第3章35話 乳飲み子が掴むものは
「あ、ハクローくん。おはよぉ~。あ、あれ?」
海風の吹く気持ちの良い夜明け前。
プチ離宮の庭園で無心になって直刀【カタナ】を振っていると、起きて来たルリに声をかけられて――同時に走って逃げだしていた。
【ビーチフラッグ(加速)】と【身体強化】を『マルチタスク』で並列起動して使った最大加速だから、その逃げ足の速いこと速いこと。
「しまった!」
庭園の壁沿いに走って、テラスから室内に入ろうとして、ルリのリハビリセットを出すのを忘れていたことに気がつく。
もう一度ズダダダダッと急いで走って戻ると、スチャッとセッティング完了させて今度は【チューブ(転移)】で部屋まで一気に戻る。
ちなみに、物に掴まらなくても一人で歩けるようになっているルリのリハビリセットは、バランスボールにゴム紐など、どちらかというとダイエットグッズに近いラインナップに進化していた。
「あれ? あれあれ?」
「ふふふ。クロセくん、まだ元に戻って無いみたいね?」
ポカンとした顔で、ルリが可愛く小首を傾げる。
その隣で、以前その彼女が使っていたリハビリセットの平行棒に、もうだいぶ危なげ無く掴まっているユウナが、無表情のまま器用にクスクス笑う。
それを聞いていた、コロンにフィと聖獣ルーまで困った顔でうんうんと頷き返す。
「ハク様、昨日からへんでしゅ」
「フィもそう思う~」
「ニャア~」
「フッ……」
唯一人、テディベアのぬいぐるみのビーチェだけが【魔法のナイフ】と【魔法のフォーク】を持ったままで、肩を竦めてフルフルと首を振っていた。
そんなみんなの様子を、二階の寝室の窓からカーテンに隠れて見ながら、はぁ~と大きなため息をつく。
そうなんだ。昨日、神聖教会の神廟で思わずトンデモ発言をしてしまってから、以降の記憶が曖昧だった。
どうやら、あの後は予定通り中級地下迷宮『樹木の森』に行ったみたいなんだが。
正直、独り善がりなキモイことを言って困らせてしまったルリの顔を、まともに見ることができず、編隊の最前衛として単独突出したのだ。
広い草原や森林フィールドで【ソナー(探査)】のマップに表示される大小様々なトレントを、膨大な魔力量に物を言わせて【波乗り(重力)】と【HANABI(爆裂)】で薙倒し。
取り零した倒し損ねを擦違いざまに、【抜刀術】で直刀【カタナ】を振り抜いて真っ二つにしていった。ような、気がする。
――「それは俺ンだ」
うん、あれは駄目だ。今思い出しても、致命的にキモイ。
心根の優しいルリはそれでも俺に声をかけてくれようとしているが、あんな人を人とも思わない言い様は、俺自身でも鳥肌が立つほどにキモイ。
ましてや、お年頃の乙女さんな女子高校生に向かって、何と取り返しのつかないことを言ってしまったのか。
……はっ! もしや、俺が逃げる度に声をかけて来ているのは、「キモいから、二度と顔を見せるな」とわざわざ俺に言いつけるためか!
おおぅ、もう死ねるかもしれない。
ああ、これでパーティーを追い出されたら、俺はこれからたった一人でこの異世界を生きていくのか。今さらのように、ぼっちは嫌だなぁ。
謝ったら許してくれないだろうか? やっぱ、無理? 無理……だろうなぁ。
そりゃ無理だよなぁ。あれじゃ、聞きようによっては、まるで「俺の女だ」と言っているようなもんだからなぁ。
ああ、【時空魔法】で戻って昨日の俺を【HANABI(爆裂)】で爆殺したい。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「何か、昨日帰って来てからというもの、クロセ様の様子がおかしいです。まるで、心ここに在らずといったようで、見ているこちらが心配になってきます」
「はい、姫様。ただ、あれはヘタレなクロセ様の、いつもの病気が出たものだと思いますので。まあ、ルリ様お手製の付与魔法付きレアアイテムを持っているんですから、放っとけば自然回復しますよ」
「む、クラリスは冷たい」
廊下側に少しだけ開いた扉の隙間から部屋の中を覗き込んでいるのは、昨日の神聖教会神廟での騒動の時にその場にいなかった、ミラとクラリスだった。
「しかも、ルリ様の様子もなんだか変ですし。やっぱり、何かあったんでしょうか?」
「あ~、姫様。ルリ様のあれは――あれも、いつもの病気ですから、いまさら気にすることも無いかと」
「む、やっぱりクラリスは冷たい」
「はいはい、ルリはともかく。ハクローの馬鹿は自業自得なんだから放っときゃいいのよ。というか、この機会にちょっとは自分の胸に手を当てて考えろってことよ。ふわあぁ~~」
そう言っいながら、眠そうに欠伸をしながら廊下をペタペタと歩いてきたのは、紅い髪をボサボサにしたままのアリスだった。
「あ、アリス様。おはようございます。でもでも、誰に聞いても、昨日何があったのか教えてくれないんですよぉ~。もう、私は心配で心配で」
「でも、姫様。あれは、誰に聞かなくても大体は何があったかぐらいは想像できるのでは?」
「ええ~、でもでもぉ。ちゃんと知っておきたいというか、――あれ?」
部屋の中を窺っていたミラが、見知らぬ影を見つけて息を呑むのと同時に、クラリスとアリスが目を細めてその人物を睨みつける。
「姫様、おさがりください……」
「チッ、あいつ……」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「あははっ、相変わらずヘタれた糞野郎だな。呆れたもんだ、そんなんでルリ様の傍にいようだなんて。図々しいことこの上ない、後はこの俺に任せてサッサとどっかへ消えちまえよっ!」
「ぐっ」
寝室の窓外の上からひょっこりとぶら下るように顔を出したのは、神聖教会の特殊魔術部隊『黒の十字架』で唯一人、無傷で生き残ったショタ少年、アキラだった。
黒髪のショートボブを逆さに垂らしながら、小馬鹿にしたようなニヤニヤ顔で見下ろしている。
「なんだ、言い返すこともできないのかよ? 情けねぇなあ、馬鹿じゃねぇーの」
「……」
「五月蝿いわね。いつ、こっちに顔出して良いって言ったのよ。ふざけたこと言ってると、出入禁止にするわよ」
黙って言い返すこともせずに俺が睨んでいると、いつの間に部屋に入って来たのか、アリスが腕を組みながらスタスタとやって来ていた。
「くっ、こんなヘタレ野郎よりも、俺の方がルリ様の護衛には相応し」
「ふっざけんじゃないわよ。私達の姿を見ることもできずに、瞬殺された役立たずの癖に。あんたの護衛なんか、邪魔以外の何物でも無いわよ。
それ以上つまんないこと言うなら、今すぐ出禁にするわよ」
「クソッ」
何も言い返せないのか、悪態をつくと窓の外からフッと姿を消してしまうショタなアキラくん。
「はあ~、ハクロー。あんたも、言い返さなくてもいいから、この部屋の屋根裏を【物理強化】で外せないように錬成しておいてよ。あのアホに無断でルリが覗かれるかもと思うと、ゾッとするわ」
「……へ~い」
あのショタがルリの生活圏内に立ち入るようであれば、即刻排除するというアリスの当然の意見に同意しながらも、少しだけ不貞腐れたように返事をしてしまう。
「はあ~、ハクロー。あんたも分かってるとは思うけど、もうちょっとしっかりしなさいよね?」
「……わかった」
そこへ、不審者がいなくなったのを確認してミラとクラリスが部屋に入って来る。
「何ですか? 今のは?」
「姫様、あれは確か神聖教会の特殊魔術部隊の『黒の十字架』です。先日、ハクロー様達が殲滅したと聞いていましたが、何故こんなところに?」
未だにメガネの奥の瞳を鋭く細めたままのクラリスを見て、アリスが肩を竦めて見せる。
「あら、クラリスはショタなあいつに反応しないのね?」
「アリス様、確かに『かわいいは正義』ですが、あれは違いますね。全然、ちっとも、全く、欠片も可愛くありませんですが?」
どこが違うのかサッパリだが、不満そうな顔でムッとしたクラリスにはクラリスなりの矜持があるということか。
「まあ、あんなのは放っといて。ほら、ハクロー。さっさと朝食を取って、中級地下迷宮『樹木の森』の攻略に行くわよ。
誰かさんのせいで、ワンフロアぶち抜きの簡単なマップだっていうのに、まだ途中の地下十階の転移門までしか攻略できてないんだから」
「……へ~い」
ヤル気の無い返事をする俺に、肩を落としたアリスは諦めたようにミラに問いかける。
「ところで、ミラとクラリスの方はどうなの?」
「皆さんが集めてくれた薬草がまだ沢山ありますのでエマに【調合】を教えながら、孤児院の準備をしているところです」
「はい、姫様が先生をしながら作った低級回復薬と一部は中級回復薬がそこそこの数ありますので、魔術師ギルドのドタバタが片付く前に固定客を確保しておこうかと。
後は、数人ですが早急に保護が必要な子供達がいるので、孤児院側の受け入れの準備を進めています」
ミラが少し嬉しそうに答えるのを、こちらもそれを嬉しそうに見ながらクラリスが侍女筆頭としてキビキビと事務処理をやっつけているようだ。
それを聞いて安心したのか、アリスはスッと踵を返すと手を振りながらスタスタと部屋を出ていってしまう。
「そう、じゃあちょっとそっちの様子も見てから地下迷宮に行くことにしましょうか。ほら、ハクローもサッサと行くわよ?」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「そうなの、それでこの子達が新しくこの孤児院で預かることになった――」
ニースィアの街の裏路地にある最奥の外壁の傍に設置したままの【砂の城】に行くと、小さなエマが7才と5才ぐらいの二人の女の子を紹介してきた。
二人共、ガリガリに痩せ細っていて骨と皮にしか見えない。
「コレットです」
「……ジーナ」
急に大人数で押しかけて来たからか、コレットはたじろいでしまった様子だ。その後ろに隠れてしまっている年下のジーナの方は、元々が内気な性格なのか。
「で、この子がニコラです」
そう言って、エマは自分が抱いている、まだ間違いなく0才児だろう乳飲み子を見せてくれる。
すると、あっという間に取り囲んだミラとルリにコロンとフィが、顔をフニャフニャにしながら覗き込む。
「きゃあ~、可愛いぃ~!」
「わわ、ちっさい~」
「ふわぁ~、ちまちまでしゅ」
「フィの方が小さいわ」
「ニャア~!」
「はいはい、ルーの方が大きいわね」
『車椅子』に座り膝の上に乗せて聖獣ルーを撫でながら、ユウナがいつもの無表情のままで――でもわずかに雰囲気を柔らかくする。
「うふふ。まだ小さいですが、これでも男の子なんですよ?」
そう言って、セレーネがリビングの椅子に座ったまま優しく微笑む。まだ、視力も聴力も完全には戻ってはいない。しかし、ボロボロに剥がれていた皮膚だけは全て綺麗になったことで、だいぶ体調も安定してきているようだ。
それを見ながら、クラリスが俺の方を振り返ってうんうんと頷く。
「うふふ。クロセ様、見て下さい。姫様があんなにメロメロに――あの子はきっと将来、女泣かせになりますよ?
ああ~、私も早く姫様のお子をこの手で抱きたいものです~。チラッ、チラッ」
こっちを見ながら、チラチラと意味深な視線を送って来るのは止めろ。
そんなことをしていると、向こうでは恐る恐るといった感じでルリが小さなエマにお願いをしていた。
「ちょ、ちょっとだけ、私も抱いていいですか?」
「うん、まだ首がすわっていないので気をつけて――そう、そうです」
赤ん坊のすわっていない首を腕にのせて、ルリが怖々と両腕全体で胸に抱きしめる。紅い瞳を細めながら、嬉しそうに微笑んでジッと覗き込んでいた。
ああ、それはいつか美術の授業で見た欧州の大きな美術館の動画にあった、未完だった聖母子の絵画のようで。
本当に、こんな優しい風景が在り来たりの当然のように見れる日が来るとは。
本当に、本当に元気になってくれてよかった。
そんなことを考えていると、白い長髪を涼風に揺らした少女は、紅い瞳を細めたままこちらに視線を向けると、嬉しそうに向日葵のような笑顔を浮かべるのだった。
「あ~。私も、私も抱きたいです~」
「うふふ。はい、ミラさん。ここを――こう、そうです上手ですよ」
はいは~い、と手を上げるミラにルリが赤ちゃんをそっと抱かせる。一国のお姫様は、ハリウッド女優のような美貌をふにゃりと崩してしまって、デレデレと切れ長の翠瞳の目尻を下げてしまう。
「うへへ~。ああ、どうしましょう。お、お持ち帰りしてもいいですか?」
「っだ、ダメです!」
余りの可愛さに気が動転したのかトンデモないことを言い出すミラに、ビックリしたエマが真顔で手をパタパタさせる。
「いーなー、いーなー。次はコロンも抱きたいでしゅ~」
「はいはい。それでは、気をつけて――はい、そうです」
そうして、今度は小さなコロンが嬉しそうに白銀色のしっぽをフリフリさせながら抱いて、次にはアリスまでが抱かせてもらっていた。
まだ中学生のぺったんなアリスが乳幼児を抱いていると違和感がバリバリなんだが。逆にその近寄り難くも美しい立ち姿は、どこか超然とした神々しい雰囲気があって。まるでこの世のものでは無いようだ。
しばらく抱いていると、アリスはスッと『車椅子』に座るユウナの膝の上に小さな赤ちゃんを乗せる。まだすわっていない首に気をつけながら、そのままユウナの腕で支えるように抱かせてしまう。
「ほら、ユウナもちょっとだけでも、抱いてごらんなさい」
そう言って、どこまでも優しく微笑む。
しかし、突然、乳飲み子を渡されたユウナは、仰天したようにアタフタとしてしまう。
いつものセルロイドのお面のような無表情はどこへ行ったのか、綺麗なアメジストのような紫の瞳を丸くすると珍しく動揺をあらわにする。
「わわ! わ、私は、け、けけ、けっ、穢れて――あ……」
気がつくと、まだ0才のニコラくんが目を閉じたままで、抱きしめているユウナの人差し指を、その小さな紅葉のような手で、ギュッと握り締めていた。
「……あ、……ああ、…………あああ」
恐らくは本人すら気がついていないだろう小さな嗚咽と共に、無表情のまま動きの止まったユウナの白磁器のような頬を一滴の涙が伝う。
しかし、二コラを抱かせることでユウナを泣かせてしまった本人のアリスも、そして周りのみんなも少しだけ辛そうな顔をしながらも、黙ったままその姿を静かに見守るのだった。
だからしょうがないなぁと、その彼女のプラチナブロンドの髪をゆっくりと撫でながら、できるだけ優しい声になるように気をつけながら言葉をかける。
「ほら、ユウナが一番歳が近いお姉さんなんだから、優しくしてやらないとな?」
「……う、…………うん」
俯いているので、表情までは分からないけど。彼女の指をしっかりと握ったままスゥスゥと寝息をたてる赤ん坊を、ユウナは肩をわずかに震わながら、でもしっかりと優しく包み込むように抱きしめ続けている。
そんな彼女の事情をもちろん知らない孤児院の小さな子供達は、意味が分からずにどうしたんだろうという不思議そうな顔をしていた。