3. 光の先に見たもの
目を覚ましたとき、航輔は泣いていた。涙は目からこめかみを伝って耳にまで到達している。顔を上下二つに切り裂くようにして涙が続いているので、それは淀みなく流れる名もなき川のようでもあった。
誰に見られているということもないのだが、彼は急いで涙を拭った。体を起こし、ごしごしと手を動かす。すべての涙を処理しきるまでに、ずいぶんと手間取ってしまった。手が震えて、うまいこと動いてくれなかったのだ。涙を拭きとり終えると、彼はもう一度体を地面に横たえた。
短い背丈の雑草は、世界の終末を見守る信者のようにそこらじゅうに生えている。気のせいかもしれないが、それらは眠る前よりも若干湿っているように感じた。彼は手直にある雑草をむしり取ってみる。草は簡単に地面から離れた。しゃりしゃり、という音が、まるで氷を削っているかのように聞こえてくる。左手を顔の前まで持ってくると、その手には細かく裂かれた草の残骸がいくつか残っていた。そのいくつかは手から離れて顔に落ちてきた。手の平はやはり濡れていた。
手と顔についた草をぱんぱんと払ってから、彼は身を起こした。
湖の上では、相変わらず光たちがダンスを踊っている。何かの儀式でも執り行なわれているかのようだった。もしかすると本当に儀式めいたことが、ここで進行しているのかもしれない。光の動きは一見ばらばらだが、実は誰かの命令によって統一された動きをしていて、空中に古代の紋章でも描きだしているのかもしれない。そう考えると、航輔はわくわくする思いだった。この先に何が起こるのか、彼は最後まで見たくなった。そこで、ただじっと、光たちが謎めいた運動をするさまを眺めつづけることにした。
照らされた水は、夜のせいで海苔みたいな色をしていたが、それでもなお、清潔で品格が感じられた。光が喜んでその上を漂うのもわかる気がする。おそらくは聖なる力の宿った特別な水なのだろう。飲むことも可能なのだろうが、彼はひとまずやめておいた。やってはいけないという戒律めいたものを、彼は直感で感じたからだ。あまり目立つ行動は控えた方がいいだろう。もっと光に近寄った結果、儀式が中断されてしまうことだってありうる。彼はそのまま、何もしないことに決めた。
しばらくして、光の動く速度が上がってきた。靄のような残像をあとに残しながら、まるで流星のように湖上を飛行する。何百もの数のそれらが互いにもつれ合い、交差し、並走しながら、とても楽しそうに、湖に何らかの模様を描いていく。その模様はおそらく人間には意味の通じないものだろう。彼らだけがそれを直観でき、解釈できるのだ。耳を澄ますと、砂を落としたときのようなさらさらという音がする。光が風を切るときの音なのかもしれない。
やがて光は、湖の周りを、円を描くかのように動きはじめる。大鍋でかき混ぜられるようにして、光たちは一斉に右回りに動いていく。そのうちのいくつかは、この回転についていけなかったのか、戸惑うように湖の外に出て、うようよと彷徨っていた。だが、少しするとその光は自分の使命を思いだしたのか、また円運動の中に加わっていった。そのようにして、湖は一層強い光を放って、航輔の体や森の植物を照らした。
湖自体も光っていることに、航輔が気づいたのはすぐあとだった。湖面がきらきらと輝いている。ダイヤモンドの欠片でも散りばめられたかのように、あちこちで瞬きのような現象が見える。それは日光を浴びたさざ波のようでもあった。回転する光はさらにその速度を増していく。神の国からの来訪者でも歓迎するような、大仰で、絢爛で、きらびやかな光景だった。そのころになると、彼はもう夢見心地ですらあった。こんな光景が世の中に存在することが、彼にはとても信じられなかった。
そして、湖は一挙に光を吹きだした。
初めに受けた印象は、まるで湖全体が爆発したかのようだった。あるとき、地底から温水が噴出するみたいにして、光が湖の上空に広がったのだ。それは柱のかたちを取って、森を突き破り、空へと続いている。見上げてみると、ずっと上の方まで伸びていた。距離がありすぎて、遠くの光は針みたいにとんがっていた。全体を眺めると、それはさながら天空に向けて放たれた巨大な槍のようでもあった。
不思議なことに、この光はさほど眩しくはなかった。直視しても彼の目がつぶれることはない。しゃああああ、という音が、彼の頭に雨のように降り注いでいた。
回転する光の粒たちは、これで任務をまっとうしたのか、光の柱に沿って、だんだんと上昇を始めた。右回りの運動を保ちながら、あっという間の速度でぐんぐん上っていく。光の粒が離れるにつれて、柱もだんだん小さくなっていった。しゃああああ、という音も同時に縮小していった。
光が消え、すべてがもとの状態に戻った。周囲は再び暗闇になり、ほとんど何も見えなくなってしまった。いや、光を見る前よりもさらに暗くなっているかもしれない。航輔は半ば放心状態で、しばらく空中のどこかを見つづけた。そしてほとんど意識しないままに、視線を湖の方に戻していった。
光の消失と共に、航輔は自分の中で、何かしらのものが終わりを告げたような気持ちになった。何が終わってしまったのかを見極めることはできない。だが、確実にどこかが完結しており、そこの部分だけがごっそりとなくなっている。心のどこかにあった隠された箇所が、最後までわからないままに光に連れ去られてしまったみたいだった。彼はまた、湖の上空に丸くふちどられた夜空を見上げる。見えるのは青黒い闇と散りばめられた星々、そして弱々しく浮かぶ月だけだった。それ以外に特別な何かが見えるわけでもなかった。
しかし、よく見てみると、空から何かが落ちてきているのがわかった。暗いので、具体的な姿かたちはあまりはっきりしない。それほど大きなものではないようだった。落ちてくるものの周りでは、いくつかの光が瞬いている。小さく点滅しながら、その存在を知らしめている。航輔は思わず湖の方へと身を乗りだしてしまった。いったい何が起きているのかを懸命に見極めようとした。
じっくり観察していると、羽毛のようにゆるやかに湖へと近づいてくるそれは、人のかたちをしていることがわかった。ひらひらと舞う白いスカート、そして何本もの細長い髪が流れるようにして空中をたゆたうのも見える。どうやら女の子のようだ。彼女は何者なのだろうか? どうして空から、そんなにゆったりしたスピードで落ちてくることができるのだろうか? 多くの混乱を抱えたまま、航輔は女の子から目を離さないでいる。
湖が近づいてくるにつれ、女の子の落下速度は遅くなる。そして、その足先が湖面に触れるか触れないかのところで、彼女は当たり前のように空中に静止した。かすかに水面が振動する。彼女を中心にして波紋が広がっている。だがそれは本当にかすかな揺れにすぎず、波紋はあっという間に消えてしまう。
航輔と女の子の距離は数メートルしか離れていなかった。彼は湖にじっと立ち尽くす女の子から目が離せない。光の柱を見たときよりも、さらに激しく心臓がうなりを上げていた。どうしてここまでどきどきするのか、正直なところ彼にはわからない。ただ、彼女という存在に自分が強く惹かれているということが彼には理解できた。もっと彼女に近寄ろうとするも、あと少しでも接近すれば湖に侵入してしまうことになるため、彼はためらった。自分はおそらく、彼女のように湖の上に浮かぶことはできない。胸に奇妙なわだかまりを抱えながら、彼は彼女の様子を見守る。
彼女の周りに漂う光のおかげで、彼女がどういった表情をしているのかがわかる。だが、彼女は眠っているように、目を閉じているだけだ。顔には何の表情も浮かんでいない。口もとも、一切の妥協を許さないくらいに堅く閉ざされている。
航輔は違和感を覚えた。どうして彼女は、僕の方を向いているんだ? 狂いもなく、とても正確に、彼女は彼に顔を向けている。その理由が、彼にはどうも不明瞭だった。彼女にはもしかしたら意識があるのかもしれない。もしくは無意識が作用して、彼女の顔をこちらに向けさせたのだろうか? それとも、単なる偶然なのだろうか?
そんなことを考えていたときだ。
突然、風が吹いてきた。彼女のいる方向から、暴力的に突風が吹きつけてきた。思わず手で顔を覆うが、顔どころか、体ごともっていかれそうになり、姿勢をさらに低くする。地面にしがみつくようにして、突風をやりすごそうとした。
視線がうまく定まらない中で、それでも彼は彼女を見ないわけにはいかなかった。腕でうまく顔を防御しながら、女の子へと目線を移動させる。彼女の髪は、まるで周囲一帯を絡め取ろうとする無数の触手のようにめちゃくちゃに広がり、大きくはためいている。何かを象徴するような動き方だ。スカートも自由自在にはしゃいでおり、裸の脚がときたま露骨に見えたりしていた。周りの光には風の影響はないみたいで、まさにどこ吹く風の勢いで気ままにふわふわ浮かんでいる。そのことを確認し終えたあとで、航輔は一旦目をそらした。あまりに風が強いせいで、眼球が痛くなってきたからだ。これ以上はあちらを眺めることができない。風は彼の全身を包みこみ、どこか遠くへと運んでしまおうとする。森にもとから吹いていた風よりも、温度の点では優しく、あまり冷たくはなかったのだが、風量の点からしたら、まるで比べ物にならなかった。
そうして、出現が突然だったように、停止もまた突然だった。急に風の勢いがなくなり、それに気づいたすぐあとにはもう風は完全に止んでいた。風が別の場所へと去っていく音が、ここから離れたところで聞こえる。森のざわめきも収まり、周囲は再び静寂を取り戻す。
航輔は女の子を見た。
彼女は棒立ちのままだった。だが、その姿がだんだん大きくなっていく。どうやら、彼の方に近づいてきているらしかった。彼女の意思で動いているのか、それとも彼女とは別の力によって動かされているのか。いずれにせよ、この女の子は航輔をめがけて接近してきている。彼はどうすればいいのかがわからなかった。このままだと、自分は彼女とぶつかってしまうことになる。それとも、ぶつかる寸前であちらが避けてくれるのだろうか? いろいろとおかしな想像が浮かんできて、そうしているあいだにも、彼女はぐんぐん彼のもとに近づいてきた。彼が慌てているあいだ、彼女はまったく表情を動かさずに、淡々と移動を続けていた。
航輔の正面まで来たところで、女の子は止まった。そのまましばらく空中に浮かぶ。そのあいだに、彼女の周りにいた光たちは、次々に彼女から離れてしまった。適当な方向に飛んでいき、忘却の海を漂う記憶みたいにして、ふっと見えなくなる。やがて光はすべて消失してしまい、辺りはまた暗くなってしまった。
彼女がだんだん傾いてきていることに、彼はこのとき気づく。彼の方に向かって倒れてきているのだ。彼の頭は真っ白になった。このままだと彼女は自分と体をぶつけてしまうか、地面に衝突してしまう。そこで彼は意を決して、彼女の体を受け止めることにした。自分の体に引き入れるようにして、彼女を包みこむ。彼女を起こさないようにして、いくぶん慎重に。抱きしめた彼女の体は、想像していたよりもさらに細くて柔らかかった。そしてなぜか、彼女の体は濡れている。どうしてだろうか――と考えたときに、彼は先ほどの突風を思いだした。あのときの水のしぶきを、彼女は直に受けてしまったのだ。女の子の肌には、まるで複雑な意味を持った模様のようにたくさんの水滴が付着していた。
彼女をこのまま抱えているわけにもいかないので、とりあえず地面に仰向けに寝かしつけた。目をつぶり、無防備な状態の一人の女の子。その傍らで彼女をじっと眺めることに抵抗を感じるも、航輔はそうしないわけにはいかなかった。どれだけあがこうとも、彼は彼女から視線を逸らすことができなかった。
近くで見ると、彼女はやはり美しいことがわかる。何の混じり気もなく、彼女だけの力でもたらされている美しさだ。そこには確かな誇らしさが感じられる。だが、それは完璧であるがゆえに、崩壊するのも早いのだろうなと思う。少しでも綻びが生じれば、途端に全体にひびが行き渡って、あらゆる要素がばらばらになってしまいそうな、そんな予感を感じさせる。世のなかにはそういったものがいくつも存在する。大変な努力でようやく成立する、しかし、ちょっとでも気を抜いたり、努力するのを止めれば、これまで積み重ねてきたものが全部無駄になってしまう、そんなものが。
とても穏やかな表情で、彼女は眠りつづけていた。その顔を見ているだけで、航輔は幸せな気持ちになることができた。彼はなるべくなら、もっと長く彼女に寝ていてほしかった。彼女が起きてしまえば、こうしてその顔を眺めていることができないだろうからだ。彼はそこまで積極的な男ではなく、女の子と話すとき、彼は常にどこか別のところを見ているか、顔を直視するとしてもそれは一瞬のことでしかなかった。だから、彼にとってこういう機会はとても貴重だったのだ。横になる女の子の横で自分もくつろぎながら、航輔はただ黙って、たまに湖の方を見たり、そしてまた、彼女を見たりしていた。
見たところ、彼女は十代後半あたりの年齢のようだった。十八歳である自分と同年齢なのではないかと彼はぼんやり想像する。この女の子には、こちらに親近感を抱かせるような雰囲気が備わっていた。いつのまにか、彼女のことを他人のように思えなくなってくるのだ。彼女とは初めて会ったという気がしない。これは、単に彼女から湧きでている温かさからそう思わされているだけなのか、それとも、本当に彼女と以前に会ったということなのか、記憶のない彼にはとても判断がつかなかった。
何の前触れもなく、彼女は目を覚ました。朝日に無理やり起こされたときのような、まだ寝足りないという感じではなくて、たっぷり睡眠をとって自分の意志で目覚めたときのような、充足した起床だ。彼女は何度か、自分が意識を取り戻したのだということを確認するみたいに目をしばたたかせた。そうして、横にいる航輔を見つめる。どんな表情も浮かべず、淡々と隣の男を眺める。その視線は情熱的でもあり、冷笑的でもあった。もしくはどんな判断をも保留して、いろいろな条件と照らし合わせながら、分析的に彼を観察しているようにも見えた。
どんな言葉をかけるべきか航輔にはわからなかったので、彼は見つめられるままに黙っていた。彼女と視線を合わせることが恥ずかしかったので、彼は彼女の鼻あたりを見ていた。鼻を見るのに疲れると、湖に目を移して、視線の交差をどうにかやりすごそうとした。彼の体感では、それがだいたい三分ほど続けられた。
「本当に叶った……」
彼女はそうつぶやいた。空中に溶けてなくなってしまいそうなか弱い声だった。航輔はどう反応したらいいかがわからず、びっくりして彼女を見る。これまでずっと仏頂面を保っていた彼女の顔が、みるみる歪んでいった。眉がひくひくして、瞼が細かく振動して、唇がぷるぷる震えた。この暗い空間であっても、この変化は航輔にも容易に認めることができた。その目を覗きこむと、その中に雫を溜めこんでいるのがわかる。航輔は戸惑うばかりだった。
「やっと……やっと会えたよ……」
「……うん」
とりあえず何かを言っておかなければと思い、彼はそう返事をした。女の子はゆっくりと体を起こす。そのあいだ、視線は航輔に注がれたままだ。上半身を起きあがらせると、それまで溜めこまれていた涙が頬を伝っていった。
そのまま女の子は航輔に抱きついた。ぴんと張った糸がついに切れてしまったみたいに、彼女は泣きつづけていた。体は震えている。彼女から伝わる激烈な感情の波が彼に伝播してきて、彼までもが、思わず泣いてしまいそうになる。
彼女はずっと、彼の耳元で「ごめん……ごめん……」と言いつづけていた。それを聞いて、彼女は自分の知っている女の子なのだなと航輔は確信した。