六章
六
――十二月十四日、駅前商店街アーケードから一本路地に入ったところで二十二歳の女子大生が倒れているのが、深夜二時頃に発見された。彼女は腹部を大きく刃物で刺され、発見されてすぐに病院に搬送された。出血多量で、今も意識不明の重体である。警察は以前からの傷害事件の延長とみて、近辺の捜査を続けている。――
その朝のニュースは、徹夜明けの俺の目を開かせるのに充分だった。
「なんだ、これ……」俺はテレビの前で唖然となり、地域ニュースが終わって全国の天気が映ってもしばらくぼんやりとしていた。
手元の携帯が震えて、見るともかだった。
もかも興奮しているようだった。
「ニュース見た?」
「うん」
「終わってなかった……。私、起きて今日はハロワに行くつもりだったけど、そんなのどうでもよくなっちゃった。今日会える?」
「……うん、大丈夫」
「ねえ、またこないだの彼だと思う? やっぱりまた不安になってやったのかな」
「警察はそのつもりのようだけど」
「ううん、どうなんだろう……、とにかく行くね。十一時にシンヤの家でいい?」
俺はテレビを切り、シャワーを浴びて髭を剃った。まだ何も終わっていなかったのだ。換気扇を回してキッチンに寄りかかって煙草を吸った。窓から射す朝陽が白く部屋を照らしていた。
警察の通り、犯人は同じなのだろうか。それにしてもおかしい点がある。こないだまでの四つの事件では、ショックはあるにしても軽度の被害で済んでいた。しかし今度は重体だ。手違いだろうか。いや、それにしても……。家に面した通りの自動車の音が増えてきた。例えば、自傷行為から抜け出せない人たちはネットを通じて同じような境遇の人たちに会うと、慰め合って回復していくよりも、競いだして状態が悪化しやすくなるという話がある。つまり彼は一旦手を引こうと思ったのだが、やはり抑えきれない不安に流されて、もっと過激なことをしなければならないという強迫観念に駆られてしまったのだろうか。それとも全く別の人間による模倣犯か。
「どっちだろうね」もかも悩んでいるようだった。
「俺らの戦いはまだこれからだって?」俺は発泡酒を飲んで茶化すように言った。
「なんで真昼間から酒飲んでんの? ちょっと煙草吸うね。我慢するのは良くないからね。苛々しないためにも吸うからね」そう言って、俺のライターを借りた。その上俺が酒を勧めると、簡単にそれを受け入れた。
「まあこんなんじゃ、お酒も飲みたくなるよね。でも平気だよ。私、帰りは電車とバスだから。それより、それよりだよ! どうしよう!」机をバンと叩いた。
「確かにシンヤの言う通り、まだ事件が続いてると思えなくもないんだけど、私にはそうも思えないんだよね。あのファミレスのバイトの子にもさっき連絡取ったけど、何も変わったことはないって言うしさ。それに――」
彼女は発泡酒の缶を膝元で両手に持ち、俯いた。髪に隠れて表情が見えなかった。
「それに、もうどうしたらいいか分かんないんだよ。このことだって、解決しようと取り組んでも良いんだけど、こないだ蔵畑君も言ってたじゃない? 根本的な意味で問題に関われることなんて少ないんだって。だからさ、私もなんだかこないだの犯人の彼じゃないけど空しくなっちゃったんだよね。何にも結局意味なんてなくてさ。やっぱりこないだの事が終わっても、日々は良い方向になんか行かなかったんだ。何をやったって無意味で、私はそれに立ち向かおうとしてきたんだけど、それにも飽きてきちゃったんだ。もうダメだよ。何もかももう随分前に終わっちゃってたんだ」
もかはもかで落ち込んでいるようだった。
「気の持ちようって話は?」俺は訊ねた。
「そんなこともあったね」彼女は顔をわずかに上げた。そして換気扇の方に向かって煙草の煙をすーっと吐いた。その横顔は射した陽に白く照らされて、美しく映えていた。
「でもどうしようも気分が上がらないんだ。どうしても今以外の気分に慣れないんだ。雨が土に浸み込んで地盤まで染め上げてしまったんだ。もう土が腐ってきちゃったんだよ」
もかは肩を震わせはじめ、感情をぽろぽろと零していった。それがしばらく続くと、疲れたのかころりと床に倒れ込んだままに眠ってしまった。寝込んだ彼女に俺はそっと毛布を掛けた。
次の日の夜、さやから電話があった。
「どうやらまだ終わってなかったみたいだね」
彼女もニュースをどこかで知ったようだった。
「そうだね」
「また捜すの?」
「いや、もかは乗り気じゃないみたい」
「そうなんだ」なんだかさやは心持ち残念そうだった。
「何もかも残酷だね。私たちを置いてって進んでくんだね。ねえ、土谷君、事件はいつ終わると思う?」
「どうだろう」俺は考えた。「案外すぐ終わるんじゃないかな」本当にそう思ったのだ。欲望がうんざりに消されるのは案外に早いものなのだから。欲望は次の欲望に掻き消されて、新たな欲望は更に新たな欲望に上書きされて、その冷たい連鎖があるだけだ。それのどこにも温度はない。
「そうかな」さやは言った。「不安とかって消えないものだから分からないよ。だんだん大きくなって本人には収拾がつかなくなるよ」
「でもこの事件自体は終わるよ。次の事件が始まるかもしれないけれど」
「そうだね。その通りだよ。でも、また私たちも穏やかに日々を送れるといいね。心がすっかり澄んで、あたたかくなれるといいね」
「うん」俺は言った。
事件は次々と起こった。町中にはよくパトカーが見えるようになった。それなのに事件が止まらないのが不思議なほどだった。
駅の裏で帰宅途中の若いサラリーマンが刺され、少し離れた住宅街で中年の男性が刺されて救急車を呼ばれた。正面からか背中かはあるにしても、どの人も深い傷を負い、軽傷の者はいなかった。どうやら犯行は刃物で切りつけるというよりも、刃物の柄を握って真っすぐに刺しているようだった。明らかに事態は深刻化していた。どういった者が対象かも不明だったので、警察も近隣の住人に注意を呼び掛けていた。蔵畑は年末ライブの練習に忙しかったし、もかはやる気を喪失していたが、俺は犯人の動向を追っていた。やることが他にないということもあったが、乗りかけた舟ということもある。以前のと同じ犯人なら彼の心理の変化も知りたかったし、違う犯人であれば単純にその動機が知りたかった。しかし俺が知れることは実に少ないのが現実だった。彼が一カ月ほど住んでいたあの満喫にも足を向けたが、足跡すら見当たらなかった。彼の言うことが本当なら、彼はもう既に違う町にでも飛んでしまったはずだった。
それともう一つ、俺がこの事件が解決して欲しいことには大きな理由があった。前回までの事件で、何も解決しなかったことが気にかかっていた。なけなしの希望を持って事件に当たり、終わりまで見届けたくせに、俺を取り巻く事態は少しも回復していなかったのだ。こんなところで手を引いたなら、それこそ空しさしか残らないだろう。俺は服に着いた埃を払うように、事件の真相を探して歩いた。立ち止まっては死んでしまう気さえした。
一人で事件に当たることは真っ暗な中で電気のスイッチを探すようなものだった。俺は陽が沈むと、町中に出かけあてもなくさまよった。過去の事件現場の位置関係を見ても、相関してもいなかったし、そこから浮き上がるものもなかった。それに全部の事件現場をめぐっても何の痕跡も見つけることは出来なかった。俺はある夜、パチンコの裏を見回った後、町の外れの山際にある小さな神社に参拝し、その階段に座って煙草を吸った。高い位置から町を見下ろすと、遠くにある緑横山駅までもがすっきりと見えた。町全体がひっそりと暗くなり、駅や駅前から続く商店街のアーケードに立ち並ぶ電灯だけが寒々と明かりを灯し、それら全ての上には大きな空が広がっていた。空には細い雲が幾筋か左から右に流れ、ささやかな月が隠れたり現れたりしていた。
風が煙を流していく。
俺は何をしてるんだろうか、とふと思った。午前四時、誰もが寝静まる頃だ。今も犯人は町中に出没して、獲物がいないか目を光らせているんだろうか。ご苦労なことだ。なんだか俺は妙に脱力していた。必死になってる人がいて、脱力している俺がいる。町中では生きてる人たちが止まらずに歩き、墓場では死んだ人が昏々と眠る。人はそれぞれにどこかしらに違いを有し、その違いによって存在している。その違いが埋まることはない。そして埋まらない限り、不安や不満は消えないのだ。見上げた空にある星たちは今日も瞬いている。彼らは幾千年の人間を全て見てきて、一体何を思うのだろうか。きらめいた祈りを掲げて、いまだ期待し続けるのか。それとも早々に呆れて今は滅亡を願うのみか。それは我々に届かないからといって意味のないものなんだろうか。そもそも意味とは何なのだろう。意味は何があっても、何がなくても立ち現れる。そして俺らは意味を求めて生き続ける。でも、意味というものは定義されたものではないはずだ。人それぞれによって、そのものから受ける印象は少しずつ異なる。だからつまるところ、俺が何もかもを無意味だと思って撥ねつけるのは、俺が何もかもを無意味だとしか思いたくないからなのだ。しかし実際に俺は何もかもを無意味だとしか思えないのだった。もかの言った通りだ。心の土壌からして腐ってしまっているのだ。そこから出た芽は、全て腐って目も当てられないものしかない。だけど俺らは数億分の一の確率で、そこから出てくる光の芽を待っているのだ。内側から光って、その他には何も見えないように目を眩ませてくれる光の芽を。
でも、それは数億分の一だ。それが手に入らなかったからといって人生を諦めるというのは馬鹿らしい話以外の何ものでもない。他の多くの人は目を逸らし、小さなことで妥協しているのかもしれない。それは強いということだ。そしてその強さを俺やさやたちは持ち合わせていないのだろう。その強さはどうしたら手に入れられるのか。過去の人生のどこかしらで俺らはそのタイミングを逃してしまったのだろうか。そんな機会は与えられていたのだろうか。いずれにしても過去のことは今更どうにもならないことだ。そして過去のことすら思い出せずに何の教訓も見いだせない俺は、目の前に横たわる大きな未来に潰されそうになっている。
空は果てしなく広がっていた。それは俺らが生きる町をすっぽりと覆い隠していた。耳元ではSigur Rosの「Hoppipolla」が囁きかけるように流れている。
陽が昇るのは、それから二時間後のことだった。
もう二件、事件は立て続けに起こり、いまだ犯人は捕まっていなかった。俺も夜中は捜索と称して町に乗り出していたが、それも結局はただの散策になり下がっていた。そんな日々が続いたある夜、さやからメールが一件届いた。最近は犯行のことばかり考えていて、さやと連絡を取ることも少なくなり、会うこともなくなっていた。十二月二十三日のことだった。町中では飾りが至る所に取りつけられ、一面クリスマスムードだったが、さやからのメールにそんな色はなく内容は事件に関することだった。
「さっきね、刺された人がいた。映画館の隣の路地。すぐに救急車が呼ばれてたけど、あれ多分連続殺傷事件の被害者だと思う。私もすぐに辺りを見回ってみたけど、それっぽい人は見つからなかった。でも明日の夜にも行ってみて。犯罪者は現場に戻るって言うしね。早く事件が終わるといいね。それで早く日々が楽しくなるといいね」
さやも意外と真剣に事件を追っているようだった。ニュースに流れる前に、と教えてくれたのだろう。俺は何度か躊躇ってから彼女に電話をかけてみたが、それは繋がらなかった。夜に出歩くのは危ないと言いたかったが、メールが来てから三十分と経っていないとはいえ、もう午前の二時を回る時間帯で、普通であれば寝ててもおかしくない時間だった。俺はそっと携帯をポケットにしまって、それから二時間ほど夜が更ける町をぶらついてから家に帰った。
起きると枕元の目覚まし時計が午後の四時を知らせていた。頭は酒と煙草でまだぐらぐらとしていた。手元の文庫本に目を通そうかと思ったが、文章はまるで頭には入ってこなかった。布団から這い出て、机のポカリスエットを喉に流し込むといくらか頭が透き通る感じがしたが、それが収まると眠気がどっと襲ってきて、俺はまたまどろみの中に引きずり込まれていった。
次に目を覚ました時には、窓の外はもう暗くなっていた。九時だった。寝たのが、朝の六時だから十三時間は寝たことになる。最近はそういう日々が続いていた。俺は腹が空いてることを思い、冷蔵庫を開いてみたがそこには何一つとして役に立ちそうなものはなかった。俺は顔を洗って歯を磨き、煙草をポケットにしまい、コートを羽織って外に出た。マンションの廊下に出ると、北風が顔を撫でてきた。唇の表面がかさっと渇いた。
俺は閉店間際のスーパーで半額になって廃棄待ちのサンドイッチを二つ買い、自販機でホットコーヒーを買って、公園でそれらをしみじみと食べた。雲の多い夜だった。目の前をまだらの三毛猫が通りかかったので、サンドイッチを千切ってやろうとしたが、そいつはとっとと公園の隅にある雑木林に駆け込んで行ってしまった。じきに俺はベンチから立ちあがった。月の見えないクリスマスイブだった。
さやから教えられた場所は、あまり馴染みのない場所だった。映画館があるのは駅前を中心として、町の西区域に位置していたが、俺の家は東の区域にあったし、これまでの犯行現場から見ても西区域からはどれも離れた場所にあった。まあしかし、だからこそ次の現場に選ばれたのかもしれないとも思われた。
俺は駅前の方には行かず、住宅地が集まるゾーンを歩いて映画館の方へ向かった。多くの家の軒先にクリスマスの装飾が為されていたが、町は静かなものだった。耳を澄ませば、遠くからソリについた鈴の音が聞こえてきそうな夜だった。
映画館の近くには月極の駐車場や明かりの落ちたスーパーマーケットがあった。それと個人の商店が二つほどあり、暗闇に目を凝らすと看板の魚屋と果物屋という文字が見えた。映画館の前にはローソンがあり、また右隣には二十四時間の二階建ての喫茶店が立ち、ガラス張りの二階から光が外に零れていた。映画館自体は駅前にあるような大きなものではなく、その半分ほどの規模でマイナーなものを専門に上映するような趣きがあった。入り口横の壁にはそれを証明するように見たこともないようなB級映画のポスターが貼られていた。
俺はその辺の路地裏をめぐってみた。しかし電灯が細々と灯っているだけで何か目ぼしいものを見つけることは出来なかった。どの犯行現場からも距離があるためか町中に増えてきたパトカーも見当たらなかった。夜もまだ十一時前だったけれど、ほとんど人も通っていない。犯行跡らしきものも見つからなかったので、俺は映画館の前のローソンで詳細な現場を訊くことにした。店に入ると、まずピアノの美しい旋律が耳に入ってきた。それは有線で流れる「戦場のメリークリスマス」だった。どうやらクリスマス特集でもやっているらしい。店内にもそれらしい飾りがどこかしこにされ、ムードを演出していた。俺は雑誌を一冊とコーヒーを持って、会計の際に店員に訊いた。
「あの……、昨晩ここら辺で騒ぎがありませんでしたか」
「騒ぎですか?」バーコードにリーダーを当てながら、店員が言った。
「そう。なんだか物騒なことがあったって聞いたんですけど」
「物騒ねえ。昨日も僕、シフトで夜に入ってましたけど、知りませんねぇ。あ、四百三十円です」
「ああ、そうですか」俺はためいきを吐きながら、小銭を渡した。
店から出ると、寒さが一層身を突いた。俺は肩を抱きながら、店横のベンチに移動し、缶コーヒーを両手で包みこんで飲んだ。今夜はぐっと冷え込むようだ。空は相変わらず雲が多かったけれど、その隙間からは星の群れが綺麗に見えた。空気が純度に透き通ってるようだった。俺は空を見上げながら、コーヒーをゆっくりと一口ずつ飲みこんだ。身体に浸み渡るような温もりだった。何もかもを忘れるように、俺は随分とそうしていた。
叫び声と共に俺は我に返った。それは遠くから聞こえていたが、静寂が包む世界には充分過ぎるほどによく聞こえた。映画館の左の方からそれは聞こえた。俺はレジ袋とコーヒーを置いたままに、走り出した。車が見えない交差点を突っ切る俺の頭上では、信号が孤独に寒々と光っていた。映画館に人気はないことを確認し、一本左の路上に走った。すると倒れてる人と、その向こうに先の角を曲がる一つの影が見えた。電灯の明かりの下で、倒れてうずくまる人は腹部を抱えていた。ブラウスから黒く流れる血が見えた。若いスーツの女性で、眉に皺を寄せて苦しんでいた。刺されたのだ。俺はほんの一瞬だけ救急車を呼ぶか迷ったが、彼女を通り越して犯人を追った。取り返しのつかない事態は、そうなる前に取り返さなければならないのだ。
日常で使わない脚力をフルに使って、全力で走った。俺の全ての力はこの時のためにあるようなものだった。すぐに息が切れたがどうということはない。太腿や二の腕に痛みが走るがどうということはない!
俺は走りながらも物語の終わりを思っていた。この話はここで終わりだ。俺が終わりにしなければならなかった。
犯人は視界の隅で何回も角を曲がった。灰色のフードが俺を嘲笑うかのように遠くでちらついた。しかし見失うことはなかった。いつまでも見失うことはなかった。全力で走るのは久しぶりだったが、次第に距離は縮まっているようだった。二人の距離は永遠に見紛うほどに遠くに思えたが、それは確実に縮まっていった。早く手を伸ばして、この手で捕まえたかった。一刻も早くその後ろ手をつかんでやりたかった。
俺たちはいくつもの道を走り抜け、多くの角を曲がっていった。
じきに景色がけぶってきた。無機質な住宅地に絵の具がまぶされてきたようだった。雪が降ってきたのだ。雪は軽く、羽毛のようにふわりふわりと舞い落ち、道路を、住宅を、町を、俺たちを白く染め上げていった。俺と犯人の距離はかなり近くなっていた。俺は足に力を込めた。頭の中では色んなことがめぐりめぐっては、形になる前に溶けていった。
逃げる道筋を間違えたと思ったのか犯人は一度だけ、こちらをちらりと振り返った。その時にはらりとパーカーのフードが空気に押されて、脱げ落ちた。どうやら犯人は道取りを誤ったようだった。行き着いた先は石塀の囲む行き止まりだった。俺はその道に入ると走りをだんだんと弱めて、息を切らせながら犯人に近づいていった。犯人はとうとう断念したようで先に進むことを諦めていた。俺はその距離が縮まるにつれて最後はゆっくりと歩いた。犯人は項垂れて下を向き、塀にもたれていた。その黒い髪に白い雪が触れては消えていった。時間の代わりに白雪が一定の速度で降っているようだった。次第に距離がなくなり、俺は彼女の少し前でようやく立ち止まった。吐く息が外気を当たって綺麗に濁った。
「どうして」
それが俺の最初の言葉だった。彼女は何も言わずに、二人の間をただ雪だけが埋めていった。
「どうしてだよ。なんでそんなに優しいのにこんなことをするんだ」
俺はもう一度、問いかけた。
暗闇はいつの間にか凍りついていた。俺の視界にはたった一人の人間しかおらず、いつからかも分からなくなるほど前からもそうだったように思えた。俺の前には彼女だけがいて、彼女の前には俺だけがいたのだ。けれどその二人の間は今や凍えつくような零下にまで下がり込み、あらゆるものが凍結していた。結氷したものは重苦しい無音を伴って二人の声や仕草や表情さえも大きく反響させ、その音を大きくした。
彼女はまだ俯いたままに、叫んだ。
「優しいだけじゃダメなんだよ!」
それはまるで言葉の球をアスファルトにぶつけているようだった。そしてもう一度言った。
「優しいだけじゃダメなんだよ。何にも変わらない。何にも救えないし、何も変わらないし、誰も私を見てくれない。本当の私を見つけてくれないんだ」
力が抜けたように彼女はうずくまり、悲痛な音を無機質な路上に撒き散らしていった。彼女の言葉はそれぞれがぶ厚く、幾層にもわたる冷たい殻を纏っていた。彼女の声は誰にも理解されなそうなほど深く、誰にも触れられないほど高くにあった。
彼女は冷気に言葉を吐いた。
「もう何もかもがダメになっちゃったんだ。手遅れだよ、何もかも。全部私が悪かったんだ。もう誰もいないんだ」
頬を伝って流れた涙は、電灯の明かりを反射してきらきらと光った。
俺は一歩一歩を確かめるように足を進めて、やがて彼女のすぐ前まで歩いた。ずっと遠くにあった一歩を埋めた。そして屈んで彼女のその投げ出された手を取った。
温度を知ったことのないような指がそこにあった。彼女はずっとここにいたのだ。俺の知らない、世界に、触れる。
引き攣りそうになる喉元をようやく開いて、俺は言った。
「本当の君は、俺が見つける。何回見失っても必ず探し出して、見つけてみせるよ」
「そんなことできるわけない」
ひとりきりで、彼女は言った。夜の湖面に何かを投げ込んだ時のような空しさがあり、それに最早諦めをつけた思いが色を見せていた。
「さやはここにいるんだから。きっと、できるさ」
肌を通して伝わる彼女のふるえを感じながら、俺は言った。
俺の言葉はまるで彼女に届いていないようだった。彼女が見るよりも前に凍えた空気に紛れて、霞んでしまっているように思えた。
彼女はさめざめと泣いていた。地球上の全てがなければよかったのにと全身を捧げて祈ってるかのようだった。ちっぽけな身体で彼女は全世界を支えようとしていた。それを思うと俺の目からも涙が溢れてきて、一滴一滴が、地面に落ちた。
俺は罪悪感にふるえ、彼女は悲しみに怯えていた。
でも。それでも。
俺はその芯から凍えた手を強く握った。
雪はそのうちに止む。止まない涙もない。
手が、ふるえている。
夜が静かに時間を殺した。
さやは顔を上げて俺を見た。
「君の手って、あたたかくて好きだよ」
彼女はそう、ゆっくりと言った。
優しいだけじゃ世界は変わらない。
誰が涙を流しても、誰が笑顔をつくっても、冷たい現実はそこにある。
何をしたところで、世界は回り、日常は続く。
それがどんなに諦めたくて離れたくても、そんなの全然関係がなくて、どうしようもなくて、俺たちは日々を生きていく。
ただ足を進めて生きていくのだ。
生きていく。
生きていく。
(了)
誰かに読んで欲しかった話です。




