二話 最高な世界
「大丈夫ですか?」
優しい声が聞こえた。
天使だな。
目は閉じたままだったが、そんなことぐらいは分かった。
「……はい」
言葉はどこにも引っ掛かることなく、すんなりと口から吐き出された。
全身の痛みも苦しかった呼吸も嘘のように消えていて、妙に穏やかな気分だった。空気がやたらとおいしく感じられ、ここが天国なのかと思えば何も違和感はなかった。
「それは良かった。なんとか間に合ったみたいですね」
まだ頭がぼんやりしているのか、その意味を理解することができなかった。
身体は不自由なく動きそうで、少しは頭も動き出すだろうと思いゆっくりと目を開けた。
輪っかも翼もなかった天使は、少女と呼ぶには大人びていて、けれど大人と呼ぶにはあどけなさが残る年頃の見目をしていた。
「間に合ったというのは?」
もしかして、一歩間違えば天国に行けなかったという意味ではないかと想像したが、次第に周囲の明かりに慣れてきてある程度見渡せるようになった目に映ったのは、先ほどまで自分が居た場所とそう違わない場所に思えた。
「初めて来た人は、間違えて食べることが多いんですよね、これ」
彼女が持っていたのは、ついさっき自分が食べたばかりのキノコだった。
「ああ、それ……確かに食べました」
「美味しくなかったでしょ?」
「余りに空腹だったんで、味は覚えてないです」
「もう食べちゃダメですよ。今度こそ死んじゃいますから」
自嘲気味に笑いながら、いい加減僕も気づくことができた。
少し離れた場所にある、黒く焦げてこそいるものの僕を襲った蛇の死体がなによりそうさせた。
目の前にいる彼女は天使ではないこと。
僕は死んでいないこと。
「周囲の村の人は、こんなこともあろうかと解毒剤を持ち歩いているので平気ですけど、よく知らない場所に入ったら危ないですよ。ね、気を付けましょう」
「はい、気を付けます」
立ち上がると一瞬立ち眩みがしたが、歩けないほどではなさそうだった。
「本当にありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。えっと……私はテイラと言います。あなたは?」
生きていると言うことはまだ異世界の続きをできるらしい。
最初は本名を名乗ろうと思ったがどどうせ異世界、どうせならカッコいい名前でも名乗ろうと考えて、どうせならどっかの勇者の名前でも借りようと、わざとらしく前髪を掻き分けて息を吸い込んだ。
「あ……えっと」
きっと声が小さかったのがいけなかったのだろう。聞き取ろうと、喋ろうとする僕に身体を近づけた。
僕が思うよりも、テイラとの距離は近くなっていた。
そのせいとも言えるし、そのお陰とも言えた。
花でもなく果物でもなく、まして人工的なものでもない、彼女自身の仄かな香りが鼻を掠めた。
初めて嗅ぐ彼女の香りには、この森特有の草木の香りや風の香りが混ざっていたが、その中に潜む彼女自身の香りが確かに鼻を掠めてしまった。
一瞬で脳は真っ白になり、冷や汗のようなものがあらゆる穴から吹き出し、全身が強張り、唇はこれから喋ろうとするにも関わらず渇いた上に震えてしまっていた。
「ああ……あがん、るるーすだす」
僕は、アルスです。
そう言いたかった。言えなかった。まるで言葉にならなかった。
突如発した意味不明な言語にテイラはどんな表情をしているかと思ったが、何故か納得したのか、うんうん、と頷いていた。
「アガンルルースダスさんですね。ルルースダスは、確かミース地方の川の名前ですね。出身はそちらの方ですか」
「は、はい。そうなんですよ」
「やっぱり。顔立ちもこの辺じゃあんまり見ない顔立ちだから、そうなんじゃないかって思ってたんですよ。服装も変わってますし」
緊張で噛んでしまったが、奇跡的に会話は成立してるから、もうこのままでいいか。というか僕って服装変なの?
「アガンルルースダスさん、とりあえず近くの村まで一緒に行きましょう。心配で一人に出来ませんからね。それにお腹も空いてるみたいだし。さっきから鳴りっぱなしですよ、お腹」
話がどんどん進んでいくが、ひとまず厚意にあやかろう。
「トマトしかありませんけど、良かったらどうぞ」
目の前に食べ物を見せられたら、今は誰の誘いだって断れやしなさそうだ。
それにしても、赤くて丸くて、美味しそうトマトだな。
「いただきます」
あっと言う間に三つほど平らげる。まだ胃袋は満たされそうにないし、もっと食べたかったが、彼女の食糧をこれ以上取ってしまうのも気が引け、けれど鳴き続ける腹の虫との間で葛藤している時だった。
後ろの方から物音がして振り向くと、僕を襲ってきた蛇の死体の上に、巨大なカマキリのような魔物が、その大きな鎌を振り上げていた。
「そんな、一日に二体も出るなんて……きゃっ」
後ろに下がろうとして躓き倒れる彼女。うめき声をあげ足首あたりを押さえていた。
「大丈夫っ?」
伸ばした僕の手に捕まろうとして、再度尻餅をついてしまう。
「足、ひねっちゃったかも……」
笑顔は消え、唖然と座り込む彼女。
「さっきの、あの蛇をやっつけたやつとかは使えないんですか」
「すいません。魔法は苦手で、さっきのも魔法石使ったんです」
魔法石はよく分からないが、とにかくもう駄目で、自分と同じくらいの背丈のあるカマキリにはどうしたって勝てそうになくて、じゃあどうするかと考えた僕は、もう逃げること以外の選択肢は浮かびそうになかった。
彼女の身体を見る。
身長は僕より低く、見た感じ太っていると言うことはなさそうだ。むしろやや痩せているようにも見えた。
自慢じゃないが、この世界に来る前はそれなりに筋トレをしていて、少しくらいなら重い物でも持てる自信はあった。
「逃げよう」
お姫様抱っこなんてしたことないけど、できるかな。
「え、あの、ちょっと」
言葉を遮って、彼女の首を足に手をかけ持ち上げてみる。
なんだ。軽いじゃん。
そう思った瞬間、カマキリはこちらに歩み寄って来た。
そこからはもう彼女の声も、後ろの様子も何も気にせず、前だけを見て走り続けた。腕がつらくなって足がつらくなって、何度も止まろうとしながらも、その度にもう少しだけと自分を鼓舞しながら一回でも多く足を動かし続けた。
疲れても走り続けられたのは、死にたくないと言う意思だけではなかった。
彼女への負担など考えず速さだけを追求して走っていた僕は、ふと確認の意味もあって彼女へ目線を下げた。
それはもう、信じられないくらいに揺れていた。僕の走る振動に合わせ、彼女の胸元では二つの膨らみが上下左右に激しく大きく。時折僕の胸に当たる度、その柔らかさの感触を残しながら。
まさかこの世界は、ブラジャーないのか。
最高だな、この世界。
その揺らめきが、僕に足を止めることを留まらせた。
こんな時になんだけど、止めたくはないさ。
走る度に揺れるんだからさ、止まりたくはないさ。
「はぁはぁはぁはぁ、もう無理、もう限界」
それでも限界はいつかきて、彼女をゆっくりと地面に下ろした。
「す、すごいですね。もう森の出口まで着いちゃいましたよ。見てください、イーロ村が見えます」
「はぁはぁはぁはぁ」
呼吸がまだ落ち着かず、聞いていると分かるように首を縦に振った。
「アガンルルースダスさんがいなかったら、私今頃……」
落ち着くまでに十分ほどは掛かったかもしれない。その間、彼女は何を言うでもなく待っていてくれた。
「ありがとう、もう大丈夫」
「いいえ、どういたしまして、アガンルルースダスさん……あの」
「ん、どうかした?」
彼女は下を向きながら腕を組み、何やらうなり声をあげる。
「テイラさん? どこか痛いの?」
「うーん…………そうだ、アリィさんって呼んでいいですか? アガンルルースダスさんだと、どうも少し距離がある気がして。折角友達になったんですから、呼び方ももっと呼びやすい方がいいなって……ダメですか?」
眉毛を曲げて申し訳なさそうにお願いされたら、頷くのは早いもんです。
「ダメじゃないです、これっぽっちもダメじゃないです」
それにようやく解放されるんだ。噛んで意味不明な言語を発したと思ったら、そのまま名前と勘違いされて呼ばれ続けると言う辱めから。
「ありがとうございます、じゃあこれからはアリィさんって呼びますね」
えくぼを作った笑みが可愛くて、全身むずむずしてしまう。
これで何度目だろうか、僕の心が打ちぬかれたのは。
「アリィさん、では参りましょうか」
「え?」
行く当てなどない僕に、どこに行けと言うのだろうか。まだこの世界がどんな場所かも知らず、右も左も分からない僕はどうすればいいのかと返す言葉を失ってしまう。
「どこに?」
「……え?」
彼女は口を開け、身体は人形のように動かずただ瞳だけが数回瞬きをした。
「え?」
そんな反応に僕は思わずその顔を凝視してしまう。
どうにも言っていることに理解が及ばず、考えてもその糸口すら掴めそうにない。もしかすると、この世界の常識を知らない僕は、余程呆けた態度でも取ってしまったのだろうか。
「宿に決まっているじゃないですか」
「決まってるの?」
「そうですよ。だってこの村に宿は一ヶ所しかないんですから」
どうやら彼女自身が僕の前提を勝手に勘違いして話を進めていたらしい。
「宿は取ってないんだ」
「森でキノコ狩りをしていたんじゃないんですか?」
「いや、してないけど」
彼女は今度、口だけでなく目を大きく見開いて数秒言葉を失ってしまう。
「……まさか、ホヘット村から来たんですか? ハニの町からではなく?」
どう説明すればいいのか悩んでしまう。異世界から来たと言ったところで、信じてもらう方が無理な話で、だったらいっそ適当に話しを合わせたほうがいい気がした。
「まあ、そんなとこ」
「驚きました。今時いるんですね、そんな無謀なルートを通る人が。じゃあ村に宿は取ってないんですか…………もう受付時間が過ぎてしまって、今からだと取れませんよ……どうしましょう」
こんな時にでもつい見栄を張って、平気なふりをしてしまう。やっぱ女子の前ではかっこつけたいからさ。ここが異世界でもね。
「大丈夫大丈夫、どうにかなるから。いざとなったら野宿でもいいし」
「大丈夫じゃありませんよ、夜は冷えるのに……そうだ、良かったら今日は一緒の部屋に泊まりませんか?
そんなイベントありかよ。
「ぜひ、お願いします」
頭で考えるより口が先に動いていた。無論考えても迷うことなんて何もないのだけれど。
「では今度こそ、参りましょうね、アリィさん」
「はい」
どこまでも、と心の中で付け加える。