの服、汚れた身体、群がるハエ。餓死だろうか可哀想に。
道行く人々は見ぬふりをして、誰もが近づかない。
僕だってそうだ。この世界に来て餓死で死にかけたとはいえ、この少年の埋葬をする義理も善意も持ち合わせていない。
さよなら、見知らぬ少年よ。
「大丈夫ですか?」
そんな風に無事正当化が終わり、後腐れなく場を後にしようとしていた僕の疚しさが、彼女の後姿に映し出された気がした。
「どこか痛いところは?」
彼女は迷わず少年に駆け寄り手を差し伸べる。
惨めだった。
僕の心も身体も急に寒々しくなって、この場から逃げ出したかった。
マッチョから逃げたように、もう二度と会うことのないよう走り去りたかった。
でもあまりに迷わず、きっと偽善でもなく、少年の汚れた服に体に手を伸ばし、ただ助けることに必死な彼女を見て見ぬふりは出来なかった。
「大丈夫?」
何食わぬ顔して心配する自分が醜くて仕方なく思えた。
「息はあるみたいですけど……え、水? 水が欲しいの?」
彼女は持っていた水を転がる少年に飲ませようとするが、うまくいかず零れてしまう。何度か試すがやはりうまくいかない。
「うーん、どうしたら……そうだ、アリィさん、この子を仰向けにしてもらってもいいですか?」
「任せて」
見た目よりも軽かったのは、何日も食べてなかったからかもしれない
仰向けになった少年は弱々しく呼吸をする。
どうするのか彼女を見ていると、どうやら水を自分の口に含んでいた。
そして僕の考えがそこに及ぶより早く、彼女は、自身の唇で少年の唇を覆うように口づけた。
「んっ?」
最初の一度、少年の身体は弓のようにしなったが、それ以降は小さく喉を鳴らしていた。
いつもなら欲求を掻き立てる光景だった。妄想が膨らんでいき、彼女を邪な目でしか見れなくなっていただろう。だけど、いま目の前で行われる少年への口移しという行為は、そんなくだらない感情など一切生むことはなかった。
彼女の懸命さに、ただ心を奪われていた。
周りが見ていることなど気にも留めず、彼女は何度も何度も繰り返した。
言葉が話せるようになったのは、一時間ほど経ってからだった。
「本当に、ありがとう」
野次馬は消え、往来する人々が一瞥するのみ。
生気が戻ったのか少しは顔色のよくなった少年だったが、立った瞬間によろけて転びそうになる。その肩を、僕は受け止め支えた。
「もう少し横になってたら」
心配そうに声を掛けるテイラさんだったが、少年はあどけない笑顔で答える。
「いえ、いつまでもここに居ては迷惑ですし」
「それならせめて家までは送りますよ。東ですか? 西ですか?」
「あー、こんな格好だと見えないかもしれないですけど、これでも一応旅の商人なんです。今はギルドの依頼を受けて北の山に行ったんですけど、食料の配分を間違えて……。なんとかここに戻っては来れたんですけど、途中で力尽きてしまって。だからこれから宿を探すところです」
「でしたら――――」
テイラさんは良い事を思いついたと言わんばかりに表情を明るくした。
そんなこんなで、僕らは三人揃ってテイラさんの自宅に向かうことになった。二階建ての家は明るいオレンジ色のレンガで作られていた。
「旅帰りなので、空気が籠ってるかもしれないですけど……」
僕と少年は、誰も居ない静かな家へと入って行った。
やはり旅の経験値が違うのか、帰って早々テイラさんは少年に食事を用意した。僕なんかとても動く気が起きないほど疲れてしまっているのに。
その後、僕と少年はテイラさんが片づけや家の掃除でいそいそと動いている間、案内された客室の布団に転がっていた。少年は疲れていたのかすぐ眠りについたが、少し休んで楽になった僕は、どうにも落ち着くことができなくて、テイラさんに一声かけて街へと繰り出した。