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五章

 メールが返ってこないままに四日が経った日の夜、携帯電話に見慣れた番号が映り、俺に着信が来たことを知らせた。時計を見ると午前一時を過ぎた辺りだった。俺は読んでいた文庫本をわきの床に置き、BGMにしていたFMラジオの電源を切った。

「こんばんは、元気にしてた?」

 真っ暗な夜に薄暗く響くのはさやの声だった。

「久しぶり、元気だったよ。あてもなく夜の道を歩き出したくなるくらいにはね」

「そんな時は音楽を聴くといいっていつか土谷君が言ってたよ。凝り固まってどこにも行けなくなった心を流れの中に置いてくれるから」

「そうかもね。で、どうしたの」

 俺はさっきまでかけてたラジオの耳障りな明るい曲たちのことを思い、彼女は電話の向こうで軽く息を吐いた。

「えっと、謝らなくちゃって思ったの。怒ってるかなって」

 俺は携帯を左手に持ち替え、右手で煙草に火を点けて大きく煙を吐いた。灰皿の半分は既に、かつては生気があった動物を思わせる吸い殻と灰とで埋められていた。

「別に怒ってないよ」と俺は言った。

「本当に?」

「本当」俺は灰を落とした。

「嘘」彼女は言った。

「土谷君は最近、その……、調子が悪いんでしょう?」

 お前なんかに俺の何が分かるんだ、と言いたい気持ちが俺の中に広がった。そしてお前が俺を分かったとしてそれが何になるんだ、と。しかし彼女の言うことは、俺を見ているかのように正確だった。俺はこのところ精神が悪い周期に入り、絶えず黒い波が打ち寄せてくるのを感じとっていた。

 俺が無言でいると彼女は言った。

「こないだ土谷君に働いてよって言っちゃったけど、あんなの実はどうでもよかったの。蓄えがなければ、二人に一緒のとこに引っ越すのを先延ばしにすればいいだけなんだから。そんなのどうでもいいことなの。つまりね、私も、この頃調子が悪いんだ。バイトもここ二日くらい休んじゃったし。次の勤務日の明後日にはちゃんと行こうと思ってるけどね。本当は土谷君にカバーして欲しいくらいなんだよ。でも多分土谷君も今はあまり良くないんだろうなあって。メール返してなかったし、だからせめて電話で謝っておこうと思ったの」

 物静かな声を聞いていると、彼女の俯きながら喋る姿が目の裏に浮かんだ。

「寂しい?」俺は訊いた。

「土谷君は?」さやは訊き返した。

「うん、とっても」

「私も、すごく」

 そして俺たちは軽く笑って電話を切った。そして澱んで底の見えなくなった暗闇の中へ再びその身を潜り込ませた。


 朝になり、カレンダーを見ると金曜日だった。俺はトーストを食べると、インスタントのコーヒーを啜り、読んでいた「不安の概念」のページを捲って午前を過ごした。

 もかから電話が来たのは午後の二時半だった。どうしたのかと訊くと、彼女はいいからうちまで来て欲しいと言った。俺は本を閉じ、手元のカロリーメイトを二切れ、コーヒーで飲み下してから、家を出た。

 インターホンを押すと、もかが出て中に招き入れてくれた。

 コタツに入ると、彼女は紅茶の入ったマグカップを二つテーブルの上に置いた。テレビはついてなくて、窓の外からは路上を車が通る音だけが時々鈍く聞こえていた。テーブルの端には二本の吸い殻が入った灰皿があり、その横にはピアニッシモの白いボックスがあった。

「シンヤは結局さやと仲直りできたの」湯気立つカップを両手で包みながら、もかが訊ねた。

 俺は少し考えてから、「昨日電話がかかってきてさ。一応の停戦協定は結ばれたみたい」と答えた。

 そして上着のポケットから煙草を一つ取り出して、火を点けた。

「もかは? 最近どう?」

 いつもより急な呼び出しだとは思ったが、暇な時にもかとこうして話すのは悪くないことだし、話すこと自体はよくあったので敢えて用件を訊くことはしなかった。

「どうって? 彼とはうまくやってるよ。昨日も一緒に寝たし」

「それはいいことだ」

 良いことを積み重ねていけば、きっと良くなる。そういうものだ。

 けれど、もかは言った。

「でも、ほら、いつかあったじゃん。こういう話。オウムの時とかにさ」

「オウムってあのオウム? 宗教の。それがどうしたって?」

 俺はなかなか彼女の意図の範疇に入り損ねているようだった。

「いやだからさ、あれってたくさんの人を殺しちゃったけどさ。ふんわりした日常に耐えきれなくなってやったわけじゃん」

「うん。まあ、良く言えば革命だね。悪く言うなれば、ささやかな悪足掻きだけど」

 頭の中に、仄暗い海底で辺りに空気を生み出そうとして腕や足をばたつかせる革命者の図が浮かんだ。いつだってある者が見れば勇敢であり、他の大勢の者たちからすれば滑稽でしかないのが、革命者だ。

「悪足掻きかあ……、シンヤもなかなか抉るようなことを言うね」

「それほどでも。で、この会話の終着点はどこなんだろう」俺は窓の方に目を向け、煙を吐いた。

「まあ端的に言えば、足掻いてみようじゃないのってことだよね」

 彼女は口元を歪ませて笑った。


 最近の俺の周りの環境は順調と言えば、順調だった。もかとの繋がりには不安もないし、さやとは擦れ違いがあることにはあるが、それ以上の問題には発展していなかった。しかし、だからと言っていつ問題が輪郭を纏いだすのかは見当もつかなかった。その契機は日常のあちこちに転がっていて、俺の目がそれを見ないようにしているだけだとも考えられた。悪くはなくても最高に良い状態とは言えないのだ。それこそが生きていくことなのかもしれないけれど、不安はいつにも尽きなかった。

 この頃は寝る前によくこんなことを考えている。もかの家から帰った夜も、俺はすぐに寝つけずに天井を見ながら月の揺れる光を受けて思いをめぐらせていた。

 形を持たない不安を見つめているあやふやな感じ。空気中から何かをつかみ取ろうとするが、それがどんな物なのか自分には分かっていないような感覚だ。この思いが何かに似ている気がしていた。なんとなく今日、もかと話している時にふと記憶から蘇るものがあった。それが最近感じる雰囲気に近いものだというのは今さっきベッドに横になってしばらくしてから気がついた。これはおそらく、さやが言っていた「本当の自分の不在」ということに感覚的に似ているのではないのだろうか。大した根拠もないけれど、俺はそう思った。俺は実感として「本当の自分」がいないということを感じたことはない。ここにいるのが俺自身だし、ここにいない人間を俺だと思うことはできないからだ。

 しかし……、と俺はさやがうちに忘れていった黒い髪ゴムを指で弄びながら考える。さやは昔の名残か、髪が短くなった今でも時折後ろ髪をゴムでちょこんと束ねていることがあった。

 俺は「自分の輪郭」が分からないということは思う。例えば俺の身体だけが俺自身だと言うのであれば、切った爪や髪はどうなるのであろうか。もう俺ではなく、他人になってしまうのだろうか。それもなんだかおかしな話のように聞こえる。あるいは時々俺は自分の身体で起こる現象でも俺自身のことと思えないことがあった。例えば、酒を飲みすぎてふらふらしてる時や、寝ている時に自分の腕を枕にして朝起きたら血流の悪さから腕が上がらなかったりした時だ。そういった時には自分の身体と自分の身体を動かそうとしている俺自身が明確に切り分けられている感覚に襲われる。そう思えるのはつまり脳の信号が神経を伝って正常に行きわたってないからであり、そうすると重要なことは脳のあれこれであり、俺自身とは脳のことしか指さないのではないかということになる。要するに心、精神が身体、物体よりも上位であるという考え方だ。これもおかしい話だろう。物心二元論にしたって、その延長であるイデア論にしたって、つまるところは実際的でないのだ。それらは物事を分かりやすく捉えるための方便に過ぎない。おそらく……、俺だったらこう考えるだろう。身体には自分のエネルギーが充満している。それは意識下のものと無意識下のものがあり、だから脳と身体の力関係は並列的だ。そして自分の近くにあるもの、例えば触ったものにもそのエネルギーが残留する。そのため自分の身近なものも全く自分と切り離されたものであるとは言い切れない。ある程度はその人自身なのだ。形見をイメージすれば分かりやすい、孫が祖母の形見である手鏡を後生大事に持っているのは、何もそれがタダで貰えたからではない。使い勝手が最近発売されたものよりもいいからでもない。それを持つことで孫は祖母を近くに置いておけるのだ。お別れの手紙だってそうだ。転校するからと貰った手紙、その内容は別にどうだっていいのだ。何か本の文面にそっくりだからと言って腹を立てたりはしない。友達の思いがそこに残されているからこそ、その手紙は意味を持つのだ。

 ただ、破綻はないようでもこの考え方には欠点がある。何かの長所があれば、何かの短所があるのだ。そうでなければそれはただの夢見がちな妄想だ。善と悪をはっきり区別する物心二元論は極端だ。極端で、だからこそ分かりやすい。そう、俺の考え方は実際的ではあっても、だからどうすればいいのかがはっきりしていないのだ。明確な正義も目標もない。物心二元論であれば、身体よりも重要な精神を束ねる絶対的な神に近づこうとすればみんな幸せになれる。各人のコミュニケーションはその同じ方向を向く共同体意識で補われる。しかしこっちの場合はどうだ。精神も身体も並列だ。どっちも正しい。各人は独立し、相互のコミュニケーションはとれるが、それは時間が経てば忘れ去られるような残留思念によってだけだ。どちらを向けばいいのかも分からない状況で、手には今にも消えそうな他人のメッセージだけが霞んでいる。自分を支えてくれるものはどこにもいない。このどうしようもない窮した状況は確かに、さやの言った「本当の自分の不在」が及ぼす心境と重なる領域があるように思える。

 遠くで犬の鳴き声がした。うちのガラスは決して厚いわけではない。天井に映ったカーテン越しの月光の波が、寄せては引いてを繰り返している。

 今日もかが言ったことを思い出してみる。もかもおそらくそういった薄い煙が蔓延したような空気を感じ、倦んでいたのだろう。彼女はそれを退屈と言った。彼女の計画は確かにもやもやした現状に明確な線引きをして、目指すべきものを定めるものだった。そしてそれを進めていけば、生きやすいというのも明白だった。誰だって生きてる実感が湧かなければ、自分の身の安全よりも行動をしたがる。考えてみれば当たり前だ。自分の身の安全に倦んでいるのだから。今持っている安心を本当の安心と思えるために、今いる自分を本当の自分だと思えるために、できることがあるのならば人はする。けれど、本当に大丈夫なのだろうか、と俺は上に向けた右手を閉じたり開いたりしてみる。もかは今日嬉しそうに俺にその計画を打ち明けた。

「犯人を捕まえる?」

「うん」もかは楽しそうに頷いた。「それってすごく楽しそうなことじゃない?」

 もかが提案したのは、最近巷で流行りの連続傷害事件の犯人を自分たちの手で追い詰め、突き止めることだった。それはこないだ俺が蔵畑に聞き、もかに注意を促した事件だった。彼女はそれから自分なりに調べたらしく、俺に新聞の切り抜きを差しだした。

 それはちっぽけな十センチ四方にも満たない地域欄の記事で、傷を負わされた被害者が三人にも上ったことを受け、警察でも同一人物による連続的な犯行として捜査に乗り出す意向が示されていた。彼女はつい一昨日の新聞のものだと言った。

「駄目だ」と俺は言った。

「どうして?」

「まず、危険だ」俺は人差し指を立てて、次に中指をそこに加えた。

「そして次に警察が捜査し始めると言うのだから、素人が解決しようとする必要がない」

「最後に、そもそも俺たちには関係のないことだ」薬指も立てて、スリーピースをつくって見せた。

 それを聞くと彼女は不敵ににやついた。そして新聞の切り抜きに目線を向けた。

「確かに私たちには関係ない事件だわ。被害者も知らないし、加害者にも興味はない」

「ならどうして」俺は彼女の意図がまるで分からなかった。なぜ危険な方へ自ら首を突っ込もうとするのか。

「楽しそうだからよ」彼女は言い切った。

「いやいや」俺は首を振った。「それは理由にならない。なぜなら楽しいことだからといって、してもいいことだとは限らないからだ」

「ねえ」もかは頬の両側に手をついて、上目がちに俺を見た。「そんなこと言ってシンヤは毎日楽しいの?」

「いいや。別にこれといって幸せを感じることはないな。あいにくハーブもきのこも持ち合わせていないからさ」

「ついでに信仰もね」

「その通り」俺は言った。

「私たちはいつの間にか、自分でつくった身動きするのが辛うじてできるくらいの狭苦しい檻の中に自分を押し込めてるんじゃないのかなって思うんだよね」

「ある意味ではそうかもしれない。常識とかそういったことに関しては」

「犬とかのね、そういった実験もあるんだよ。まず、犬とかの動物を檻の中に入れるの。逃げられないようにしてね。それでそこに電気ショックを流すの、ビリビリってね。当然犬は逃れようとするわけだけれど、どうしたって逃げられないの。でね、それが続くともう犬も分かってくるんだよね、『あー自分が何をやったって無意味なんだ』って。それで随分した後に、また電気ショックを与えるんだけど、今度は逃げることもできるようにしてあげるの。でもそうしたところでその犬はもう出ようとしないんだって。もう自分が何をしても無駄に終わるんだって思いこんじゃってるのね」

「つまり、俺らに関してもそうだってことが言いたいの?」

「その通り」彼女は言った。「私もシンヤも多分小夜子だってビリビリにやられちゃってるんだよ。だから何もできないんだって考えちゃうの」

「しかし何でこの事件なわけ。別にわざわざこんな危ないことじゃなくても」

「じゃあ何」彼女は不服そうな顔をした。「町内の清掃活動だとか、何らかの広告活動だとか、ボランティア的な活動に目を向けろっていうわけ?」

「そっちの方が健全だ」俺は言った。

「だけど、それじゃ意味ないの」

「意味がない?」俺は訊いた。「この事件だと意味があるって言うのか?」

「そりゃあそうだよ。つまりさ、身の危険が微塵も感じないような、安全域でいくら奮闘したって、それじゃあただのお遊びにしかならなくて何の意味もないわけ。シンヤが思ってるより、今私たちが直面してる問題の壁は薄くないんだよ」そこで彼女はキャビンの一本に火を点けて、一息置いた。そして俺の方を見て「だから革命なわけ」と言った。その目は俺の方を見ていたが、俺のことは見ていないようだった。彼女の目は俺を通り越して、全く関係のない誰かしらに向けられていた。

 そうして俺は乗っかることになった――というわけだ。今にして思えば、無理にでも反対して説き伏せた方が良かったのかもしれない。しかし彼女がこの事件に対して思いを断念したところで、また別の事件に思いを馳せるだけだろう。彼女にとってそれは生きると言うことなのだ。そして何より彼女は生きたがっていた。この少しずつ押し潰されそうな退屈な日常からどうにかしてでも、それこそ死んでもいいから抜けたがっているのだ。それは根が深い問題だし、俺にどうにかできる類のものではなかった。俺はせめて彼女に付き添い、できる限り危険に近づけさせないようにすることくらいしかできない。

 どうなるかは分からない。けれど、……とも俺は思う。

 けれど、事が全てうまくいったのなら、その時には楽しいことが待っているのかもしれない。

 今よりは少しでも明るい自分が。


「それはなかなか難しい問題だ」

「だろ? でも止めようとしたってきっとうまくはいかない」

「何か他のこと……、遊園地とかに誘って楽しい気分にさせれば、そんなの気にならなくなるんじゃないか?」

「逆だと思う。これは多分もっと根本的な問題なんだ。どこに遊びに行ったって楽しめないさ」

「そうか……、そうだな。なんとなくそんな感じもするな」

 男二人が深夜のファミレスで腕を組んであれやこれやと考えていた。一人は俺、もちろん相手は蔵畑だ。こんな話ができる相手を俺は蔵畑以外に知らない。彼ははじめ、俺がその計画を話した時は、猛烈な勢いで反対をしていたが、話を進めていくうちにそうも言ってられないことが分かってきたようだった。

「もかはあれで結構行動力とかあるからな」

「あー、それは見てて分かるわ。なんとなく」

 そろそろ俺らは黙るしかなかった。ウェイトレスが灰皿を交換する時以外、俺らは何も言わずにしばらく目の前のグラスを舐めるように眺めていた。

「つまり、」蔵畑はようやく俺の意図に行き着いたようだった。

「つまり、俺が手を貸すのが一番いいというわけだな……」

 俺は深々と頷いた。

「そうなんだよ。この計画を進めるのは不安でしかないけど、そうするしかないのであれば安全に事を進めるのが良いに決まってる。それならもかに負担をかけずに済む方法として、こっちだけで解決すればいいということがある」

「で、お前一人だと不安だと」

「そういうこと」俺は言った。「どう考えても警察も追ってるような犯人を俺だけで捕まえるのは無理だ。だからできたら手伝って欲しいんだ。でもこれは蔵畑にとって悪い話でもないんじゃないか? 少なくとももかと知り合いにはなれる」

「それは捨てがたい話ではあるな……」

 彼は店員に生中を頼み、新しい煙草に火を点けた。光に透けた金の前髪が軽く揺れた。「分かった」

「お?」

「分かったよ。俺も乗ってやる。まあ、今なら時間はあるからな」

 俺は手を合わせて、あまり音が鳴らないように打ち合わせた。

「ありがとう、これで助かる」

「俺らの前にはチェーンソー男すら現れてはくれないからな。もかちゃんじゃないが、こんなことでもしてないと確かにやってられない」

 貼り付けた笑みを浮かべた店員が来て、蔵畑が頼んだ生中を持ってきたので、俺は空いた小腹を満たすためにメニューを見て、「ポテトとソーセージの盛り合わせ」と「ホウレン草のソテー」を注文した。蔵畑は「マルゲリータピザ」を追加した。

 すぐに出てきた「ポテトとソーセージの盛り合わせ」をつつきながら、彼は言った。

「で、どうするよ」

「それも問題だよな。一人が二人になったからと言って、ゼロをイチにするのは難しい」

「犯人の手掛かりとか」

「いや全く……」

「じゃあ聞き込みとか? 犯行現場どこだっけ」

「犯行現場は……」俺は鞄からメモを取り出した。「初めは十一月十日、駅前のゲームセンター横の路地裏、被害者は三十代の男、二件目は十一月十五日、現場は町の外れの小学校近くで四十代の男が襲われた。この小学校は駅からは徒歩で四十分ほどの距離だな。そして今発生してる連続犯行の中で最も近いのが次の三件目で、これは二十日、つまり一昨日に起こってる。現場は図書館前の公園前の道路で、被害者は二十代の女だ。犯行の手口はどれも酷似していて、刃物で相手を切りつけるというもの。でも急所を狙ってるわけではなく、初めの男は右腕、二番目の男は脇腹、最後の女も腕をやられている。当初はショックも大きかっただろうが、重傷の被害者もいないらしい。そんなことから警察は愉快犯の線もあるとしている。犯行を連続的なものと結びつけるのには、三人とも同じようなサバイバルナイフを見たと言っていることや、犯行現場の範囲が狭いこと、どの犯行も深夜と言える時間帯に行なわれているからだ」と、主に新聞とインターネットで適当に調べた結果を読み上げた。

「ふむ」と彼は言った。「でも聞き取りは面倒だよな」

「うん。できることならしたくないな……」

 じきにソテーとピザも来て、全体の半分ほど食べたところで俺は思い出した。

「あっ、そういえば取っ掛かりがあるってもかは言ってたな」

「取っ掛かり? って手掛かりってことじゃねえか。で、なによそれ」ピザを口の中で噛みながら蔵畑は言った。

「そこまでは聞いてなかった」

「なんだそれ」

 しかしなんだか物語が動き始めた気がしてきた。


「取っ掛かりっていうのはね、その犯人グループとおぼしきグループにもう目星がついてるってことよ!」

 取っ掛かりも何もない話だった。

 俺らはそろってためいきをついた。俺は言った。

「それってじゃあもう終わってるじゃん。なんだよ……。ならさっさと警察に電話しろよなあ……」

 蔵畑はもかが煙草を吸い始めたのを見て、自分もとマルボロの箱を取り出した。先ほど――もかの家に来て早々に、平凡な自己紹介が終わったところだが、ひそかに蔵畑が動揺しているのかと思うと、傍で見ていて少しおもしろかった。そんな気も見せずに蔵畑は言った。

「土谷の言う通りじゃないか? 吉野さんがどうにかしたいのは分かるが、それにしてももう事件は終わってる」

 もかは楽しそうに笑った。

「二人とも何言ってるの? 事件はまだ続いているよ。それにまだやるべきことは残ってる」

「つまり、何が言いたいんだ」俺は言った。

「だから捕まえるのよ」もかは言った。

「捕まえるったって、もう捕まったようなものじゃないか」蔵畑も煙を吐いて言った。

「何勘違いしてるの。捕まえるって、私たちはまだ何も動き出してないじゃない。分かる? 大事なのは私たちが当事者になることなのよ。直接、物事の核に触っていく存在になるの。そのためには――」

「自分の手でやらないと意味ないってわけか」蔵畑が言葉を先取りして言った。もかは嬉しそうな表情を浮かべた。

「そう! 警察に頼らずに事件を終わらすことが重要なの。それはつまりね、犯人を特定して、もうやめなよって説得することだよ。まだ犯人その人は知らないんだし、そのグループから聞き出すのも事件に関わるってことじゃない? その上説得なんて言ったらそりゃあもう楽しそうなことでしょう? 手首切ったりなんかするよりよっぽどいいよ」もかはちらりと俺を見た。最後の含みはさやに当てられたものだろう。さやはこの頃また包帯をしだしていた。

「お前、まださやにはこのこと話してないよな?」俺は訊いた。

「うん。だってこの間からメール返ってきてなかったし。でもきっと小夜子もこの計画に参加したら元気になると思うよ。結果はどうであれ、こういうのは過程が意味を持つんだから」

 俺は少し考えた。確かに当事者になれば、取り組む物事に対してしっかり考えざるを得なくなる。そしてそれは俺らからは欠けてしまったものだ。俺らはあらゆることが自分の身に起こっていると信じられなくなっている。自分を上から見ているように、どこか他人事のようにしか、知覚できなくなっているんだ。テレビの向こう側で何が起こったってそこにリアルなんて微塵も感じない。けれど、その「擬似リアルは偽物だ」という思いが一人歩きを始めてしまい、実際に何が起こった場合すら、最早どこか偽物臭く、擬似的なリアルにしか思えなくなってしまっているのだ。

「どう? 今呼んでみる?」もかが携帯を片手に訊いた。

 俺はこないだの洞窟に向かって独り言を言うような虚ろな声を思い出し、もかの行動を止めた。

「いや、いいよ。今、調子悪いみたいだし、それが悪化したらまずいからさ。俺からそれとなく話してみるよ」

 そう言うと、もかは「そう?」と首を傾げた。彼女もさやのことを考えているのだろう。

 しばらく俺らの話を聞いていた蔵畑は、話が途切れたのを確認してもかに言った。

「そうするとしかし、犯人に罰は与えられないことになるってことだよな。私刑でも執行しようってのか」

「知らないよ、そんなの」彼女はそっぽを向いて言った。彼女が関心を持っているのはあくまで自分のことであって、相手のことではないようだった。俺は肩をすくめた。


 その晩、さやの家へ行った。行き慣れたマンションだったが、いざ来てみると最近はあまり来てなかったかもしれないと思った、

 彼女はやや疲れているようだった。髪はところどころが跳ね、シャツの裾がくしゃくしゃになっていた。目を擦りながら彼女は「久しぶり」と言った。間違えて陽の元に出てしまったモグラのように、うらぶれた雰囲気だった。

 部屋に入ってフローリングの床に座ると、空気が澱んでいるように感じた。カーテンは締め切られ、夜の月光もここには届かないようだった。換気扇が回るガラガラと言う音だけが低く唸っていた。

 俺はもかの計画を彼女に話して聞かせた。

 さやはうんうんと頷き、俺が話し終えると微かに笑みを見せた。どうやら好意的な姿勢のようだった。彼女は言った。

「随分楽しそうな話だね」

 長袖の裾から包帯が覗く。大学の頃とは違い彼女の癖はもう肘の辺りまででは留まらずに、手首の域にまで達していた。どうにかしたいとは思っても、俺にはどうしたらいいか分からないのが現状だった。俺に出来ることはなるだけさやの話を拒まないようにして、ストレスを与えないようにすることくらいだった。それを思うと、なんでもいいから良い方向に向かうような話は進めるべきという気がしてきた。

「うん、まあ……。さやも参加してみるかって」

「いや、私は……」彼女は少し考えてから言った。「私はいいよ。でも、最近はバイトでもミスばっかりしちゃうし、何にも集中できなくて、良い話も聞いてなかったから、できたらその話の経過を私にも教えて欲しいな」

「うん、分かった」それが最善の策だろう。

 この計画が進んでいくにつれ、もかも未来に光を見出してさやも楽しむことができて、更には俺や蔵畑の日常にも変化が現れるのであれば、それはかなり良いことだと思った。それ以上に良いことがこの世にあるとは思えないほど、夢のある話だった。

 そうして話はまとまった。


 もかは大学時代、かなりかいがいしくファミレスのバイトに打ち込んでいた。大学で過ごす残りの時間が少なくなると就職活動のためにそのバイトは辞めて、それから今に至るまでは何の仕事もしていないわけだが、それでもその時のバイト仲間とはまだ仲良くやっているそうで、アルバイトによって得たものは多いと自負していた。

 今回の事件に関する取っ掛かりというのも、そのコネクションから来たものだった。何でも、もかがバイトの後輩に当たる仲の良い女子と先日話していたところ、最近の傷害事件に関する話を客がしているのを職場、つまりそのファミレスで聞いたというのだ。

 もかが詳しく訊くと、その客たちは四、五人のグループで午後八時以降によく来店する常連客で、いつも喫煙席側のボックス席に座っている。しかし注意深く見ていなかったので記憶にはあまり残っていないと言う。その程度の条件の客なら五万といるのだ。特徴として頭に残っていることと言えば、周りに迷惑も掛けかねない、不良っぽいイメージがあったと思う、とのことだった。

 それを聞いた俺はためいきをついた。

「不良グループが夜に来るのは普通だし、周りに迷惑を掛けないことを信条にしてる方が少ないだろう。それにどうせそんな話を店員に聞かれるってことは、そいつらは若いんだろうな」

「そうらしいね、年を取ってる印象はなかったらしいね。それにね、嬉しいことがあるの」

「何?」俺が訊いた。

「不良っぽいのがそこら中に湧き立つほどいるって言っても、常連となると意外と少ないんだよ。多分、うまくいくんじゃないかな」

 というわけで張り込みが始まった。いつ何があるかは分からないので、俺ともかと蔵畑、三人そろっての張り込みだ。幸いなことにというべきか、俺ともかはバイトもしていないので、予定は白紙だった。蔵畑は一週間バイトを休むことになったが、今まで勤勉にこなしていた分、すんなり申請は通ったという。バンドの練習のために一日二日遅れることになると言ったが、その程度で済めば上々だろう。

・午後の七時頃には、入口から見て奥の方にある喫煙席ゾーンのボックス席に座って、ドリンクバーを三つ注文する。

・入り口のドアが開くたびに振り返って確認をする。

・一時間ほど経ったら三人でつまめるようなものから注文し始める。

・対象がいなければ、午前三時までは粘る。

 これはかなり根気のいる作業だった。来るまでは意外と楽しいものではないかと思ってもいたのだが、張り込みが始まってみると、持て余した時間を消費するのに苦労した。暇潰しの技術のいる戦いでもあった。俺らは初日のはじめ、歓談をして時間を過ごそうと思っていたが、その夢は二時間で潰えた。今更話すことなど特にないのだ。しかしファミレスにいると何かをしなくてはいけない焦燥に駆られ、俺たちはどうでもいいようなことを話してみたりした。その方が傍から見てても自然だと思われた。でも結局二時間後には、俺は本を読み、蔵畑はバンドでやる曲の譜面を眺め、もかは携帯電話を弄ることになった。まあ、仕方のないことだ。その上、することのない時間の流れは遅い。その原因は店内の空気にもあったかもしれない。冬休みにも満たない十二月の上旬の、それも深夜にファミレスに来る暇人などいないのだ。世間では仕事納めに向けて忙しさが増し、他にも決算や年末調整が面倒になる時期である。そのためか、店の中は閑散とした風情だった。結果的に最後まで席が半分以上埋まることもそれっぽい人たちが来ることもなく、初日の張り込みは終わった。二日目もそれとなく終わったが、一筋の緊張感と使命感が辛うじて俺らを繋いでいた。

 三日目は木曜日で、客も昨日一昨日に比べたら入っていたが、どれもサラリーマンやOLたちばかりで若い不良っぽいやつらは現れなかった。しかし、日が経つにつれて次第に胸の鼓動が高まってくるのを感じた。なぜなら何かが起こる時は刻一刻と迫っているからだ。話によれば犯行を知ってるそのグループは常連。であれば、普通に考えてじきに出会えるはずなのだ。


 俺はできるだけ帰りがけにさやの家に出向き、前日にあったことを報告した。さやも俺も元々昼に目覚めるような生活を送っていたので、全く問題はなかった。我々は朝の六、七時に眠りに就いた。俺がする話はおそらく本篇の始まる序章のようなもので退屈しそうな話だったが、彼女は時々に相槌を打ち、楽しげに「早く見つかるといいね」と言ってくれた。

 しかしさやの容態それ自体は陽が傾くように徐々に悪化しているようだった。午後のバイトには行ってるものの、覇気はなく、常にあるべき目の置き場を探すように俯きがちになっていた。部屋のカーテンは日中も開けられることはなく、寒々しく電球が空間を照らし出していた。俺が行くと、いつもさやはその中で一人佇んでいた。その光景は俺に余計な気を起こさせるのに充分だった。

「絶対犯人を見つけるし、事件も解決させるからさ。さやも見ててよ。すぐ、見つけちゃうからさ」そう言わずにはいられなかった。さやも期待しているようだったし、そう言っている間は、この事件が終わるまでは、さやも大丈夫な気がしたのだ。それに事件を俺たちが解決させれば、俺たちを取り囲む空気は必ず上昇傾向になり、そうもすればさやもそれに連れられて良い方向に向かいだすと思われた。


 四日目も何も起こらずに張り込みは終わった。俺たちはそろそろメニューの全てを食べ尽くそうとしていた。

 俺は帰る道すがら、四時頃に電話をかけた。しかし相手はすぐには出なかった。コールが十三回を越えたところで、ようやく相手が通話ボタンを押し、電波が交信した。

「死んだの」それはもう消え入るような声だった。俺は慎重に訊いた。「何が、死んでしまったの?」

「ある人よ。私の好きだったある人が死んでしまったの……」続けて低い嗚咽が聞こえてきた。

 聞くところによると、さやが好意にしていたSNSでの知り合いが死んでしまったのだと言う。その人はさやの友達の知り合いであり、彼女はそのことを今日の昼過ぎに電話で聞いたらしい。二人は通話するほど仲の良い関係にあったそうだ。彼女は訥々と語った。

「自殺だったそうだよ……。自室で一人で首を吊って。その人はね、とっても良い人だったんだよ。土谷君とはまた違う、もっと暗い考えを持ってた人だった。大学で、哲学だか心理だかを専攻してるって言ってたかな。でも、行かなくなっちゃって家でぼんやり過ごしてたんだってさ。人が怖いなんてことを言ってたけど、根はとても優しい人だったんだよ。電話越しの声もね、なんだかこっちがあたたかくなるような喋り方で。会ったこともあるの。ついこないだね。話してなかったけど、土谷君はそれくらい許してくれる人だとも思ったし。それで行ったら、駅前に痩せ型の青年が立っててね。普通に柄のシャツとジーンズみたいな恰好で。インターネット上ではかなり危ないことを言ってたりしてる人だったから――例えば『誰か知らない人を殺して、自分も死にたい』みたいなね――、もっとそれなりの雰囲気を纏ってる人かなとか思ってたんだけど、やっぱりリアルで会うとどこにでもいそうな地味な青年だった。その後ね、私たちは喫茶店に入ってお喋りしたんだよ。そしたら第一印象では見えてこなかったことが、彼を区切る輪郭線から零れるように、面白いほどに見えてきたの。つまりね、彼の伏し目がちな瞳とか、頬杖を吐く姿勢とか、カップの持ち方とかね。そういったことから私の中で完全にネット上の彼と現実の彼が結びついたの。そしたら急に親近感も湧いてきて。私たちね、どうしようもないことをホントどうしようもないほどに語り合ったりしてたんだよ。それでその時も、『うまくいかないね』なんて言いあって、笑いあってたの。『うまくいかないけど、頑張らないといけないね』って。暗い人って二つに分かれててさ、一つは捻くれちゃって世の中に恨みを持ち続ける人で、もう一つは世の中に対して罪悪感を持つ人なの。土谷君もそうだけど、彼も明らかに後者で自分を責め続けてた。私はやっぱりそんな人と話すと落ち着くんだよ。その罪悪感を生み出す優しさに惹かれるのかもしれないね。罪悪感を感じちゃう人ってさ、根はやっぱりすごく優しい人なんだよ。優しすぎて責めなくてもいいのに、悪いことなんかしてないのに、自分を卑下してどこにも吐き出せない感情を自分にぶつけていくの。他人に投げることすらできないんだよ。本当は誰かに優しくもしてあげたいのに、してあげられない自分が疎くて、ダメだーってなっちゃうの。でも、その優しさって何にも代えがたいものだと思うんだよね。そうじゃない人がそうしようと思って出来るものじゃないもの。そういうのって大切にしていくべきだって私は思うよ。なのに、なのにさ……、全部諦めるのが楽なのは分かるけど、でも、それでも死んじゃうなんてさ……、あまりに悲しいことだよね。優しい人が死んじゃうってとても、とてもつらいことなんだよ……」さや自身も死んでしまいそうな声だった。

 俺はなんて声をかけたらいいか分からなかった。誰かが死んだ傷を癒やすことなんて、そんな大それたこと俺には出来やしない。俺は、ふとすれば自分自身のことさえ満足にこなせないような人間なのだ。それでもそのまま彼女を放って置くわけにもいかなかった。彼女だって充分に優しい人間なのだ。

「悪いのは誰でもないよ」俺は口を開いた。「彼でもないし、さやでもないし、誰でもないんだ。ましてや社会や世間の所為でもない。だから誰を責める必要もないんだ。でも悲しいね。悲しい時は泣くしかないね。でも、俺は頑張ってみるよ。頑張って今やってることを続けて犯人を見つけるよ。だからさ、犯人を見つけて無事に説得できたその時にはみんなで笑おうよ。頑張った成果を嬉しがろう。犯人が俺らに全然関係がなくったって、そんなのどうでもよくて、何かを為した時にはきっと充実感とかが出てくるからさ。そしたらさ、きっと、大丈夫になるよ」

 最早何を何のために頑張るのか意味不明だったが、俺は言った。でも確かにそんな気はしたのだ。これを為したらきっと全てはうまくいく。だから頑張るのだ。頑張る理由なんてそんなもんなんだ。

 彼女は「うん」と呟き、電話を切った。


 五日目にようやく事が動いた。午後九時頃、俺たちが毎度のように暇を潰していると入口の方からやかましい声が聞こえてきた。それは一目見た時から、俺らが捜していたタイプの人間だと言うことが分かった。彼らは五人組で、案内のウェイトレスも無視してこちら側に歩を進め、俺らの近くのボックス席に腰を下ろして、座るや否やその内の三人が煙草に火を点けた。煙草を吸ってない者も、吸ってない者も、かなり年が若く見えた。全体的につっぱってる高校生の印象が拭えない連中だった。

 しかし受付を通っているということは、最低限喫煙者はぎりぎり二十歳なのだろう。それとも店員が面倒そうで放置しているのだろうか。いくらなんでもそれはないと思うが、街や電車で見かけてもまず話しかけたくはないと感じるのは確かだった。声は他人を苛つかせることに特化していて、シャツの中に無駄に派手な光りものを入れ、靴先は尖り、髪はにぎやかなほどに明るく染められていた。

 俺は心のふるえを感じた。

 こいつらが狙っていたやつらであれば、事件の解決は一気に加速するのだ。そしたら全てがきっとうまくいく。

 そいつらは繁華街のどこにいれば女をひっかけやすいかとか、こないだ誰かからいくらカツアゲしたとか、どこの飲み屋だと入りやすいかとかを話し合っていた。話し合うとはいうものの、カンバセイションではなく、誰かが話をすれば、その尾を揉み消して違う話をするというアクティブな会話を展開していた。

 俺は蔵畑やもかと目配せをして、どうするか相談をした。

「これかな?」と俺。

「行くか」蔵畑。

「これかもしれない。ただもうちょっと話を聞いてみよっか」もかが様子見を提案した。

 彼らはハンバーグやら海老フライやらカロリーの高そうなものを注文し、食べ終わる前に次のものを注文した。よく見れば、彼らは身体にも光りものが多くあった。五人中の四人がそれぞれピアスをつけ、首からはジャラジャラした鎖を垂らし、ある者は手首に金属のブレスレッドをつけていた。しかし、重要な傷害事件のいきさつについて触れることはないようだった。

「なかなか喋らないな」と蔵畑が顔を近づけて言った。

「でも、ここ、そんなにこういう感じの客来てたかなあ」ともかが答えた。

 確かに「こういう」と言うほどに、彼らは目立っていた。人の少ないフロアにがなり声は響き、足がぶつかって机が動く音は派手に聞こえていた。俺はふと思った。

「常連を探してたわけだけど、そもそもこの店ってそこまで派手な感じの客って来なくね?」

 少し沈黙して、もかと蔵畑は同時に頷いた。

「「確かに」」

 小声でそんな会話をしていた俺らの間を、彼らのとりわけ大きな声が裂いた。

「でも、あいつも余裕だったよなあ」

「ああ。夜中とかだって身の安全とか全然考えてないもんな。まじアメリカだったらやばいよな。こゆのなんつーんだっけ? 平和ボケ?」

「普通にやられてんよなー、あいつら」

 ギャハハと笑った。

「それにしても見た感じと違ってハズレだったな。全然金持ってねーの。ふざけんなっつー話だけど」

「それガチ」

「ちょっとさ」

 自分たちの話に酔った彼らが一斉にこちらを向いた。浅黒い顔、まだ子供らしさが残る顔、薄笑いを浮かべた顔、などなど世間を舐め切った面々がテーブル前に立った蔵畑を見た。

 顔を下げて意見を交換しているつもりだった俺は、すぐに顔を上げた。そして一応そろそろと席から立ち上がって蔵畑の隣に並んだ。もかは怖々とした顔で、席の奥に座って眺めていた。けれど内心はさぞわくわくしていたことだろう。事が起きること、そして日常が変わることに。

「なんすか」彼らの眼差しはすぐに睨みの利かせたものになった。そこには他人を見下そうとすることの慣れも垣間見えた。

「その話さ、詳しく聞かせてよ」

 蔵畑は髪が金に染められているし、がたいもいいし、俺よりはかなり彼らに親和性のある人物だった。それに気づいた俺はゆっくりと席に戻って、成り行きを見守ることにした。

 しかし彼らの中の奥の二人は蔵畑を睨んだままで、目の前の三人はテーブルに視線を戻した。一人がグラスでビールを飲んだ。無視を決め込んだ様子の奴らに対して、蔵畑はテーブルの支柱を蹴った。ガンと鈍い音が鳴る。

「なんだよ」手前の、髪を上に立てた短髪の男が言った。

 蔵畑が声を抑えてそれに答えた。こうもすると普段とは違い、なかなか雰囲気も出る。

「だからその話だよ。君らの話。誰を襲ったって?」

「関係ないだろ」十九歳くらいにしか見えないその男は、目線を蔵畑から外さずに言った。今に唾でも吐きそうな勢いだ。

「関係あるかもしれないんだ」

「なら言うわけないだろ」

「じゃあ関係ないかもしれない」

「どっちでもいいから。誰も聞いてねえよそんなの」

「大体な?」対面の男が言った。既に酔ってるような面で、呂律も軽く回っていないようだった。疑問を口に出す時、語尾が上に跳ね上がるような話し方をしていた。「大体、そんなことそもそもあんたにかんけーないだろ? 俺らは俺らであんたはあんただ。それの間柄には関係はない。そんなら俺らの問題とあんたの問題ともかんけーがないわけだ。違うか?」

 言うねー、と奥の誰かが囃したて、彼らは手を叩いて笑いあった。ぬくもりも湿り気もない笑いだった。

「つまりさ」蔵畑は髪を立てた男の襟首を軽くつかんで捻り上げた。「そんなのどーでもいいんだ、俺らにとってはな。俺らの事情もお前らの事情も関係がなくて、聞きたくもないんだ。で、何なの? お前らのボスはどこにいるわけ?」

「ボス?」首元をつかまれたそいつは睨むだけで無言を貫いていたが、中間にいた男が意外そうに言った。「ボス? そんなのいねーよ」

「いないだって?」蔵畑は訊き返した、

 俺の前でもかが首を傾げた。俺らの考えではファミレスに来るような連中には十中八九、上の組織がいるはずだというものだった。そんな軽薄な奴らだけで犯罪を犯したのであれば、もう捕まってるという算段だ。これは上の誰かが指示していた計画的なものだと踏んでいた。しかし彼らが隠しているだけかもしれない。疑えばどこまでも疑える。

「じゃあお前らだけで全部やったのか」蔵畑が手を離して、訊いた。

「全部ってなんだよ」咳を数回してから、解放された男は言った。

「言っとくけど俺らなんもしてねーからな。ちょっと金をせびっただけだよ」

「ナイフを使ってか?」

「え?」彼は驚いたように言った。そしてすぐの顔に戻った。「脅すために持ってるけど、実際使ったことねーよ。今やってみるか?」

「やめとくよ」蔵畑は彼の話を聞き終わるか否かに踵を返した。

 その背に男は「なんなんだよ全く」と言い捨てた。

 俺ともかは向かい合って肩をすくめてみたりした。

「なんなんだろう全く」もかが言った。


 俺は帰りがけ、さやに進行具合を報告した。彼女は更に具合が悪くなっているようだった。けれど俺が話し出すと注意深く耳をそばだてて聞いていた。


 そして七日目になった。夜も十時になった頃、こないだよりも全体的に落ち着いた空気が取り囲んではいるものの、ガラの悪そうなグループが入店してきた。その空気は時が経つにつれて、色が隅々まで滲みこんだ落葉を思わせた。彼らはカラカラになった落葉独特の苛烈さのようなものを感じさせた。二十代前半の四人組で、三人が男で、女が一人いた。女は大きなサングラスをかけ、ストレートのつややかな黒髪を胸元に撫でつけ、黒のレザージャケットに恐ろしいほどに短いショートパンツ、ストッキングという格好をしていた。

 彼らは俺たちの座るボックス席の二つ窓際のところに席を取った。話が辛うじて聞こえるくらいの距離と話し声だった。二日前出会った不良たちよりも数段トーンを抑えた話し方をしていた。男たちは単純に派手な金というよりは、暗い赤やくすんだ金に染めていたり、明るい茶色に染めていたりした。彼らは草地の中に潜んだ蛇のように静かな危なさを辺りに振り撒いていた。

 俺らは目を合わせた。

 俺らとしては先日考えたこともあって、不良の中でも、こんな人気のない季節に店に来るのは常連以外あり得ないという結論に達していた。あり得ないとはいかないまでも、そう考えて問題ないほどだと。それに今回も、もかに噂を伝えたバイトの女子は午前上がりだったようだが、もか自身が彼らの方を少し見やった後、振り返って「あー、なんか見たことあるかも」とこそっとこぼした。

 彼らはなかなか口を利かなかった。彼らは世を拗ねたような顔をしてビールを注文し、男の二人がごくりと飲んだ。もう一人が手をかざして煙草に火を点け、女がサングラスを外した。そこで肩ほどまで伸ばした髪の男が、何らかの契機でもつかんだかのように今まで行ってたらしいパチンコの出について語りだした。そしてすぐに煙草を吸った。

 俺の席からは斜向かいで女の顔がよく見えた。彼女がサングラスを取ると化粧の濃さが大胆に露呈した。俺に近い女性と言えば、さやともかだけど、両者とも化粧は最低限にしかしない性格なので、なんともそれは奇妙に見えた。もっとも、さややもかはあまり社会に接する必要がないからそうなのかもしれないけれど。とにかく彼女の目にはアイラインが引かれることで瞳の大きさが強調され、睫毛は躊躇いのない弧を描いてカールしていた。眉は的確に描かれ、唇には小さく紅が塗られていた。足を組む姿勢が大分似合っていた。

 彼らは小皿のちまちまとした料理を頼み、酒を飲み、煙草を吸った。俺らはそれぞれの作業に集中する様を装って、視界の端で彼らを注視した。俺らはいつもよりも緊張していた。それは昨日、十二月七日に四件目の事件が起こったからだった。四件目の被害者は、二件目が起きた小学校と三件目の図書館の中間にある住宅地で深夜に背中を切られている。軽傷ではあるもののショックが大きいようだと新聞の地域欄には書かれていた。

 彼らの話題は、ゲームセンターのことやコンビニバイトの店長の悪口、雑誌の或るモデルについての寸評、そして若手女優スキャンダルの話なんかと続いていった。その間に俺らは店側からも不審がられないように、ポテトの山盛り、海老ピラフ、粉チーズを振り撒いたサラダを注文した。俺らがそれらをゆっくりとつつき、平らげる頃には彼らが入店してから二時間が経過していた。俺が海老ピラフの残りを掻き込もうと皿を抱えるのと、彼らが警察の話をしだすのはほぼ同時だった。俺は静かに皿をテーブルの上に置いた。スプーンを乗せるとカチャリと鳴った。

「そいえばさ、警察、もう動いてるらしいじゃん」奥に座った茶髪の男が煙草を灰皿に傾けて、灰を落としながら言った。その男は店内の暖房にもかかわらず、深緑のジャンバーを着込んでいた。

「あー、あいつ?」対面の金髪で顎鬚を生やした男が苦虫を噛み潰したような顔をして言った。「あいつなら、もうそろそろパクられるんじゃね? でもあいつなら逃げ切るかもな。つか、ムショ入っても逃げ出すような男じゃん」

 俺らは目を合わせた。「来た」

「これだな」と蔵畑が頷いた。

 黒髪の女は静かに当たりを見回してから言った。「あいつ、流石にこんなとこにはいないよね」

 暗い赤色の髪をした男がビールを呷ってから言った。「いたらヤバいな。あいつに敵だと思われたら何されたもんかわかったもんじゃねーからな。でもいないだろ。昨日の今日だし、あいつも寝床に籠ってるはずだ」そして残りのビールを飲んだ。

 その内に彼らは立ち上がった。どうやらそろそろ店を出るようだった。時計を見ると十二時四十分だった。それを認めると、俺らも慌てて席を立った。

 彼らは店を出て留めてあるバイクに向かった。何もしなければ風のように、何一つ残さず去ってしまいかねなかった。そしたら今までの苦労が溶けてしまうことになる。俺たちは急いで彼らに駆け寄って、男の一人の肩を蔵畑が叩いた。

 外は痛いほどに寒く、真っ暗だった。店の窓から漏れる明かりと隣に立つ電灯が辺りを狭く照らし出していた。

 男は不機嫌そうに振り返った。その姿は電灯の灯りで満遍なく銀色に染められていたが、顔のつくりから茶髪の男だと分かった。

「何すか?」

「ちょ、ちょっと訊きたいことがあって」息を整えながら、蔵畑が言った。吐いた息が白く濁った。

「率直に言うよ」蔵畑の隣に立った俺が口を開いた。

「君らさ、さっき警察がどうのって話してたじゃん。で、俺らも警察が捜査してるある事件の真相を追ってるんだよ」

「あいつのことか?」傍にいた赤い髪をした男も俺らの前に立ちはだかった。その顔も光で銀色の粉をまぶしたように照らされていた。

「あいつ? 多分それ。えっと……」俺の言葉をやや後ろにいたもかが引き継いだ。「――町のところどころで殺傷事件を起こしてる人。その人に会いたいの」

「あいつのことだな」茶髪の男は言った。

「会ってどうするんだ?」赤い髪の男がこちらを向いたまま、抑揚のない声で言った。

「会って? 言い聞かせるのよ」もかが相手を睨んで言った。

「言い聞かせる? 何をだよ」

「あなたのやってることは悪いことだから、やめなさいって」

「何それ、アハハ」二人の男の後ろで、まだエンジンがかかってない大きなバイクの後部座席に腰掛けた女が手を叩いた。「どんな神経してんのさ」

「君たちとその人はどんな関係なの?」俺がその女から目の前に視線を戻して訊ねた。

「俺らと?」茶髪の男が答えた。「いいや? 全く関係はない。あいつはいつだって一人だ」

「というか、関わりたくないよね」女が言った。赤い髪の男が頷いた。「そうだな。一緒にされるのはごめんだ」

「……一体何が目的なんだ?」終始無言でバイクの横に立ち、煙草をふかしていた金髪の男が重い声でこちらに訊ねてきた。

「俺らの目的はちっぽけなもんだ。けれどとにかく会って話がしたいんだ、そいつと。どうか、そいつがどこにいるか教えてくれないか?」蔵畑は言った。

「でもなー、あたしら。あいつに目をつけられたくないしね」

「まあ、でもここら辺のやつらはみんな知ってるっちゃ、知ってるからな」女の言葉を受けて、赤い髪の男は言った。

「お前ら、別になんかの回しものとかじゃねーんだろ。あいつなら警察にもヤクザにもコネがありそうだけど」金髪の男がもう一本煙草に火を点けて言った。ささやかな風が濃い煙を押し流した。

「もちろん、そんなんじゃないよ」もかが言った。

「262だ」金髪の男が言った。茶髪と赤髪の男は振り返って、少し驚いた顔をした。

「部屋番号262。駅前の満喫のな。そこにあいつはいるよ」

 金髪の男はバイクのエンジンをふかした。女は前に座った男の腰に手を回し、茶髪と赤い髪の男も急いで自分のバイクに跨った。

「でも、さっさと行かないといつ消えるか分かんないからな」そう言って、彼は地面を蹴った。三台のバイクは店の前の国道に向かって走り出した。

「誰にも言っちゃダメだよー」擦れ違いざま、ノーヘルの女は首だけで振り返り、立ち尽くした俺らに言い放った。俺はその姿にさやを重ねていた。さやもあんなに明るく突き抜けられたら、どんなに楽しいことなんだろうと。寒い空気が辺りに充満していた。空を見るとどこまでも続く藍色の幕に、凍りついた光がいくつか張り付いていた。

 俺らは一息ついてしばらく茫然としていた。しばらくすると突然もかが飛び上がった。そして俺と蔵畑の手をつかんだ。

「やった! やったね! 進んだ! 私たち、もう少しだよ!」

「お、おう! そうだね」俺は返した。

「もうすぐ、ゴールだな」蔵畑が空を見上げて言った。

 俺らは自販機で温かい飲み物を買って、路上の傍で休んでから、タクシーをつかまえて駅前に走らせた。

 緑横山駅に着く頃には、夜は更に深まり、午前の二時になっていた。駅前に漫画喫茶は一つしかない。完全個室のシステムになっている、俺の行きつけのところだった。他の二人は来るのが初めてだったので受付で会員証を新規で発行してもらい、個室を一つ借りた。受付から中に進むと本棚やDVDが並べられた棚が所狭しと列をなし、その奥はクッションや机、椅子が置かれ共同スペースになっている。個室は二階と三階だ。俺らは本棚や共同スペースを横切って、照らされた階段を上り、二階の廊下に出た。

「262だったな」俺が言うと横に立ったもかが頷いた。

 俺らは染みのついたカーペットの敷かれた廊下を進み、やがてその部屋の前に来た。

 一呼吸を置いて、蔵畑がドアをノックした。

 しかし内側からの返事はなかった。

 二回続けてノックをする。全く関係ない人が中にいて眠っていたら目を覚まして怒るかもしれないな、と俺は思った。

 また三回ノックした蔵畑はこちらを振り向き、肩をすくめた。

「違うんだろうか」

「うーん」ともかが唸った。「残念だけど、その可能性は充分だね。こんなにうまくいくのも、なんだか変な感じがするし」

「でも、もう少なくとも一週間もファミレスに費やしたんだぜ。そろそろ何かあってもいい頃だとは思ったんだけどな」と俺が言った。

「そんなこと言っても――」蔵畑が言いかけたその時だった。

 262のドアが微かに開いた。

「誰だ」と中の人が言った。その声は若い響きを持っていたが、随分と嗄れたものだった。

 俺は顔を見合わせた。もかがそっと言った。

「私はあなたとお話がしたいの」

 中の人物はドアの隙間を一定に保ったまま、しばらく黙った。俺は一刻も早くドアをこじ開けたい気持ちに駆られたが、なんとかそれを押しとどめた。急いては事をし損じるものだ。

 不安な沈黙ののち、彼が口を開く音が聞こえた。

「……もう、どうでもいいしな。まあ、いいだろう」

 そしてドアが開かれた。

 俺らが三人とも部屋に入ると、その一人部屋の空間はいっぱいになった。彼はデスクチェアに座り、俺らはその後ろに立ち並んだ。蔵畑が後ろ手でドアを閉めた。

「で、何?」その男は壁際の机に置かれた画面に向かいながら言った。彼の後ろ髪は真っすぐ長く、肩口まで伸びていた。さっき中に招かれる時に横顔が少しだけ見えたが、前髪も鼻を覆い隠すほどに長かったためにあまり印象には残らなかった。背中は猫背だったが、しゃんとすれば俺より高そうにも見える。歳も正確には分からなかったが、二十代前半だろう。二十二といったところだろうか。

 机の片隅からは煙草から立ち昇った煙がもくもくと上がっていた。灰皿には既に多くの吸い殻が無造作に捨てられていた。部屋の中は、煙草の匂いと香水の匂いと漫画の紙面の匂いとが少しずつ混ざり合って、所狭しと犇めいていた。

 俺が口を開きかけた時に、もかが言った。

「君が犯人?」

 部屋の中はPCのファンの音が低く鳴っているだけだった。背中越しに光る画面は、背景が紫色のどこかのチャット部屋を映していた。彼は振り返らずにゆっくりと言った。

「何の話?」高めのよく通るタイプのしわがれた声だった。

「人を切るのはいけないことだよ」もかが答えた。

「ああ、その話か」彼はくるりと椅子を回してこちらを向いた。

 長く伸びた黒い前髪の隙間から二つの目がこちらを見ていた。それは段ボールから見る黒猫の眼差しを想起させた。

「あなたなんでしょう?」

「誰から訊いた?」

「それは言えないけど」

「まあ、いいや。どうでも」

「どうでもいい?」俺は訊いた。彼の振る舞いがよく分からなかったからだ。俺の言葉を聞くと、彼は俺の方を見た。そして机にあったグラスを口に当てて、その中に入った透明な液体を飲んだ。おそらくジントニックか何かだろうと思った。口元についた雫を拭うと、彼はにやりとした。

「そう、四件のことは僕がやってたことだ」

 そして足元に置いた布製のバッグの中からつややかな黒い革のケースを取りだした。その中に入ってたのは、柄が木製のサバイバルナイフだった。話の通りだった。

「これを使った」彼はそれを手で捏ね繰り回しながら、愛おしそうに眺めた。

「何でだ?」蔵畑が訊ねた。「目的は?」

「目的?」彼は楽しそうに笑った。「そんなの最初からないさ。君たちは何か目的があって生活しているのか? そんなわけないだろう? ただ生きてるから生きてるだけだ。そこには目的やら志向性やらは端からなくて、そしてそうであれば倫理性なんてのも見せかけのものに過ぎないんだ。分かるか? 僕は確かに人を切った。でもそれも大したことではないんだ。だってもうどこを探したって意味なんてものは見つからないんだからさ。だから僕も空しくなったもんだよ。誰かを傷つけるごとにさ――」

「やめろよ」蔵畑が彼の言葉を遮った。

「お前に罪悪感はないのか?」

「それは何に対してだ?」

「傷つけた人に対してに決まってるだろう」蔵畑は今にも殴りかかりそうになる気持ちを必死で抑えているようだった。胴の脇に据えられた両の拳がピクピクと震えていた。蔵畑は怒鳴るような声で言った。

「お前は悪い。断罪されるべきなんだ。ならば! ならばだ。もっと堂々としていろよ。もっと悪者らしくしたらどうだ。罪悪感なんてないと言い切れよ」

 それは蔵畑の心からの叫びだった。俺には蔵畑の気持ちが分かった。俺らはこれまで巨大な計画を立て、悪の組織に立ち向かってきたはずだったのだ。そして組織の親玉ともなれば傍若無人で非情冷酷な人間と相場が決まっている。それなのに、挙げ句に現れたのは論理的に見えるあやふやなことをぶつくさ言う、引きこもりのようなつまらない人間だ。それならシナリオに文句の一つも言いたくなるというものだ。

 彼は濁った目をして蔵畑を見た。そしてはっきりと言った。

「そんなことはできない。僕には罪悪感がないわけではないんだ」

 蔵畑の意志は理解できた。しかし俺自身はといえば、目の前のこの青年が何も考えていない盲目で単純な人間だとはどうも思えないのだった。それとはまた違う観点で、この人物こそ根深い問題を抱えた、俺らの本当に乗り越えなくてはならない敵である気がしていた。彼の内面は光が底に当たらないほどに深く、俺らには決してその底に触れることはできないように思えたからだ。

「でもその罪悪感は被害者に向けられたものじゃない。むしろおそらく自分に向けられたものなんだ」

「自分に?」俺は訊いた。

「そうさ。この世界にはどこにも意味なんてものはないと思っていながら、誰かを切ったりしてしまう自分に向けてね。罪悪感というよりは憐れみに近いかもしれない。僕はそんなことしたって無駄だと思っているというのに、でも誰かに影響を及ぼして意味をつくりだそうとしてしまう。それは考えてみれば、水中で息ができずに藻掻くようなものなんだ。全部が全部無駄に終わる、誰一人として救われないことだ。それなのに気がついたら自分はまた繰り返しているんだ。どうしようもなく、諦めきれずにね。そんな時、憐れみや罪悪感といったものを、僕は感じる」

 彼が黙ると再び沈黙が空間を覆った。蔵畑も身動き一つせずにこの空気の一部になっていた。

「じゃあ、もうやめにしない? 私はそのことを言いに来たの」

「事件をってことか?」彼がそう訊くと、もかは頷いた。「それならもう大丈夫だ。僕もこのままじゃいけないと思ってきたからね。意味のないことを続けても碌な蓄積にはならない。僕は明後日にはこの町を出る」

「だから、どうでもいいって言ったのか」俺は訊いた。

「そうだ。僕はもう、意味のないことを生み出そうとしてしまう思考回路を捨てなくちゃいけない。意味あるものに対する憧れを抹消するためにね」彼の目は俺らに向けられていたが、視線は俺らの間隙をすり抜けて、ドアの裏側に貼られた古めかしいアイドル写真を貫いていた。

「まあ、とにかくやらないってことならいいわ」もかは言った。

「ああ、やらない」彼はこくんと首を下げた。


 午前三時半。満喫から外に出た俺たちは一斉にためいきを吐いた。

 終わったのだ。全て、終わった。俺らの夢は終点に辿り着いてしまった。

「解決、か」蔵畑がまだ白まない空に腕を上げて伸びをした。

「なんだかなあ」もかは足元の石を蹴った。

 二人が不満そうな様子だったので、俺はフォローの意を込めて言った。

「でも、いいんじゃない。さっきの彼は隙あればなんでもやってしまいそうな危険さを持っていたわけだし。悪役にはもってこいの人物だったと思うよ。ただ、もう事件は終わってたけど」

「そうなんだよねえ」もかは言った。「安全なのはいいけど、私たちが止める前に終わっちゃったのがなんていうか、限りなくアレだよね。結局私たちは物語の内側には入れずに、外から見てただけっていうかさ……」

 蔵畑が路上に落ちていたコーヒーの缶を手にとって、その表面を眺めた。そして目を細めて少し離れたところにある自販機横のゴミ箱に狙いを定めながら、言った。

「まあ、そんなもんだろう。世界なんてそんなもんだ。俺らだってもっと大きいレベルから見れば、少なくとも関係はしてる分、問題に包摂されてるように見えるわけだし、そんなことで妥協していくしかないんだ。第一、問題の球の領域に入れることなんてそんなあるもんじゃない。この場所を教えてくれた彼らだっておそらく問題を外側から見ているだけで、問題の内側にいたのは加害者である彼と被害者である人たちだけってことになる。冷静になってみれば、そんなの羨む方がおかしいってもんだよ」そして、ダーツを投げるようにして缶を投げた。缶は夜の空気に綺麗な放物線を描いて、ガシャコンとゴミ箱の中に吸い込まれていった。「まあでも、外側に立って眺めてるだけじゃあ物足りないのが俺らなんだけどなあ」

 そんなことを言いながら立ち尽くす俺たちは、なんだか諦めきれずに加害者になってしまう彼にどこか似ているようだった。


 家に帰る途中、さやの家に寄った。外から見るとまだ電気はついていたが、部屋に入るとさやは寝ようとしているところで、掛け布団がめくれていた。

「どうしたの?」彼女が訊いた。

「解決したんだ」

 俺が言うと彼女は隈ができた目を丸くした。頬の肉も入院した時のようにげっそりと落ちてはいたが、彼女は喜んだ。

「そう、よかったね!」

 俺は枕元に転がった空の眠剤のビンを壁際に立ててから、事の顛末を詳細に語った。

「その人も悩んでたんだね……。やっぱりみんなうまく生きれないのかな。何事も良い方向にはいかないのかな……」そんなことを言う彼女の横顔は月明かりに照らされて、随分ともの悲しく映った。

「朝起きて、昼動いて、夜寝るだけの人生なのに。歴史から見れば一人の一生なんてホントにちっぽけなものでしかないのに、なんでうまく笑えないんだろうね。なんで自分よりもっと小さな物事に悩んで、一歩一歩立ち止まって、足元を見てしまうんだろうね」

「来た道を振り返ることは悪いことじゃないよ」俺は言った。風船がしぼむような終わり方だとしても、この後には全てが良くなる気がしていたからだ。「振り返ってみて間違いだと気づいたら、何回だってやり直せるんだ。人生って思ってるよりも簡単でシンプルなものなんだよ」

 彼女は口元を上げて和らげに微笑んだ。でもその頬はピクピクと引き攣っていて、彼女の内面の葛藤を充分過ぎるほどに表していた。その表面に、幾筋かの涙が流れた。熱を伴った涙は、彼女の太腿に落ちて布地に小さな染みをつくった。

「そうだね」

 彼女は微かに呟いた。


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