十一話 一度あることは……
予感は予感であって、きっとそうだったらいいなという希望もそこには含まれていたことは今さら否定する気などないのだけれども、せめて同じ轍は踏みたくなかったと反省してみるが、じゃあどうすればよかったと?
誰もいやしないのに、最低最悪な状況に自虐的に独り言。
楽しいね…………楽しくないね。
船旅は順調だった。
それはもちろん途中まで。
ヨーチェ大陸のナラーム港を出て、文字通り順風満帆なら七日でショウガン大陸、さらに十日でチガク大陸に。そんなプランは出航二日目で破綻した。
折角の長旅、固有スキル〝風邪使い〟を使いこなせるよう色々と試していた。
意思に関係なく発動する能力をコントロールできず、毎度体調を崩してしまうのはいかんともしがたい。
その決意は弱く、自身に振りかかった自身の能力でいとも簡単に体調を崩して、まず一回目の絶望が訪れる。
マイナス思考は掛け算されても一向にプラスに向かわなくて、この世界に居る限り一生この能力と付き合うのかと、受け入れる準備も儘ならないまま今風邪をひいているという事実だけが、子供の頃の夏休みが終わる三日前の宿題のように重く重く身体を沈めていく。
信じていたんだ。
僕が本気を出せば宿題なんてあっと言う間だって。
部屋に籠っていても良くなる兆しはなくて、気分転換に、あと海にリバースしに甲板に出て事を済ませ、少しすっきりした僕は呑気に流れる雲を眺めては感傷に浸っていた。
くどくど長くなってしまったが、そんな時だった。
船が揺れ、海中から重機が走っているような低い音が聞こえた。
状況が呑み込めていないのは僕だけらしい。
慌ただしくなった船内で、どうしたものかまずは現状を把握しようと人々を静観していると、そこかしこで「イカバター醤油っ、イカバター醤油っ」と声を上げ船内は慌ただしくなる。
食事の時間だろうか。今日はイカらしい。お腹は空いていた。時間と言うのもあるし、昨日からまともな食事は取っていない。正直かなりの空腹状態である。そんな時にイカバター醤油とか、おいしいの決まってるやつじゃないか。最高だぜ。
イカ漁に備え準備に取り掛かっているのか、一方通行で右から左へ人が流れていく。参加した方が良いのか迷っていると、船はさらに大きく揺れ出した。
余程大量発生したのか、悲鳴まで聞こえてくる。
異世界でもまさか食べれるとはと期待に胸を膨らませ、様子でも見に行こうと立ち上がると、通りかかった水夫が僕の後ろを指差し叫んだ。
「ふたまたしょうりゅう!」
振り向いてまず思ったことは、彼らの言っていたことはどうやら「イカバター醤油」ではないらしいということ。
空腹で耳が都合耳になっていたらしい。
目の前には首が二本ある、推定三メートル程の竜のような形の生物。
要するにこれはあれか、完全に聞き間違いか。
言うなれば確かに〝二又小竜〟って感じだ。
逃げよう。そう思って振り返った時にはもう誰もいなかった。
急いで船内へ入ろうと駆けるが目の前のマストに二又小竜は手ならぬゲソを絡め、いともたやすくへし折った。
マストは僕の前に落ちてきて行く手を遮った。後ろは海。見れば小型の船で見る見る離れていく同乗していた水夫たち。
二回目の絶望だった。
先に言っておくと、本日はまだあと一回絶望が残っているが、この時の僕は当然知る由もない。
どうする、どうすればいいと自分に残された選択を熟考していると、それもそうだなと激しい痛みと共に吹き飛ばされた我が身を嘆く。
魔物が猶予をくれるはずもないのに。
前触れなどあるはずもなく、二又小竜が尻尾を大きく振りかぶって、船の側面を紙のように破壊しながら僕を薙ぎ払った。
幸い、そのとき痛かったのは一瞬だったように思う。
海に投げ出された僕は沈んでいく船の海流に呑まれて溺れ、そのまま意識を失ってしまったのだから。
*
冒頭に戻るが、新生活の始まりはどうしたって転んだあとから始まるらしい。
海岸にいつから打ち上げられていたか分からない身体は全身痣だらけ、特に脇腹は痛みが酷く少し身体を動かしただけで激痛が走る。骨でも折れているのだろうか。骨折経験のない僕にとって定かではないが、到底歩こうと言う気にならないレベルの痛みである。
それでも歩かなければ、きっと死んでしまう。
人気もなく、今にも雨が降りそうな曇り空。
海岸の砂もすぐ後ろに広がる森の木も、ヨーチェ大陸で見た物とはまるで異なる種類の砂や木だった。
ここが別の大陸だと容易に想像できた。
もちろん、あてもなく歩き出した訳ではない。
森の奥、どれほど進んだ場所かまでは分からないが、数本の白い煙が上がっていて、そこを目指そうと決めた。助かるために、死にたくないから。
一歩一歩、これがなかなかに大変で、痛みと空腹との戦いだった。途中拾った木の枝を杖代わりに、体力の続く限り歩き続けたが、煙の上がっていた場所にたどり着くことはなかった。
日は落ち、煙はいつしか消え、梟のような鳴き声が聞こえてきた。
夜の森は視界も足元も覚束なかったが、煙の上がっていた場所から推測して、あと少しで着くだろうと再度歩き始めた。
徐々に降り始めた雨、ぬかるんだ土、濡れて重く冷たくなったローブ。
僅かに残っていた体力はすぐに削られ、立っていることも出来なくなり、周囲を見渡して一番平らだった岩に腰掛けた。
走馬灯ではないが、今までの人生を振り返っている自分がいた。
きっと、もう助かりようがない現実にいよいよ死を意識し始めたからだろう。
ここでやってきた絶望的な場面は、心と身体から生命力を急速に蝕んでいった。
意識は遠くなっていく。
いつの間にか本格的に降っていた雨の音だけが耳にこびりつく。
目は霞み、立ち眩んでバランスを崩し地面に倒れる。
土が雨でぬかるんでいたお陰で痛くなかったが、身体が言うことを聞かず口に流れ込んで来る泥水。
息が苦しい。
うまくむせることも出来ず、酸素だけが途切れる。
もう身体の感覚も薄く、ただ耳元で地面を跳ねる雨音だけが最後まで響いていた。
人生、終わったな。
呟くこともできなかった。
*
雨音はまだ続いていたが、随分と弱まっていた。
呼吸は苦しくなく、妙な安心感のある雰囲気に、ここが天国であると確信する。
心なしか頭が柔らかく温かいものに乗っかっていて、それもまた心地よかった。
身体の自由は利きそうで、頭も覚醒しているし指先の感覚もあった。まずは目を開けようとして、その眩しさに目を逸らす。天気雨かと思ったが、光の質的に月明かりではないかと推測した。天国にも朝とか夜という概念はあるらしい。
どうにか目を開くものの、木々の隙間から覗けた月はやはり眩しくて目を逸らす。
どうにか辺りを見渡そうと少しだけ頭を動かし、視線をずらす。
見えたのは――――。
目に映ったのは――――。
ほんの僅かな時でさえ逸らしたくないと思える光景だった。
もし、そんなものが、本当に、嘘偽りなく存在するとするならば、きっとこんな瞬間なのだろう。
それは引き寄せられるように、吸い込まれるように。
僕は名前も知らない、声も性格も知らない、分かるのは目に映る表面の一部分だけのはずなのに、言ってしまえば簡単な一言で片づけられる心理に落ちていった。
生まれて初めての一目惚れだった。
その少女は大きな碧い瞳で僕を見据えていた。
流れるように微風で揺れて、それでいて艶のある飴色の髪は、今にも僕の額をそっと撫でそうで。
唇は瑞々しくて、見ているだけで膨らんでいく想像の熱や柔らかさに息をのんでいた。
言葉を発しなかったことが僕の心情を掻き立てていく。
けど、そんなことではなくて。
僕は何よりも、不思議と安らげる少女の発する波長のようなものに浸っていた。
月は綺麗だけど、それを偽物にしてしまうほど、僕には少女が本物以上の夜月に映って見えた。
その月は瞳を閉じても感じられた。
余りに心地よくて、眠ってしまっては勿体ないと思いつつも、月がこんなに眩しい夜に月も見ないで、僕は再び眠ることにした。
余りに心地よくて、余りに安らげて、身を預けたくて仕方なかったのだから。




