Ⅰ
科学的なことを色々と無視したファンタジーです。
そういうもんなんだな、と目を瞑ってお楽しみください。
「むかし、むかしのはなし」
紫と紺色を混ぜたような深い色のローブ。寝る前の祖父は好んでその恰好をしていた。
マリアベルが祖父の部屋を訪ねていくのは、もう少しで夜半にさしかかろうかという時刻のことが多かった。
幼いころから寝つきが悪かったマリアベルは、自室を与えられてもそこでじっと独りで夜を過ごすことはほとんどなかった。
軋むドアの所為でこっそり出入りすることはまず無理だ。ドアを開けると祖父はかならずマリアベルを認めて、困ったように笑う。
あまり言葉の多い人ではないから、マリアベルは祖父の表情から意志をくみ取ることだけは上手かった。日中は仕事の邪魔をするとよく窘められたが、「早く寝る」と約束したにもかかわらず起き出してきても、祖父は一度もマリアベルを叱ることはなかった。ただ少しだけ癖のある困ったような笑顔で彼女を呼び寄せて膝の上に乗せると、ひとかかえもあるような大きな絵本を取り出して開く。祖父の部屋にある書き物机は決して大きいものではなかったが、孫娘が夜に訊ねて来ては絵本を広げて物語を聞くことをねだるので、その大きな絵本が出しっぱなしの置きざらしにされて、場所をとっていることが多かった。
マリアベルは祖父のしゃがれた声が好きだった。丁寧に諳んじられる物語は、その声を聞く口実に過ぎなかった。
「この世は大いなる太陽のもと、昼間にはめぐみの光をたまわっておりました」
マリアベルは太陽を知らない。彼女が知っているのは、もうずっと昔に世界よりも大きい怪物に太陽が飲みこまれ、二度と「昼間」が来なくなってしまった、ということだけだ。
だからこの世には「夜」しかない。人々にとっては夜は闇を畏れて眠る時間ではなくなった。就寝の合図は市街を照らす魔法灯の一斉消灯で、それを過ぎると街はほとんど暗闇に閉ざされてしまう。
空には太陽も、太陽の光を受けて輝く月もない。ただ、薄ぼんやりとした赤い光が空に浮かび、それがかろうじて視界を確保しているのだ。
「ひとびとはなに不自由なく暮らしていましたが、あるときおそろしい怪物があらわれました」
祖父が頁を繰る。黒くて得も言われぬ形状をしたバケモノが、巨大な口をあけて丸い太陽をひと呑みにしようとしていた。
「怪物はあっというまに太陽をのみこんでしまいました。……世界はまたたくまに真っ暗になってしまいます」
次のページは、それこそ真っ黒に塗りつぶされてしまっていた。これは幼いマリアベルの仕業で、真っ暗の中で嘆く人々を見ていられなくて、絵具で何も見えなくなるまで黒く塗った。祖父はその行いを知った時、何も言わずにただ彼女の頭を撫でた。その時の慈愛に満ちた瞳を、マリアベルはそれから一度たりとも忘れたことがない。
「たくさんのひとびとが、絶望して世界を去って行きました。しかし、あきらめることのできないひとびとが立ち上がり、どうにか怪物に太陽を吐きださせようとしました」
豆粒のような人間が、黒くて大きいバケモノに立ち向かう絵。
太陽を知らないマリアベルは、バケモノがどんなに大きいのかが想像できない。祖父に聞いても首を振られるだけだ。彼も太陽を知らないのである。
「たくさんのひとびとがけがをしました。けれど、とある魔女が勇者たちとともに、どうにか怪物をたおすことに成功しました」
三角帽の偉大な魔女。彼女は今も「生ける伝説として」語り継がれている。幼いマリアベルにとっても、かの魔女は憧れだった。
最後の頁には、塔のてっぺんに立った魔女が空に光を放つ様子が描かれている。マリアベルがこの本の中で、もっとも好きな絵だった。
「けっきょく、太陽がもどることはありませんでした。世界は真っ暗なままでしたが、魔女はのこったひとびとと共に街をつくると、空に小さな光を浮かべてこう言いました」
『あれはわたしの息子。彼があなたがたを照らすでしょう。あきらめてはいけません』――
涙がこぼれた。
街のはずれの、何もない真っ暗で荒漠とした土地を望むことが出来る墓地に、祖父―― マーベリックは葬られた。
マリアベルが十の時に魔術アカデミーの学校長に就任したマーベリックは、公私ともに孫娘を見守りつつも、マリアベルが十五になって高等学年に上がる少し前に亡くなった。
盛大な見送りの儀が却って人々の悲しみの火を早くも吹き消そうとも、マリアベルは悲しみのひずみから容易に這い上がることが出来ずに居る。他に身寄りもなくマーベリックに育てられた彼女びとっては、ずっと昔に死に別れた両親以上に祖父はかけがえのない存在であった。
マーベリックの資産はマリアベルが独りで生きるに充分なものであったが、そんなことを心配しているのではない。もはや繰り返し物語をせがんだ、あの低くて優しげな声を聞くことが出来ないのだと思うと、ただかなしくて仕方がない。あれがどれだけ自分の支えになっていたかを今更知った気がし、祖父の死に際して何もできなかった自分を嘆く。
歳を経るにつれて求めるものは違っていった。
幼いころは眠るのが怖くて。安心して寝ることができるように求めた。
そして今―― どうしても祖父の声が聞きたい彼女は、どうしようもない不安に押しつぶされそうになっている。今までは押し殺していたものが、祖父の死を契機に溢れだしたようだった。
あたしには、無理。
涙が一粒一粒頬を伝っていく度に自分に否定的な言葉が心を容赦なく切り裂いていく。
顔を覆って泣いてもそれが癒えることはなかった。
あたしには、なにができるんだろう。
これから風あたりが強くなるだろう。
アカデミーいる間、祖父はマリアベルにとって支えであり悪しき腫瘍でもありえた。彼女はそれに関して理不尽に祖父に当たり散らしたこともあった。それが彼女の不安に罪悪感を混ぜ込んでいることは言うまでもなく、涙は枯れない。
あたしは、どうすればいいんだろう。
白い息を吐き散らし、マリアベルは慟哭した。
道を示してもらう前に、自分が祖父に何をしてやれたのか――?
自分は酷い家族だ。なにも報いてやれずに。マリアベルはそうやって、祖父の死後しばらくは自分を痛めつけ続けた。
マリアベルは祖父を介してのみ、自分を信じることが出来た。
祖父が励ましてくれなければ、自分を信用してみようだなんてことは微塵も思うことはない。憧れの存在になど――「照らす魔女」にはどうあがいても手が届くはずがない。
それからのマリアベルは、すっかり諦めて元の彼女に戻った。ただし心の一部は欠いたままで。
※