1話 異世界へ
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
初夏の夕暮れまでにはまだ少し時間がある、湘南の海に面した総合病院の一室に心電モニターの音が響く。
真っ白なシーツに覆われた病院のベッドの上には、薄いベージュ色をした入院着を着て薄いピンクのニット帽を深くかぶった少女。
無造作にシーツの上に投げ出されたその手は骨と皮だけで、頬もこけて、閉じられた目の周囲は酷くくぼんでしまっている。
(がんばれ……がんばれ……がんばれ)
気を許すとどこかに行ってしまいそうになる意識を懸命に繋ぎ止めながら、これまでもずっと繰り返してきたように耐え、我慢し、自身を励ます。
しかし、既に聞こえ難く遠くなってしまった耳には、聞き覚えだけはある男性の小さなつぶやくような声がかすかに聞こえてくる。
「次に心臓が停止したときは、もう……」
その無慈悲な言葉に少女がほとんど見えなくなった瞳を薄く開けると、ベッドサイドには医師と看護師がいて、すぐ傍の椅子にはお父さんとお母さんが座っているのがぼんやりと見える。
大好きな妹の詩織ちゃんはまだ今日は部活なんだろう、中学校から帰って来ていないみたいだ。
(ああ、がんばったけどもう駄目みたい。たくさんお金を払ってもらって、嫌なお薬も飲んだし手術もしたけど、みんな無駄になっちゃうな。
お父さんとお母さんには心配ばかりかけて、ちっとも親孝行できなかった。最後に会えなくて詩織ちゃんは泣いちゃうかもしれない。結局、高校にも行けなかった)
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……
重い瞼を開けていることができなくなり、再び目の前が暗闇に閉ざされる。そして必死に乾いてひび割れた唇を動かして、最後に声をふり絞ろうとする。
(ああ、やっぱり、死ぬのはヤダなぁ)
スッと力が抜けたように、少女の身体がわずかにベッドに沈みこんだとき、
ピ――――――――――――――
心電モニターが心音を伝えることを止める。
「瑠璃!」
「瑠璃ちゃん!」
両親がベットの少女にすがりつく。そのとき、ゴロゴロと大気を震わせる落雷の前兆がした直後、空を切り裂く轟音と共に病室の窓の外が真っ白に光った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
同時刻、海から近い住宅街のカーテンが閉め切られた薄暗い部屋には、室内を照らすパソコンのディスプレイの光だけ。
壁の本棚にはコミックに小説、ゲームなどが所狭しと並べられている。学生机の横には転がった複数のプルタブが開いたドクペの缶とポテチの空袋が、これまでの激闘の後をうかがわせている。
紅いパジャマ姿のまま長い黒髪を団子に丸めてひっつめて、机上のLEDバックライトで光る液晶画面を覗き込む自称引き篭もりの少女は「うひひっ」と笑いながら、その右手をマウスから離すと小さな拳を天に向けて高く突き上げて。
「キター! これで全スキルのレベルがカンスト! サーバー最強だ! 敬え、崇めろ、これから私の伝説が始まる!」
と叫んだその時、パソコンの液晶画面が突然ブラックアウトした。
「あれ?」
ゴロゴロという耳障りな音が聞こえて来たかと思うと次の瞬間、全身の毛が逆立つような轟音がして――近くに雷が落ちたようだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
時を同じくして、湘南海岸の波間でマリンブルーのTシャツを着たままサーフボードにまたがり、次の波を待つ少年が一人。
左の二の腕にはTシャツの袖の下から、トライバルが見え隠れしている。
まだ初夏になったばかりだというのにすっかり日焼けした顔を向けて浜辺のボードウォークを振り返ると、空には天に届くほど大きな入道雲がその視界に入って来る。
その巨大な雷雲の中がときおり蒼白く光っているのが、ここからでも見える。
(おうちに帰りたいなぁ)
少年にとって『家』とは六人の姉達が暮らす家のことではない。父親は海外勤務で何年も顔を合わせていない。母親は八才のときに亡くなっている。
だから帰るべき『家』などない。だからこうして、今日も一人で波が来るのを待ち続ける。
そういえば今日は年に一度の七夕祭りが開催されていて、駅の向こう側の商店街は大勢の人であふれ返っているはずだ。
次の波を待ちながらもう一度空を見上げた時、ゴロゴロという音と共に少年はまぶしい光に包まれたかと思うと耳をつんざく轟音がして、海に雷が落ちた。
(ん? 床に立ってる)
少年はTシャツと海パン兼用の膝丈サーフパンツが濡れているのに、水が滴る様子がない違和感に気がつき辺りを見回す。
目の前の白っぽい部屋には重厚で木製の長い机が並べられて、五人の子供が沢山の書類の山を前に立派な椅子に座っていた。どの子供も金髪で頭に光る輪を浮かべており、背中には小さいが白い羽まで生えている。
就職の面接ってこんな感じなのかなと思いながら、どう見ても天使達を前にして死んでしまったのかもと考え始める。
すると手にした書類に目を落としたまま、天使の一人が声をかけてきた。
「はいそれでは、次の方は……黒瀬白狼さんですね」
それに答える間もなく、隣に座るもう一人の天使が続ける。
「混乱されているとは思いますが、クロセさんは事故に合われてこちらに来ていただいています。あ、死んだわけではありませんのでご心配なされないように」
「事故って?」
「雷神様と海神様がケンカを……」
「げふんげふん」
白狼の反射的な質問に、不穏なコメントを返してきた天使達は誤魔化すように分厚い書類の束で顔を隠すと、一方的に話を続けていく。
「ごほん。しかしながら、この事故を利用してあなたを別の世界に召喚しようとしている者がいます。召喚されるのはここに来ていただいているあなたの『魂』だけで、残念ながら我々にはそれを防ぐ手立てはありません。
そして、召喚された先の世界でも今と同じ身体が『魂』の器として用意されることになります」
(元いた世界の身体は『魂』が無いから、必然的に死亡扱いになるということか。身体だけが残ってしまっていると色々と齟齬が発生して、帰って来れても……色々と難しいことになりそうだな)
「このままあなたの『魂』を召喚されるのは我々としてもいささか困るので、向こうの世界で生活しやすいように、いくつかご希望をお聞きいたします。
現状、召喚により職業が【勇者】で初期設定されている以外は、その他のスキルや装備などは一切が白紙の状態です。何か欲しいものや、なりたいものなどありますか?」
「俺はサーファーだ、【勇者】なんかじゃない」
何だその恥ずかしい呼び名はとでも言うように、憮然とした表情で少年が間髪入れず言い返す。
「えーと、サーファーという職業は……ちょっと待ってください。申し訳ありませんが、職業選択リストにありませんので、他の」
「俺はサーファーだ」
容赦無く天使の言葉をバッサリと遮る白狼。少し――いや、かなり機嫌が悪いようだった。
「分かりました、【サーファー】の職業を特別にご用意させていただきます。なにぶん新規に作成した職業なので、スキル構成などは職業に適したものをご自分で生成していくことになります。
あ、スキルを新規に作成するのに【鑑定】では詳細情報が確認し難いため、上位互換の【解析】をお付けしておきましたので有効活用ください。
それから、お手持ちの物は【収納】に入れておきましたので後ででもご確認ください」
言われるまま「【収納】?」と考えていると、左の二の腕にあるトライバルが蒼く光って、なぜか唯の【収納】が【時空収納】に変換されたのが分かってしまった。
このトライバルはまだ白狼が小さかった頃に『自称【まほうつかい】のおばさん』にもらったもので、タトゥーではないのだが――そのトライバルの文様が今は蒼白く浮き出て見えていた。
「ああ、未完成ですが【時空魔法】の魔法陣をお持ちなんでしたね。究極とも言われる【時空魔法】の使い手は一人だけだと思っていたのですが」
「ん? 今回の召喚も【時空魔法】なのか?」
「いえ、異世界間とは言え召喚そのものは上位の【空間魔法】を応用するだけで可能なので、そちらは結構いますね。実はこの部屋も【空間魔法】で構成されているのです」
あらためて【時空収納】に意識を向けてみると、さっきまで乗っていたサーフボードと浜辺に置いておいたはずのデイバッグとビーチサンダルが入っている。
サーフボードを取り出すのを見ていた天使が、そう言えば気がついたとばかりに続ける。
「おっと、確か専用のワックスとかは異世界には無かったはずです。サーフボードの補修はご自分でやる必要がありますので、他に【錬金】スキルも必要になりますね」
「詳しいんだな」
「私はボディボードをちょっと。本当なら今晩からグレートバリアリーフでナイトダイブをしてから、サーファーパラダイスでゆっくりするはずだったんですが……雷神様と海神様のせいで」
「げふんげふん」
「……天使も大変そうだな」
――スキル【時空錬金Lv1】を習得しました。
さっきは急なことで聞きそびれたインフォメーションが脳内に響いてくる。ああ、また変換されたのかと考えながら、白狼は【時空収納】へとサーフボードをしまってから、代わりにビーチサンダルを取り出して履いてみる。
「それでは以上になります。次の方、どうぞー」
そうして突然のように目の前が眩しいほど白く輝き、次に目を開けると、――そこは異世界だった。