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5. 彼女の願うもの

 彼女が落ち着きを取り戻すまで、だいぶ時間を要した。そのあいだ、涙を流しつづける彼女を、航輔はひどく不器用になぐさめていなければならなかった。内心では緊張していたが、それをおくびに出さないようにして、背中をさすってやったり、声をかけたりした。しばらくして、彼女は泣くのをやめて、鼻をすすりながら航輔から離れた。


「いろいろと訊きたいことがあるんだけど……」と航輔は切りだす。正直なところ、何から訊ねていったらいいかがわからなかったので、彼は自分自身にも説明をしつつ、気になったところを順次訊ねていくことにした。


「まず君は、あそこの湖に姿を見せた。空からゆっくりと落ちてきてね。そのときのことは、覚えている?」

「ううん」と彼女は首を振る。「気がついたらここに横になっていたの。さっきは勝手に泣きついたりして、ごめんね……」。彼女はまた泣きだしそうになる。


「大丈夫だよ。何も迷惑じゃないから」と航輔は慌てて言った。彼女は本当? と言っているみたいにして、航輔の顔を覗きこんでくる。彼が何度かうなずくと、彼女は「そっか」と小さくつぶやいた。


「変わってないね、航輔くんは」

「ん?」

「あのときから何も変わっていない。もちろん、顔つきとか体つきとかは、暗闇でも十分わかるくらいに変わったけど、雰囲気は昔のまま」


 過去の思い出に浸る彼女だったが、残念なことに、彼には昔の記憶がないため、どう言葉を返すべきなのかがわからなかった。


「まあ、とにかく」と航輔は話を進めることにする。「君は無意識のうちにここにやってきたみたいだ。それじゃあ、どこからここに来たのかは覚えている? まさか天国から地上に落ちてきた、というわけじゃないよね」


 すると彼女は弱々しく笑った。「どこから来たのかは、言えないことになっているの」

「言えない?」

「うん。ちょっとした事情があってね。それに私、ここにずっといることもできない。しばらくしたら、また帰らなくちゃならない」

「でも、どこに帰るのかは言えない」

「うん」


 航輔の頭はこんがらがるばかりだ。彼女はいったい何者なのだろう? 彼の知り合い、それも相当深い仲だということは、彼女の行動を見てもわかる。しかし、過去の思い出をすべて失ってしまった彼にとってみれば、彼女は未知の女の子でしかなかった。名前もわからず、彼女だけが自分の名前を知っていることに、航輔は違和感を覚える。「実は……」と彼が自分の記憶のことを伝えると、彼女はとてもショックを受けたような表情になる。だが、そのすぐあとで、またもとの調子に戻った。


「仕方ないか……あんなことが起こったあとだもんね」

「あんなこと?」

「あ……今、私の言ったことは気にしないで」


 そう言われると、逆に気になるものだ。航輔はそのことについて追及してみるが、彼女は言葉を濁すばかりで、何も教えなかった。


「何だか、とても居心地が悪いようだ」

「ごめん! でも、言っちゃいけない約束だから」と彼女は、両手を合わせながら軽く頭を下げた。口が笑っていたので、さほど重く考えてはいないのだろう。片目をつぶる彼女を見て、航輔も表情を柔らかくした。


「へくしゅ」

「ん?」


 どうやら彼女はくしゃみをしたようだ。小動物を想起させるような、温かくて微笑ましいくしゃみだった。彼女は自分がくしゃみをしたこと自体に驚いたように、目をぱっちり開けて放心する。それから、背中に氷を当てられたようにして、彼女はいきなり体を震わせた。


 考えてみれば、当たり前の話である。彼女は湖でしぶきを浴びたことによって、全身を濡らしているのだから。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。


「大丈夫?」

「うん……」と返事をしてくれるものの、声は今にも消え入りそうだった。「私、寒いのすごく苦手なんだ」


 彼女は両腕で自分の体を抱いている。しかし、それで寒さをしのぐことはできないようだった。どうにかしてやりたい――と航輔は強く思う。そして、思いつくままに、彼は上着を脱ごうとした。それを見た彼女は、手を思いきり振って止めようとする。


「いいって! 私、我慢できるから」

「でも、見ていられないよ」


 航輔がそう言うと、彼女は彼から顔をそむけてしまった。頬を赤くして、口を堅く結んでいる。ズボンはさすがに脱ぐわけにはいかないので、彼は上着だけを脱いで、それを彼女に渡した。


「これでましにはなると思う。汗臭くはないから、心配はいらないよ」

「そういうことじゃなくて……」


 何かを言おうとするも、途中で言葉を引っこめて、彼女はそれを受けとった。何もかもをあきらめたような、達観した顔つきだった。これで良かったのだろう、と彼は思うことにする。上は下着一枚の格好で、ひとまず湖から離れた。茂みの奥へと進み、そこでしばらく時間を潰すことにする。できるだけのことはしたはずだ……とは思うのだが、もっと別の方法もあったのではないかと、しきりに後悔する。


 彼女のことは憶えていない。しかし、寒さに震える彼女は、どこか心のどこかを刺激してくるように彼は感じた。ほんの少し気になるだけなのだが、どうしても無視できない。もっとしっかりしたかたちを取ってくれれば、その正体を確かめることもできるのだろうが、それはどれだけ見つめようとも、鮮明な姿を現してはくれなかった。


 何分か経ってから、「もう大丈夫」という声が聞こえてきた。航輔は茂みから離れ、湖に戻る。すると、航輔の上着を身につけた彼女が、顔を伏せて座っていた。体は湖の方に向けている。服のサイズは多少大きめだったようで、ぶかぶかしている。でも、びしょ濡れの服を着ているよりは断然良いだろう。脱いだ服は、彼女の隣にたたまれて置かれていた。


「近くまで行ってもいいかな?」と航輔は訊ねる。彼女はかすかにうなずいたように見えた。暗闇でわずかな首の動きを見極めることはなかなか骨の折れるものだったが、もうだいぶ目が慣れてきたので、何とかその動きを捉えることができた。


 彼女の隣まで歩いて、そこに腰を下ろす。そこから正面に見える湖を眺める。もう光は見えない。どこかに消え損ねたものがいないかどうか目をこらしてみたが、光はもう完全に消滅していた。きっと、もといた場所に帰っていったのだ。

「君は僕にとって何なんだろう」と航輔は独り言でもつぶやくみたいにして言った。彼女には自然な親近感を抱くことができる。自分たちがかつてはとても仲が良かったのだということもわかる。しかしそのことをきちんと彼女が説明してくれたわけではない。すべて推測でしかないのだ。だから、自分たちのことについて、彼女から直接聞いてみたかった。


「何か、教えたくなくなっちゃったよ」と彼女は言った。

「どうして?」と航輔は言う。「もしかして、僕が君の前で着替えをしたから……?」


 彼女は何も言わない。ただ湖をしきりに眺めるだけだ。


 彼はため息をつく。「あれは本当に悪かったよ。確かにいきなりの行動だった。あまりに寒そうにしていたから、何とかしたくてさ」


「でも、私の気持ちは全然考えてくれていなかったよね」

「そうかもしれない」

「あ、認めたね」と彼女は横目で航輔を見た。してやったり、という声色だ。


「いや」と彼は肯定とも否定ともつかない反応をする。「だって、認めないと、君は機嫌を直してくれそうにないから」


「それは、ね」


「謝るよ。君の都合なんてまったく考えずに、勝手に服を脱いだりして、ごめん」と言って、航輔は頭を下げる。だが彼女はすました顔のままだ。それにまだ彼に顔を向けてはくれない。


「まだ足りないな。誠意が伝わらないよ」


 彼女は案外手厳しい女性のようだった。


「どうすれば許してくれるんだ?」と航輔は詰め寄る。ここまでくると、もう懇願に近い。立場がおかしくなり、彼の方が、今度は泣いてしまいそうになる。すると彼女は、ようやく彼に顔を向けた。その目は驚きに満ちている。


「何でもいいの? というか、どうしてあなたが泣きそうになっているのよ」

「ごめん」

「もう謝らなくていいよ。私もちょっとやりすぎた」と言って、彼女は途端に自信に満ちた態度を崩した。「そんな顔をされたら、あなたに命令するのが申し訳なくなってくるよ」

「いや、君が納得してくれるのなら、何でも聞くよ」

「……本当に?」

「うん」と僕は返事をした。


 すると彼女は、航輔にどういう注文をしようかについて考えはじめた。彼をじっと見て、難しい顔を浮かべている。彼はそこに、彼女の過去の面影を見たような気がした。昔の記憶などまったく持っていないのに、どうしてかそう感じたのだ。記憶がないのに、その表情はどこかで見たことのあるような感じがする。とてもおかしな感覚だった。


「じゃあ、目をつぶっていて」と彼女は言った。奇妙な注文だ。航輔は「なぜ?」と訊ねそうになるが、それを訪ねてしまったら意味がないような気がして、何も言わなかった。彼女の指令通り、目をつぶる。


「そのままでいてね。私がいいって言うまで、絶対に目を開けないでよ」と、彼の左側から声がした。そのあとで、何やらごそごそという音がする。何が行なわれているのかはわからない。目を開けたいという欲望に必死に耐えながら、航輔は事の成り行きをじっと待ちつづける。




「いいよ」と声がしたので、航輔は目を開けた。すると、彼がいたのは、水辺のそばの草原ではなく、湖の上だった。彼はいつのまにか、水の上に立っていたのだ。彼は疑問に思う。目をつぶっているあいだ、自分はずっと地面に座っていると思いこんでいたし、事実座っているという感覚があった。それがどうして、知らないうちに起立して、しかも湖の上まで来てしまっているのだろうか? だが、その疑問はしまいこむことにした。いろんなことがこれまでに起こったのだ、今さらどんなことが起ころうとも、何ら不思議なことではない。航輔は息を飲んで、下に広がる滑らかな水面を眺め、それから前方の女の子を見た。


 彼女もまた、湖上に立っていた。航輔の両手をとって、優美な笑みを浮かべている。もう少し周りが明るければ、もっと鮮明に彼女の姿を見ることができただろう。だが、暗くてもなお、正面で全身をさらけだした彼女は、はっとするほどの印象を彼に与えた。何だか、体全体が厳格な規律に従って組まれている、といった感じだ。すらりとしていて、どこにも不備が見当たらない。一度見つめると、もう視線をそらせなくなってしまうほどの完璧な姿だ。舞う黒髪は一本一本がつややかで、とても細い。だが、そこには生命を謳歌するような力強さも見受けられる。口もとと呼応するように目も笑っているが、そこには艶やかさと無邪気さが混同しているようにも思える。大人としての成熟した彼女と、子供としての純粋な彼女とが、その中に詰まっているようだ。彼女が自分と同じ年であれば、どうしてそういった印象を受けるのかが納得できる。十八歳といえば、わりに微妙な年齢だからだ。彼女と視線が触れ合うと、彼はかなり気恥ずかしい気持ちになった。


 彼女は何も言わない。ただ、待っているだけだ。ここから先は、自分から行かなくてはならないと航輔は思った。それが彼女の願いのはずだ。航輔は彼女の手を強く握って、わずかにうなずいてみせる。すると、彼女も目をつぶって、小さくうなずいた。おそらく肯定のしるしだろう。でなければ、そんなに穏やかな雰囲気であるはずがないのだから。


 航輔は彼女と踊りだした。記憶がないからわからないのだが、おそらくこれまで自分は踊ったことのないはずだと彼は思う。だが、手足はごく自然に、流れるように動いた。何かに操られているのではないかと疑ったりもした。だが、間違いなく自分の意志で踊っているのだった。


 彼は目の前の女の子がどんなことを考えているのかを想像する。彼女は機嫌を損ねていないだろうか? 自分の踊りに対して不満を抱えてはいないだろうか? だがそんな危惧を吹き飛ばすかのように、彼女はにこりと笑い、さらに動きを速めてきた。それにつられるようにして、彼も自分の踊りをヒートアップさせていく。最初はついていくのがやっとだったが、彼はどうにかそのスピードに慣れ、徐々に踊りの完成度を高めていった。


 何分経ったのか、あるいは何時間経ったのかはわからない。だんだんと景色が明るくなっていくのに彼は気がついた。湖の青が光に反射して鮮やかに色つき、湖の周囲に生息する樹木の緑がだんだんと浮かびあがる。彼女の全身も、同時に色彩が施されていった。彼女は思っていたよりもずいぶんと色白だった。肌は触れれば、それだけで傷ついてしまいそうなほど薄いように見える。彼の意識はそんなふうにして、踊りとは別の方向へと散逸するが、動きに切れがなくなることはなかった。このままずっと踊っていたいという思いが、彼の中でどんどん膨らんでいった。一日中踊っていたとしても、彼は退屈しない自信があった。彼女が一日中踊ることについて同意してくれるかどうかは別問題として。


「もうすぐ行かなくてはならない」と彼女は突然言った。はじめ、航輔は彼女が何を言っているのかがよくわからなかった。踊りや色彩に意識を集中させていたせいで、言語に対する意識を置き去りにしていたのだ。彼は彼女に訊き返した。彼女が言葉を繰り返したときにようやく、その意味が頭に入ってきた。つまり、彼女はそろそろここを発ってしまうということだ。


「本当に楽しかった。願いを聞いてくれて、ありがとう」

「いや、僕は何もできなかったよ。迷惑ばかりかけていたような気がする」

「全然そんなことはない。最後にあなたと過ごすことができて、よかった。もうずっと、あなたのことを忘れることはないと思う。あなたの顔も、声も、優しさも」

「そう言われるととてもうれしいよ」と航輔は言った。すると彼女は笑った。そのあとで彼女は何かを言ったのだが、その声はずいぶんと小さかったため、彼にはよく聞こえなかった。ただ、彼女はそのあとで涙を流した。


 それを見て、彼自身も無性に悲しくなった。彼女がもういなくなってしまうのだという事実がようやく呑みこめてきたのだ。彼女とはもう会うこともないし、一緒に踊ることもない。そのことを改めて認識させられて、彼の心は一気に揺さぶられた。


 彼女のことは、結局最後まで思いだせなかった。だが、心のどこかに絶対に彼女についての記憶が眠っているのだろうと思う。でなければ、こんなにも寂しくなることもないはずだ。記憶は完全には失われない。本当に大事な記憶は、たとえ思いだすことができないとしても、きちんと自分の中で生きつづけているのだ。


「最後になるけれど、もう一つ、お願いを聞いてくれる?」と彼女は言う。

「何でも」と彼は言った。その声はひどくかすれていた。ちゃんと彼女に聞こえただろうか?


 けれども、おそらく彼女には届いたのだろう。航輔が声を発したその直後に、彼女の顔が彼に接近して、二人の唇が重ねられた。ふんわりとした感触が彼に伝わり、同時に愛しさがぐっとこみあげてくる。キスをしたまま、航輔は彼女の体を強く抱きしめた。彼女はそれに抵抗することもない。悲しみはさらに増していくようだった。


 彼女が消えてしまうと、航輔は思いきり歯を噛みしめた。拳に力をこめた。そうでもしなければ、押し寄せてくる後悔の波に流されそうになってしまいそうだったからだ。湖面は木の隙間から差しこんでくる陽射しに照らされて、きらきらと光っている。もう朝が訪れてしまったのだ。


 航輔は自分の唇に人差し指を乗せた。視線は前に見据えたままだ。彼はその状態のまま、じっと動かずにいた。うまく自分を整理することができなかった。何度か大きく息を吐いて、高まった感情を少しずつ放出していく。整理のついたところで、彼は空を見上げた。よく見てみると、光の粒が青い空に浮かんでいるのがわかる。それは風に流されて、どんどん上昇していった。彼はまったく見えなくなってしまうまで、光の粒を目で追いつづけた。


 彼は何も考えられないまま視線を戻した。そこで彼はあることに気づく。彼女に渡したはずの服を、彼は着ていたのだ。いつ身につけたのか、全然覚えがない。湖の上に来たときと同様、自分の知らないところでいろんなことが進行していたようだ。そういえば、と彼は思う。彼女が消えたあとも、自分は湖面に立ったままだ。どういう魔法かはわからないが、自分がここを去るまで、ずっとこの浮遊は続くのかもしれない。


 彼女の名前を聞いておけばよかったと強く思う。もし名前がわかっていれば、ここで思いきり彼女の名前を叫ぶことができたのだ。しかしもう彼女はいない。そのことを自分に言い聞かせて、再び前を見た。森はまだ続いている。出口がどこかはわからないけれど、彼女と過ごした思い出が、自分に力を与えてくれるような気がした。少し休んだらまた歩いていこうと彼は決意した。

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