敗戦処理
闇が薄っすらと晴れてきた。
空が白み、山の影から太陽が姿を見せ、大地を照らした。
光で照らされたのは、無残にも焼き払われた、イルフート軍が抱えていた大量の馬車であった。
馬車の周りにいる兵士はうなだれ、負け戦に悲嘆している。嘆いても仕方がない。そう言いたくなったリヒトであるが、イルフートの軍なので言う必要はないと判断した。
陽が上ると、次々と報告が上がってくる。
夜襲で狙われたと思われるものは、食料を積んでいた馬車の荷台であったとのことだ。
死傷者も多数出ているが、被害が大きいのは食料であった。
焼き払われた食料がどれほどのものなのか。この先の戦いに影響する程、深刻な被害にならなければ良いが。
リヒトが危惧していると、馬に乗ったイルフートの軍の兵士が横を駆けていく。
顔には焦りの色が見えていた。妙な胸騒ぎを感じ、シームに兵を任せると馬に飛び乗って追いかけた。
兵士に追い付いたのは、ギルディスの前で頭を下げ、声を張り上げたところであった。
「此度の夜襲で、食料に甚大な被害が出ました! そのため遠征を中断し、タイヌマン砦に戻ります! ギルディス様、どうかご理解をお願い致します!」
イルフートの軍は撤退をしようとしている。
たった一度の夜襲で、それほどの被害が出るものなのか。リヒトは俄かには信じがたく、兵士に問う。
「どれだけやられたのか、報告は上がっていないぞ? それなのに、もう撤退の判断を下したのか?」
「しょ、詳細の報告はまだですが、軍全体の士気も低下しており、このままでは戦にならないとイルフート様のご判断です」
「士気を上げるのも将の務めだろう? 重要な判断を下すなら、やるべきことをやってからにしろ」
「し、しかし」
兵士は口ごもると、ばつが悪そうに顔を逸らした。
ただの一兵士にこれ以上言ったところで、どうしようもない。上の判断を変えるのであれば、同じく上に立つギルディスが話すべきだろう。
「ギルディス、どうする?」
「さて、どうしたものかな。イルフート殿の撤退の意思は固そうに思えるが」
「じゃあ、このまま引き返すのか? たった一日でか?」
リヒトの目が、まだ見えるタイヌマン砦に向いた。
戦をするために後にした砦を、早々に目指すことになるとは誰が思っただろうか。
「仕方がなかろう。俺達だけでは戦えん。今回は引くしかないな。イルフート殿に帰って伝えてくれ。撤退の準備を始めるとな」
「はっ! ありがとうございます!」
兵士はすぐさま馬に乗って、リヒト達の前から去って行った。
その背中かからは悔しさなど微塵も感じない。むしろ、安堵しているようであった。
戦に命を懸けた者の見せる背中ではない。リヒトは心の中で呟いた。
「ギルディス、本当に良いのか?」
「駄々っ子を無理やり連れて行っても役には立たん。少しは気概があるかと思ったが……」
「当てが外れたな。じゃあ、撤退の指示を出す」
リヒトは馬に乗ると、横切る兵士達に撤退の指示を出す。
驚きの顔を見せる者が多く、今の事態を誰も予測できていなかったことが伺える。
リヒト自身、まさか撤退するなどと考えてもいなかった。
納得できぬまま、撤退の指示を飛ばして、リヒトは自分の隊に合流した。
・ ・ ・
タイヌマン砦の会議室の空気は淀んでいた。
遠征に出向いて一日で戻ったのだ。戦う前の意気込みが強かったギルディスの軍は、この事態に苛立ちを隠せないでいた。
イルフート軍の将校は、ギルディス配下の者達をまともに見ようとはしなかった。
「いやぁ、参りましたな。まさか、神騎将に襲われることになるとは」
イルフートが他人事のように言い、軽く笑った。
その言動に、ゴリュウが噛みつく。
「ちったぁ悔しくねぇのか!? 良いようにやられて、よく笑ってられるな!?」
「大牛殿も神騎将の力はご存知でしょう? あれに負けるのは仕方のないことです」
肩をすくめて言う。
負けて仕方がないと思っていることにリヒトは呆気に取られた。
そんなことでは勝てる戦にも勝てない。無神経な言葉にリヒトも声を荒げる。
「負けるって思って戦えるか! 勝って生きる! それぐらいの気概はないのか!?」
「そうは言われましても……。事実、あなた方も神騎将に良いようにあしらわれたではございませんか」
「くっ」
返す言葉に窮した。イルフートの言葉に嘘はない。たった一騎の突撃を防ぐことだけで限界だった。
ロウリがリヒトの横を駆け抜けていく光景が脳裏に浮かんだ。苦い思い出が顔を歪める。
上げた怒気が萎んでいく様を見たイルフートが、したり顔で頷く。
「いくらダーカ・ラーガ殿とは言え、あの神騎将の前では形無しでしたな。な、ギルディス様?」
目を閉じ、静かにしていたギルディスがゆっくりと目を開ける。
曇りのない眼がイルフートに向いた。
「部下の力が及ばず、申し訳ない。この汚名は戦場で返上させていただきます」
「そ、そこまで深刻に捉えなくても。世の中には難しい戦もございます。無理をせず、機を待ちましょう」
「仰る言葉は理解しております。ですが、勝利でしか濯ぐことのできない感情もございます。すぐにとは言いません。冬が終わり、春が来た頃にまた攻めましょう」
「そ、それならば……。では、春から軍備を整えましょう。冬を越すことができるだけの食料の備蓄はございます。いかがでしょうか?」
イルフートがおもねるように言うと、ギルディスがこくりと頷いた。
「良いでしょう。では、我々は中央に戻ります。これからもよろしくお願いいたします、イルフート殿」
言うと席を立って、イルフートに深々と頭を下げる。
慌ててイルフートも席を立ち、首を何度も横に振った。
「いえいえいえ、お願いするのはこちらでございます。冬の間は、カルナ国も動きません。どうぞ、中央で休まれてください」
「はい。ここのところ働きづめでしたので、兵を休ませようと思います。早速ですが明日、ここを発ちます」
「そうですか。承知いたしました。では、今宵は宴と参りましょう。すぐに準備をさせますので、皆様方は別室にてくつろがれてください」
イルフートが手を叩き使用人を呼びつけると、ギルディス軍の面々は別室に案内されていく。
戦の時とは打って変わって軽快に指示を出しているイルフートに、リヒトは呆れていた。
「どうした? 行くぞ?」
ギルディスがリヒトの横に並び、声を掛けた。
「あぁ、分かっている」
「言いたいことは分かるが、今は何も言うな。負けは負けだ。受け入れるしかあるまい」
「……分かっている」
言うと、背中を見せて部屋を後にした。
リヒトも使用人に声を掛けられ、言葉に従って部屋を出ていく。
この屈辱感を抱いたまま、この地を去ろうとしている。負けは負け。ギルディスの言葉がリヒトに重く圧し掛かった。
受けた苦しみを晴らすには、受けたことから目を逸らすか、受けた苦しみを与えた相手に返すしかない。
リヒトは今、どちらも選択することができず、口を苦くしている。おそらく、ギルディス軍の大半が同じ感情を抱いているだろう。
次の戦まで、この苦しみは続く。煮え湯を飲まされた者達は、何を思い、どう過ごすのか。
負け戦の烙印を押された、リヒト達の北の地での戦は終わりを告げた。




