第3章42話 キスマーク
「はあ~、だから大丈夫だって言ったじゃないのよ?」
「だってだってぇ~」
「これはこれで大丈夫なんでしょうか?」
「そうですね、姫様。あんまし大丈夫じゃないかもしれませんねェ」
今朝はまだ日も昇っていない早い時分から、ハクローとレティシアが寝ている客室の扉を少しだけ開けて中を覗いているのは、アリスにルリそしてミラとクラリスだ。
ユウナは呆れた顔をして、その後ろで黙ったまま『車椅子』に座っている。
【魔石】で照らされた薄暗い客室の天蓋付きベッドの端には、ハクローが腰掛けていて背中を壁にもたれている。疲れたのか、眠ってしまっているようだ。
上半身はレティシアにTシャツを取られたと言っていたので何も着ておらず、無駄な贅肉どころか最低限の引き締まったライト級のボクサーのような筋肉が露わになっていた。
そしてレティシアは座ったまま眠っているハクローの太腿に、縋りつくようにして丸くなって。膝枕されて気持ちよさそうに寝息を立てていた。
それを覗き見ているルリが、頬を膨らませて小さな声でつぶやく。
「うう~~、私も膝枕してもらったことないのにぃ~」
「じゃあ今度、ルリがしてあげれば良いじゃないのよ?」
「ぴぃ! わ、わらひはべちゅに――ぷしゅぅ~~」
アリスのあっさりした端的な切り返しに、顔を真っ赤にして煙を出してしまう純情なルリさん。
「いーなぁ、あんなに幸せそうに寝ていて」
「はい、姫様。これはなかなか乙女冥利に尽きますねぇ」
思わず本音とも取れるつぶやきを漏らすミラレイア第一王女に、同じように侍女筆頭のクラリスが素で返してしまう。
その台詞を聞き流すように、アリスがヒョイヒョイと手を振る。
「はいはい、馬鹿なこと言ってないで。二人を起こすと不味いから、サッサと戻るわよ」
「「「へ~~い」」」
「はあ~」
だいぶ肌寒くなってきた朝の廊下には残念なルリとミラにクラリスと違い、一人冷静な無表情をユウナが仮面のように張り付けていた。
何故かわざわざ『車椅子』にもかかわらずついて来ていた、そのエルフの少女のホッとしたような小さなため息が反響する。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「う……ん……んん?」
レティシアが薄目を開けるが、知らない部屋が視界に飛び込んで来ているのだろう。綺麗なアクアマリンの瞳をパシパシとさせてから、コロンと寝返りを打って上を向く。
「知らない天蓋……?」
そんな聞き覚えのある台詞に近いつぶやきに、クスッとわずかに笑いが零れてしまう。
すると、ゆっくりとその宝石の緑柱石のようなアクアマリンの瞳を動かして。俺と目が合った。
「……え?」
「ああ、おはよう。良く寝ていたから起こさなかったよ。昨日はレストランでレティシアが眠ってしまったから、悪いとは思ったんだけど連れて来てしまったんだ」
寝間着が若干肌けて覗く、豊かな胸元から段々と赤くなっていく。
顔まで真っ赤になるころには、自分が天蓋付きの大きなベッドの上で俺の膝枕で横になっていることを理解したようだ。
「あっ!」
そう小さな声を上げると、身体に巻き付けたシーツの中に手を突っ込んでから、少しだけホッとした様子で、でも恐る恐るといった感じで口を開く。
「おはようございます、ハクロー様。ところで、どうして裸なんですか?」
「ああ、それは昨日の夜にレティシアをベッドに運んだ時に、Tシャツを掴んで離さなかったからねぇ。そのまま貸してあげたら、たまたまなんだけど、全部洗濯していて【時空収納】にも着るものが無かったからだよ?」
「え? あ、これって」
そう言って、自分がしっかりと胸に抱いて手に握り締めていた俺のTシャツを改めて確認すると、またさらに顔が赤くなってしまう。
「と、ところでハクロー様はこんなに引き締まったお身体をされていたのですね?」
話しを逸らすようにそんなことを言いながら、細い指を俺の贅肉の全く無い割れた腹筋にそっと触れさせる。
そのまま、スッとそのひんやりとした指先を添わせてきた。ちょっとくすぐったい。
「あんまり筋肉マッチョなサーファーってのも、ねぇ? 筋肉で重いのも、ボードで浮くのにどうかと思うしなぁ」
「クスクス、こうしていると何だか、いけないことをしている気分がします。まあ、本当にいけないことなのかもしれませんが」
そうつぶやくと俺の太腿に頭を乗せたままで、腹筋に添わせていた手をそっと伸ばして俺の頬に触れてくる。
「でも、とっても幸せな気分です。ふふふ」
「そうか、よく寝ていたようだからな。疲れも取れたのなら、良かった」
そして、綺麗なアクアマリンの瞳をクリクリとさせて、ちょっとだけ不思議そうな顔をすると。
「ところで、ハクロー様?」
「なんだ?」
「その左腕の魔法陣はともかく、両腕についている沢山の歯形はどうされたのですか? もしや、私が噛みついたりして?」
「ああ、違う違う。昨日、ちょっとパーティーメンバーとふざけていただけだから。まあ、罰ゲームのようなものかな?」
「まあ、そうでしたか。うふふ、それでは私も」
何となくだが、カンの良い彼女には歯形の意味が分かったのか。少しだけ悪戯っぽく、でも妖艶な微笑みを浮かべる。
そうして身体を起こすと、その歳に不相応なほど弾力のある大きな胸を俺の腹筋に押し付ける。スッと綺麗な顎を上げると、俺の首筋に温かな息を吹きかけてきた。
「え?」
「えいっ、パクッ」
レティシアは俺の首筋に噛みつくと、そのままペロペロと舐め始めてしまう。
「うわっ! おい、や、やめっ、わははっ、くすぐったいって」
そんなことをされると、ブラもつけていない薄い寝間着のままで、裸の腹筋に押し付けられてグニャリと形を変えている、柔らかな双丘の先端が当たって。
さらには首筋にキスをしているようにしか見えない。しかも俺はさっき起きたばかりで。
「あら? 何かが」
「できれば、少しの間、そのまま上を向いていてくれると助かる」
男子高校生の朝の生理現象なんだが、レティシアの柔らかなお腹に当たってしまって、申し訳ないことこの上ない。
「うふふ、それでは暫くはこのままでいるとしますね」
綺麗なアクアマリンの瞳を細めて、クスクスと微笑む。
それを自分のお腹に当てたまま、俺の腹筋に豊かな膨らみを押し付けて柔らかに変形させながら、首筋にしがみついて吐息をかけ続けている。
これじゃあ、いつまで経っても収まらないんだけど。というかまだ日が昇る前の薄暗い部屋の中で、理性が飛んで行かないようにするので精一杯なんですが。
ああ、そうかこれが正真正銘のハニートラップって奴なのか。これは、駄目だな。うん、駄目だ。
どうでも良い見ず知らずの女ならまだしも、相手がレティシアでは。
本気で素数でも数えていないと、男子高校生な性的衝動が大暴発して、本当に彼女をどうにかしてしまいそうだ。
そんなことを考えながらも、俺の贅肉の無い胸板の上にちょこんと乗った、彼女の綺麗なシャンパンゴールドの髪を優しく撫でてる。
彼女はくすぐったそうにアクアマリンの瞳を細めて、わずかに染まった頬をさらに胸に擦りつけてくるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それから暫くして、レティシアはたった一人で客室の大きな姿見の鏡の前に立っていた。
侍女のクラリスが用意してくれていた洋服に着替えるためと言って、ハクローには一度廊下に出てもらっている。
シャラリと軽い衣擦れの音をさせて、昨晩寝ている間に着替えさせてもらったらしい薄い寝間着をストンと床に落とす。
「……っ」
大きな鏡に映る自分の下着一枚の裸体をジッと見つめるレティシアの、見開かれた大きなアクアマリンの瞳からポロポロと涙が溢れて床へと落ちていく。
唯一枚だけ身に付けている下着は、昨日自分で履いた時のままだ。
母親にはハクローを篭絡するように言われたのに。躊躇いはあったものの、全てを飲み込んだはずだったのに。
自分はこうして醜い姿のままで。だからハクローにも触れては貰えなくて。それが悲しくて、と同時に嬉しくて。
レティシアはその整った端正で綺麗な顔を、グシャグシャにしてしまう。覆い隠すこともせずに、ボロボロと零れ続ける涙をそのまま。声を上げることも出来ずに唯々泣き続けるのだった。
「……うっ……くっ……」
客室の外では、睫毛を伏せたハクローが扉に背中を付けて腕組みをしていた。
薄暗い室内には、迷子になった小さな子供のように一人で静かに嗚咽を漏らす少女の気配。
だからもう一度強い意志を込めて、瑠璃色の瞳の奥を鈍くくゆらせる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「あ? あ……、ああ~」
「な、何ですか? アリスちゃん、ハクローくんに何かあったんですか?」
今さら二度寝することもできないと、覗き見した後はリビングへとやって来ていた。
ハクローを【遠見の魔眼】で監視してたアリスが、変な反応をし始めたので、ルリがビックリして掴みかかる。
「え? いや……やるわね、あの子も。意外な伏兵かも?」
「え? ええ? アリスちゃん、伏兵って何ですか? はっ、もしやハクローくんを狙って暗殺者が!」
またアタフタとし始めたルリが、とうとう白いシンプルな部屋着のスカートの下から、レーザーサイト付きの魔法自動拳銃P226を抜き放つと、顔のすぐ横で天井に向けて両手で構える。
しかし、いつも冷静なユウナがドウドウと手のひらを見せる。
「ルリ、落ち着きなさい。あの女は武器なんか持ってないわ」
おまけに、そのすぐ横でミラまでが何故か同じようにハンドガンを顔の横で構えていて。
「お魚を咥えた泥棒猫は逃がしません! この第一王女が自らこの手で蜂の巣にして、お醤油をかけて美味しくいただいちゃいます!」
「姫様、もはや何を言っているのか分かりませんよ?」
「何だ、今日の朝ごはんは焼き魚なのか?」
そんな惚けた声をかけてきたのは、未だに上半身が裸のハクローだった。何故かハクローのTシャツだけを着た、レティシアを引き連れている。
「あ……ああ――っ! 暗殺者!」
「あ……ああ――っ! 泥棒猫!」
髪の毛を逆立てたルリとミラが、叫びながら自動拳銃を持ったのとは反対の手でレティシアを指差す。
ハクローがポカンとして、そんな横ではアリスとユウナが小さくため息をついている。
「え?」
「「はあ~」」
しかし、侍女のクラリスだけはそんな中にあって、何故か満面の笑みを浮かべて嬉しそうにニコニコとしてるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「何だよ、朝食は焼き魚じゃなかったのか? しかも、魔法自動拳銃P226なんか出してきて。何やってんだよ」
流石に昨日はほとんど寝れなかったので、凄く眠そうな欠伸を噛み殺す。
ハンドガンを構えたままのルリとミラに聞いてみると、そんなことは聞く耳持たないとばかりにルリがレティシアを指差して叫ぶ。
「ああー! 何でハクローくんのTシャツ来てるんですかぁ?」
「あ、これはハクロー様が貸して下さったので」
レティシアが自分の着ている、彼女には少し大きすぎるTシャツの裾を細い指で引っ張る。すると、下に履いている下着が見えそうになってしまい、少なくとも綺麗な太腿までは露わになる。
そう、彼女はリビングに来る前に着替えるからと言って俺を廊下に追い出すと、寝間着を脱いで何故か俺のTシャツ一枚だけを着て部屋から出て来ていた。
しかも、ズボンのようなものも履いていないので、裸Tシャツ? みたいな感じになってしまっていた。いや、下着だけは、見えないが流石に履いているんだろうけど。
今度は、ミラが俺の方を指差して叫び出す。
「ああー! その首の歯形は何ですかぁ!」
「あっ、これはつい皆様の真似をしてしまいまして」
てへっ、とアクアマリンの瞳を細めて少しだけ照れるように可愛く微笑むレティシアさん。
俺には見えないのだが、首筋にはレティシアに噛まれた歯形がバッチシ残っているはずだ。しかも、それだけじゃなく。
俺を指差していた人差し指をそのままプルプル震えさせて、切れ長の翠瞳を凝らしていたミラが唐突につぶやく。
「し、しかも、そ、それは、き、き、きき、キスマークでは?」
「あ」
そうなんだ、何故かレティシアは俺の首筋に齧りついた後、おまけに吸い付いて来ていたのだ。やっぱり、皮膚に痕が残っているみたいだった。
「ぎゃああああ! き、キスマークって! 私もしたことないのにぃー!」
「うきゃあああ! き、キスマークって! く、クロセ様、破廉恥です!」
ルリとミラが盛大に暴走する中で、貴族令嬢のレティシアがおもむろにミラの前に跪く。
「初めてお目にかかります、クライトマン侯爵の娘でレティシアと申します。ミラレイア第一王女殿下におかれましてはご機嫌麗しく。本日はこのような格好で失礼いたします」
ギョッとしたミラは、パッと魔法自動拳銃P226を後ろ手に背中に隠してから、スラッと高い背を伸ばして美しいモデル立ちで跪いたレティシアを見下ろす。
「うっ……うむ。ご機嫌はあまり麗しくは無い、な。ベヒモス討伐までは、先の客室を使うがよかろう。討伐までは、な」
少しだけ唇を尖らせて半分以上は本音を漏らしながらも、なんとかお姫様モードの化けの皮を必死に維持する。
「はい、そうですね姫様。ではレティシア様、その格好のままでは些か問題もあるでしょうから。お着替えを準備させてますのでこちらへ」
有無を言わせない様子で侍女筆頭のクラリスが、着替えのためにとレティシアを誘ってリビングを出て行く。
いや、どちらかと言うと俺の尋問の時間をつくるためか。、
「ハクロー様、それでは後程」
「ああ、朝食は焼き魚じゃないみたいだけど、後で一緒に食べよう」
「はい、では失礼します」
レティシアはTシャツの裾を細い指で摘まむと、綺麗なカーテシーで深々と頭を下げる。だから、そんなことをすると太腿が丸見えなんですよ。
おまけにお辞儀をしたら、大きすぎるTシャツがズレて片方の肩が露わになってしまって。いや、それだけじゃなく大きく開いた襟首から豊満な胸の谷間が丸見えです。
狙ってやってるんじゃなかろうか、などと勘ぐってしまうほどだ。ふと気がつくと、彼女は踵を返してTシャツをなびかせながら颯爽と扉へと歩き去った後だった。
「じぃ~~~、ハクローくん。どこ見てるんですか? そうですか、裸Tシャツが良いんですか。ここは、裸ワイシャツで。いや、いっそのこと裸エプロンで」
そんな俺を下から紅い瞳を細めて、覗き込むように上目遣いで見上げてくるルリが、何やら不穏なことをブツブツとつぶやいている。
しかも、ミラまでが俺と同じ目線の高さから切れ長の翠瞳を細めて、まるで射殺すような視線で睨め付けて来ていた。その台詞も危険極まりない。
「じぃ~~~、クロセ様。昨晩はお楽しみでしたねェ。寝間着を着替えるほど汗をかいて、何を? いえ、全て脱いでいたので代わりにTシャツだけを着せたのですね?」
「おい二人共、随分と誤解があるようだから、ちゃんと俺の話を聞いてくれると嬉しいのだが」
「はいはい、ハクローはとりあえずそこに正座ね。ルリとミラもほら、こっちに座りなさい。ああハクロー、早起きのお子様達が起きて来る前に済ませた方が良いと思うから、言い訳はしない方がいいわよ」
そう言って、アリスがソファとユウナの『車椅子』の前の床を指差す。
はあ~と大きなため息をついてから、とっととこの誤認逮捕の容疑者尋問を終わらせるためにも、ここは大人しく正座するのだった。