2. 闇を抜けること
僕が子供時代のことを振り返るとき、いつも最初に思いだすのは、ある一人の女の子の手だった。とても小さくて、儚げで、脆くて、愛しい手。その手を、僕はぎゅっと握りしめている。そんな情景が、火であぶられるようにして脳裏に浮かびあがる。
少女が誰であったのか、今ではおぼろげにしか思いだせない。彼女の印象は手のみに集中してしまって、他の要素は淘汰されてしまったようだ。数年前までは、彼女の顔を、その輪郭程度までは思いだすことができた。だが、今ではもう、輪郭すら描けなくなってしまっている。どれだけ気力を振り絞ってみても、彼女の顔は、のっぺらぼうの虚無としか認識できないのだ。手だけが、厳密に言えば、手と腕の一部だけが、僕にきちんと思いだせる彼女の姿だった。
その手を引きながら、僕はどこかへと駆けている。どこへ行くかまではわからない。記憶の中の映像は、いつもそこで止まってしまう。そしてまた最初から再生される。この繰り返しだった。その先まではまったく思いだせない。僕がどこに行こうとしていたのかを知りたくて、僕は一日に何度も思いだそうとする。だがうまくいかない。どれほど試したところで、結果は同じだった。
それから、上履きのことも思いだす。小学生時代の記憶みたいで、小学校で使われる上履きが、下駄箱を目の前にしてぽつんと床に置かれている場面だ。上履きは片方しかなくて、そんな光景を近くで眺めていると、水が時間をかけて沸騰するみたいにして、悲しみがこみあげてくる。どうして片方しかないのか? もう片方はどこに行ってしまったのか? この疑問はこの映像だけではとても解決しそうにない。そして、当時の僕がこれを見てどんな感想を抱いたのか、どういう行動をとったのかもわからないままだった。
この記憶に人の姿はない。下駄箱の陰に隠れてしまっているだけなのか、あるいは本当にその場に一人も居合わせていなかったのか。この映像を見ている僕がその場にいたことは確実なのだが、他の人がいたのかどうかという確認は、残念ながらこれだけでは取れそうになかった。
今の僕に思いだせるのは、この二つだけだ。神秘的に美しい手を持つ女の子、そして下駄箱の前に取り残された上履き。自分の子供時代の記憶がこれだけというのはさみしいものだった。他にももっと楽しい記憶があるはずなのだ。しかし、それらはすべてなくなってしまった。気づいたら失われていた。それを僕はただ、受け入れるしかなかった。
女の子と上履きが相互に関連しているかどうかまでは、推測の域を出ない。時系列がはっきりしないため、因果関係が不明なのだ。どちらが先で、どちらが後に起こったことなのか。一方が起きてから数分後にもう一方が起きたのか、それとも何年も経ってから起きたのか。暗闇に閉ざされた僕には、そういった判断はとてもできそうになかった。今の僕はどうすることもできないし、どこにも行くことができないのだ。
深い暗闇の底に僕は生きていた。どこを見渡しても、見える景色は変わらない。どこも黒く濁った色をしている。ここに捕らわれてどれだけの年月が経ったのか、考えようとするだけで頭がひどく痛んだ。そのことについてはあまり思いだしたくなかったのだ。
毎日が不毛の連続だった。体中がびりびりと痺れており、それは日を追うごとに増していく。手足は鎖につながれているみたいに不自由な状態で、動かそうとすると痺れが増量される。たまに解放されることもあるのだが、それはたった数分のことで、あまりありがたみのない自由だった。何一つ変化のない日々を送ること。それを僕は謎の力に強制されていた。
こんな毎日を過ごすうちに、僕の中にある一つの望みが出現する。それは、あの記憶の中の少女に会いたいという願いだった。このまま深淵の闇に身を浸して一生を終える前に、何としても彼女にもう一度会いたい。そして、あの手を握りたい。あれから彼女はどうなったのか、どんな経験を重ねてきたのか。それらについてじっくりと語りあってみたい。場所はどこでもいい。思い出の場所でなくとも、また長い時間でなくともいい。ただ、彼女の姿をもう一度目に焼きつけておきたかった。それが叶えば、僕はもうそれ以上のことは望まない。おとなしくここで、誰にも知られることもなく、短い人生を閉じるだけだ。
その決意が具体的なかたちになっていくほどに、僕は自由を欲した。ここから抜けだして、光の届く世界まで行こうと願う。だが、体を動かすことはできない。動かしたら、また痛みを受けてしまう。それを我慢して足を前に出そうとしても、まるで壁に磔にでもされてしまったみたいにびくともしない。あるいは本当に磔にされているのかもしれなかった。ここでなら、十分ありうることだ。ここではいろんなことが普通のこととして起こってしまう。
僕にできるのは頭を動かすことだけだった。どうやってここから脱出して、彼女に再会するのか。幸いなことに、思考能力だけは闇に束縛されていない。いくぶん損なわれてはいるが、まだまともだ。考えろ、考えろ――。意識を集中させて、自分に何ができるのかを見極めようとする。体に力を込めて、脳に緊張を与える。絶対にかたちにならないようなものを、力づくでもかたちにしようと試みる。
そして、まだぼやけてはいるが、どうにか一つの方法を見出すことに成功する。かなり譲歩して得られた結果だが、仕方がないだろう。個人的には、この方法しかできることはないように思える。しかし、いくつかの角度から検討してみると、それはいかにもまともではないものであることがわかった。普通なら試そうともしないだろう。それが実現可能かという見地に立って眺めてみたとき、ほとんどの人は、無理だと考えて、それ以上考えるのをやめてしまう。そんな方法が、ぴんと頭に浮かんできたのだ。あたかも、一匹の蛍が、何かの偶然で僕の鼻かどこかにとまったみたいに。
それをどうやって試そうか、僕はさらに思考を重ねる。だが、それは理論などまったく寄せつけないものであることに気づきはじめる。考えてみたところで、無理なものは無理なのだ。そんなことはわかりきっている。そういう固定観念が邪魔をして、実行を望む自分をどんどん崖へと追いこんでいく。もう少しで落ちてしまう寸前のところだ。常識という名の敵たちが、複数でその自分を取り囲んでいるため、この状況から逆転することは難しい。半ば僕自身もあきらめかけていた。待ちつづければ、いずれここから出られるかもしれない。下手な真似をしてより絶望したり、失敗してさらに闇の底まで引きずりこまれるよりは、現状を維持した方がましではないか。そんな思いが、無意識のうちに膨張していく。
しかし、僕はどうしても諦めることができなかった。たとえほとんど不可能だとわかっていても、やってみなければ成功するか失敗するかどうかなどわからないのだ。だから僕は、頭の中でぐるぐると回っているあらゆる考えをひとまず払ってしまい、先ほど思いついた方法を試してみることにした。
それは、一言でいってしまえば、想像力だった。
僕は目をつぶる。目を開けていても暗闇は暗闇なのだが、目をつぶる行為自体に意味がある。こうしていた方が、意識を集中させやすいのだ。完全に瞼を閉じたところで、神経を研ぎ澄ます。極度の静謐に身を任せる。
ここだと思ったところで、僕は自分が二人に分身している光景を思い描く。変な姿勢のまま体を束縛されている僕が、二人に分離する光景だ。幽体離脱のように、もう一人の自分が本来の体から離れて、実体を持つ。間違いなく僕なのだが、絶対的に僕でない存在を、この闇に召喚する。時間がかかるものの、何とか自分から遊離した僕を想像することができた。
次に、彼を、闇から抜けださせようとした。闇はおそらく、無限に続いているわけではない。いくらか進んでいけば、いずれは闇の消える境界線に辿り着く。僕の片割れを、そこまで運んでいくのだ。そうしないことには、僕のやろうとしていることはできないように思う。イメージが実像となるまでに鮮明に思い浮かべて、想像の世界ではなく現実の世界で生きている者として彼を動かしていった。
片割れの動きはひどくのろい。出来の悪い操り人形みたいな不器用な動きにしかならない。かたかたと、少しずつしか前進ができない。一歩踏みださせるのに、何分もかかってしまうようなありさまだった。想像力には限界のあることを、このときに悟る。もしくは、ここでは人間の想像力を制限するような力が働いているのかもしれない。これまで無事だった思考能力が、闇に侵されはじめているのかもしれない。
神経を途切れさせないようにしているうちに、片割れはどんどん僕から離れていった。その調子である。このまま順調に歩いていけば、いずれ闇と光の境界線へと至ることができる。そこまで行ってもらうためにも、片割れにはぜひ頑張ってもらいたいものだ。彼を途中で消してしまい、また最初からやり直しになるということのないよう、決死の思いで脳内の想像を維持する。暑くはないのだが、頬を汗が伝っているのがじんわりと認識できる。
いくら歩いても、闇がなくなることはない。そのうちに闇が攻撃を始めてきた。彼を黒々としたもので覆ってしまい、進行を妨害しようとしてくる。僕は片割れに必死に腕を振るわせ、近づいてくる闇をどうにか追い払おうとした。闇の力量は計り知れない。こんな抵抗で果たしてうまくいくのだろうかという微妙な攻撃だ。だが、振るわれた腕に当たった闇は、たちまち彼から遠ざかっていった。何度か交戦していくうちに、闇の妨害も少なくなり、しまいにはなくなってしまった。僕は思わずにやりとしてしまう。この想像の世界ばかりは、闇の脅威は通用しないようだ。そして、妨害をする以上は、この先に何かがあるということを語っているも同然だった。僕は意気揚々とした気持ちで片割れを動かしつづけていった。
そうして、ついに彼を、光のもとに到達させることができた。ある瞬間に急に視界が明るくなり(これまで僕はずっと、片割れの目を借りて世界を眺めていた)、思わず目をつぶってしまう。両腕で顔を覆ってしまう。目が慣れてきたところで、腕をどかして目を開けてみる。するとそこは、まさしく光だけの世界だった。
闇とはまさしく対照的だった。そこには光しか存在しない。それ以外は何もない。周りを満たしている色は白に近かったが、それはいかようにも変化の可能な色だった。見ようによってはピンクにも見えるし、オレンジにも見える。ここはここでまた不思議な空間ではあったが、これまで僕と彼を苦しめていたものは消えてしまい、一気に体が楽になった。
ここで僕は、彼に一度深呼吸をさせる。どちらが本来の自分であるのかもわからず、まるで僕自身が息を吸っているような錯覚に陥った。この感覚は全然悪いものではない。むしろ良い方向に働いてくれるはずだ。
いよいよここからが本番だ。片割れは今、現在の十八歳の僕の体である。彼を、これから子供時代の僕へと変化させる。体を構成するものを一旦ばらばらにして、少年だったころの僕へと作り替えていく。ひどく手間のかかる作業だったが、途中でコツをつかんでからは簡単だった。今、光の世界で一人立っているのは、まさしく小学生の僕だった。
もちろん、いたるところにほころびはある。顔だってきちんと形成されていないし、体も想像のものでしかない。だけれども、小学生の僕をそこにきちんと想像してやることが重要なのだ。どれだけそういった存在を確立したものとして認めることができるか。細部は今は考えなくてもいい。存在の基盤さえしっかりしていれば、細部はあとからどうだってなる。
いい加減にへとへとになってきた。闇の妨害は、今度は動けない僕自身に的を絞ってきたようで、執拗に攻撃を重ねてくる。頭の中に黒いものが侵入してきて、片割れの存在を消し去ろうとする。いかに想像を強固なものにしたところで、それは所詮空虚にすぎない。想像する僕がいなくなってしまえば、片割れもまた、その存在をなくしてしまう。闇はこのことをわかっているかのように、僕を苦しめてきた。だんだんと頭がぼんやりとしてきた。このままだとやられてしまうのは確実なものだった。だから、そうなる前に、僕は最後の想像をした。
彼を、少年時代の僕の記憶へと送りこんだ。
その記憶にどんな大切な意味があるのか、どうしてこの記憶だけが残っているのかはわからない。だが、彼女に会うには、この方法しかないように思える。現実の世界で再会することは不可能だ。彼女がどこにいるのかもわからないし、外の世界がどんなものに変わってしまったのかもわからないから、いくら想像でそれらを構築したところで、嘘である部分が大きすぎる。だったら、まだ世界が見えていたあの記憶の中の世界に行こうという魂胆なのだ。希望からは少しそれてしまったが、彼女とまた会えるということに変わりはない。もし成功すれば、僕はもう思い残すことはない。気持ちよくここで死ぬことができる。片割れを送ってしまったあとは、彼に任せるのみだった。
あとは頼んだよ。そう心でつぶやいた瞬間に、僕は意識を失った。




