Ⅱ
怪物を斃し、世界を脅威から救った魔女は俗に「照らす魔女」と呼ばれている。
その由来はマリアベルがさんざん祖父に諳んじさせた物語の通り、光を失った世界に新たな光を生みだしたことからきている。
魔女がうみだした薄明かりは今に至るまで少しずつ増え続け、月や星々の代わりに空をぼんやりと照らしていた。人々はその赤みの強い橙色の光のもとにささやかな生活圏を作り出し、異端の平和を享受していた。
街の中心に立つ煉瓦造りの塔は、暗闇を貫くほど高い。魔女は古の時から今この瞬間まで塔の中で生き続け、人々を照らす彼女の「息子」たちを生みだし続けている―― 街の人間はそう疑わず、さながら神のように魔女は崇められた。
魔女について書かれた歴史書は多いが、そのどれにも彼女の生没年、および塔のてっぺんで光を生みだして以降のことは言及されていない。塔には真正面の鉄製の大きな扉以外に入口はなく、錆ついたその扉は誰がどうあがいても開けることが出来なかった。
つまり、今街に住む誰も―― そう、何人たりとも塔の内部について知る者はいなかった。当然魔女の生死を知るものもなく、だからこそ未だに生きて街を照らしているのだと謂われているのである。
――棺は開けてみないことには、中の人間が確実に死んでいると証明することはできない。教師の誰かがそんなことを言っていたが、棺の蓋が何百年も閉まったままだとしたら、万が一に死んでいなくとも「生き腐れ」だろう。そんな状態で果たして生きていると言えるのかどうか、とマリアベルは思う。彼女は「照らす魔女」のような偉大な人物になることをずっと夢見ていたが、妙なところで現実的にものを考えていた。
世界の真理をいくつもひっくり返した魔術をいかに修めようとも、自然界における人間の命のあり方はやはり、歪めようがないのだ。この夢見る少女にあるまじき思考は、祖父・マーベリックがその生涯と死を以て孫娘に遺したものである。そんなことであるから、マリアベルは他人が「魔女の不死」を讃えると、ほとんど必ず不機嫌を顔に張り付けて露わにする。
「人がそんな、何百年も生きていられるわけないでしょ」
ぴしゃりと言い放って椅子にふんぞり返る。いきなり冒涜的な言葉をぶつけられた友人のフランネは、慌てて周囲の様子を窺った。
幸いというべきか、昼時のアカデミーの食堂は喧騒に包まれていて、少し離れたテーブルに陣取る彼女らの会話を気に留めている人間はいなさそうだ。安堵に胸をなでおろすと、フランネは周囲に気を遣って控えめに窘めた。
「だ、だめだよ、マリー、そんなこと大声で言っちゃあ。「照らす魔女」を尊敬している人を全員敵に回すよ?」
「あのね、あたしだってこの学校に居るんだからね。「照らす魔女」のことは尊敬してるのよ。憧れてるの! ――でも、それとこれとは別のハナシでしょ」
マリアベルはフランネに窘められても悪びれる様子さえ見せず、しなびたようにしか育たない野菜で作られた、なけなしの悲壮感漂うジュースを口にして顔をしかめる。彼女がそんなものを三日も口にし続けているのは菜食は魔力を助けるという話を聞いたからだが、フランネは長く持たないだろうと予測していた。なぜならマリアベルはベーコンが大好きで、野菜が嫌いだからだ。ベーコンを我慢してでも野菜を無理に摂っているこの状態が、そう長く続くとは思えない。
「別ッて?」
「死者を尊敬しちゃだめ、って道理はないでしょ?」
「そ、そうだけどその言い方はまずいよ、さすがに……」
「どうして? 魔女がもし死んでたら、あんたたちは尊敬するのをやめるの? 今まで生きてるからすごいんじゃなくて、魔女自身がすごいんでしょう?」
たぶん、嫌いなものを食べる生活をしているから怒りっぽくなっているのだ、とマリアベルの真意を知らぬフランネは思う。そして単純に数分前の自分の発言を呪った。
『こんなに何百年も生きて居られるなんてすごいよね。私たちもそんなふうになれるかな?』―― 魔女の話題を持ち出したのはマリアベルだったから、フランネにしてみればちょっとした相槌を打ったつもりだった。それがまさか友人の逆鱗に触れるだなんてことは、予想もしていなかったのである。だから、
「……なんか不毛な気がしてきた」
しばらくフランネを睨みつけていたマリアベルがそっぽを向いてぼそりと呟いた時には、今度こそ安堵に溜息をついた。
昔からマリアベルは感情の起伏が激しく、普段は明るくて人懐っこいが、怒りだすと忘れるのも早い代わりに少々面倒だ。それに加えて、祖父が死亡くなってからというもの、瑣末なことでも激昂しやすくなったようであった。
「しっかし、なんでみんな「照らす魔女」が生きてるって信じ込んでるのかしらねえ。誰も知らないならむしろ、可能性が低いと思うんだけど」
「きっと、空の灯りが今でも少しずつ増えていってるからだよ。……たぶん」
フランネがアッシュブロンドの髪を人差し指で巻き取りながら曖昧にそう答えると、マリアベルは「ふぅん」ととても納得したとは言い難い声を洩らした。
たしかに街を照らす赤燈は増え続けている―― のだが、実際彼女たちがその確証を得ているわけではない。というのも、赤燈は今では空を染め上げるほどにまで増えており、大きなぼんやりとした光の帯のようにしか見えなくなっている。そんな状態で増えているだの減っているだのと言われても、見た目にはさっぱり判断がつかないのだ。
仮に赤燈が増え続けているものとして、魔女が未だに生きていると信じている人々は、魔女が街の為に光を生みだし続けているのだとも、本気で信じているのだろうか。そう考えるとマリアベルの口もとにわずかな失笑が宿る。
「勝手に増えるでも、誰かが出してるでもなんでもいいけど、ヒトが何百年も生きるだなんてあり得ないわよ。魔術だって万能じゃないもの。センセだって何回もそう言ってるし」
「でもでも、今知られている魔術を全部知っていたんでしょ、「照らす魔女」は。寿命を延ばす魔術を知っていてもおかしくないんじゃないかな?」
「……そうかしらねェ」
昨今では魔術で病気を抑制したりできるようにまでなり、人間の寿命は格段に伸びた。それでもマリアベルは、「照らす魔女」が古から生き続けているなどという話を信用する気にはなれなかった。それは何も、祖父の影響だけの所為というわけでもなさそうだ。
しかし、自分の内面のことだと云うのに、考えてもなぜかはっきりとした理由が思い浮かばない。自分でもあまり得をしない反感だとも思った。
周りの連中のようにただありがたがっていれば、少なくともこのような不快感に見舞われることはないはずだ。「照らす魔女」に対する憧れの感情ばかりは、周りとは違わないのだから。
しばらく頬杖をついて考えごとをしていたマリアベルだったが、やがて跳ね起きるように背筋を伸ばすと肩を竦めてかぶりを振る。
「あー、やめやめ。確かめる方法もないんじゃあ、こんな問答無意味だわ。どっちにしろあたしにとっちゃ、魔女が生きていようが死んでいようが関係ないもの――」
目標に違いない、と言いかけて喉が鳴った。体が突然緊張したのだとわかったのは直後のことだったが、それがわかったところでマリアベルの言葉は不自然に途切れたままだ。
フランネはそばかすが散らばったマリアベルの目元や頬が一瞬蒼白になったように見えた。
「マリー?」
「……あ、なんでもないわ」
マリアベルはそれっきりしばらく、自分の喉元に手を当てて黙り込んだ。
マーベリックが死んでからというもの、マリアベルは目標を失ったままだった。死の影は振り払ったものと思っていたが、数カ月経った今でもまだ彼女の足首に纏わりついている。その所為で足を前に踏み出せない。何においても。
マリアベルの魔術の才能は、本人もマーベリックも認めざるを得ないほどに惨憺なものだった。
魔術の研究者―― アカデミーの現・最高権威曰く、魔術は才能によって、生まれた瞬間にどれだけ器が満たされているかに強く左右される。
マリアベルは魔術の才能に恵まれなかった。そのために今までどれだけ努力しようとも、周囲との差はさっぱり埋まらなかったのだ。実際彼女は何度もくじけかけたが、そのたびに祖父が「おまえはまだ若い」と励まし続けてくれた。だからこそ後ろを向かずに進めていたのだが、その励ましを失ってからは後ろを振り返ってばかりだ。
才能で言えば、目の前のフランネのほうが数段上であった。彼女は実技こそあまり得意ではないが、優れた頭脳で魔術理論分野で好成績を修めている。
――それなのに自分と来たら。マリアベルはフランネにばれないように小さく嘆息した。才能ばかりか要領も悪く、集中力がないがために勉学に身が入らない。
マリアベルが誇れるものと言ったら、体力と根性くらいのものだった。しかもその根性も、最近潰れかかっている。残る体力だけで何が出来るというのか疑問だ。
「……ほんとうに大丈夫、マリー?」
嘆息はしっかりとばれていたようで、心配したフランネが顔を覗き込んできた。マリアベルは慌てて椅子を引くと、背もたれに体重を預けて天井を仰ぎ見る。
「大丈夫よ。なんでもないったら」
また涙が出そうだった。
ぐずっと小さく鼻を啜ると、声が震えないようにひと際大きな声で応える。
自分の目がうるんでいるものと思えば、今フランネに顔を見せるのは避けたかった。そのまま天井を見上げてぼんやりしていると、不意に背後から影が覆った。
「ごきげんよう」
「げぇ」
突然背後から―― というよりも上からマリアベルを覗き込むようにして話しかけて来たのは、長身の少女だった。
驚いたマリアベルは勢いよく跳ね起きた。少女は顔面に頭突きを喰らう寸前に身を引いて避ける。
「な、な」
顔を見られただろうか。うろたえながら目頭を拭い、一度息を吸い込んでから肩越しに振り返る。
「なによいきなり。寿命が縮んだわ!」
誤魔化すように目をすぼめ、猫のような顔で声を上げるマリアベル。フランネはその声量に思わず耳をふさいだが、現れた少女はわずかに前髪を揺らしただけで微動だにしない。
「それはごめんなさい。そんなに驚かれるとは思っていなかったから」
マリアベルとは対照的に、あまり抑揚なく淡々と話す少女の名はリーシャといった。
アカデミーにおいてマリアベルとフランネとはクラスメイトという間柄であるが、二人は一方的にリーシャに苦手意識を抱いている。それというのも、この絵本に出てくるようなお姫様のような少女は、入学以来からずっと「学年主席」の肩書を背負い続けている優等生のなかの優等生であるからだ。
出身もかの「照らす魔女」とともに戦った勇者の一族の末裔と高貴なものであり、資産もかなりのもの。その割には驕らずいつでも淡々としていることから、嫌われもしない代わりにあまり好かれてもいない。
劣等性のマリアベルやどうにもおしゃべりなフランネには、あまり相性のいい相手ではない。――と、少なくともそう二人は考えていた。
もっとも今回は苦手云々よりも、これまでほとんど口を聞いた試しもないのに、いきなりリーシャの方から話しかけて来たことに驚いた。マリアベルは一度フランネを振り返り「どういうこと?」と目くばせをしたが、フランネは首を振るばかりだった。
「いいかしら?」
背中に声をかけられ、マリアベルはリーシャの目を覗き込んだ。少しけだるげな目が、はっきりマリアベルを捉えている。
――ああ、あたしだ。直感的にそう悟る。リーシャの瞳にはフランネの存在は映っていない。
「用事? あたしに」
ついつい憮然とした口調になってしまう。さしものマリアベルもそれに気付いて口もとに手を当てたが、リーシャはとくにそれを気にするそぶりも見せなかった。
「そう。午後の実習が始まる前に、必ずカンタスのもとを訪れること―― だって」
リーシャは言葉足らずのきらいがある。マリアベルが黙って首をかしげていると、見かねたフランネが身を乗り出して無理やりリーシャの視界に割り込んだ。
「それってカンタス先生のところに来いってこと? マリーに」
リーシャはしばらくフランネのことを見つめたまま制止していたが、やがてゆっくり頷いた。
「マリアベルはほかの連中と相性が悪い。フランネに頼もうと思ったけれど、見当たらないから私に、と。それだけ」
おそらく教師に言われたことをそのまま反芻させているに過ぎないのだろう。淡々とした口調が相まって、二人はなんだか人間を相手にしている気がしなかった。
「それだけ? なんの用事かも聞いてないの?」
訝しげに眉をひそめたマリアベルにそう訊かれ、リーシャは短く「何も」と答えた。
「来てほしい、ってことだけ。あとは、知らない」
「あ、ちょっと」
リーシャは自分が伝え終わってしまうと、すぐに踵を返してどこかに行ってしまった。
最後までずっと腰のあたりで控えめに組まれた手といい、事務的な物言いといい、名家のお嬢というよりは召使のようだな、とマリアベルは腹立ち紛れに思いながら周囲を見回す。
学年一有名な優等生と、学年一有名な劣等性が会話していたのだ。実は相当に目立っていた。本来目立たないはずのその席には、食堂中の視線が収束していた。マリアベルの敵意むき出しの視線を追ってようやく状況を理解したフランネが、慌てふためいてヒュッと笛の音のようなしゃっくりをする。
はずれのテーブルに視界を這わせていた他の生徒たちは、マリアベルの視線に絡め取られると委縮したように皆、目を逸らした。
――仰天魔女の渾名は伊達ではない。本来は歯牙にもかけられないマリアベルが他の生徒からほぼ遠巻きに、大きな腫瘍を憂うがごとく接されているのは、アカデミー内で数々の珍事を巻き起こしているからだ。負の意味で「実力を認められている」マリアベルは居場所がなくなるほどコケにはされないながらも、居心地が悪いことには大して変わりがない。どれだけ目立とうが、劣等生というレッテルは剥がれてはくれないのだ。
「……なんだったのかしら」
フランネがリーシャの去っていった方をぼうっと見つめながら呟く。
「さぁね。でも」
マリアベルはわずかに底に残ったジュースを干し、ああ、と息を吐いた。
「センセの呼び出しでしょう? ロクなもんじゃないわ」
午後の実習が始まるまでは、あといくばくもない。マリアベルは壁際の時計を見、慌ただしく立ち上がった。
「捕まったからには、しゃーないか。これ以上は留年どこじゃないかもしれないし」
憮然と吐き捨てると、
「悪いけど、あたしの分も食器返しておいて? ごめんね」
ころっと表情を替え、笑顔でそうフランネに言い、「言ってくるわ」と小さく手を振る。
「え、ああ、うん」
フランネがもたもたと返事をする間に、マリアベルはそそくさと食堂を出て行ってしまっていた。
残されたフランネは無表情でそれを見送ると、長い間放りっぱなしだったサラダを一口食べた。
葉野菜には瑞々しさなどはなく、ねっとりとした感触。
今この地に生きている人間の誰もが太陽によって育った野菜を食べたことはなかったが、誰しも同じ感想を持つことだろう。フランネは厭な食感を押し流すように水を呑んだあと、しばらく呆然として過ごした。――この街の野菜はやはり、とても不味い。
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