第3章40話 レティシア
王族別荘のプチ離宮に戻ると、王家専属医師による堕胎手術は無事に終わっていた。
何の問題も無く上手くいったらしく、驚いたことに術後まだ半日も経っていないというのに当のパメラはベッドで起きて、座って窓の外を眺めているのだった。
ただ、扉の隙間から見えた彼女の右手が無意識なのか、自身の下腹を優しく触れているのだ。当たり前だが、そう簡単には割り切れないものがあるのだろう。
「時期的にも処置が早かったのと回復魔法が良く効いて、数日で歩けるようになるようです」
「そうですね、姫様。幸い後遺症の心配も無いようで、将来、赤ちゃんを授かることもできるとの診断結果でした」
パメラのいる病室代わりの部屋の扉から廊下に隠れるように小さな声で、今日付き添いをしていたミラとクラリスが経過報告をしてくれる。
「そうか、それで気持ちの方なんだが……いや、いい。それよりも、Aランク冒険者のアイーダから勧められたんだけど。
パメラさんの体調が戻って気分が向くようなら、孤児院の職員として――嫌じゃなければだが、子供達の傍で手伝いでもしてもらうのはどうだろうか?
ああ、勿論ミラとクラリスが彼女の負担になると考えるなら、無しなんだが」
「まあ……それは、また」
「はい、姫様。クロセ様がかねてから繰り返し勧められている、身体のリハビリと同じく心のリハビリですね?」
ミラがパッと花が咲くような笑顔を見せて両手を口の前で合わせると、クラリスもうんうんと頷いて見せる。
「ただ、もしパメラさんが赤ちゃんのニコラを見て不快な思いをするようなら」
「いえ、歩けるようになったら孤児院に連れて行きましょう。それが彼女の為になると思います」
「はい、姫様。あのようにお腹に手を当てて、ボンヤリしているぐらいなら子供達に囲まれて忙しくしている方が、よっぽど彼女の気分も紛れるしょう」
この世界でも十分に大人で常識人のミラとクラリスが、必要だと考えてくれるようなら大丈夫だろう。一度、転移魔法でパッと孤児院の見学にでも連れて行ってみるとするか。
「ああ、それから。クロセ様がご不在の間に、レティシアという方からお手紙を預かっておりますが?」
「そうでした、姫様。コホン。クロセ様、こちらのお手紙になります」
パメラの部屋の前の廊下でいつまでも騒いでいる訳にもいかないので、夕食にも時間があることから一度リビング戻って来ていた。
ミラとクラリスがそう言えばと、しっかり封蝋された羊皮紙の手紙を差し出してくる。
「手紙? レティシアって、俺達があの花畑の丘で助けた貴族令嬢の?」
「ハクローに手紙? って本気で?」
アリスが訝し気に覗き込んで来るが、丸められた手紙の表に書かれている宛先は確かに俺の名前だった。
「そう言えば、この世界の文字って何故か読めるのはいいんだけど、やっぱり書けないんだよなぁ。魔法学園の入学試験って、筆記試験があると不味いんだけど」
「きゃあああ~、大変です! クロセ様、今日から入試試験のお勉強を始めますよ!」
「はい、姫様。すっかり忘れて――げふんげふん、勿論、赤本も用意して準備万端いつでもバッチ来いですよっ!」
ああ、やはり入試科目によっては筆記があるようだ。ヤバイ、確か入試試験までは後二ヵ月ぐらいしか無かったはずだ。それにしても、あるんだね赤本。
高校入試前の、それなりに必死だった猛勉強を思い出して、なんとなく暗い顔をしてしまう。
「ハクローくん、たいじょうぶですよ。筆記科目で覚えなきゃいけないのは基礎魔法学だけです。
それも、属性魔法と系統魔法に一部の精霊魔法などについて簡単な問題のみのようなので、私達日本人にとっては楽勝な暗記科目です。
後は魔術式に使うのか簡単な算術科目もあるのですが、そっちこそ小学生高学年レベルでしたよ」
「ふふっ、実はルリはもう入試の準備を始めているのよ?」
人差し指をピンと立てて嬉しそうに説明してくれるルリを見て、クスクスとアリスが苦笑する。
「えへへ~、実は私も高校入試は勉強だけはしていたのですが――直前にちょっと倒れて入院してしまったので、受験することが出来なかったのですよ。たはは~」
立てたままの人差し指で、ポリポリと頬を掻いて寂しそうに笑うルリ。
コロンにフィ、ミラにクラリスとユウナにとっては、高校入試という単語が分からなかったようだ。
彼女の取り繕ったような哀しい笑顔の理由が分からず、かける言葉が見つからないといった顔をしてしまっている。
だから、ソファに座っているルリの足元の床に両膝を着いて視線の高さを合わせると、できるだけ優しい声になるように気をつけてから、白髪の頭をゆっくりと撫でる。
「そうか、じゃあルリにも教えてもらいながら、今度は一緒に受験勉強をして、みんなで一緒に入試合格しような?
確か上位成績者五人には奨学金が出るらしいから、競争だぞ?」
「わっふ~! 何かハクローくんが凄いことを言ってますぅ~」
「クックク、これは一番のおねーちゃんとしては頑張らないとねぇ~?」
両の手のひらを広げてアタフタし始めるルリに、楽しそうに笑うアリスが意地悪なことを言い出す。
「ひぃいい~ん。ミラ先生~、クラリス先生~、たすけてくだしゃい~」
「はいはい。ルリ様、大丈夫ですよ。ちゃんと、今晩から入試に向けて家庭教師をビッシビシ始めることにしますからね?」
「はい、姫様。ここまで頼られては、是非ともルリ様、アリス様、コロン様、ユウナ様にクロセ様で魔法学園の入試試験で上位五位を独占していただきましょう!」
そーだそれがいいとミラとクラリスは高笑いを始めるのだが、ぎゃあ~っとルリが頭を抱えてしまう。
「わわ~っ、しまった! 何だか余計に難易度が上がってしまっていますぅ~」
「あれれ、コロンも?」
「……私も?」
コテンと可愛く小首を傾げる小さなコロンと『車椅子』のユウナに、アリスが握り締めた拳を振り上げ薄い胸を張ってドヤ顔で宣言する。
「我らが【ミスリル☆ハーツ】に脳筋は要らないわ! インテリジェンス溢れる、クールでハイソな冒険者パーティーを目指すのよっ」
「うきゃあぁ~~~っ!」
「「「おおー」」」
どんどんドツボにハマって行く、かわいそうなルリはともかく。お受験というものをよく理解していないだろうお子様なコロンと知識だけのユウナに、受験に関係無い妖精のフィまでがパチパチと手を叩いて喝采を送る。
おお、聖獣のルーまでが肉球をペタペタと叩いているじゃないか。
「コロンちゃんはまだ小さいので、みんなのサポートとして侍女待遇での入学も考えたのですが、すっかり身長も大きくなったことですし、年齢的には飛び級扱いで良いかと」
「はい、姫様。どうせ3才のユウナ様が受験するのですから、今さらあれこれ理由をつけても仕方がありません。
まとめて王家の推薦状を付けてしまって、10才のコロン様と合わせて二人の受験条件でとやかく言わせなければ良いのです」
うふふっと笑うミラに、開き直ったらしいクラリスまでが王権を無駄に行使しようとしているのだが。それでいいのか、王家の威光。
「しかし、二人にそこまでしてもらって、桜散ったりすると……」
「きゃっふぅ~っ! ハクローくん、すぐにお勉強始めましょうっ」
「え? わ、わわ~」
ルリに襟首を掴まれて、ガクガクと揺らされながら泣きつかれてしまう。まあ頑張って、久しぶりに真面目に受験勉強とやらでもやってみるか。
あ、その前に、まずはこの世界の文字を書くところからだったな。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そんな騒ぎですっかり忘れていたが、レティシアからの手紙は「話しがあるので迎えの馬車を寄越す」というものだった。
それも俺一人だけ、でだ。
嫌な予感もするのだが、まあ彼女のことだから変なことにはならないだろう。
それぐらいの軽い気持ちで、夕食前にやって来た迎えの馬車に揺られるまま連れて来られたのは、王国第二の大都市ニースィアでもえらく大きな建物だった。
これは高級ホテルってヤツだろうか。
そのまま、ホテルのボーイさんに連れられて、最上階の眺めのいい個室へと案内される。四階建ての窓から見るニースィアの夜景もそれなりに綺麗だ。なんて考えていると。
「お待たせしました、ハクロー様」
そう言って、貴族令嬢のレティシアが個室に入って来た。
この前の公爵屋敷で見たのと違う、もっと薄手の藍緑色のドレス姿だった。
今日は編み込んで下ろした、彼女の腰まである綺麗なシャンパンゴールドの長髪がよく似合っている。そう言えば瞳の色も、その青は綺麗なアクアマリンに輝いていた。
「今日はどうしたんだ? こんな所に呼び出したりなんかして」
夜景の見える窓際のテーブルの椅子を引いて、レティシアを座らせると自分も席に着きながらとりあえず聞いてみる。
実は俺一人で目的も不明なまま出て来ることについては、当然のようにルリをはじめとして仲間と一悶着あったのだ。
結局はアリスが【遠目の魔眼】で様子を見ているということで、何とか納得――はしていないようだったが、一先ずは辛うじて堪えてくれたといったところだ。
「いえ、先日もお話ししたとおり、一度きちんとお礼をしたかったのと。そうですね、この間の続きを、と」
「続き? ああ、そう言えば、ご両親は見つかったんだな」
あの後、しばらく待ったがホールには帰って来なかったので、控室の方で上手く合流できたのだろう。
「え? あぁ、あの日は母が体調を崩したので、父が送って帰ってしまっていて。まあ、馬車は迎えに来てくれたので、特に問題ありませんでしたが。ご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんでした」
「それにしても、俺と二人でこんな所にいると、ご両親に何か言われないか? 良い家のお嬢さんだろうに」
さっきから次々と運ばれて来るコース料理をつつきながら、フォークをフリフリと振って見せる。
「うふふ、母には了解をもらっています。実はこの前のことも、バレてしまいまして。てへっ」
小さな赤い舌をペロっと出して見せると、レティシアが悪戯っぽく笑う。
公爵屋敷の庭園で夜空の下、周囲に誰もいないことを良いことに練習台代わりだろうけど一緒に踊ったことが思い出されて、一瞬ヒヤッとしてしまう。
「うわっ、そりゃあ。大丈夫だったのか? いや、今日会えてるということは怒られた訳じゃ無いのか?」
それでも彼女ぐらいの歳なら下手をしなくても、貴族令嬢としては婚約者がいたりしても当然なのだろうだから。ちょっと迂闊だったか。
「ええ、母にはそれはそれは怒られてしまいました。まあ、それもあって、今日はお声がけさせていただいているのですが」
「ええっ! 本気かよ~、そりゃ悪かったなぁ。俺も一緒に謝った方がいいのか? いや、でもでも、怒ってるなら、何で今日は?」
細い人差し指を唇に当てて困ったように、でも少しだけ嬉しそうにクスクスと笑うレティシアは、アタフタする俺を見て楽しんでいるようで。
「んーっと。ちょっとハクロー様に意地悪したくなったので、もう少しだけ秘密です。うふふ」
「うえぇ~、ひっでえなぁ。俺なんかしたか? や、色々やってしまってるとは思うけどさぁ」
人差し指を唇に当てたままソッポを向いて、綺麗なアクアマリンの瞳を細くして流し目をして見せるレティシアに、ガックリと肩を落としてしまう。
まあ、お貴族様に評判が良くないことは、自覚あるから別に良いんだが。いや、それでもレティシアに迷惑をかけるのは、ちっとも良い訳無い。
「はい、ハクロー様はこの私の命を救ってくださいました。あなた様がいなければ、今の私はありませんから。ふふふ」
唇にやっていた人差し指で自分の胸元を指差すと、わずかに首を傾げて綺麗なシャンパンゴールドの金髪をサラッと肩から流しながら彼女が薄く微笑む。
だから俺も、頬を掻きながらも、なんとか笑い返す。
「あ~、あれはまあ。でも本当に、ギリギリで間に合って良かった。こうして綺麗な笑顔を見せてくれるレティシアが、無事で本当に良かった。うん、本当に良かった」
微笑みながらも、まるで宝石の緑柱石のような彼女のアクアマリンの綺麗な瞳が、ユラユラと涙で揺れてしまっていて。どうしたのだろうと、覗き込むようにしてみると。
「私は貴族として生まれた以上は、家のためにこの身を捧げる覚悟はできております」
急にそんなことを言い出すので、もしかしたら本意では無い縁談話でも来たのだろうか。などと余計な心配をしていると。
「ですから、母にハクロー様を篭絡しろと言われたとしても。家のためであれば――」
そう言うと、ぽろぽろと堪え切れずに、透き通った美しいアクアマリンの瞳から涙が頬をつたってしまう。しかし、視線は真っ直ぐに俺を捉えたままで。
「でも――でも、できれば、そんなことのためではなく。下劣なハニートラップのためなどではなく、心からあなた様をお慕いしたかった……」
既に涙は白いテーブルの上に、滴となって落ちていて。
細められてしまったアクアマリンの瞳からは、とめどなく涙が後から後から溢れ続けて、綺麗な眉毛も下がってしまっていた。
ああ、盗賊に襲われても、なお泣き言ひとつ言わずに短剣を胸に自決しようとさえしてみせた、このどこまでも毅然として美しいレティシアにこんな顔をさせた奴を――俺は許せそうになかった。
だから、テーブルを挟んだまま手を伸ばすと、手のひらでできるだけ優しく彼女の気高い涙を拭き取ってあげるのだった。
「わかった。わかったから。だからそんなに泣くな。ハニートラップだろうが、何だろうが、俺で良ければレティシアの罠にかかってやるから。だから、そんなに泣くんじゃない」
「う……うう……でも……でもでも」
それでも泣き止まないレティシアの両の頬に手のひらでそっと触れるようにして、目付きの悪いだろう瑠璃色の瞳を細めてできるだけ優しく笑いかける。
「いいじゃないか、レティシアの罠なら。その罠にかかっても、レティシアなら悪いことには使わないだろ? 罠にかかっている間は一緒にいてやるから。絶対に一人にはしないから、だから――泣くな。
せっかくの綺麗なその笑顔が、勿体ないぞ?」
「うう……ハクロー様っ。でも、もうひとつお話ししなければならないことがあるのです。
わ、私は、クライトマン侯爵――ハクロー様達にご迷惑をおかけした、副ギルドマスターとその侯爵夫人のひとり娘、なのです!」
とうとう俺の手の上から自分の手で覆うように顔を伏せてしまったレティシアが、慟哭するように大きな声を上げて泣き叫ぶ。
ああ、あいつか――で、あのクソ婆か。それで分かった気がする。レティシアが今、俺の前で泣いているのは奴等の所為か。
「……そうか」
「すみませんっ、申し訳ありません! ごめんなさ、あ」
テーブルに隔てられたまま泣き崩れる彼女の顔を包み込むようにして、触れた頬ごと抱き寄せると、そのおでこにコツンと自分のおでこをぶつける。
「いいよ。行ってやるよ、合同演習に。倒してやるよ、ベヒモスを。だから、お前はもう泣くな」
「う……、うわああああっ~~」
テーブル越しに俺の胸に縋りつくように手を伸ばして、わんわんと泣くどこまでも可憐なレティシアは――。