1. 夜の中で語るもの
航輔が空を見上げたとき、一つの星が瞬いた。それを見て彼はなぜか悲しくなり、思わず涙が出てしまうところだった。彼はときどき、自分自身に混乱させられることがある。今回がそれだ。星の瞬きなど、ここでは些末な現象でしかない。それがどうして、こんなにも心を揺さぶられるのだろう? 瞬いたのが一つだけだったからだろうか。それがこの広々した丘の上で孤独に佇む自分と一致だからだろうか。彼には理解のできないものごとがたくさんあった。
航輔は、ひとしきり星を観察したあと、その場から立ちあがった。長いあいだ同じ姿勢のままでいたので、そろそろ脚を伸ばしたかったのだ。腕の助けを借りながら立ちあがると、脚に鈍い痛みが走った。慎重に屈伸を繰り返して、もとの状態に戻るのを待った。
立った状態で星を見ると、また違った眺めになることに彼は気づく。気分の問題なのだろうが、その変化は彼にとって驚くべきものだった。立つことで自分は変化し、眺め方も少しだけ違ったものになる。より感覚が鋭くなり、周囲のいろんな景色が体に染みこんでくる。航輔は徐々に体が温かくなっていくのを感じた。
彼はしばらくのあいだ、自然と同化するこの感覚を楽しんだ。大きく息を吸って手を広げ、自分を解放する。彼らを受け入れる、自分がその一部となる。目をつぶり、聞こえてくる音に耳を澄ませようとする。しかし、ここでは何も聞こえることがなかった。ここは無音の世界なのだ。ただ、景色のみが存在している。音だけを抜かれてしまったそれは、羽が欠けて飛べなくなったかわいそうな蝶のようでもあった。生命は途絶えていないが、もうどこにも行けないのだ。どこにも行けない……この言葉が彼の頭に残ってしまい、何だか嫌な気持ちになってしまう。急いで頭から追いだそうとするが、それは長く居残りつづけていた。
もう十分ここを堪能しただろう。そう思い、彼は丘を下ることにした。なだらかな斜面を、慎重な足取りで駆け下りていく。あらためて見てみると、丘はものすごい広さだ。端から端まで何千メートルあるかわからない。緩やかないくつもの起伏は、今にも動きだしそうな迫力に満ちていた。短く刈られた雑草は、風にそよがれることもないまま、ただ大地を緑に染めている。もっと明るければ、一面緑の美しい光景を見ることができたかもしれない。
そして、この丘を取り囲むようにして、鬱蒼とした森が展開されている。夜の闇のせいで、それらは丘を侵食する泥のようにも見えた。広大な丘のどこを見ても、泥がだんまりと体を横たえているみたいだった。見方次第では、こちらにおしよせる波の影のようでもある。
そんな森の入り口まで彼は下りていく。眼前に木々の広がるところで、じっと前を見据える。近くで見ても木々は変わらず黒々としていた。そして木と木の隙間からは冷たい風が吹いていた。肌を裂くような風だった。
航輔は一瞬、森に入るのをためらった。ここを行っても、何も変わらないのではないかと思ったからだ。しかし同時に、この中には自分の求めているものがあるという直感も存在している。彼は後者を信じることにした。「よし」と自らに声をかけたあと、森の暗がりへと足を踏みだした。
ほとんど何も見えなかった。木々の濃淡があるだけで、あとは全然わからない。黒と、少し薄めの黒だけが、彼の視界を満たしていた。
木にぶつからないように注意しながら、彼はどんどん歩いていった。人間の手によって作られた道があるわけではないようなので、とにかく行きたい方向に進むことにする。あまりくねくねと進路を変えないようにしながら、一方向へと愚直に歩く。何か具体的な期待を抱いているわけではない。先のことを考えると、いつも頭は真っ暗になってしまう。しかし、進むのをここで止めるわけにはいかない。以前に雨が降ったのか、地面にはぬかるみがあちこちにできている。それらを回避しつつ、彼はむさぼるようにして先を目指していった。
風は異様に冷たかった。首や腕など、露出した部分から冷気が入ってきて、全身を蝕んでいく。両手の指も、冷水につけられたみたいに凍えてしまい、動かそうとしてもうまく動かない状態になっている。丘にいたとき、これほどの寒さは感じなかった。穏やかで、心地の良い風が、丘には吹いていたはずだ。だが、森の中の風は、以前のそれとはまったく違っている。これまでは撫でるような、優しく触れてくるような風だったのに対し、現在のものは体を突き刺すような、森への侵入者を拒んでいるような鋭い風だ。何本ものナイフが彼を包囲し、それらが定期的に肌をちくりと刺してくるような、そんな痛みすら感じてくる。あまり長居をすれば、ナイフはもっと深くまで肌を貫いてくるかもしれない。彼の不安はますますつのっていく。
森は静かだ。風の音と彼の足音は聞こえるのだが、そのほかの音はまったくしない。生き物の気配もまるで感じられない。森全体が死んでいるようだった。匂いもほとんどない。かすかに樹木の独特の匂いがするだけだ。彼はまるで、自分一人だけが森という舞台に立たされてしまったように思えた。そこでの演者は自分だけだ。他の者は一切排除されてしまっている。果たして自分がどういった役であるのか、それを知らされることもない。ここでどんな役割をするべきなのか、それをずっと考えながら、今後は動いていかなければならない。初めから終わりまで台本はなく、すべてがアドリブのうちに進行していく。無論、観客もいない。誰も見ていない中で、自分はときに厳粛に、ときに滑稽に行動を繰り返していく。
道はだいたいが平坦だったが、ときおり坂を上ったり、逆に下りたりした。起伏の多い土地で、道のりは険しかった。崖になってこれ以上進めないところに出くわしたりもした。足元を確認しながらだったので、転落することは何とか避けられたものの、少しでも油断すれば、そのまま落下してしまうところだった。体をぶつけて痛い思いをするのは嫌だったので、そのときは崖を大きく迂回するようにして進路をとった。
いったいどれだけの時間が経過したのか、彼にはわからない。ひたすら前進してきたので、そちらに意識を向けるようなことを長いあいだ忘れていた。だがかなりの時間を費やしてきたように思う。彼の脚は疲労を増していって、関節が痛みだしてくる。緊張もしていたようで、精神的にもへとへとだった。そろそろどこかで休憩したいと思いはじめてきた。だが、どこで休みをとろうか? あらゆる要素を我慢すれば(ぬかるんだ地面、切り裂くような冷気、まるで落ち着けない暗くて狭い空間)、今すぐにでも休憩することは可能だろうが、その選択は彼にはなかった。休むなら、もっと居心地の良いところで休みたい。
適度に休憩できるような場所を見つけるまでは止まらないようにしようと決意して、ひたすらに歩いていく。しかし休みたいという思いが、先に進もうとする意気込みを削っていることは確実だった。移動するのにかなり苦労する。脚も数分前に比べて何倍にも重くなったような気がする。彼の頭は、もう休みたいという思いでいっぱいだった。体もそれに従って、彼を休ませようと攻撃してくる。必死に怠惰な気持ちを振り払おうとするも、そこには限界があった。先を急ぎたいという気持ちが自分のものであるように、今すぐに休みたいという気持ちも自分のものであるからだった。
そんな中、彼は目の前に大きくひらけた空間があるのを発見した。傾斜面を下った先にあるところだ。そこだけが明るく、広々としているように感じる。ハリネズミの針みたいにそびえる原生林を避けながら下りていき、その正体を確かめようとした。
そこは湖だった。大きさはそれほどでもない。池と呼んでもいいくらいだ。以前に雨が降ったらしく、水かさが不自然に増えている。そのことが簡単にわかってしまうくらい、湖は膨らみ、底は深く、全体は高圧的だった。
湖は明るかった。一つには、空の星々に照らされていたからだ。見上げてみると、湖の上空だけぽっかりと穴が空いている。樹木の枝や葉に遮られておらず、夜空がよく見える。そのおかげで、この周辺は彼の目にとてもよく映っていた。
そして湖が明るいもう一つの理由がある。それは、湖の上を、蛍のような光が浮遊しているからだった。数はかなり多い。いくつもの光がふらふらと漂っている。動きは不均一だ。あっちに行ったかと思えば、すぐに方向転換をして、まったく逆の方向に行ったりする。水面すれすれまで近づいたかと思えば、瞬く間に上昇してゆっくりと落ちてくる。その踊りに彼は魅了されるようだった。光から目をそらさずに、彼は湖にどんどん近づいていった。
手を伸ばせばもう水をすくえそうなところまで寄っていっても、光は気にすることがなかった。彼の存在など初めから無視して、彼らは発光と移動を続けていた。この光が生き物でないことは明らかだった。見ているうちに、自然とそのことがわかった。移動する様子は危なげだが、そこにはどこかしら無生物的な安定感がある。それに光は絶対に湖から離れない。たまにやりそこねることがあるが、すぐにもとの位置に戻っていく。そして再びゆらゆらと、気ままに湖の上を飛んでいく。
そんな神秘的な光景に衝撃を受けながら、彼は湖の近くに腰を下ろした。そこでじっとしていると、湖の方から、さああああ、という音が聞こえる。おそらく光のもたらす音だろう。それは異界から伝わる幻の聖歌のようにも聞こえた。
どうしてこんなところに光が集まっているのかはわからないが、ここにいると、自然と心が安らかになっていくようだった。風の冷気もあまり勢いがない。偉大な力に包みこまれているような、そんな居心地の良さだった。
もしかすると、自分が探し求めていたのはここだったのかもしれない。彼はふとそう思った。ここに座ったときから、いや、湖を見たときから、自分の中にあった決意のようなものがなくなっていたからだ。これ以上先に進んでも、意味のないものであるように感じてくる。休憩が終わり、十分体力が回復したところで、もうどこにも行けなさそうな予感がした。
いや……本当にここが自分の求めていたところなのか? これが自分の思い描いていた終着点なのだろうか? 改めて考えなおすと、彼はだんだんそうは思えなくなってきた。まだ、終わってはいないのだ。始まってもいない可能性すらある。火照っていた肉体と精神はだんだん落ち着いてきたものの、その一部に、絶対に冷まされない箇所が存在しており、それが彼に向かって叫んできている。まだ何も始まっちゃいない、これからが本番なのだと。その叫びを消し去ることは彼にはできなかった。穏やかな気持ちと不穏な気持ちとが共存していた。
目の前の光はだんだんと一体になっていった。光と光の境目があいまいになっていき、全体で一つの光となっていく。だがそのように見えたのは、単に彼が眠気を催しているからだった。景色が不確かになっていく。そして、小説の最後のページが閉じられるようにして、彼は静かに瞼を閉ざした。