4. 思い出を辿ること
想像力が現実世界を突破したことで、僕は実質的に子供時代へと戻ることができた。記憶として過去の景色を眺めているのではなく、自分が本当に過去へと遡行したのだ。僕は今、子供の体で、実際に目の前の風景を見ている。この感覚はずいぶん不思議なものだった。
そこは公園だった。立派なジャングルジムがあり、楽しそうなブランコがあり、象のかたちをしたへんてこな乗り物があり、滑り台があり、砂場がある。それらにはどこか見覚えがあるような気がした。潜在的にここを記憶していたのかもしれない。そして、それらすべてが、鮮明な茜色に染まっていた。空を見てみると、まるでさみしげに手を振るようにして、橙色の画面がいっぱいに広がっていた。突き抜けるような夕焼け空だ。何かの咎めでも受けたようにして、僕は空を眺めつづける。一羽の素早い鳥が、空を通過していった。その方向には彼のねぐらがあるのだろう。鳥の姿を目で追おうとしたが、その影はすぐに空の彼方へと消えてしまった。
「ねえ、どうしたの?」
僕は驚いて、声のした方を見る。僕の後ろには、小さな女の子(背丈は僕とそう変わらない)が不安そうな顔をして立っていた。長い黒髪を腰あたりまで伸ばしていて、前髪は眉毛に触れそうなところで、横に一直線に切られている。顔立ちは幼さが多少は残っているが、この年にしてはむしろ整いすぎていると言った方が正しかった。大人びた部分と年相応の部分が重なった、とても魅力的な女の子だった。
そして、彼女の手だ。これまで何度思いだしたかわからない、細やかで柔らかい手。僕は今、その手を堅く握りしめている。どうやら、記憶にあったそのままのシーンに飛んできたようだ。
「いや、何でもないよ」と一応返事をするも、僕は気持ちが高揚してしまって、うまく自分をまとめることができなかった。すぐにでも泣いてしまいそうだ。念願の思いが叶ったのだ、感動しないわけがない。魂は歓喜の声を上げて、今にも外に飛びだして空を飛んでしまいそうだ。どうにか自分を制御しようとするが、どうしても全身に力が入ってしまい、気持ちを落ち着かせることができなかった。
「どうしたのってば」
少女の言葉で、少しだけ僕は落ち着きを取り戻す。彼女の声は若干高めで、びくびくしているようだった。びくつかせてしまうほどに、僕は変な態度をとっていたのだろうか? 彼女の目は、こちらを見てはいるがまるで力が入っていなかった。
「何でもないって。ごめんね」と僕は言う。すると彼女は、「ほんとに?」と念を押してくる。僕がうなずくと、どうにか納得してくれた。
当時の僕が、彼女の手を引いてどこに行こうとしていたのかは知る由もない。なのでとりあえず、公園内を適当にうろつくことにした。ここの公園はずいぶんと広い。ざっと眺めただけでその大きさに圧倒される。さまざまな遊具があり、たくさんの木が元気に生えている。だが、ここには僕たちのほかに人らしき姿は見当たらない。どうしてだろうか? 見たところ、彼女はそのことについてはさほど気にしていないみたいだった。
僕がいつもの調子に戻ったことで、彼女は機嫌を直してくれたみたいだ。歩いているあいだ、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、ほんの一瞬だけ、彼女の顔が暗い影のようなもので覆われるときがある。苦しそうに顔を歪める瞬間がある。どうしてそんな顔をしているのか、それほどに自分の態度が不自然だったのだろうかと僕は首をひねる。そんなわけで、僕は変に緊張してしまい、うまく彼女に話しかけることができなかった。
「で、どこに行くつもりなの?」と彼女は突然言った。退屈はしていないようだが、あまり嬉しそうでもなさそうな声だった。
「まだ決めてないんだ」と僕は言った。察するに、当時の僕は彼女をどこかに連れていこうとしていたらしい。それ以上は思いだすことができない。
「でも、すごく楽しいところに連れていってくれるって」
「うーん」
僕はうなることしかできない。彼女とのあいだにどんな約束が交わされたのだろう。懸命に記憶をたぐり寄せようとするが、覚えているのは、彼女の手のことと、片方だけしかない上履きのことだけだった。目的地がどこかなんて、わかるはずもない。
上履き……。
「学校に行こう」と僕は、無意識のうちに言葉に出していた。
「ええっ、学校? 行きたくないな……」、彼女は下を向いてしまう。
「いいや。絶対楽しいよ。夕方の学校には面白いものがたくさんあるんだ」と僕はでまかせを言う。このあとも、夕方の学校が、いかに愉快でわくわくするものに満ちているか、具体的なことは言わずに、抽象的な言葉で彼女に説明した。彼女は口をすぼませて、いかにも納得しかねるといった様子だったが、最後には「わかった」と言ってくれた。
僕たちは学校に向けて歩きだす。公園を抜けて、太陽の沈む方向を目指す。どうしたことか、僕は公園から学校までの道のりを、正確にはっきりと理解しているようだった。道のりを頭に思い描くことはできない。だが、どの道を行けば学校に辿り着けるのかがわかっているのだ。これは奇妙な感覚だった。頭ではなく、体が覚えていた、ということだろうか?
秋の風は少し肌寒かったが、心地良くもあった。夏が終わって、ちょうど一息ついているころの季節だ。冬に向けての準備は着々と進んでいる。しかしまだその季節は訪れない。そのあいだ、空白を埋めるかのようにして、涼しい風がやってくる。冬になるまで彼女と一緒にいられればいいのだが、残念ながら、それは難しそうだった。そのことを思うと、僕は不意に心配になった。
心配? いったい僕は、何に対して心配をしているのだろうか。僕は後ろを歩く女の子を見る。少々顔をうつむかせて、元気のない様子だったが、僕に気づくと、彼女はぎこちない笑みを浮かべる。一層強い風が吹きつけると、彼女は手をこわばらせ、全身をぶるっと震わせる。そういう観察を何度かしたあとで、僕は思いだした。彼女は寒がりなのだ。
そのことに気づいてしまうと、綱をぐいぐい引っ張るようにして、僕の中に眠っていた記憶が目覚めていった。彼女は冬の季節になると、南極にでも探検に行くのかという格好をして、いつも外を歩いていたものだ。何重にも服を重ねて、分厚いマフラーを装備し、いくつものホッカイロを防弾チョッキみたいにポケットに入れて、毛糸の帽子を深くまでかぶる。それが彼女の冬の日常着だった。
そんな格好の彼女が学校に来たときは、よくからかったりしていた。僕はといえば完全に逆で、冬の寒さにはめっぽう強かった。冬でも厚着をせずに、体育のときなどは半袖で外を走り回っていたのを思いだす。そんな僕に彼女はよく声をかけてきた。こんなに寒いのにその恰好でいると、風邪をひくよ。それに対して僕も、そんなにたくさん服を着ているのも、何だかおかしいけどな、と言い返していた。彼女は冬になると途端に元気をなくす。心配の原因はこれだったのだ。
しかし、今の彼女は、寒さに対してというよりも、別の懸念にとらわれてしゅんとしているように見受けられる。僕といるのがそれほど楽しくないのだろうか? それとも、学校に行きたくない特別な理由でもあるのだろうか? そのことについて彼女に訊ねてみたかったが、言葉は寸前まで出かかって、それから引っこんでしまう。彼女の浮かべる表情には、そういった魔力が具わっていた。質問を事前にはねのける、防壁のような力だ。それで僕は何も言うことができず、彼女の手は離さないままで、黙ったまま歩きつづけた。
いろいろと思いだすことはできるけれど、どうしても僕は、彼女の名前を思いだすことができなかった。
学校の正門は幸い、まだ開いていた。半分ほど閉まった状態で放置されている。門を閉める係の者が、作業の途中で急用でも思いだしたのかもしれない。中途半端に置き去りにされた門は、何だか通るのがはばかれるくらいのもの悲しさを背負っていた。
グラウンドは思っていたよりもだいぶ小さかった。頭のどこかにある中学校、高校のグラウンドと、無意識のうちに比較しているのだろう。もしかしたら先生に見つかるかもしれない、という懸念は無視して、僕たちはグラウンドの中央を突っ切っていった。
「学校の、どこに行こうとしているの?」と彼女は訊いてくる。
「とにかく、下駄箱に行こう」と僕は言った。記憶にある光景と重なるのかどうか、それが気になったのだ。もし重なったら、その謎も明らかにしてみたい。
ピロティを抜けて、学校の裏にまわる。そこに昇降口があるはずだった。行く途中でいくつもの懐かしい風景に出会う。今では僕は、たくさんの思い出を取り戻すことができていたのだ。鮮やかに咲き乱れている花壇。双子のように並んで立っている木。外壁に書かれた、未だに消されていない落書き。思いだすたびに、僕は自分自身を取り戻していくような感覚を味わった。
丈夫そうなガラス戸を開けて(鍵はかかっていない)、僕たちは薄暗い昇降口へと足を踏み入れる。中に入ると、一気に周囲が暗くなってしまった。夕焼けはここまで光を届けてくれないみたいだ。得体の知れないものでも出現しそうな怪しげな空間に、僕は闇の存在を思いだす。闇からの攻撃は、ここまでやって来れるのだろうか? 今のところは何も起こらないが、気をつけておいて損はないはずだ。周囲を警戒しながら、そろそろと下駄箱に近づいていった。
その周辺を調べてみると、誰かの上履きが片方だけ、床に落ちている光景を発見する。それを拾い上げて、書かれている生徒の名前を確認してみる。するとそこには「福原こうすけ」と書かれていた。僕の名前だ。
僕は急いで、自分の上履きが収納されている場所を探す。上履きには自分の名前と所属している組――二年一組――が書かれていたので、自分のクラスは判明している。その組の出席番号を追って、自分の名前を探していった。二十番目にようやく僕の名前を発見する。しかし、そこにはあるはずのもう片方の上履きは存在していなかった。
「どうして片方しかないんだろう」と僕は独り言を漏らす。右手に上履きを持ち、左手に女の子の手を握ったまま。記憶が本当にあったことだということはわかったのだが、どうしてそうなっているのかがわからない。もう片方はどこに行ってしまったのだろう?
「あっちに行ってみよう」と僕は、思いつくままに提案する。とにかく探索がしたかった。それに、楽しいところに連れていくという約束を彼女としているのもあるので、なるべくここに留まっていたくなかった。彼女を引っ張って廊下を歩こうとしたが、彼女が抵抗した。
「学校を歩くときは、上履きをはかなくちゃ」
その通りだった。僕はいったん手を離して、彼女が上履きをはくのを待つことにした。準備が整ったところで、再び手をつなぎ、彼女と共に夕方の校舎を歩いていった。