ダーカー、吠える
リュートの背中に当たった戦斧が、地面に落ちる音でリヒトの目が覚めた。
「兄さん!」
叫ぶと、馬を走らせリュートの傍に寄る。
背中を見ると、黒いマントに裂け目ができており、その先に見える鎧にも亀裂が入っていた。
鎧から覗く赤い色は、リュートの背中から漏れている血だった。
「兄さん! 兄さん!」
呼びかけて、体をさする。
リヒトの声にリュートは苦痛の声を漏らしながら、体を上げた。
「全員、退……却……」
顔を歪め、額を伝う汗からリュートの具合の悪さが見て取れる。
今にも倒れそうな体を必死に堪える姿に、リヒトは目に涙を溜めた。
泣きじゃくってしまいたい気持ちはある。泣き声を上げて、リュートの体を支えたい気持ちもある。
だが、リヒトは堪えた。
まだ、泣いて良い所ではないことは軍人となって日の浅いリヒトにも分かっている。
リュートの下した命令を遂行しなければならない。
「全員、退却!」
「よ、よしっ! 退却だ! 森に向かえ!」
ビルタスの声でリュート隊の兵士達は、森へ向けて一気に駆け出す。
リュートも遅れて馬を走らせた。リヒトとビルタスはリュートの後方に付き、不測の事態に備えている。
全力疾走するリュート隊を、態勢を整えた敵軍が猛追しだした。
後方をリヒトは何度も確認し、敵との距離を測る。
このまま逃げることが可能なのか。連戦を重ねたリュート隊のことを考えると、暗い思いが頭をよぎる。
全員死ぬのではないか。リヒトの口から最悪な言葉が漏れようとした。
「散……開……。一人でも……多く……逃がすんだ」
「兄さん! もう、喋らないで!」
「リヒト、みんなを……逃がせ。命令……だ」
必死に絞り出した言葉に、リヒトは小さく頷いた。
バラければ、敵も追っ手を分散しなければならない。リュートの生存確率が上がるに違いないと判断した。
「全員、散開! 生きて……生きてください!」
リヒトの声に全員が振り返った。
兵士達は周りの者達と顔を見合わせ、リュートに目を向けた。
全員の顔色が暗い。後ろめたい気持ちが手に取るように分かる。
自分達の隊長を捨てていくことに抵抗を感じているのだ。
ビルタスも声を荒げて散らばるように伝えたが、それでも離れようとはしなかった。
一塊のリュート隊を敵の騎馬隊が呑み込まんと、一直線に突き進んでいた。
「全員……散開! 僕から……離れろ! 生きて! また会うために!」
リュートは声を振り絞った。必死に上げた声に、兵士達は苦悶し、最後には頭を下げて散らばって行った。
後方を確認すると、逃げようとした兵士を追うように、敵が分散していく。
だが、それでもリュート達を追いかける敵は多かった。
「リヒト……ビルタス……。二人とも……」
「兄さんを置いていくつもりはないよ」
リュートの後方に残った二人が言う。
「隊長といた方が生き残れる気がするんですよ。だから、お供いたします」
「俺もそう思うよ。兄さんとなら、逃げることができる気がする」
明るい声で言うと、リヒトとビルタスはリュートの横に並び、目を見据えた。
痛みで顔をしかめているリュートの目に光るものが映っていた。
それが何かを二人は言うことなく、目を前に向ける。
あと数分もすれば、森に入ることができる。
活路を森の中に見出して、三騎は疾走していく。追う敵軍との距離が、じわじわと縮まっていた。
リヒトは、その光景を忌々しく見ていると、ビルタスが先頭に向かった。
「こっからは俺が先導する。こっちの方が土地勘はあるんだ。逃げ切ってみせるぜ」
にやりと笑うと、馬の足を緩めることなく、森に突入した。
その後に続いてリュートとリヒトも森に入った。平坦な地に生えた木々の合間を縫って、駆け続ける。
リヒトは背後に目を向けると、顔を明るくした。
敵の進行速度が目に見えて遅くなったのだ。
ビルタスに付いて行けば、生きて帰ることができる。馬を叱咤し、森の下草を蹴散らしていく。
リヒトは追っての気配が遠退いていくのを感じ、安堵の息を吐いた時、リュートの姿が視界から消えた。
視線を下に向けると、馬が膝を折って地面に寝転び、うめき声を上げていた。
ここに来て馬が限界に到達したのだ。リヒトは慌てて馬から飛び降りると、リュートに駆け寄る。
更に怪我を負ってはいないかを確認する。外見から見るだけでは、怪我を負ってはいなさそうだった。だが、意識が朦朧としているのか、うめき声だけを上げている。
リヒトは一息吐く間もなく、次の行動を考えなければならない。リュートの馬が駄目になったのなら、自分の馬に乗せれば良い。
だが、二人も乗せた馬の速度で逃げ切ることが可能なのか。
頭を抱えて、何とか答えを導き出そうとするが、良い案が思いつくことなく、時間だけが過ぎようとした。
「リヒト、早く逃げるぞ。隊長を馬に乗せて、行くぞ」
「ビルタスさん、待ってください。二人も馬に乗せたら、追い付かれてしまいます」
「じゃあ、どうするってんだ。隊長を見殺しにするのか? 隠れる場所もないんだ。行くしかないんだよ」
ビルタスの言葉はリヒトも十分、理解している。
木々が生えてはいるが、姿を隠して逃げおおせることなど不可能に近い。
このままここにいても、リュートを助けることはできない。
リヒトは握った拳を更に強く握ると、ビルタスの言葉に従おうとした。
だが、頷こうとはしなかった。リヒトの中で一つの可能性が頭を過る。
このままリュートを見殺しにすれば、馬に負担のないビルタスやリヒトが助かる可能性が高い。
そう。馬に負担がなければ、更に逃げることができるのだ。
リヒトはおもむろに自分の兜を脱ぎ、リュートの兜を外した。
次いで、リュートの鎧と羽織っていた黒いマントを剥ぐ。
「おい、リヒト……。お前、まさか……」
「ビルタスさん、手伝ってください」
「お、おう」
ビルタスの手を借りて、着ていた鎧を外して、リュートの鎧を着た。
リヒトは鎧の具合を確かめると、リュートの腰に掛けていた剣を外す。
兜をかぶり、剣を佩くと、リヒトは黒衣の騎士そのものとなった。
「ビルタスさん、兄さんを連れて逃げてください」
「身代わりになるってのか?」
ビルタスの問いに、リヒトはゆっくりと頷いた。
リュートの助けになりたい。この世界で生きる目標となった思いを、今この場で果たす。
リヒトは死ぬ覚悟を決めて、地面に倒れているリュートの肩に手を回す。
「兄さん、起きて」
「うぅ……リヒト? その姿!?」
「俺が敵を引き付ける。このままじゃ、全滅だからね」
おどけて言うと、リュートが顔を歪めた。
「僕を置いていけばいい」
「それは駄目だよ。兄さん、絶対に死んじゃうじゃないか。でも、俺は怪我らしい怪我は負っていない。兄さんと俺だと、どっちが生きる可能性が高いかな?」
「それは……」
「みんなに言ったじゃないか。生きて、また会うってさ。俺は死ぬ気はないよ。兄さんが死んでから、俺は死ぬんだから。このまま行けば、兄さんは生きることができる。なら、俺は死ぬわけにはいかないよ」
「そう……だとしても!」
リヒトの決意をリュートは拒絶しようとした。
だが、リヒトは目を剥いて、自分の思いの丈を口にする。
「兄さん、俺は兄さんと生きたいんだ! だから、行って。行くんだ! リュート!」
「……リヒト、絶対に生きてくれ。そうしたら、またみんなでご飯を食べよう……」
「うん。約束、必ず守るよ」
リュートの体を支えながら馬に乗せると、そのお尻を軽く叩いた。
ゆっくりと歩き出した馬の上から、リュートが首を回してリヒトを見る。
頬を一筋の涙が伝っていた。
そのことがリヒトは堪らなく嬉しかった。最後の最後まで自分の身を案じてくれた兄の思いが、リヒトの胸を更に熱くした。
遠退いていく背中から目を離すと、荒々しい馬の足音がする方向に体を向ける。
敵は十騎以上。リヒトの姿を捉えると、ゆっくりと囲みだす。
リヒトを取り囲むと、攻め掛かる機を伺っているのを肌で感じた。
リヒトは剣を掲げて、魔力を込める。研ぎ澄まされた剣を構えると、大きく息を吸った。
「我はダーカ・ラーガ! 死にたくない者は下がれ!」
リヒトは咆哮を上げると、敵に向けて飛び掛かった。




