6. 上履き、そして別れのこと
陽が傾いていく。それに比例して、校舎内は暗闇で満たされていった。僕はどんどん不安を募らせる。もしかしたら、陽が沈んだ瞬間に、この世界から離れなければならなくなるのではないか、という懸念があったからだ。どうしてそうなるのか、そうなってしまう結末を思い描いたのかは不明だ。しかし、そのせいで、彼女からはさらに怪しまれることとなってしまった。
「どうしてそんなに慌てているの?」
坂道を這うような声を彼女は出した。僕ははぐらかすことしかできなかった。
学校内はとても狭く、二年一組の教室まではすぐの距離だった。昇降口から歩いてすぐのところに一年一組の教室があり、その隣に、一年二組、そして二年一組の教室が続いている。教室自体の大きさもそこまでないので、ほんの一分でそこに辿り着くことができるだろう。しかし、なくなった僕の上履きを探さなくてはならないし、彼女と校内を歩き回りたいという願いも強かったので、とりあえず二年一組の教室とは反対の方向へと進路をとった。
「何をするつもりなの?」と女の子はいかにも心配そうに訊ねる。
「いや、学校中を歩いてみたいと思ってさ。君は、嫌かな」
「別にいいけど……」と彼女は言って、まるで指摘したい部分を、ある事情によって指摘できないもどかしさを感じているかのように、言葉を濁した。いったい彼女はどんなことを考えているのだろうか? もしかして、と思い、僕は彼女に訊いてみた。
「夜になる前に、家に帰らなくちゃならないとか?」
「ううん、それは大丈夫だと思う」と彼女は言う。「お父さんもお母さんも、帰ってくるのが遅いから。お姉ちゃんは優しくて、家に帰るのが遅くても、たぶん秘密にしてくれるだろうし」
「じゃあ、何を心配しているの?」と僕は問いただしてみた。
「え?」と彼女は体をびくっとさせる。彼女の手からそれは容易に伝わってくる。
「何だかいつもと違うみたいだよ」と僕は、いつもの彼女を知らないくせに淡々と口にする。
「そんなことないよ」
「だったら、そんなに緊張することもないと思うけど」
「うう……」と彼女は悔しそうに下を向いた。おそらく、こういう反応をするのがいつもの彼女なのだろう。
「トイレ」
「え」
「トイレを我慢してたの。だから、こんな感じになっているんだよ」と彼女は、自分に説得でもしているみたいに、僕の方を見ないで言った。
そういうことだったのか。僕は納得し、ちょうど行く先にトイレがあったので、そこで彼女の手を離す。彼女はちらちらとこちらを見ながら、女子トイレへと入っていった。そのついでに、僕も用を足しておくことにした。
自分が子供に戻ったのだということを改めて実感したあとで、トイレから出る。壁にもたれながら待っていると、数分後に彼女は姿を見せた。
「これでもう平気だね」と僕は言う。
「うん……」と彼女はぎこちなく笑っている。これで彼女が元気になってくれれば、と思っていたのだが、一向に状況は変化しなかった。彼女の手はまだ震えていたからだ。
しかし、それ以上そのことについて訊ねるのも気が引けるので、彼女のおかしな様子のことはもう気にしないことにした。少なくとも、僕が彼女に何かをしてしまった、というわけでもなさそうだ。なぜなら、トイレから戻ってきた彼女は、僕の方にすっと手を差し伸べてきてくれたからだ。その手を握っても、彼女は全然嫌そうな顔をしなかった。
しばらく進んでいくが、校内には誰もいないのではないかと錯覚してしまうほどに、しんとしていた。この時間なら、まだ先生たちは残っているはずだ。全員が職員室にいるということもないだろう。一人くらいはすれ違うはずだ。しかし、そんなことはなく、まるで僕たち二人だけが、現実とは違う別世界を歩いているような違和感、そして恐怖感を抱いた。
そのことを彼女が気にしているかどうかは疑問だった。そうなっているのが当たり前でもあるかのように、彼女は不審そうな顔をしていない。何かにおびえているような表情に変わりないが、それは僕の気にしている問題とは別のものだという感じもする。僕の方がおかしいのだろうか? この時間、先生とすれ違わないことが普通だということだろうか? 僕にはわけがわからなかった。
結局、何をするということもなく、廊下の端まで歩いてきてしまい、そこにあった階段から二階へと上がり、また廊下を直進していって、反対側にあった階段から再び一階へと下りて、最終的に二年一組の教室に到着した。上履き探しも兼ねての歩行だったのだが、いろんなことが気になってしまい、上履き探しに集中することができなかった。他の教室に落ちている可能性もあったのだが、そこまで気をまわすだけの余裕もなかった。
僕たちは教室に入った。彼女は手を引かれるままについてくる。中には誰もおらず、いかにもさみしい雰囲気が漂っていた。黒板には何も書かれていない。椅子と机は綺麗に整頓されている。床には塵一つ落ちていない。窓もきちんと閉じられている。窓に近づいて、そこから見えるグラウンドを眺めるが、やはり人の姿はなかった。
「ねえ……こうすけくん、楽しいことって、何だったの?」と彼女は言った。教室に入ってから、彼女はよほど緊張を増しているように見える。その様子は見ていて痛烈に感じる。
「ねえ」と僕は訊ねた。「僕の机ってどこだったっけ」
「あ……」と彼女は言ったきり、黙ってしまう。先生に叱られるのを待つ善良な生徒のように、上目で僕を見ている。僕はもう一度訊いた。すると彼女は、ある一点を指差した。「あそこ」とかすかな声を口にだしながら。
「ありがとう」と礼を言って、指示された机へと向かう。彼女の手は、だんだんと力を失っていくようだった。それを感じて、僕は悲しい気持ちになった。思い描いていたのとは違う。彼女はもっと明るくいるべきなのだ。暗闇の中で、僕がいつも思いだしていた彼女の手についての記憶。あの中で、彼女は絶対にはしゃいでいるのだとばかり思っていた。楽しそうに笑っているのだとばかり思っていた。でなければ、良い思い出として記憶に残るわけがないのだから。
僕は右手に持っていた片方の上履きを床に置いて、自分の机を探ってみる。ランドセルで運ばれてきた教科書やらノートやら筆記用具やらは、本来机の収納スペースに入れられる。そのことを思いだしつつ、机の中をがさごそと探る。すると、その中には僕のもう片方の上履きが入っていた。
「見つかった」と、思わず言ってしまう。それで僕は、彼女の手を離してしまう。すると彼女は、禁じられたものでも見てしまったかのように、僕から離れていった。こちらは向いたままの格好で。
どうして僕が、机を探ろうとしていたのかはわからない。あるいは僕は、以前に同じことを経験していたのかもしれなかった。そのときの記憶が、僕のどこかに存在しており、その記憶を知らないうちに頼りにしていたのかもしれない。だが、これで一応は損なわれていたものが回復したわけだ。
「ちょっと訊いてもいいかな」と僕は彼女に言った。彼女は目を合わせようとしてくれない。
「どうして僕の方を見てくれないの?」
「……そっちは太陽がまぶしいから」と彼女は控えめな声で言った。僕は窓を見てみる。日差しは教室近くの庭に生えている木に遮られていて、あまり眩しくは感じられなかった。
なぜこんなことになったのだろう。もっと楽しく彼女と過ごしたかった。いや……僕が悪かったのだ。上履きの問題など無視して、あのまま公園でわいわい遊んでいればよかったのだ。僕が結果的に、彼女を苦しめている。そんな思いにとらわれてしまい、無性に自分に腹が立ってしまう。
だが、この問題にけりをつけないかぎり、彼女はずっと不安なままだったのも事実だ。もしもあのまま公園でわいわい遊んでいたとしても、それほど充実したものにはならなかっただろう。そのあいだも、彼女はずっと心配事を抱えつづけていなければならなかったに違いない。
僕の中で何かが揺れている。心の奥底にある、最も敏感な部分だ。そこにはいくつもの感情が眠っている。日常的にはあまり使われないようなものまで含まれている。そこが今、とても活発に動いているのだ。彼女を見ていると、そういう感覚に陥る。不愉快ではないが、あまり快いものでもない。
もう、いいや。僕はそう思った。そうと決まったら、やることは決まっていた。僕は二つの上履きを揃える。それらを右手でつまんで、窓際まで歩く。横開きのガラス戸を開けて、外へと出る。開けた瞬間、一挙に秋風が吹きつけてきて、それがもやもやした感情を静めてくれるようだった。それを全身で感じたあと、僕は右手をぐっと引いた。そして、勢いをつけて、手に持っていた上履きを思いきりグラウンドへと投げつけた。
上履きは斜め上に向かって、鳥のように飛んでいった。二羽の臆病な鳥だ。茜色の空へとまっしぐらに飛行する。どこまで飛んでいくのかは彼らにしかわからない。点になるくらい遠くまで飛んで、どこかに地面に落下していった。おそらく途中で羽をくじいたのだろう。それを最後まで見届けてから、僕は教室へと戻っていった。
彼女は呆然と立っていた。何が起きたのかが理解できていないようだった。そんな彼女に、僕はにこりと笑いかける。これでもう、この問題はおしまいだ。上履きは、鳥になって遠くに行ってしまった。そう彼女に伝えたかった。
しばらく経ったあとで、ようやく彼女は意識を取り戻す。僕に近づいて、きりきりした声をだす。
「何やってるの。あんなことしたら、こうすけくんの上履きなくなっちゃうよ!」
「いいんだよ、それで」
「明日も学校あるんだよ……どうするのよ!」
「上履きは、また買えばいいんだよ。親に言えば、たぶん買ってくれると思うから」
「でも……あれは……」と彼女はもじもじしはじめた。まだ何か言いたいことがあるようだった。
「僕の捨てた上履きがどうかしたの?」と僕は訊ねる。彼女は僕の方を見たり、見なかったりしていた。
「こうすけくんの上履きは……あれじゃないと、駄目なんだよ」と彼女は絞りだすようにして言った。その言葉の意味が伝わらないので、僕は黙る。
「捨てたら駄目なものだったんだよ。由美ちゃんに言われていたの……」と彼女は言った。とても苦しそうに。
由美ちゃん? その名前に心当たりはなかった。だが、おそらく同級生なのだろう。そう仮定して、彼女の話の続きを待った。
「由美ちゃんは言ってた。こうすけくんの上履きはとても大事な意味を持っていて、特別に扱わなければならないって。そのために、片方を別のところに置いて、大切に保存をしなくちゃならない。あの子の言っていたことは全然わからなかったけれど、とにかく片方の上履きをどこかに持っていって、って言われたの。だから私は……」
「上履きを隠したんだね?」
彼女はうなずく。
「でも、わからないよ」と僕は言った。「隠すなら、どうしてもっと見つかりにくいところに隠さなかったの? あんなところに置かれていたら、すぐにわかるよね? 明日になれば、僕はすぐに、机の中に上履きがあることに気づいたはず――」
「私は、由美ちゃんの命令に逆らえなかった」と彼女は僕を遮って話しだした。「彼女に逆らったら、どういうことになるかわからない。言われたことは絶対に守らなくちゃならない。だから、どうしても上履きをどこかに隠さなきゃならなかった。でも、私はそんなことはしたくなかった。こうすけくんが困るようなことはしたくなかった。それで、こうすけくんがすぐに気づいてくれるようなところに隠したの。由美ちゃんの命令には逆らわずに、しかもこうすけくんにあまり迷惑のかからない方法で」
突然、窓の方から風が吹きこんでくる。そちらを見ると、窓は開いていた。さっき教室に戻ってきたときに、窓はちゃんと閉めたはずだ。僕たちの知らない誰かが、外から開けたらしい。だが、その人物はすでにいない。
風が冷たいので、僕は窓を閉めた。今度はこういうことのないように、しっかり鍵がかかっていることを確認する。そして彼女の方を振り向いたそのとき、正面から何の前触れもなく彼女に抱きつかれた。僕はそのまま動きを停止してしまう。
「ごめん。私が上履きを隠したの。本当にごめん」
彼女の声は、人間にぶたれた小犬の鳴き声のようだった。涙混じりの嗚咽も聞こえてくる。それを見て、ようやく彼女が正直になってくれたな、と僕は思った。これまで覆い隠されていたものが、やっと姿を見せてくれたみたいだった。
「そんなに気にすることもないよ。どんな意味があったにせよ、上履きのことはもう解決したんだ。鳥になってどこかに行ってしまった」
「……鳥?」
「何でもないよ」と僕はすぐに言った。
それからも彼女はすすり泣いていた。落ち着きを見せはじめたのはだいぶ経ってからだ。彼女は目を赤くしながら、何度も僕に謝ってきた。そのたびに、もう大丈夫だから、と僕は言いつづけた。
もう陽はほとんど沈んでいた。辺りは夜に向けて着実に準備を整えてきている。教室を出ると、いつのまにか、廊下には明かりが灯されていた。見かけなかっただけで、先生はやはり学校に残っているのだ。それを知って安心したあと、僕たちは一言も話さずに廊下を歩いていった。沈黙が周囲一帯を支配していたが、それほど窮屈には感じなかった。
下駄箱で外靴に履き替える。今度はもしや、外靴の片方がなくなっているのでは、と思っていたが、さすがにそんなことはない。両方ともきちんとそろっている。靴がコンクリートの地面に落とされたとき、何だかそれが、すべての終わりを意味するゴングのような音に聞こえた。
外へと出る。もうほとんど夜だ。鮮やかな花壇も、双子の木も、消されない落書きも、大部分が黒く塗りつぶされている。もとがどんな色だったのかもはっきりしなかった。
僕たちは自然に互いの手をつないだ。それから、ここに来たときと同じように、グラウンドの中央を突っ切って、校門へと向かう。グラウンドに出ると、視界が一気にひらけ、空が一面に見えるようになった。もう月の姿も確認できる。いくつかの星も、待ちきれないといった様子で瞬いていた。
校門まで来たところで、僕は立ちどまった。そして彼女の方を見る。彼女は不思議そうな表情を浮かべる。
「帰らないの?」
「うん……そのことなんだけどね」と僕は言った。「残念だけど、ここで君とは別れなくちゃならないんだ。そういう決まりになっていてね」
「どういうこと?」と彼女は怪訝な顔をする。当たり前だ、僕自身、自分が何を言っているのかが理解できないのだから。けれども、どうしてか僕は、陽が沈んだら、もうここから離れなくてはならないということが、潜在的にわかっていた。
「一人で帰れる? 家は近いんだっけ」と僕は彼女の手を握ったまま言う。彼女は、「近いけど……」ともごもごと口にするが、あまり帰りたくないみたいだった。僕はもう彼女の手は握っていない。彼女から手を握ってきている。
正直に言って、まだ彼女と一緒にいたかった。彼女の笑っているところをもっと見たかった。しかし、どうしても叶えられないものというのがある。僕にとっては、これで十分良かったのかもしれない。
「君にまた会うことができて、すごく幸せだったよ。楽しかった。ありがとね」
「え? こうすけくん、何を言っているの? また明日も会えるのに……」と彼女は眉をしかめ、口もとに笑みを浮かべて言う。
「もちろん。明日も会えるよ。でも、とりあえず今日、僕と過ごしてくれた感謝の気持ちを伝えたくて」
「ねえ、本当に、明日も会えるんだよね?」
僕はそれには答えられなかった。
彼女は何かを察したのだろう、僕の手を一段と強く握って、いろんなことを話してきた。だが、僕にはもうその声は聞こえなかった。そろそろ終わりがやってきたということだろう。視界がぼやけ、彼女の姿がうまくとらえられない。足元もぐらつき、彼女の手を借りてどうにかバランスをとる。彼女には自分の消えるところを見られたくなかった。だが、彼女は手を離そうとしてくれない。それで僕はあきらめてしまった。いさぎよく、彼女の目の前で消えることにしよう。そう思い、最後に僕は、彼女を引きつけて、その小さな体を抱きしめた。
再び暗黒の世界へと帰ってきた僕を待ち構えていたのは、闇からの執拗な攻撃だった。もう二度とあのようなことが起こらないようにと、闇は無慈悲に襲ってきた。おかげで体はぼろぼろだ。脳ももうほとんど使い物にならなくなってしまった。それでも僕は、あるいは成功するのではないかと思い、想像力を働かせて、あのときのように僕の分身を過去の世界に送ろうとした。だが、それは絶対にうまくいくことがなかった。その原因が闇の攻撃にあるのか、それとも僕自身に問題があるからなのかは、僕の知ることではなかった。
あれからずっと、毎日のように拷問を受けているが、彼女と過ごしたあの記憶だけはどうにか守りつづけた。この記憶があるだけで、僕は生きていける。そして、ほとんど叶うことはないのだろうが、成長した彼女とどこかで会うことができたらと願う。大人になった彼女がどういう女の子になっているのかを想像する。そのころになったら、彼女はもう僕のことなど忘れているのかもしれない。他の男と楽しそうに話したり、彼の胸で泣いていたりするかもしれない。だが、それでもいいと思う。彼女が忘れようとも、僕は忘れない。それでいいじゃないか。僕だけが彼女を占有する権利はない。彼女が選ぶだけだ。僕はそれに逆らうことができない。
彼女とまた会うまでは、死ぬわけにはいかない。たとえ全身を槍で貫かれようとも、頭を銃で撃ち抜かれようとも、彼女との記憶がある限り、僕は生き残ってみせる。
そう決意したら、いくぶん痛みが引いていくようだった。はりきった気持ちのままで、僕は周囲に広がる闇を見つめる。そうして、静かに、その最奥へと心身を浸していった。