第4章24話 慈愛の聖母
「はあ~、アホだろぉ……ちゃんと、セレーネさんには謝らなくては。それから、エンデのことも」
至極分かりやすい理由でセレーネとエンデの前から尻を捲って――いや、尻尾を巻いて逃げ出して、【砂の城】の屋上に隠れているという全く以て情けないことこの上ない現在の状況に申し開きもできない。
そう言えば昔、入院中の母親に尻を捲って逃げるってのは間違いだって言われた覚えがある。尻を捲るのは戦う時だって言ってたような気がするけど。
それじゃあ、俺もこれから尻でも捲ってセレーネの所にでも行くとするか? 尻尾を巻いて逃げるにしても、コロンのような可愛いしっぽも俺には無いし。
とか本当、本気でどうでも良いことを考えながら、あの日のエンデと話した時のような綺麗な夜月をベンチに座ってボーっと見上げて現実逃避していると。
「あ~、みぃ~つけたぁ~!」
1000年を生きているとは思えないその可愛い仕草で、ピッと人差し指をこっちに向けながらニコニコ顔で屋上へと出て来たのは、何と妊婦のセレーネだった。
ギョッとして立ち上がると、我を忘れて――さっきまでのことなど何処かに忘れてしまって、セレーネの所に駆け寄る。
「な、何やってんだ! 11月にもなってこんな夜の寒空になんか外に出て来て、お腹が冷えたらどうするんだよ? 安定する三ヵ月ぐらいまでが、流れやすいからって大事なんじゃなかったのか? っていうか、今は何ヵ月目なんだよ? あ、今日だから0ヵ月なのか? って、なおさら不安定なんじゃないのか?」
そうして、またどうでも良いことを機関銃のようにくっ喋べっていた。痛い。たぶん、傍から見てると、超絶に痛かったりするんだろうなと思いつく。
すると、俺が息継ぎするのを待っていたように、セレーネがその柔らかく優しい慈愛をどこかに秘めた声でつぶやく。
「あのぉ~、ハクローさん? 妊婦さんを立たせっぱなしというのは~。ちょっと、そこに腰掛けてもよろしいですかぁ?」
「うおっ! ど、どどどどうぞっ、こちらにっ」
その悪戯っぽい小悪魔のような可愛い笑顔に脅されるように、その柔らかい手を取ってそそくさと白い木製ベンチへとエスコートする。
その頃には少しだけ冷静になっていて、彼女にかけていた【ドライスーツ(防壁)】の温度調整を外部制御で少し高めに設定し直して、お腹が冷えないようにしておくのだった。
「うふふ~、こうしてハクローさんと二人っきりでお話しするのも久しぶりですねぇ? おや、エンデもいるので三人でしたねぇ~。
あ~、でもやっぱり少しだけ肌寒いですかね? そうだ、こうしていると温かいですよぉ~?」
そう言って、嬉しそうに隣に座った俺の肩にピッタリとその身を寄せて来る。妊婦さんは体温が高かったかもしれないので、もう少し温度調節を高めの方が良かったか?
とか、セレーネの胸元から香る独特のいい匂いに少しだけホッとしながらも、ボンヤリと考えていると。
「ハクローさん、さっきはゴメンなさいね?」
突然、そんなことを言い出すセレーネに。そうだ、謝りに行こうとしていたんだと今更のように思い出す。
「い、いや、俺の方こそ悪かった。せっかくのおめでただってのに、気分が悪くなるような――それに、エンデの、エンデの――うっ……あ」
しまった、との焦りからか思いつくままに考え無しで口にしてしまったので、肝心のところでつまづいてしまって。
すると、そんな俺の頭をそのふっくらと女性らしい曲線が目立つようになってきた、柔らかな両腕でふんわりとした胸の膨らみに抱き寄せると。
「だいじょうぶ、だいじょうぶですよ? エンデは何処へも行ってません。ちゃんと私の元へと還って来てくれました。辛い目にあっただろうとは思いますが、今度はそんなことを忘れさせるぐらいに、この私がお母さんとして幸せにしてあげますから安心してくださいね?」
そんな慈愛を込めた優しい言葉を、甘い吐息と共に耳元に囁いてくる。ああ、ごめんなさい。エンデを助けられなかった。他にいい手があったはずだ。もっと上手にやれたかもしれない。
「で、でも……デンデは……死んでしまった。あんなにセレーネさんの傍にいたいって、片時も離れないって言ってたのに。ずっと一緒なんだと幸せそうに笑っていたのに……」
やっぱり駄目だった。涙はポロポロと溢れてきて、次から次へと零れていって、セレーネの豊かな胸の谷間に溜まっていった。
俺が泣いたって何にもなりはしないのに。一番悲しいはずのセレーネが辛いのを耐えて微笑んでくれているというのに。唯一人の男が、こんな自分勝手でみっともない。
「うふふ、そうなの? エンデったら、私の傍にいたいって、片時も離れないって言ってくれてたの? ずっと私と一緒で幸せなんだって、笑っていてくれたのね?
知らなかったわぁ~。あの子ったら雪山で遭難して助けたときにも、あんな感じでツーンとしていたし~。この街で再会したときもそっぽ向いてツーンってしてたから、最初は嫌われてるのかと心配したのよぉ?」
そんなはずは絶対に無い。彼女にとっては、あなただけが唯一の家族だったんだから。あなただけが、彼女が望んだすべてだったんだから。
そう、口にしようと顔を上げると。
「うふふ~、そ~ぉ? それは良いことを聞いたわぁ? じゃあ今度はこの子がツーンと嫌がっても、ペッタリとくっついて離れないようにしてあげないとね~?
ハクローさん、教えてくれてありがとぅね?」
そう言って、その綺麗な宝石のサファイアような青い瞳で俺を覗き込むと、鼻先にそっと彼女のぷっくりとした柔らかな唇を触れさせて。
「これは、お腹の中にいるエンデと私からのお礼よ?」
そんなことを囁いて、可愛らしい少女のように微笑むのだった。でも、だからこそ、俺の涙は止まらない。だって、俺には無理だと分かっている。絶対に彼女のように笑うことはできない。
神がいるはずのこんな狂った世界で、あっさりと大切な人が失われてしまうことに耐えられそうに無いのだから。
彼女はボロボロと泣き続ける俺を慈愛をもって抱いたまま、でも子悪魔のように妖艶に微笑むと。
「あら、こんなおばちゃんにキスされるのは嫌だったかしら?」
なんて、また耳元に吐息を吹きかけるように囁いてくるので、柔らかな胸元に顔を埋めるように俯いて黙って首を横に振るしか術はなかった。
彼女の胸に抱かれていると、とても懐かしい良い匂いがして、ひどく昔に家で頻繁に入院する前の母親に抱かれていたときのことを思い出していた。
すると女神の直感を持つセレーネは、ヤンデレってこうゆうの? とでも言うように、綺麗な月光を背中に受けて逆光になると。
「あ、今、他の女のこと、考えてたでしょ? そんなハクローさんは、こぉだぁ~」
とか言って、自分の豊満で柔らかな胸に俺の顔を挟み込むと、ウリウリ~と頬ずりまで始めてしまうのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ぴぃ~~~~、あれは必要なことでしゅかぁ?」
「いやぁ、ルリ。あれは……セレーネもやり過ぎでしょ?」
「わ~ん、私もやったことないのにィ」
「姫様も、今度やってみますか?」
「う~、ハクロー様。密かな伏兵がここにも……しかも相手は女神様とは」
「あら~、ハクローさん。モテモテねぇ? それじゃ、私も」
「わぁっ、お母さんはダメだよぉ~」
「コロンもぉ~」
「ここはフィの言うことを聞いて、待ちよ?」
「ニャア~?」
【砂の城】の屋上へと向かう階段は、何故かまだ王族別荘に帰らず残っている者達も入れて、ギュウギュウ詰めの出歯亀で混沌としてしまっていた。
なお、小さなエマ達お子様三人組みと赤ちゃんのニコラは既にベッドでお休み中で、一人ベッドで横になっていた天使のアシエルは御子守帯の結ばれた『鈴の緒』を包帯を巻いた手で、リン~リリン~と夜風に乗せて静かに鳴らしているのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「で、こいつらが四凶王の二人という訳か? ん? さっき、三人と言わなかったか?」
昨晩は人数が多いので結局は【砂の城】と隣に出した【砂の城】二号に分かれて泊まって、今朝は早くからニースィア冒険者ギルドへとやって来ていた。
もちろんギルドマスター室のソファに座って、真っ赤なチャイナドレスを着て長い脚を組んでいるのは元Sランク冒険者でギルマスのリアーヌだ。
腰まである深い横のスリットから丸見えの太腿が、無用に視線を誘導してくれているはいつも通りか。
その隣には、何故かいつものようにネコ耳受付嬢のニーナがニコニコしながらお茶を飲んでいる。
「ほら、そこの亜空間の床に転がってる二人の隣にふたつあるサイコロがもう一人よ。デカくて邪魔だったから圧縮してあるけど、まだちゃんと生きてるわよ? ほら、声も聞こえるでしょ?」
ふふん、と部屋に開けた亜空間を指差して、同じように細い美脚を組んでふんぞり返って威張っているのはアリスだ。確かに、何やら呻き声のようなものが漏れ聞こえてくる。
それを横目で見ていたネコ耳ニーナが、乾いた笑いを貼り付けて哀れむようにポロッとつぶやく。
「あ、ははは~。あれで生きてるんですかぁ……かわいそうに」
「何言ってのよ、さっきも言ったけどエンデを殺してくれた腐れ外道に人権なんか無いわよ。文句があるなら、今すぐ捻り潰してやるわよ?」
ふんっ、と不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、腕組していた左手を天に向けて握る仕草をすると、突然、亜空間のサイコロから絶叫が聞こえ始めてきたので、ギルマスが慌てて止めに入る。
「分かった、分かったから。そいつらには聞きたいことが山ほどあるんだ。せっかく生きているなら、そのままこっちで引き取るから殺さないでくれ。あれだけのことをしてくれたんだ、最後は必ずキッチリ殺してやるからさ」
「楽に殺してやるんじゃないわよ? 即死なんてさせるぐらいなら、このままこの中でこの世が終わるまで磨り潰しておいてやるんだからね?」
さくらんぼのような唇を尖らせて、アリスが組んで上げたブーツの先で亜空間を指しながら、そんなことを言うのでネコ耳ニーナが凄く嫌そうな顔をしながら訊ねる。
「もしかして、この亜空間ってこの世界から切り離されてます?」
「ん~? 完全に切り離しては無いわよ? ただ、その中は時間はあって無いようなもんだから、苦痛は永遠に続くし、引っ張り出せばその瞬間にこの世界に合わせて帳尻を一気に合わされて激痛に喘ぐことになるでしょうねェ。ああ、何十年もして引き摺り出したら一瞬で皺だらけになって、そのまま灰になっちゃうかもねぇ~」
ヒッヒヒヒ、と嘲笑うアリスの口は三日月のように耳まで裂けていて、ネコ耳ニーナだけでなくコロンまでもが白銀の狐耳をペタンをしてしまう。
「おいおい、家のニーナを怖がらせるんじゃない。綺麗なロシアンブルーのネコ耳が、ペタンとしてしまったじゃないか。
とにかく簡単には死なせてやらんから、こっちに渡してくれ。そいつらの証言ひとつで、アホ貴族の何家かは潰せるんだからさ」
同じく唇を尖らせたギルマスが横に座るネコ耳ニーナの頭を撫でながら、文句を言い出すのでアリスが舌打ちを返して片手を上げようとする。
「チッ、分かったわよ。それじゃ、ここで」
「ここに、そんなバッチイ物を出すんじゃないぞ?」
ギロッと眉の間に皺を寄せてギルマスが睨むので、仕方なくアリスはもう一度亜空間を閉じてしまう。
「わあったわよぉ~。後で、ギルドの牢屋にでも放り込んでおくわよ。ああ、後は例の地下迷宮に去勢して放って来た元男達のことも頼むわね? たぶん100人ぐらいはいたと思うけど」
「ああ、そっちは問題の薬草の回収と合わせてギルドの方でやっておくから心配するな。おっと忘れるとこだったが、公爵様からモニャコ公国行きの指名依頼が出てるから後で受け取っておけ。それで、お前達はこれからどうするんだ?」
亜空間から漏れ出た血と汗と糞尿の臭いが気になるのか、手をパタパタさせながらギルマスが聞いてくる。
「ん? 聖都に戻るわよ? 奴隷から解放されてるはずの獣人族の人達を、こっちに連れて来ないといけないからねぇ」
「はあ~、お前達は本当にいったい何をして来たんだ?」
肩を竦めて答えるアリスに、こめかみをグリグリと指で揉みながらギルマスが大きなため息をつく。
「ん~? 教皇庁で襲われたから返り討ちにしたら、コロンが武闘大会で優勝して、賞品に獣人族の奴隷解放? あれ、違ったか? まあ、そんな感じよ?」
腕組みをしていた片手の人差し指を顎に当てて可愛く小首を傾げながらも、言ってることは物騒極まりない。
「うっ……お前達、それってまさか」
「リアーヌ様ぁ、それはたぶん聞かない方がいいですよぉ~。絶対に碌でもないことになってますからぁ」
酷い言い草だが全く以ってその通りなので、アリス以外はみんながツィーっと視線を遠くにやってしまう。
「あれ? あれあれ? 何でみんなして、どっか向いちゃうのよ? ねえ、ねえってばぁ。ねぇ、ハクローこっち向きなさいよぉ~」
キョトンとしたアリスだけが訳が分からず、Tシャツの裾を引っ張ってくる。