恐怖を越えて
リヒトの瞳に青みがかった世界が映った。
この光景に見覚えがある。リヒトはかつて、この世界に遭遇したことを思い出した。
異世界に転移した日に起きた現象だ。時が止まったように思えるほどの緩慢な世界。そして、リヒトは更に思い出す。
リヒトの思考に追随するかのように、白い文字が浮かんだ。
『左脇に飛び込みますか?』
選択肢でなかったことにリヒトは驚く。
これが意味することは何か。経験から導き出した答えは一つだった。
文字に従う。
右に重心を傾ける。
世界の青が薄まった。その瞬間、時の流れが元に戻った。
「くっ!」
覚悟を決めたリヒトの動きは速かった。
躊躇なく坊主頭の左脇に飛び込んだ。
「何っ!?」
坊主頭は自分の横を抜けたリヒトに目を向ける。
仕留めたと確信していた坊主頭は驚愕し、大きく目を開いた。
その目が更に見開く。
脇をすり抜けたリヒトが身を反転させると、剣を振りかぶった。
腹から声を上げ、坊主頭の左手に向け、剣を振り下ろす。
「はあぁぁ!」
「があっ!? くぬう!」
リヒトの真っ直ぐな剣筋が、坊主頭の左手の二の腕へと伸びた。
坊主頭の盛り上がった筋肉を潰し、その先にある骨を細かく砕くと、二の腕を大きく腫れ上がらせた。
顔を歪ませた坊主頭は舌打ちをし、リヒトに憎しみの言葉を放つ。
「クソガキがぁ! 絶対殺してやる!」
迫力のある物言いだった。
思わず怯みそうになる声だったが、今のリヒトには届かなかった。
リヒトは口からゆっくりと息を吐き、静かに吸う。
集中し、坊主頭の動きだけに注視している。
点を見るような真っ直ぐな目に坊主頭は苛立ちを覚えていた。
「なめんじゃねぇ! ぶっ殺すっ!」
だらりと垂らした左手を揺らしながら、全力で駆け出した。
戦車のように力強い突進が地を揺らす。右手を横に伸ばし、リヒトを両断するための斬撃を放った。
「うらぁしゃぁぁ!」
木々を揺らしそうな咆哮が轟く。
水平に振った斧はリヒトを完全に捉えていた。
坊主頭は振るった時点で勝ち誇った顔をしていた。
敏捷型の鎧を着ているのだ。自分に絶対的なアドバンテージがある。
その思いが坊主頭を愉悦させ、顔が下卑た笑みに染まる。
だが、その顔が恐怖に塗り替えられた。
斧の軌道の下にしゃがみこんだリヒトが剣を寝かせ、坊主頭の顔を凝視していた。
「ひっ!?」
顔と声が引くついた。
と、同時にリヒトの剣が上に振られた。
「せぇい!」
「ぎょぼっ!? あを、あを……ぐぅぅぅ……」
坊主頭は顎を砕かれ、外れた口で呻くと、ゆっくりと大地へと倒れこんだ。
その姿をリヒトはじっと見つめた。坊主頭を倒した余韻に浸っている訳ではなく、ただ見ていた。
突然、静けさに包まれた森に悲鳴が上がる。
「ひぃいやぁぁぁ! 兄貴ぃぃぃ!」
誘拐犯の細身の男の声だった。
リヒトは坊主頭から目を離して、細身の男に体を向けてゆっくりと歩く。
歩み寄る死神に細身の男は尻もちを着いて、恐れおののいた。
「こ、殺さないでっ! た、助けてくだしゃいぃ」
リヒトの足が、男の前で止まった。
見下ろす瞳は温かみがなく、冷めきっていた。
「消えろ」
「はひぃ?」
「消えろ。他の奴らを連れてな」
そう言うと、細身の男の前から捕まった子供達に近づく。
子供達は皆一様に目を潤ませていた。リヒトは縛られた手足を自由にし、猿ぐつわを外す。
「怖かっただろう? もう、大丈夫だ」
「う、う、う……うわ~ん!」
一人が泣き出すと、また一人と泣き出し、三人とも大粒の涙を流していた。
その姿を見て、リヒトの顔がほころぶ。誰かを助けることができた。リュートがリヒトを助けたように、リヒトは子供達を救った。
それがたまらなく嬉しかった。感極まったリヒトも目を滲ませ、柔らかな声で語りかける。
「さ、帰ろう」
子供達は涙を流しながら、何度も頷いた。
リヒトは子供達を先導して、戦いの場を離れていった。
・ ・ ・
リヒトは村に戻ると、子供達と共に警備隊の詰め所に行き、誘拐犯のことを報告した。
人相や戦いの経緯などを詳しく聞かれていると、日も暮れて、夜の闇が訪れようとしていた。
聴取が終わると、子供達は親に連れられて去って行った。
親の感謝の言葉と、子供達の明るい顔で胸が温かくなったところで、家へと帰る。
今日会った出来事を思い出す。刃引きしたとはいえ、鉄の塊である。それをまともに受けた人間はどうなるのか。
ただでは済まないことはリヒトも分かっている。だが、あの事態であれば仕方がなかったはずだ。
色々と考えていると、家の玄関の前にいた。
ドアノブに手を掛けて、ゆっくり開けると、家の中から一つの影が迫ってきた。
「リヒト! こんな時間までどこに行ってたんだ! 心配したんだぞ?」
リュートであった。今の今まで帰ってくるのを忘れていたリヒトは、あたふたとする。
「いや、これには訳があって!」
「ほ~。しょうもない訳だったら、怒るぞ? さ、帰ったんだから、ご飯にしよう」
優しく微笑んだリュートの顔を見て、リヒトのうつむき呟く。
「兄さん。俺……俺、怖かった……」
「ん? どうかした?」
リュートは小首を傾げてリヒトを見つめる。
リヒトは開けた口をきつく結んで、恐怖で濡れた言葉を飲み込んだ。
震える体を必死に堪えて、リヒトは笑顔を浮かべる。
「ううん。何でもないよ」
「そっか。じゃあ、しっかりと話を聞いてやるからな。覚悟しているんだぞ」
「ちゃんとした理由があるんだって」
リュートに促され、家へと入るリヒトの顔は清々しいものだった。
目標に一歩近づいた。リヒトはどこかで思い、喜びを覚えたことで見せた顔だった。