第4章23話 エンデの願い
「ハクロー様……ちょっと見ないとすぐに倒れてしまわれて。もう、本当に仕様が無い人ですねぇ?」
夜になっても目を覚まさないハクローが眠っているベッドの傍に跪き、その手を握り締めて綺麗なアクアマリンの瞳に涙を浮かべているのは、急遽、王族別荘のプチ離宮から駆け付けて来たレティシアだ。
さっきまでハクローの傍を離れようとしなかったルリは、今は哀しそうに紅い瞳を細めて一歩下がった椅子に座って、それでも彼から決して目を離そうとはしない。
それは、彼が目を覚ました瞬間に、絶対に傍にいなければならないという絶対的な確信と必死の覚悟からだった。
そうだ、誰かがエンデのことをハクローに説明しなければならないのだ。そして、それを聞いた心優しい彼がどういう反応を示すか分かってしまうルリには、この場を離れられない十分な理由がそこにはあった。
そう、彼は基本的にヘタレだ。心が非常に脆く壊れやすい。一度、海底に沈んだら、暫く浮上してこないことなどザラだ。
本人は誤魔化しているつもりかもしれないが、パーティーメンバーは誰もがそれに気づいていた。
だから、小さなコロンは今もハクローのシーツの中に潜り込んで丸くなっているし、聖獣ルーも寄り添うように丸くなって寝たふりをして時々薄目を開けている。
妖精のフィはずっとハクローの頭上に浮遊したまま、四枚の虹色の羽から七色の光を振らせながら【淫夢】スキルを使い続けていた。少しでも彼が悪夢を見ることの無いよう。
いつもは無表情で冷静なユウナですら、さっきからベッドの傍を離れようとはせずにウロウロと落ち着きなく歩き回っている。
ただ、アリスだけは壁際の椅子に座ったまま腕組みをして、長く細い脚を組んで目を瞑ったままふんぞり返っていた。それでも、部屋を出ようとすることはなかった。
そうしていると、廊下からパタパタとスリッパの音がして開きっぱなしの扉から入って来たのは。
「はいは~い、みなさ~ん。もう時間も遅いですから、ちょっとだけでも何か食べてくださいねェ? 今日はクラリスと私で、丹精込めて作ったクリームシチューですよ~? 寒くなって来たので、心も身体もポカポカになりますよぉ~?」
妙に明るい声を上げる、不自然な笑顔を張り付けたミラだった。
今日だけはコロンがハクローの傍を離れようとしないので、クラリスが夕食の準備をしてくれていたが、ミラもそれを手伝っていたのだ。
「ああ、そうだ。メイ様とお母様も手伝ってくれていて、実はロールキャベツというものが入った特製なんですよぉ~? うふふ~」
すると、その後ろからペタペタと小さなスリッパの音が聞こえてきて。
「ほらほら~、片付かないんだからサッサと食べてねェ!」
孤児院の陰の院長である小さなエマが、プンプンと頬を膨らませてやって来た。
するとこれには流石にみんな困った顔をして、寝たふりを続けるコロンとルーそれから椅子にかじりついてダダをこねるルリを引き摺るようにして一階に下りて行くのだった。
最後に残された王国第一王女のミラが一番のお姉さんの立場を無くしてしょんぼりしながらも、ベッドに眠ったままのハクローに視線をやってから。
「へう~、私の立場がぁ……。クロセ様、早く起きて来ないとクリームシチュー版ロールキャベツが無くなっちゃいますよぉ~?」
ちょっとだけ屈んでそう優しく耳元で囁いてから、パタパタとみんなの後を追って一階に下りて行くのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ハクローには話しておいた方が良いと思うんだよ」
セレーネの昔話を聞いたあの夜、真夜中に眠れず【砂の城】の屋上に出てみると、娼婦のエンデが一人で夜空の月を見上げていた。
その横顔が妙に寂しそうだったので、見なかったことにしてそっと階段を下りようとしたところで、彼女に見つかってしまったのだ。
すると何を思ったのか、突然のように自分の身の上話を始めてしまう。
「随分と昔に、ラトモスの山に女神様に願いを叶えてもらおうとして山登りをしてさ。雪の洞窟に閉じ込められてそのまま食べるものも無くなって、遂に最後は寒くて眠っちゃってさ、危うく死ぬとこだったのさ。
そんな時、吹雪が止んだ月夜の綺麗な晩に月光と共に現れたのが、当時は誰からも【月の女神】と呼ばれて慕われていたセレーネ様に助けられたんだ。
それからだいぶ経ってからだなぁ、セレーネ様にそっくりな――まあ、天界第7階層から堕りて来られた彼女本人だったんだけど、再び出会うことができてねェ。
まあ、彼女の方は覚えていなかったみたいだけどさ。すっごく、嬉しかったんだよ?
それからは、あたいなんかには何にもできはしないけど、ずっと彼女の傍にいられるようにと、片時も離れないようにしているのさ」
という訳で結局ベンチの隣りに座って、今度は彼女の遥かな昔話を聴く羽目になっていた。何だってこんな話を俺になんかするんだろうと、ボンヤリ綺麗な夜月を見上げながら考えていると。
「おい、ハクロー。お前、聞いてんのか?」
グイっと横から綺麗な顔をして覗き込んで来るので、慌てて誤魔化すように口を開く。
「そもそも、エンデの願いって何だったのさ?」
「ん~? 聞いても面白くないと思うぞぉってここまで話したんだから、まあいっかぁ?」
そう言ってカラカラと笑いながら、もう一度、闇夜に浮かぶ美しい月を見上げて、ポツンと何でも無いことのようにつぶやく。
「家族が欲しかったんだぁ。ほら、エルフって長寿だからか、そういうのってエラく淡白でさぁ。
あたいは変わってたのか、『ただいま』って言って家に帰って、そんで『おかえり』って言ってくれる家族の待っている家が欲しかったんだぁ。
あはは~、おっかしいだろ? そんなことをお願いしに、霊峰ラトモス山にまで行って死にかけるなんてさ?
自分でもバカだなぁって思うんだけど、でもセレーネに出会えたから。いいんだぁ。もう、いいんだよ。ふふふ~」
そう言って、幸せそうに笑うエンデ。
今にも死にそうになっていたセレーネが助かって、幸せそうに笑うエンデ。
これからもずっとセレーネの傍にいられると、幸せそうに笑うエンデ。
だからだろうか、今になってこんな夢を視るのは。
そうして深い暗闇から浮上するように覚醒する自分の意識が、何か大事なことを忘れていると警告する。
忘れるな、彼女には帰る家があったんだと。帰りを待つ家族がここにいたんだと。決して、忘れるな。
だから俺も、『おうちにかえろう』。そんな懐かしい思いと共に、急速に意識が浮上していくのが分かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「――これは。そうか、間に合わなかったのか。また、間に合わなかった」
目を覚ますと、まず最初にエンデの【ドライスーツ(防壁)】への魔力供給が途絶えていることを感知する。そして、すぐさま【ソナー(探査)】でエンデを探すが、グレイのマーカーが虚しく見つかるだけで。
その意味するところの、エンデの死亡について。シーツから手をだすと両目を覆って、何が間違っていたんだろうと考える。
胃の中には鉛でも突っ込まれたように、重い感触が拭いきることが出来ないでいた。
しかし、会いに行かなくては。さっき視た夢を思い出して、そう思い立つとグレイのマーカーが灯る隣の部屋へとふらつく足を踏み入れる。
するとそこには真っ白なシーツのベッドに横たわるエンデ。真新しい純白のワンピースを着て、綺麗なブルネットの髪を三つ編みにして胸の前で可愛いリボンで結んでいる。
薄っすらと化粧もしてもらっているようで、彼女のステータス情報に表示されている目を覆いたくなるような数々の身体の損傷の原因となった暴行を受けて死んだようには見えなかった。
ああ、ごめんなさい。何もできなかった。また、間に合うことができなかった。
彼女から、大切な家族を失わせる結果となってしまった。だから、セレーネに会いに行かなくては。彼女が自分を投げ捨ててでも欲しがっていた、大切な家族の元へ行かなくては。
そう奥歯にギリッと力を入れて、立ち上がると振り返った瞬間にルリが胸に飛び込んで来る。
しまった、探査魔法を見てなかった。気配察知もできていなかったようだ。こんなことでは、また失敗を繰り返すことに。
ああ、駄目だ。それだけは駄目だ。この温もりを失う訳には絶対にいかない。
「ハクローくんっ! おかえりなさい、うふふ~」
ガバッと抱きついた勢いのまま、俺の名前を叫ぶ彼女は。その綺麗な紅い瞳に涙を溜めていて、でも優しく微笑むとそんなことを言う。そして、ギュッとしがみついたまま、嬉しそうにクスクスと笑うのだった。
だから、そっと彼女のその細い身体を抱きしめると。その白髪に顔を埋めるようにして、震える声でつぶやくように囁く。
「ああ、ただいま。ルリ、ありがとう」
必死に零れそうになる涙を堪えて、そう言うのが精一杯だった。だから、彼女の次の言葉に呆然としてしまう。
「セレーネさんが赤ちゃんできて、エンデさんが転生ですよ?」
その意味不明だが温かい言葉に、我に返るとルリを抱きしめたまま。マップでは一階のダイニングで食事を取っているらしいセレーネの所まで全速力で駆け出す。
「わきゃあ~っ」
「わにゃ!」
「「きゃあ!」」
途中でコロンとレティシアとミラ達が上げる悲鳴と共に擦れ違うが、「すまない、セレーネに!」と叫んで通り過ぎる。
そうしてダイニングのテーブルについて――あれは、クリームシチューのロールキャベツか、を食べているセレーネの姿を見つけるなり【解析】で視て。
その驚くべき内容に、ルリを抱いたまま膝から崩れ落ちてしまうと。
「すいま――!」
思わず謝ろうとした言葉を、ルリがギュッと抱きついたままそれを吐き出させない。
グリグリと鼻先を引き締まった胸板に擦りつけるようにして、でも必死に縋りつくようにしてそれをさせることはない。
すると、ゆっくりと席を立ったセレーネがやって来て目の前に膝を着くと、自分のお腹を擦りながら。
「ハクローさん、天使ガブリエル様のお告げで娘を身籠ることができました。エンデは生まれ変わってでも、私のお腹の中に還って来てくれたのですよ? だから、ハクローさんは」
「よかった、これで念願叶ってお母さんですよ? ようやく、自分の子供が持てましたね? 本当におめでとうございます。そうだ、欲しい赤ちゃんグッズがあったらガンガン言ってくださいね? バンバン錬成しますから!」
たぶん泣きそうだっただろう顔に、パッと笑顔を取り繕って張り付けると、気がつけばセレーネの言葉を遮るように元気一杯、余計な事を叫び始めていた。
「……ハクローさん。あなたには感しゃ」
「あ、お、俺、ちょ、ちょっと」
困ったようにセレーネが柔らかくふっくらしてきた両手を差し出して来るが、逃げるようにそれを遮るとルリの腕すらも振り解くようにして立ち上がると足早に走り去ってしまう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「はあ~、ハクローのヤツ。逃げたわよ、あのヘタレ」
さっきから不機嫌そうに腕組みをしていたアリスが、ブスッとした声でため息と共に吐き捨てるようにつぶやく。
目を覚ましたハクローがダイニングに飛び込んで来たかと思うと、何を言う間もなくすぐさま出て行ってしまって誰もが口を閉ざしたままだったのだ。
厳しいアリスの言葉に我に返ったセレーネが、眉を下げてしまって珍しくしょんぼりとつぶやく。
「すみません、私が不用意なことを言おうとしたばかりに」
「セレーネ様は悪くない。あれはクロセくんが――自分の力不足を嘆いただけ」
そうユウナが庇うようにして、必死にそう取り繕おうとする。
「ま、まあ、クロセ様も男の子ですから。気持ちは分からなくも無いですが」
「姫様、ここは分からなくてはならない所ですよ?」
肩を落としたミラも悲しそうにつぶやくが、クラリスは相変わらず手厳しい。
「ハク様ぁ、こぉ~ん」
「チッ、ハクローったらコロンを鳴かすんじゃないわよ」
「ニャア……」
白銀の狐耳をペタンとさせたコロンが元気なくその名を呼ぶが、妖精のフィは不貞腐れたように悪態と共に吐き捨ててしまう。聖獣ルーも元気なく鳴くだけだ。
「ハクローお兄ちゃんもご飯食べれば元気でるよ?」
「そ、そうだねぇ?」
「……そうかなぁ?」
小さなエマとコレットにジーナには、ちょっとだけ難しかったようだ。
「ハクローさんは男の子ですから、思うとこともあるのでしょう」
「お母さん、たぶんね彼はセレーネさんに赤ちゃんができたことも、エンデさんが転生できたことも嬉しかったのよ。勿論、エンデさんが亡くなったことは悲しいのは当然なんだけど」
母親のハクローを思いやる言葉を聞いて、元日本人であると同時に転生者でもあるメイが哀しそうに、でも日本人としてこの世界の生活も長い彼女は最後に口篭もってしまう。
「ハクロー様はエンデさんを助けられなかったことで、自分を責めておられるのでしょうが――それでも」
自分は彼に助けられたという思いが、ついレティシアの言葉尻を重くする。
でもルリは一瞬、彼が立ち尽くすように膝を着いて両手を差し出すセレーネを見つめた時の、今にも泣きだしそうな顔を忘れることができなかった。
「ハクローくんはセレーネさんが言おうとしたことは分かっていたんだと思います。それよりも、セレーネさんが自然に言ったことが、彼を許せなかったんでしょう」
「私がですか?」
セレーネが何を言っただろうかと首を傾げるが、特に変な事を言ったつもりはなかった。当然だ、この世界の人間にとっては別段普通のことなのだろうから。
「クロセくんはこの世界に来るまで、女神様も天使様も見たことがなかった。だから、自分が助けられなかったエンデが女神様と天使様の手によって救われたことに忸怩たる思いがある」
さっきよりは【賢者の石】を持つユウナが少しだけ多弁に語るが、それでも女神が身近にいる世界に住む者達にはその真意を掴みかねてしまっていた。
だから、辛そうな顔をしたルリは哀しそうにそっとつぶやく。
「ハクローくんは神の奇跡を恐れています」
だが、やっぱりみんなは首を捻るばかりで、とうとうアリスがため息をついてそのまま吐き出す。
「それじゃ、余計に分からないわ。いい? ハクローは例え相手が神だろうと、家族を――特に、ルリを守るためには死ぬと分かっていても戦うわよ?」
「そ、それは……また」
「ええ、姫様。無謀ですね」
流石にそれは無理があるだろうと、ミラとクラリスが言葉を詰まらせる。
「そう……ですか。それは……つい浮かれて、私が余計な事を言ったばかりに」
しかしそれを知ってもなお、元【月の女神】であるセレーネは哀しそうに眉を下げて自分を責める。
「いえ、セレーネさんはちっとも悪くなんか無いですよ? あそこは逃げたハクローくんが悪いのですから。
それに、あのままだと彼はあなたのお腹に抱きついて泣き出していたかもしれません。だから、逃げてくれて良かったのですよ?」
元女神につい言い過ぎたかと、ルリが明るい口調でフルフルと指を振りながらおどけて見せる。すると一瞬だけキョトンとしたセレーネはクスクスと嬉しそうに微笑みながら、妖艶な手つきの仕草で自分のお腹をそっと擦ると。
「あら、あらあら、まあまあ。うふふ~、私は別にお腹に抱きつかれても大丈夫ですよ?」
「う……」
しまったという顔をするルリだが、後の祭りだ。それを見ていて、思い出したようにポンとアリスが丸い拳を手のひらに落として。
「あ~、そう言えば前にルリの生理が戻った時も、あのアホはルリのお腹に抱きついちゃって泣き出しそうだったから、ねぇ~?」
「「「「「ええ~!」」」」」
「「あ~。あれ、ねぇ……」」
「で、でへへ~」
ギョッとして黄色い声を上げるレティシアにミラとクラリスそしてメイとお母さんとは対照的に、小さなコロンと妖精のフィは視線を遥か遠くにやってしまう。
ルリはその時のことを思い出したのか、何やら恥ずかしいようで頬を染めてデレデレし始める。
「まあっ、それでしたら。私なら、いつでもド~ンと来いですよ?」
ふんすっ、とまだまだ細いお腹を出して見せる新米妊婦のセレーネに、ずっと静かにソファで横になっていた包帯を巻いた天使のアシエルが指先だけをピッと起こして。
「セレーネ、お母さんはお腹を大切にしなければいけない」
と、子宮の天使であるアルミサエルらしい苦言を呈して見せる。
すると、千年の星霜を生きた【月の女神】たるセレーネは可愛らしい小さなピンクの舌をペロっと出して、まるで幼妻のようにしか見えない仕草でお腹のエンデにそっと手を触れると、小悪魔っぽく笑って見せのだ。
「あら、エンデ。怒られちゃいまちたよ?」