第3章58話 本当の結末は
「もう大丈夫ですよ。ハクロー様がずっと抱きしめていてくださったので、何だかポカポカです」
レティシアが麻痺毒で動けないのを知っていて、襲って来るアホ孫のいる公爵屋敷に彼女を置いておくことはできなかったので、サッサと転移魔法で王族別荘のプチ離宮まで一足先に帰って来ていた。
「すまなかったな。やっぱり俺も付いて行けば良かった。幸い怪我は無かったが、怖い思いをさせてしまったな。依頼が終わるまでは、ちゃんと傍にいると約束したのに」
既に日が暮れてしまった二階の客室のベッドに横になったレティシアが、いつかのようにベッドに腰掛けた俺の膝に小さな頭を乗せていて、わずかに表情を曇らせると――しかし、哀しそうにしながらも微笑んでから。
「いいえ、一人で行くと言ったのは私自身ですし、ハクロー様の防壁魔法で怪我はありませんでした。本当にありがとうございます」
「いや、俺達は女神の加護で状態異常耐性があるからすっかり忘れていたが、レティシアの魔道具には状態異常耐性も付与しておくべきだった。本当に迂闊だった、すまない」
すると、太腿の上からこちらを見上げると少し悲しい顔をしてから、どうしたらいいのか分からないと言った風にレティシアが苦笑してしまう。
「それをおっしゃるなら、私も実の母があのような真似をするとは夢にも思っていませんでした。迂闊と言ってしまえば、迂闊過ぎます」
「それは、子供が親に対して言う言葉では無いはずだから――レティシアは悪くはな無いだろう?」
俺がそう言い切ってしまうと、横になったままで手を伸ばして来てそっとその細い指を俺の頬に触れさせながら、綺麗なアクアマリンの瞳を細めて微笑む。
「ええ、ありがとうございます。だから、ハクロー様もそんなに哀しそうな顔をなさらないでくださいな。私まで何だか哀しくなってしまいます。ふふふ」
「――ああ、すまない。そんなつもりは無かったんだ。俺の方こそ、悪かったな。ありがとう」
そう言って、彼女の透き通るようなその頬にそっと触れると、頑張って笑って見せる。たぶん、上手には笑えていなかったんだろうと思う。
だって、その少女はわずかに微笑んだ綺麗なそのアクアマリンの瞳に涙を湛えていたんだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「いやだぁあああ! たすけてぇええええ! ぎゃああああ!」
合同演習の祝賀会が終わった公爵屋敷の応接室で、部屋の隅で頭を抱え小さくなって糞尿を漏らしながらガタガタブルブルと震えているのは公爵の孫のテオファヌだ。
その姿を少し離れてジッと見つめている、公爵に正妃と老婆、そしてミラとクラリス、それからアリスとルリにコロン、妖精のフィと聖獣ルーにユウナがいた。
「これは……何とも。経緯は聞いたし、そこまで我が孫が馬鹿だとは思わなんだが。貴殿達に迷惑をかけたことはこのとおり詫びよう、その上で何とかならんもんか?」
苦虫を噛み潰したようような顔をした初老の公爵があろうことかぺこりと頭を下げるので、つられるように隣りに座っている正妃も辛そうに言葉を挟む。
「あれでも、将来は公爵家を継ぐべき一人として期待されていたのよ」
すると、中空に漂い腕組みをして見下ろす妖精のフィが、一気に老け込んでしまった公爵と疲れた様子の正妃の二人を見据えて問いかける。
「これは私のスキル合成の白昼夢だ。今、そこの屑が見ているのは、その屑自身がレティシアにしたのと同じ、抗うことのできない圧倒的な暴力に押しつぶされる光景だぞ。
それを理解した上でそこな小僧と小娘に問うが、襲われたのが貴様達の大切なこのミラであったとしても、それでも貴様達は同じ言葉を口にできると申すか?」
「くっ……そ、それは……しかし、あれでは余りに不憫でならん」
「……ひっく」
視線を落としたまま眉間に皺を寄せた初老の公爵が辛そうにつぶやく。正妃も名指しされた年頃の大切な娘を持つ親としては、俯いてしまって返す言葉が無いようだ。
そんな王国を代表する分別のある大人であるはずの二人を睨みつけるようにして、同じく腕組みをしたアリスがフンッと鼻を鳴らして吐き捨てるように言い放つ。
「何を甘ったれたことをいってんのよ? 自分は麻痺毒で動けない非力な女を一方的にタコ殴りにしておいて、自分自身はそれをやり返されたら嫌だとでも言うつもりなの?
いい歳をしたあんた達がそんなんだから、あんな屑のお坊ちゃんに育っちゃったんじゃないの?」
「アリス様、そうは言っても公爵様も人の子の親なれば、お気持ちも察するに余りあるかと」
このニースィアで公爵を敵に回す危険性に配慮したミラが穏便な落とし所を模索するが、女神の半身であるユウナが紫の瞳を細めて静かに問い返す。
「親の気持ちを察せよというのであれば、異世界に残されたこの者達の親から大切な我が子を無理やり奪い去った貴様たち王族は、一族郎党を根絶やしにされても文句は無いのだな?」
「うっ! そ、それは……も、申し訳ありません。謝って済むことでは無いことは重々承知しておりますが」
ミラが額に汗を浮かべて謝り倒す横で、同じく先程から眉間に皺を寄せたまま俯くしか無い初老の公爵と正妃の二人を横目で見ながら、おもむろにノホホンとした声を上げたのは、初老の女性だった。
「ん~、子を産んでもおらんミラが謝ってもしょうがあるまいて。そこの隅で震えておる馬鹿は今日一日ぐらいはそのまま、自身のやったことを魂に刻んで反省でもしておるがよかろう。
それから公爵家はそこな馬鹿から継承権を剥奪して当面は軟禁、現在学園に通っておる妹君に将来は家督を託すのが無難な所かのぉ?」
「あのぉ~、ところでお婆ちゃんって、前に温泉街エビヤーノのカフェでお会いしましたよねぇ?」
物知り顔で正妃と公爵に苦言を呈するお婆ちゃんに、ルリが小首を傾げながら問いかける。
「おお~、自己紹介がまだじゃったか? まあ、名前なんかより【大賢者】という通り名の方が呼びやすかろう?」
「「ええっ?」」
ビックリするアリスとルリに、【大賢者】と名乗った老婆はケラケラと笑いながら。
「ははは、別に【鑑定】しても構わんぞ? ほれ、ほれほれ~?」
「あ、本当だっ。お婆ちゃんって凄かったんですねぇ~」
ほやぁ~と、驚いて見せるルリに、それが嬉しかったのか、ふぉほほほ~と笑いながらクネクネとし始める【大賢者】さん。
「まあ~ねぇ、そ~でもないけどねぇ。
ああ、後はあの馬鹿の両親――ここにはおらん公爵の息子夫婦のことは心配いらんぞ。もう既に十年以上前に二人共に亡くなんっておるでのぉ。まあそれもあって、あの馬鹿はミラのことを姉上、姉上と呼んで周りが引くほどに執着しておったんじゃがの。
だからと言って、可愛いミラに付きまう言い訳にはならんし、勿論、麻痺毒で動けん少女を殴って良い理由にはならんがな?
これに懲りたら、未だに公爵位である兄上は今まで先送りにしておった、とっくに二十才を過ぎてながらこの様の不詳の孫の教育をいちからやり直すのじゃな」
「う……この歳になって【大賢者】とは言え、妹のお前に説教されるとは思わなんだぞ。わかった、儂も残りの人生、そんなにやりたいことがある訳では無いからの。
ここはひとつ一念発起して、公爵家の跡取りとしてではなく、唯の一人前の人間となるよう鍛え直してみるかのぉ?」
若干しょんぼりした様子で不貞腐れた初老の公爵がわずかに顔を上げるが、ミラはそれでも自分の放った取り返しのつかない不用意な言葉を思ってか、辛そうに長い睫毛を伏せたままなので。
「ほら、ミラもそんな顔をしとらんで。彼女らを親元に還すのは今は困難かもしれんが、これから長い時間をかけて調べることはできるし、この世界で彼らの子を生して親としての幸せを教えてやることはできるのだぞ?
じゃから、そんな顔はするな。綺麗な顔が台無しじゃ。ふぉほほほ」
「お、祖叔母様ったら、こ、子供なんてっ! こ、ここ、子供なんてまだ早過ぎましゅぅ~」
カラカラと笑う【大賢者】のお婆ちゃんに、パタパタと手を振って踊り始めてしまうミラレイア第一王女を見て、ニヤニヤと笑いながら正妃が意地悪くも耳元で囁く。
「別にそなたに産めと申しておる訳では無いぞよ?」
「うきゃあ~~~っ! しょ、しょんなことはっ、お、思っていましぇん~」
とうとう顔を真っ赤にして煙を上げ始めてしまうミラを見て、アリスもニヤニヤと悪い顔をしてルリの耳元で囁く。
「あら~、あっちは正妃な母親やら祖叔母様な【大賢者】までが公認なようで、手強そうよぉ~?」
しかし、そんなルリは紅い瞳を細くして嬉しそうに、どこまでも穏やな微笑みを浮かべながら、ミラと正妃の仲睦まじい親子のやり取りを静かに見守っているのだった。
すると、そんなルリの様子に気がついたコロンにフィとルーにユウナが、そっと声をかける。
「……ルリおねーちゃんにはコロンがついていましゅよ?」
「フィもいるわよ?」
「ニャア~」
「ほら、ルリも無理に笑わなくて良いから、元気だして?」
ペタっとふくよかになってきているルリの柔らかな胸に飛び込んで来た、小さなコロンの白銀色の長髪と狐耳に顔を埋めるようにして、声をかけてくれたみんなにお礼の言葉を漏らすルリ。
「……うん。うん。ありがと。コロンちゃん、ありがと。フィちゃんもありがと。ルーもありがとね。ユウナちゃんもごめんね、ありがと」
小さなコロンを抱き締めたまま俯いてしまったルリの、わずかに震えるその肩にそっと手を触れてアリスが無暗に明るく声をかける。
「さあっ、ハクローが一人でレティシアの面倒を見てると心配だから、とっとと帰るわよ!」
◆◇◆◇◆◇◆◇
その夜半過ぎの公爵屋敷にある、薄暗い中でロウソクの灯りだけがわずかに足元を照らす地下牢には、両手を鎖で繋がれて天井から吊られたクライトマン侯爵夫人がいた。
「侯爵夫人である私にこんなことをしてっ、どうなっても知らないわよ!」
未だに高飛車な態度は健在なようで、牢屋の鉄格子でできた入り口から眺めていた初老の公爵が隣りに立つ老婆に声をかける。
「どうにか、なるのかのぉ?」
「い~え、どうにもなりませんなぁ。おい、そこな売女。よくも【大賢者】たる我が甥に、つまらぬ余計なことをしてくれたのぉ?」
老婆しか見えない【大賢者】の台詞にギョッとしたクライトマン侯爵夫人は、さらに騒がしく喚き出す。
「だ、【大賢者】殿っ! お戻りになっておられたのですかっ? これは何かの間違いでっ、助けて下さい! 【大賢者】様ぁ!」
「馬鹿を申せ。【大賢者】たる儂が何も知らぬと本気で思っておるのか? 貴様の屋敷に入り浸っているあの背の高いイケメンの自称男爵の若いツバメじゃがな――あれは、帝国の間諜じゃぞ?
そんなことも気付かずに実の娘まで巻き込んで、とことん糞のような淫売じゃな?」
「へ?」
ポカンと呆気に取られて口を開けっぱなしにしたクライトマン侯爵夫人は、天井から吊られたままドレスの背中を切裂かれて白い肌を剥き出しにされる。
すると突然我に返ったのか、意味不明で聞くに堪えない言葉を喚き散らし始める。
それに構うことなく、初老の公爵がその耳元にそっと囁く。
「ああ、じっとしれおれよ? 動くと術式が固定化できずに、何度でも焼き付くまでやり直すことになるからの。ほれ、やれっ」
「や、やめてっ、こんなことをしてっぎゃああああああ!」
背中一杯もある大きな焼印をジュゥ~~っと当てられて、焼きごての跡が綺麗に焼き付くまでの間、気を失うこともできずに声の限りに絶叫し続けるクライトマン侯爵夫人。
それの一部始終を冷めた目で眺めていた公爵は、地下牢に漂う焼けた人肉の焦げ臭さと垂れ流されたばかりの糞尿が混ざった異臭に、手をパタパタと振りながらもフンッと鼻を鳴らす。
「家の馬鹿孫でも儂の可愛い孫じゃ、貴様のような糞婆の良いようにされてよい子ではないわ! その刻印は呪術魔法陣になっておってな、儂ら公爵家に良くないことを考えると――」
「こ、こんなことして絶対に許さなぎゃあああああ!」
白目を真っ赤にした涙目で睨みつけてきていた、クライトマン侯爵夫人の手足の指先から白い煙が立ち昇り始める。
「――身体の末端から溶けて行く呪いじゃ、せいぜい碌でも無い考えは捨てることだな。ああ、貴様の夫は侯爵位なしの唯の一兵卒として帝国との最前線送りになることが決定したから、まあ五体満足で生きて帰って来ることでも祈っておれ。
貴様らの命を取らんかったのは、あんな目に合わせられたにもかかわらず貴様達の娘本人からの歎願があったからだ。
精々、出来の良い娘を持った幸運を女神様に感謝するのだな、ふんっ」
そう言い放つと公爵と【大賢者】の二人共、その手足の先から白煙をあげて激痛に絶叫し続けているクライトマン侯爵夫人を置き去りにして、サッサと地下牢から出て行ってしまうのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「はぁはぁはぁ、くっそ~っ。あの侯爵婆め、しくじりやがってぇ。やっとここまでゲロ年増の糞婆の夜の相手までして仕込んだってのに、全部パアかよぉ~。ついてねえなぁ、畜生~」
分厚い雲に遮られて月明りも無い、真っ暗な海沿いの王国第二の大都市ニースィアの郊外の草原を馬でひた走る、一人の背の高いイケメン。
その街道の先に雲の切れ目から、月の照らす明かりが射してきて――しかし、道の真ん中には漆黒の暗闇が依然としてそこにはあって。
「何だ? 月の影か? いや、あれはがぁあああああ!」
何が何だか分からない内に馬から転げ落ちて、したたかに地面を舐めていた。
全身を強く打ち付けて息ができないイケメンは、それでも後ろで同じく倒れている馬に視線を向けるとピクピクと痙攣しているが、その四本の脚が膝から先が無くなっていた。
「な、何だってんだっ!」
愕然としながらも周囲を見回して、やはり目の前に浮かぶ漆黒の暗闇に視線を向けて睨みつける。
「ば、化物か?」
「こんな素敵で妖艶な美人のお姉さんに向かって、何てこと言うんだ? 本気で、コロスぞっ!」
そんなことを言いながら、その漆黒の暗闇から姿を現したのは真っ赤なチャイナドレスを着て同じく赤いピンヒールを履いたダークエルフの美しい女と、ネコ耳の小さな少女だった。
するとロシアンブルーのネコ耳をピクピクさせた小さな少女が、抱きついているアッシュブロンドの髪を逆立てているダークエルフの美女に向かって朗らかに笑いかける。
「ははは、リアーヌ様ったらぁ。簡単に殺しちゃ駄目ですよぉ~。ちゃんと、お話を聞いてからでないと~」
「お? おう、ニーナ。そうか? それじゃお前、帝国から来た間諜の若いツバメであることは分かってるんだが、そのくだらない目的とやらを」
「くっ」
「あ」
リアーヌが話をしている途中だというのに、すっぱりと走って逃げ出してしまう空気も読めない背の高いイケメンの若いツバメ。
「何て失礼な阿保ツバメなんでしょうか! リアーヌ様のせっかくの決め台詞も聞かずに逃げ出すとは、とんだチキン野郎ですっ」
「あ~、ニーナ。面倒臭いから殺して良いか?」
せっかく金色の登り龍をあしらった真っ赤なチャイナドレスを着てバインバインのナイスバディを見せびらかしてキメのポーズまで取っていたのに、若いツバメに逃げられてガックリ肩を落としてしまったリアーヌが悲し気につぶやく。
「はい、リアーヌ様。あんな糞ツバメなんか、殺っちまってください!」
「よしっ、ていっ!」
背中を見せて【加速】しながら疾風のように駆けて、既に数kmも逃げていた若いツバメの首から上が漆黒の霧に包まれたかと思うと、次の瞬間、首から上のない若いツバメの身体が脊髄反射だけの惰性でゆっくりと減速しながら走っていた。
「ふぅ~、塵屑のような雑魚の癖に手間取らせやがって。あー、そこに隠れている帝国の監視員さん~。あ~、逃げないでくださいね。逃げても殺されるって、見たでしょ?」
ネコ耳のニーナがしっぽをピクピクとさせながら、街道側の木陰へと月光に輝く瞳孔を開いた瞳を向けてニヤァ~と笑うと、リアーヌが手元の漆黒の暗闇から手を引っこ抜いてポイッと何かをその木陰に向かって投げつける。
「帝国の連中に言っておけ、この私の――【漆黒の魔女】のテリトリーで勝手な真似をするな、とな。次に余計な真似をしやがったら、漆黒の闇で帝国全土を覆い尽くしてやるぞ? 分かったな?」
その言葉に答えるように、ボトッと木陰から若いツバメの首が転げ落ちて来て――後には帝国の監視員の気配は残されてはいなかった。
「さてと、仕事は終わったんだろ? ニーナ、帰るぞ」
「はい! リアーヌ様っ、ぴとっ」
「わわ、そんなに抱きつかなくても大丈夫だと何度言えば分か」
リアーヌの苦笑しながらの台詞の途中で、街道の真ん中に浮いていた漆黒の暗闇へと姿を消すと、後には分厚い雲に月が隠れた本当にどこまでも続く暗闇に沈むように、首と胴体が泣き別れになった元はツバメだった死体だけが残されていた。