四章
四
大学一年生の四月のさやと改めて出会い、そこから授業を並んで受けたり、お昼を時々一緒に食べたり、さやのサークル探しを手伝ったりと二人の距離は引き返すことなく縮まっていったが、俺がまず気づいたのは風薫る五月の中頃だった。四月にはほんの少し残っていた冬の空気は足跡すらすっかり溶かされて、汗すら滲むような陽気が続いていた。その日はさやの友達がバイトかなんかで学校に来ていなかったので、俺はさやに誘われて芝生の隅のベンチで一緒にご飯を食べていた。その時期には厚かましいほどのサークル勧誘もひとまず落ち着いていて、ゆっくりとした時間が辺りを流れていた。空では太陽が元気な姿を見せ、真っ白な雲が右から左へと音もなく徐々に動いていた。
俺は生協のコンビニで買ったメロンパンを齧り、さやは自ら作ってきた弁当のホウレン草をつまんでいた。その頃の俺はそれほど心の内に暗いものをためこんではいない状況にあった。木々は緑が深まり、芝は朝露に濡れたようにつややかで、風が吹くとケヤキの枝先についた葉や芝たちのさらさらという音が学生たちの話し声に混ざり込んだ。
さやは陽の眩さに目を細め、薄い桃色のカーディガンの袖をまくった。その下から細くてどちらかというと色が白い腕が顔を見せた。俺は彼女の繊細な指先がとても好きだったので、彼女に悟られないように、その線の綺麗な腕をそっと盗み見た。肌の下の血管が微かに透き通り、彼女が持つ生の躍動感をより豊かなものにした。しかし少しして、俺はあることに気がついた。袖からちょっとばかしはみ出た白いそれが、初めはインナーに見えたのだが、どうやら布切れであり、おそらくは傷を癒す手のものだということだ。
俺は何気ないふうを装って、木々に留まる小鳥を見ながら言った。
「怪我?」
すると依然と明るい様子だった彼女は、何を言われているのか分からない顔をしていたが、こちらに目をやり、自分の手のひらを眺めた後に、腕に目を落として、ようやく会話の意図をつかんだようだった。彼女はためらいがちに言った。しかしそれはあたかも当然のことを言うようで、かげりはひとつも見当たらなかった。
「これ? いや、大したことはないよ。ちょっとしたことで」
「ちょっとしたこと?」俺は訊いた。
「うん」彼女は頷いた。続きの言葉を待ったが、彼女はそれ以上を何も言わなかったので、その時は俺も訊くのをやめた。
それはちょっとしたことであることに変わりはなかったが、世間で言う「ちょっとしたこと」とはいくらか異なっているように思われた。なぜなら彼女はその後も、ずっとそれを身に着けていたからだ。五月の日々は六月よりも蒼く澄んで、初夏の雰囲気を纏っていた。気温も上がり、彼女が肌を見せるたび、俺の目にはその白いものが強調されて映ってきた。時には桃色のカーディガンの下から、時には水色のワンピースの下から、時には灰色の長袖シャツの下から、それは俺の前にその存在を見せた。またその位置は空に浮かぶ雲の様子のように、見る日によって違って見えた。
夏を呼ぶ五月の空気は陽が隠されたくらいでは、そのぬくもりを失わなかった。幾度もの感覚に耐えかねて、俺は袖をまくりあげた彼女にいくらか真剣な調子で尋ねてみた。
「それ、本当にどうしたの? 言いたくないことだったら俺はもう二度と訊いたりしないけど」
彼女は俺の顔を見て、冗談を言うつもりのないことを知ったのか、変わることのなかった表情の明るさを傾かせた。それでも口調はいつもと違わないように努めていた。彼女は顔を上げて、木々の枝たちと、その先についた大きくてふちのぎざぎざした葉を見つめながら、右手で白い布が巻いてある左腕をさすって言った。
「えー。何でもないよ、これ本当。大したことなくて、大したことがなさすぎるくらい」
「言いたくないなら、いいよ」俺は靴の先に目を落としながら断った。
「ううん。言うほど大したことじゃないってだけだから、それでも良いんなら話してもいいよ。そうだね……、色々と物事が絡まっているんだけど、あることのみを言うのであれば、腕を切ったの。だからそれを隠してて、ただそれだけ」
「ただそれだけ?」俺は視線を靴についた泥から彼女に移した。
「それだけだって?」もう一度俺が訊くと、さやはいろはすを一口、口に含んでから、息を吐いた。
「だから、あることだけを言ったらって言ったでしょう? とても一言では言い表せないの」
「大したことないって言ってなかった?」
「言わなくちゃいけないことが多いってだけで、このこと自体は取るに足らないことなんだよ」
「ふうん」俺は頷いた。
「聞く気はあるの?」彼女は学校中に予鈴が鳴ったことを確認し、弁当箱をトートバッグにまとめていた。
「もちろん」俺は答えた。
「じゃあ、今度時間の空いたときにでも」さやは笑った。
俺は彼女の水色のワンピースを目で送りながら、しばらくベンチで一人じっとしていた。そして風が止んできた頃になって、鞄から「ノルウェイの森」の上巻を取り出して読み始めた。
それから数日が経ち、さやから「暇なら東門で二時に待ち合わせよう」という内容のメールが届いた。その日は午前で授業が終わりだったので、二つ返事でOKし、昼食を食べた俺は、心地よい天気だったので大学のまわりを歩いてみることにした。それはまさにフィッシュマンズの「Walkin’」や「Smilin’Days,Summer Holiday」なんかが似合うくらいの気持ちの良い散策になった。
大学の南側は新興住宅が並んでいたが、その家々には小さな庭がそれぞれつき、几帳面にもどこの庭にも緑が添えられていたし、住宅が立ち並ぶのを断絶するかのようにところどころに空き地らしきスペースがあって、そこには背の高い雑草が青々と茂って陽の光を吸収していた。俺は日差しの強さに目を細め、ポケットのコインを指で数えて、時間が来るまでそんな景色の中を歩いた。
俺が東門に着いたのは一時五十五分で、さやはその八分後に現れた。彼女は水色のワンピースにクリーム色のカーディガンを羽織っていた。
「待った?」彼女が訊いた。
「そうでもないよ」俺は答えた。
彼女は東門を出ると、俺を先導し、大通りに向かう直線の道を進んだ後、ほどなくして右折して横の小道に入った。住宅と住宅の間のわずかな隙間をすり抜けるようにして二人は進んでいった。十分ほど歩くと、急に彼女が立ち止まったので危うく鼻の頭を彼女の背中にぶつけてしまうところだった。
「ここよ」彼女は振り向いて言った。
その喫茶店は家と家の間に、まるで自らも家であるかのように佇んでいた。先ほど出た東門辺りに蔓延していた大学生の喧騒はすっかりどこかに行ってしまっていた。
店内ではゆったりとしたクラシックが流れていた。さやと俺は奥まったところにあるテーブルに向かって座り、アップルティーとコーヒーを注文した。客は俺らの他にはほとんどいなかった。カウンターに眼鏡をかけたベレー帽の老人が座り、店主と話をしている程度だった。
さやはグラスを持ち上げ、アップルティーを一口飲んで言った。
「世の中は複雑な側面だけではないってことは分かる?」
「もちろん、分かるよ」
彼女は、テーブルの木目を見つめて、何を言うべきか迷っているようだった。すぐ横の路上が見える窓ガラスからはいつもと同じ外の空気が感じ取られたが、さやと俺の前に横たわるそれはいつもと同じものとはいくらか違っていた。彼女が黙ると深刻とはいかないまでも、多少シリアスな空気が現出した。
彼女はそのままぽつりと言った。
「私は土谷君は結構、優しい人だと思ってる」
「ありがとう」
「だからね、私は実際に話してしまうことが少しだけ怖いの。私にとっては、ちっとも大したものでなくても他の誰かにとってもそうとは限らないじゃない? 土谷君は優しいけれど、優しいだけじゃなくその辺り耐性のある人なのかな」
俺はコーヒーを啜って、わずかにも感情的ではなく聞こえるように言った。
「何を聞いても今更そんなに驚かないさ。十八年も生きてきたんだもの」
彼女は笑って「そうだね」と言った。そして羽織っていたカーディガンを椅子の背に掛けた。すると袖の下からいつもの白いあれが、喫茶店の午後のこの空間にも現れた。
「これのことだよね」彼女は左腕の肘辺りまで巻かれたそれに目を落としながら言った。
「そう」俺は頷いた。
彼女は両肘を机について、手を組んでその上に顎を乗せ、こちらの目を覗き込んだ。
「ねえ、私ってどんな人間に見えるの?」
「ええと、明るくて、誰とも仲良くなれて、大抵の相手のことだったら気遣える」
彼女はふふっと照れたように笑った。
「ありがとう。そうだね、自分でいうのも恥ずかしいけれど、私は確かに相手がこちらにとても嫌な感情を抱いていない限り、やろうと思えば意思の疎通は図れる気がする」
「うん」俺は頷いた。「それは一つの才能だ」
「でも、一つだけ土谷君の中のイメージを覆してしまうかもしれない。それでも、私のことを話してもいい?」
「イメージも本人に覆されるんだったら本望だと思うよ。だけどどれのことだろう」
「私が明るい人間だってとこ」
俺はにわかには信じられなかった。なぜならさやは高校の時も終始朗らかに振舞っていたし、大学でもその姿勢を崩していないように見えていたからだ。少なくとも俺には。つまり俺にとって緒川小夜子のイメージというのは、外面からの刺激には強く、もしそれに耐えられなかったとしてもなりふり構わず辺りにその心情を見せず、最も親しい片手で数えられるくらいの友人にだけ、そのことを打ち明け笑い話にしてでも解消する、といったふうに培われていた。吉野藻香と同じように。
しかし俺はそんな思いが彼女に伝わらないよう苦心して、何でもない様を装った。明らかにさやはこちらに何かを示そうとしていたし、そういう時はそれを受け入れる態度を取らねばならないからだ。
「そんなこともあるかもしれない」
「うん」彼女は左手で頬杖をつきながら、右手でカップを触った。そして「私はね、弱い人間なんだ」と言った。
「弱いからね、すぐに落ち込んじゃうんだ」
「そういうことは、俺にだってあるよ」俺は端の灰皿を寄せて、煙草に火を点けた。
「だから落ち込んじゃうとね、腕を切るの。そうすると少し苦しみが和らぐから。この傷はそのせいなの」
そう言って包帯をとって見せてくれた彼女の腕にはその通りひどい傷痕があった。切って、その下から肉が盛り上がって肌になったところに、新たな傷が重ねられていた。新たな傷には血がこびりついていて、その全体は今にも動き出しそうな不気味な地上絵のように見えた。俺はずっと見てると気分が悪くなりそうだったので、あからさまに見えないように、視線を灰皿の方へ移し、煙草の先の灰を落とした。慣れるまでには少し時間が必要そうだ。
「こんなの見せびらかして歩けないでしょう?」彼女は言った。
「確かに」俺は言った。
彼女は包帯を元あったように丁寧に巻き直し、息を吐いた。
「土谷君に相談してもいい? 私の仲間って案外少ないの」
「いいよ」俺は答えた。
「私ってね、昔から落ち込むと辺りが真っ暗になって、何も見えなくなってしまうの。どうしようもなくなってしまうの。それも些細なことでよ。分かる? 誰かと会話してる時だったり、空を見ている時だったり、家に帰ってる途中だったり、そういったふとした時にね。そうなるとね、縋るものが何なのか、私は何に縋ったらいいのか見えなくなってしまうんだよね。あるいは、それが見えても縋ることで相手に迷惑をかけないだろうかって思ってしまって。だからそうすると結局どこにも救いを求められなくなって、気づくと触れられるのは自分の身体しかなくなってるの」
それで切ってしまうんだ、と彼女は言って口をつぐんだ。
俺はもしかしたらその時、彼女の言葉を逐一理解していなくて、いくつかの意味を取りこぼしたまま、頭の中で自分が持っていた概念と引き合わせていたのかもしれない。だから俺の仕草にはいくらか場の流れとは不釣り合いだったり、的外れなものであった可能性もある。俺の中にはどうしても現実の彼女とは独立した彼女の像があった。というのもこの頃にはもう俺はすっかり恋に落ちてしまっていたのだ。高校の時に不吉な予感として感じていた思いは、この大学の二カ月ではっきりとした形をもって、俺の中に降り立っていた。だから俺は彼女のそんな話を聞いても、彼女を軽蔑するような気にはならなかったし、むしろ秘密の共有ということに喜びすら感じていた。俺はもっとさやについてのことを知りたい気持ちでいっぱいだったのだ。
「それってどうしたらやめられるんだろう」俺は訊いた。
彼女は腕を組んで考えてから言った。
「土谷君が話し相手になってくれたら変わるかも。私って、物事を自分の中にためこんでおくのが苦手だから」
「もちろん、手伝うよ」俺は言った。
そして続けた。「その代わりにと言ってはなんなんだけど」
「何?」
気恥ずかしい時に、相手の目をまともに見れないことは人としての欠点であることを俺ははっきりと認識し、反省した。
「付き合ってくれないかな」
彼女は持ち上げたカップを置いて、びっくりしたように目を見開いた。
「本気で言ってるの、それ?」
「そうだね」
さやはカップに口をつけ、天井の方を見てから、こちらの目を再び海底を見透かすようにじっと見て、それからにっこりと微笑んだ。
「私でいいのなら、喜んで」
もしかしたら高校でもかと付き合っている時、俺はもかに若干病んでるような弱音を吐いてたことがあったかもしれない。おそらくそれは外側からの圧迫によるものというよりは自分の心の内側から染み出る類のものだったろう。思春期に芽生え始める厄介な自己意識だ。しかしそれは――現在の俺はともかくとして――大学の在学中にはほとんど姿を現さなかった。その理由は良い意味でも悪い意味でもはっきりしていて、あることに依っていた。それは俺がさやと付き合っていたことだ。
良い意味は、俺がさやを好きだったからだ。これは疑いの余地がない。恋愛初期特有のものかもしれないが、俺はさやの仕草ひとつひとつに目を奪われていた。向こうから触れてこなくても、俺が手を伸ばし、それを受け入れてくれるということが他の何事以上に幸せだったのだ。
そして悪い意味――これはあくまで相対的に、一般的評価軸を視野に入れた言い方であり、本質的には良くも悪くもないということは分かっているが――は、さやの心が彼女自身の言う通り、わずかに崩れやすい傾向にあることだった。
つまりいずれの意味にせよ、俺は俺のことにまであまり気を回せない状態だったのだ。
かくして俺とさやは事実上付き合うことになった。
一人が二人になったからといって、外面的に世界に起こる現象が大々的に変わるということはなかった。俺らの日常は果てしないほどに広がっていて、ちょっとしたことでは微かにも揺らがないのだ。俺らが二人になってすることといえば、共にゆっくりと話をしたり、水族館に行って奇妙な形状の魚を見て笑ったり、多くのメールを交わしたり、時々セックスをするという程度のものだった。
それ自体は取るに足らない平凡なことで、新聞に書かれる国際情勢であったり、凶悪な犯罪であったり、明日の天気なんてことに比べたら足元にも及ばないことだった。
しかし内面的に見れば、つまり俺の心の状態が世界の性質変化と密接にリンクしていることを加味するならば、その変わりようには目を見張るものがあった。
つまらないことが積み重なってできているものが日常だとするならば、それはやはりくだらないものであるほかない。そしてくだらなくつまらない毎日の中に産み落とされ、それを健気にも毎秒毎分摂取している自分だって、他と少しも変わらずに内側からのっぺりとした灰色の数多く量産された製品のうちの一つであるに違いはない。
しかし逆に日常を構成している要素のひとつひとつが、きわめてポジティブな性格を持つ、きらめきだとか光の粒といったものであったならば、それらの集積である毎日は素晴らしいものであることとして疑いようもない事実になるのだ。実際に今までも身近にあった瑣末なことごとは、ちょっとずつその色を変えていった。俺はそれらに幾度となく気づくたびに、自らの生活の質が変わったことを教えられた。例えば、大学の授業がそうだ。眠気を誘うだけの教授の声や窓を伝う雨粒やどこからか湧き立つ誰かの話し声なんかも、今までだったらとても不快に俺の五感を撫でてきていたが、それらは全部隣にさやがいるということだけでその性格をがらりと変え、何でもないちっぽけなものごとになって俺の前から姿を消していった。休み時間も帰り道も休日も、モノクロ調の人工物のようなものから憂えとは切り離されたあたたかみのあるものに変わっていった。
恋愛というのは共同作業だ。互いに自らの持つ要素を相手に渡し、心の一部分を溶かし合うことで成り立つものだ。そして俺はそれによって日常を変革するほどの享受を得た。しかし、一方でさやにもそれが当てはまるかどうかというのは、すぐには判断のつきかねる問題だった。彼女がそれほどの心の内側から変われたかというのは傍目には分からなかったのだ。もし彼女の目に映る何もかもが、今までのまま手つかずに色褪せた状態で残っているのだとしたら、俺の感じる幸福は全て錯覚であり、幻想が燃え尽きた灰燼に帰すことになってしまう。それは何としても避けたかった。しかし俺には信じるということそれだけによって、世界の様相と彼女の存在をつなぎとめるしか方法はなかった。俺が間違っているのか、彼女がまだ自分を順応させていないのかは分からなかったが、希望を描くには信じるしかない。それに彼女自身もそれを望み、それに応えようとしているように見えた。俺は少しでも彼女の力になりたいと思い、時を過ごした。
彼女は初めに彼女が言った通りに、傷つきやすく、予想以上に不安定な人間だった。
彼女は毎日、色々なことを考え、思いを巡らせては落ち込み、自分の不甲斐なさを恥じていた。普段遠くから見ていると分からないのだが、隣でじっと耳を澄ましていると彼女の心にこもったもやもやが欠片となって現実に零れ落ちる音が聞こえたし、送られたメールからは彼女の思いがはっきりと見えた。
さやはさやでしっかりと自ら手をつかもうとしていた。
二人で埠頭を歩いていた。彼女は言う。
「私にはね、自分がいないの。どこを見渡しても自分だけがいなくて、本当の声を聞きたくても何も聞こえなくなって、ただ無機質な他の人の声だけが虚ろに響いてるの。頭の中でよ。本当に嫌になる。だってこの『本当に嫌』という思いも突き詰めれば、本当には思っていないのかもしれないんだよ。まあ、嫌なことは結構鮮やかだから本当の自分なのかもしれない。悲しさなんかもそう。わりかし私は嫌いなものが多い人間なのかもしれないね。でもね、大切なのは好きなものについてよ。好きなものがあれば、つらい時や悲しい時も、耐えていけるでしょう? つらくたってその気持ちを誤魔化せるでしょう? でも私にはそれが分からないの。そんなことってある? 酷いもんだよ。何も好きじゃなく、何も大切に見えなくて、楽しく思えることが何一つなければ、そこにあるのは明らかに地獄よ。他の人だけがいて、他の人だけが喋っていて、自分は絶対そこには入れないの。いや形だけならいくらでも入れるんだよ。それに土谷君が言ってたように仲良くだってなれるし。でもね、それは本質的なところではないの。ただただ空虚で、薄っぺらくて、味気ないものなの。それも当然なことで、だって本当の自分が楽しくなければ、他人と何かしてもつまらないし、本当の自分を見つけられない寂しさがここにあるだけなんだから。けど、私だって色々試してはみたんだよ。私が楽しいって思い続けていれば、それでいいんじゃないかって思ってね。でも駄目だった。何も真剣にできなくて、楽しさの欠片もなくて、ただ反動としての疲労感とまた見つけられなかったって寂しさがあるだけなの。もう半分くらいは諦めかけているけれど、でもどうしても捨てられなくって、まあそれも考えてみたら当たり前だよね。本当の私がどこにも見つけられなくて、挙げ句いないなんてことにしちゃったら、この私だって崩れちゃうんだもの。腕を切ったりするのは痛いけど、でもその痛さは一瞬でも私に本当の私のことを忘れさせてくれるの。そんなことしたってどうしようもないって言われちゃうかもしれないけど、忘れられるってとても幸運なことだと思うんだよ。だってこうでもしなきゃ、息苦しい毎日に束の間の休息すら与えられないんだから。ねえ、分かるかな。私って助かりたいんだよ、本当に。でも他にどうしたらいいか分かんないんだ。ああ、伝わってるか不安だなあ。こんなこと人に言ったことなかったから。ねえ、気持ちを知りたいのなら代わってあげたいよ。……ごめんなさい。別に君を嫌ってるわけじゃないんだ。全然だよ。これは本当。でもね、実のところ、好きかどうかも分からないんだ。だってそうだよね。でも、これって、本当につらいんだよ」
彼女は俺の二三歩前を歩き、足元の石を蹴っていた。陽はいつしか夕暮れに差し掛かり、海の向こうに燃え落ちていく。近くには倉庫がいくつかあるだけで、人もまばらでうらぶれた雰囲気が辺りに漂っていた。普段の俺らがいる町は、どこまでも続く平坦な土地にごちゃごちゃした住宅が乗っかっているだけの典型的な地方都市で、そんな場所にいても気が滅入るからたまには海が見たいという理由で、電車に一時間ほど揺られて、俺らは町を抜け出てきたのだった。
大学が夏休みに入る直前、夏が本格的に始まった頃だった。
彼女は俯いて歩き続けていた。赤々とした夕陽に照らされ、彼女の横顔も上気したように染まっていた。沈み込む夕陽は辺りに世界の終わりの到来を告げるようで、彼女は世界に取り残されることを待つ少女のように見えた。俺が野暮なことを口に出してみたところで、その一切は彼女に届きそうになかった。
陽が海に完全に沈み込み、その余韻だけが明るさを持つようになると、彼女はようやく振り返った。彼女が持つ片側の瞳は、グラスの表面に水滴が結露し、浮き出るかのように、じわりと涙を溢れさせていた。
「もう、帰ろっか」
俺は頷いた。帰り道、空には赤紫の細雲と共に冷たく輝く星々が浮かび、それらの隙間を縫うように黒い鳥たちが群れをなして北の方へと飛び去って行った。
俺は右手でさやの左手をそっと握った。
さやは話をしていると気が楽になれるようだったので、俺は彼女の話には注意深く耳を傾けるようにした。実感として分からないところもあるにはあったが、なんとなくなら察することができたし、彼女に拒絶されてると思わせたくないのもあって、多くの場合にただ頷いて見せた。
俺はそれでもいいと思っていた。さや自身、そういった心の闇を開ける相手がいて、ガス抜きができていればなんとか日々を乗り越えて行けそうだった。俺は彼女を見ながらそれでいいと思っていたのだ。なんとかでいい。俺らは完全を目指す必要なんかなくて、なんとかでも、どうにかしてでも日々を越えて行けさえすればそれが正解なんだと。誰だって完全で欠点のない人間ではない。そんなの一人としていないのだ。さやが少しだけ他より弱くて、崩れやすい心を持っていたとしても、そんなの結局気にするまでもない小さすぎる違いでしかない。それに言ってしまえば、人はそれぞれ独自の欠点を持っているものなんだ。それは実際には他人と比べることなんてできやしない。いわばその人の個性というべきもので、それぞれの性質を構成する要素自体が異なっているのだ。だから比べるなんて端から能わない。だけど俺らは他の人を見下したり、見上げたり、生きやすいようにしたいから、それらを型に当てはめて、捻じれた認識形式に自分を押し込んでいく。けれど確かに「そういうわけだから明るく生きられるだろ」なんて言ったところで、世間が電波時計のごとく狂いのないものではないし、さやだって困惑するだけだろう。だから別に丸っきり開き直るまでもなくてもいいから、真実を心の支えにして、日々をなんとか渡っていけばいいんだ。そして少しずつ彼女の中の変えられる部分は世間に順応させていけばいいし、変えられない部分はそのまま持っていればいい。誰だってそんなふうにして一生懸命生きてるものだ。それに初めは慣れてなくたって全然構わないんだ。もし道を踏み外しそうになったらそれとなく、それこそホールデン・コールフォードがなりたいと言ったライ麦畑のキャッチャーさながら、俺が彼女に「そっちじゃないよ」と教えてあげれば済むことだ。悩む必要なんかないけど、手放せないならそれも一緒に抱えていけばいい。
俺は素直にそう思ってたんだ。とにかく二人で越えていけばいいと。神様に願う純情な少年のごとくにそう思ってた。でも、それは甘かった。
とてつもなく甘い考えで、俺はいまだ限りなく未熟だった。
夏が終わると秋が来た。誰もがふと優しさとは何だろうと考えたくなる、そんな季節だった。
俺は長い時間をかけて「ノルウェイの森」の下巻と太宰の「人間失格」を読み終えた。俺と彼女はなんとか何事もなく毎日を過ごしていくことに成功していた。それはとてもうまい具合に、変に波に抵抗することなく逆に動力に利用するサーファーのごとく日々を乗り越えていくようだった。
結局二人ともサークルには入らず、俺はコンビニのアルバイトに週四日を費やし、彼女は大学近くのこぢんまりとした喫茶店の店員として精を出していた。夏休み中に始めた喫茶店の労働は、彼女の性によく馴染んでいるようだった。何らかの集団に属することは彼女のやるべきことを規定し、それによって彼女は安心して身を振ることができていた。その他の諸々の事情――組み合わせ的な意味も含めて――においてもその仕事は彼女に合っているように思えた。俺がそこに行くと、いつもさやが誰かと楽しげに会話しているのが窺えた。さやは俺に気づくと、必ず目配せをしてきて「大丈夫だよ」とでもいうふうに軽く頷いて見せた。俺は時間が空くと、よくその店に寄って本を読んだ。そこは客で溢れ返ることはなく、いい気分で煙草を吸って本に集中することができた。問題があるとすれば、その店のコーヒーがあまり美味くないことくらいだった。
彼女は冬が好きらしい。気分も夏よりは冬の方がずっと落ち着くそうだ。それは身に纏うものが増えることによって物理的な安心感が上がるためかもしれないし、あるいは単純に彼女が冬の生まれであったからかもしれなかった。そんなことをコタツに入り、みかんの皮をむきながら彼女は口にした。
陽が暮れるのがあっという間になり、冬が足音高らかに到来し、二人でいる時間が多くなった。俺らはテレビを適当に見ながら、多くのことごとを話した。それはバイト先での失敗や、人間の尊厳、猫の可愛さについてなどだ。俺が猫アレルギーで、少しも猫に近づけないことを告白すると彼女は笑った。
「それは災難だね。人間が生涯得られる喜びの四分の一くらい損してるよ」
「猫の出てくる歌や小説って多いから、是非ともその愛らしさを体感したいものなんだけどね」
「猫ってとっても頭がいいんだよ。人間に媚びる術も知ってるしね。その癖意外とやんちゃなの」
「どうやらぬいぐるみじゃ代替できなさそうだね」
「でもね、うちの猫だけど、ある時喧嘩してきたのか、酷い怪我して帰ってきたの。もう手の甲やら頭から血を流しててね。その上、どこのどいつにやられたのか、お腹には子を身籠ってて。でね、その時思ったの。ああ、この子がいる世界はやっぱり野生なんだってね」
「やっぱり俺はぬいぐるみでいいや」
「でもあれは可愛いよ、すごく。あんなに自由さを身に纏えたらいいなって思うもの」
「人間の方ができることは多いし、そう見えるだけだよ。どっちもシステムが違うんだから」
それを聞くと彼女は頬を膨らませた。
「あんまり理屈っぽいとモテないって聞いたことあるよ」
「さやだけには言われたくないよな、それ」
彼女は笑った。そして俺も笑った。笑ってそれからヒトデが表にひっくり返る時の可愛さについて語り合ったりした。
隣国で戦争が起こったって、消費税が増税されたって、首相が交代したってどうでもいいような気分で、とてつもなく平和な冬だった。俺らの周りに広がっている世界はクルクルと愉快な音を立てて自転を繰り返し、夜になると湖の持つ荘厳な静けさの中にぬるいコーラのようなとろける甘さが広がった。
「私のこと、好き?」
「うん」
「死んじゃっても好きでいてくれる?」
「死んだ方が心には永く残ると思うけど、生きていてくれた方が助かる」
「それは土谷君のエゴ?」
「そうなるのかもしれないな」
「私はね」
「うん」
「……私は自分のことを別に育ちがいいわけではないけれど、それでも最悪ではないと思ってるの。つまり、ある種の人々よりはね。私は幼い頃から父親に性的な悪戯をされなかったし、母親からぶたれることもほとんどなかったからね。でも、そしたら何でこんなことになっちゃってるんだろうと思うの。だって比較的良い環境で育ったら、比較的健康な人間ができあがるのが道理じゃない。なのに、こんな毎日毎日遺書の文面を考えるのに時間を当てる人間ができあがってて。それなら私に気を使ってくれてきた人たちの思いはどこにゆくんだろう。私が受け取れなかったら消えていくしかないのかな」
ベッドの中で彼女は言った。俺は彼女の長い髪を指にくるくると巻きつけてはするするとほどき、それを何度も繰り返していた。
「さやはきっと知らずに背負い込みすぎてるんだよ。昔会った人たちは今でも君の中で生き続けているし、これからだって呪いのように消えることはない」
「呪い?」
「うん、何だって呪いさ。好きって言うのだって呪いだよ」
彼女は俺の胸の中で頭の位置を少しずらした。そして傷のついた細い腕を俺の背中の方にまわした。
「でも、大丈夫だよ。私には何も届かないから」そう言って、彼女は腕にぎゅっと力を入れた。
「ねえ、寂しい?」
「うん。好きって言って?」
「好きだよ」
「好きって言ってよ」
「好き」
「ねえ、本当に私のこと好き?」
「うん」
弱々しく彼女は微笑み、俺の指は彼女の首筋に触れた。
誰かに忘れられたように冬は溶けてゆき、あたたかな風がいつしか吹き始めた。俺とさやは二年生になり、出会うことのなかった春に出会い、新たな空気を肺に送り込んでいった。返ってきた成績表を見ると単位はまずまずといったところだった。落ちるべきものは落ちていたし、落ちるべきでないものは落ちていなかった。
彼女の傷も減ってきた。傷の本数が減り、古い傷は春のゆるやかな風に撫でられてかさぶたとなり、そしてゆっくり剥がれ落ちた。
四月が来たと思ったら、大学のあちこちに植えられた桜が花を咲かせ、春の香りを辺りに振り撒いて、そして散っていった。桜の木は花を散らすと、その傷痕から若葉を芽吹かせ、その頃にはもう五月が来ていた。空気には一方的にぬくもりが充満していき、さやの心境も珍しいことにその逆ではなかった。キャンパスで見かける彼女はいつも寄り添う友人たちと平和で色彩豊かな表情で微笑んでいたし、喫茶店のアルバイトも滞りなく続いていた。何もかもがうまくいっていた。「どうにかして」なんて思っていたが、実際そうなってしまえば容易いものだった。要するに、波の尻尾を捕まえることが難しかったのだ。しかしそれさえできたのならば、後は波の流れに身を任せればいいだけであり、それからは案外どうにでもなるものなのだ。
花が落ちれば若芽が現れ、緑を渡る風が吹けばあらゆるものが自らの生命の脈動を感じて喜びを誰かに示そうとした。それらは俺の耳に諸行無常と因果応報の観念を知らせた。世界は実に論理的で整合性の取れた仕組みをしていた。ある者がドアを叩けば、ある者が内側からドアを開いたし、何かが上昇運動を始めれば、何かは下降運動を始めた。気がつくと俺の前には、今までとは何かが違う、ただネジの一本でも欠けたような、料理家が必要のあるのかないのか分からない隠し調味料を入れ損ねたような世界が広がっていた。いつもと変わらずキャンパス内には人が溢れ、コンビニに来る客の大方は無粋で、煙草は不味かった。しかし何かが決定的に異なっていた。俺の知らないうちに、俺以外のあらゆるものが外見はそのままに中身を似ている別のものにすり替えてしまったようだった。俺は誰にともなくある種の気まずさのようなものを感じた。自分がどこにいるべきであるのかさえ、決然とした判断を持てず、今までどうしていたかを思い起こそうとしても、その経験の記憶は既に指先を離れ、俺と似た俺ではない者の身体に入り込んでしまっていた。俺はなんとかして風に流されそうになる心の切れ端をつかもうと、さやの傷のことを思い浮かべようと試みたが、彼女の傷はもう癒えて、あったはずの場所にはなかった。俺の心はそうして少しずつばらばらになっていった。
俺はしたはずのない失敗を後悔するようになり、寝ているうちに描いたはずの未来図を上から鉛筆で塗り潰していった。目を覚ましてから元々の図の状態を思い出そうとしても、それは何かの裏側に回り込んでしまい、存在を確かめることはできても、見たり触ったりすることは最早不可能だった。俺の中には俺が伸ばした手を受け入れてくれる場所はなくなっていた。また、周りの誰かに救いを求めようとしたところで、それらの人間は俺の知っているそれらではなく、外面だけを真似した紛い物でしかなかった。そのようなことから俺は内側にも外側にも声をかけられず、渦巻く感情を理解してもらうよう訴えかけることもできず、どこにともなく空気の中に沈み込んでいくしかなった。もっとも自分と距離の短くなったさやに触れられたら、元いた場所まで俺を引き上げてくれそうな気配は感じたが、俺が今彼女に触れてしまえば、ようやく調子が快方に向かい始めたばかりの彼女を逆にまた底のない泥に連れ戻してしまう予感がして、そう思うともう何もできなかった。
こうなると遠回りではあったがさやの気分も以前よりは身に沁みて分かる気がした。だからと言って今となっては何もできず、俺は彼女のために本当の意味で何かをしてやれていたのだろうかと一層の不安が胃に込み上げてくるだけだった。
俺は物事を順序立てて考え、するべき行動をとろうとした。誰かに不安をぶつけたのではおそらく何も変わらない。さやも含め、誰ひとりとして変わった者はいない。変わってしまったのは俺だけだった。あるいは、全てのものが変わってしまい、変わらずに取り残されたのが俺だけだとも考えられたが、要するに事態は同じことだった。するべき行動、それはつまり環境を変化させることだ。どこにも手を出せない自分すら何かに依存していて、そして依存したものから俺の全ては育まれているのだ。あらゆる欠陥もそこから生まれ、芽を伸ばし成長する。子にとっての親、感情にとっての身体、俺にとってのそれはとりあえず環境だ。俺はそう思った。そう思うしかなかった。
俺は決心をし、手帳を確認して、碌に集中もできない授業群を一週間分放棄することにした。まずは着替えや数冊の本をバッグに詰めて電車に乗った。そして少し考えてから、最寄りから五つほど東に行った見慣れない駅で降りた。
そこは最寄駅同様、覇気のない駅だった。そしてその前には色を失った交差点が待ち構えていて、いくつか灰をまぶしたようなビルたちが立っていた。俺は駅前のバスロータリー前に並んだ水色のベンチに腰掛けて家から持ってきた「イッツ・オンリー・トーク」を読むことにした。他にすることなどなかった。ページを捲るとなんとなくやるせない気分になった。空は鳥籠のように雲で覆われて今にも雨が降り出しそうだった。平日の正午過ぎということもあって、歩く人は少なく、大方は興味もないのに中身のないことを喋りたそうな顔をするくたびれた老人たちで、手を押し車にかけて事あるごとに立ち止まる老婆か、杖を持つことで死ぬまでの時間をより良いものにできると勘違いをした年老いた男かのどちらかだった。ガラスの欠片ほども価値のないものに縋ることを決めた彼らを眺めていると、こちらの気分は余計に沈みそうになった。灰色の空は時間が止まったようで、俺はどうしようもない気分のままにページを繰り、目の前の人たちを眺め、どんよりとした空を見上げ、そしてまた文面に目を落とした。飽きると自販機でコーヒーを買って、見覚えのない場所に定着するバスの時刻表に目を滑らせてみたりした。夜が来ると、コンビニでウィスキーを買って飲み、目の前のカプセルホテルに入り、闇雲な気分でベッドに倒れ込んだ。
次の日の朝にもまだ酒気は微かに頭にこびりついていた。俺は備え付けの簡易な歯ブラシで歯を磨き、下宿先のより狭いユニットバスでシャワーを浴びた。窓からコンクリートで覆われた地上を見下ろすと、既に雨がさらさらと地上に振り落ちていて、いたるところに水たまりが黒く光っていた。俺は午前のちょっとすぎた頃になるとホテルのチェックアウトを済ませ、昨日下りた駅で昨日下りた電車に乗って、また東に向かった。車内は通勤ラッシュも終わったのかがらりと空いていた。雨粒は卵から次々と雛が孵るように一定の速度で空から落下し、静かに窓を打ちつけていた。俺は窓際の席に座って背もたれに身体を任せ、次々と視界の後方に流れていく景色を眺めた。駅で買った週刊誌に適当に目を落とし、頭に入ってこないことを認識し、窓の外を見て、雨の音に耳を澄ませ、クーラーの排出口の位置を確認し、再び週刊誌のエッセイに目を走らせた。雨は計測器の機嫌を気にするかのように、忠実に自らのペースを守って降っていた。そして列車は人々の機嫌を損ねないように、粛々と時間を守って駅に停まっては発車を繰り返していた。俺の気にかけない間もいくつもの駅が通過され、忘れられていった。頭の中では、たださやの顔が浮かんでは消えていった。
そんなことをしているうちに、電車は三時間ほどをかけて十数の駅を通り抜けた挙げ句、先に進むことをやめてしまった。終点に着いたのだ。俺が停止することを余儀なくされてしまっても、雨はまだ降り続いていた。
字面でしか見たことない終点で降りると、そこには字面ですら見たことない駅前の風景が広がっていた。最寄駅や昨日寄った町よりは発展しているようで、その分のんびりした雰囲気はあまり感じられず、誰もが姿勢をしゃんとして前を向き、キビキビ歩いていた。道行く人々の多くはビジネスを人生の第一に考えてるように見えた。スーツを着込んで、常に時計を気にし、次訪ねるお得意先にどのように自らの企画を提案するかで頭がいっぱいになっている人たちだ。彼らは頭の中だけで生きていたが、不思議と改札付近で人とぶつからないように進路をとることには長けていた。あるいはそのことも感覚的にビジネスの一環として捉えているのかもしれなかった。そうではない少数の人たちは、何の取り柄もない人間だった。
駅前のバスロータリーは昨日の駅とは違い、人が絶えず入り乱れ、傘が畳まれては広げられ、濁流のような状態が生まれていたので、俺はとりあえずちっぽけな折り畳み傘を差して、近くの三階建てのマクドナルドに入った。店内の席は半分ほどがスーツ姿の人間とそうでない人間で埋められていた。俺は二階に上がり窓際のカウンター席に腰を下ろした。そしてチーズバーガーを齧り、コカコーラで喉を潤しながら、読みかけの週刊誌に目を通した。店の中にも雨の匂いがところ構わず充満していた。雨は外から店に入ってきた人間から離れて漂いだし、ふわふわと空気中を蹂躙した挙げ句、ありとあらゆるチーズバーガーに侵入した。そして俺はそれを食べた。そうして雨は誰しもの身体にじんわりと浸み込んで、様々な人間の心を冷たくし、無気力にも似た気分にさせた。そんなことを思っているうちに、手元にあった人文系を気取った週刊誌は読み終わってしまった。時計を見ると店に入ってから三十分と経っていなかった。じっくりと読んでいたつもりだったが、分かったことといえば、この雑誌に関係したライターや編集者の全てが、物事を真剣に捉えることの重要性を知っておらず、目についた誰かを責め立てて日頃の鬱憤を晴らすことの楽しさに酔っているという浅ましい事情だけだった。俺はためいきを吐いて、週刊誌をトレーに乗ったチーズバーガーの包装紙なんかと一緒にゴミ箱に捨てた。外は雨でどこかに行くのも億劫に思えたので、俺はまた飲み物と食べ物を注文し、今度は家から持ってきた「憂鬱なハスビーン」を広げた。そして、いつしか眠った。
夢を見た。奇妙な夢だった。
さやがいた。俺の知ってる緒川小夜子だ。腕には包帯が巻かれていた。
彼女はただ微笑んでいた。草原に映えるような白いブラウスとゆるやかな水色のロングスカートを身に纏って、その瞳はこちらを見つめ、時々まばたいた。辺りは昼間でアスファルトに太陽の光が照っていた。さやと俺は団地前の道路にいた。他には誰もいなかった。無音だった。青空を抜ける飛行機の音も自動車のエンジン音もアパートの部屋から流れてくるテレビの音もここにはなかった。
彼女は無音の中で俺を待ち望んでいるように見えた。
俺は一歩、足を前に出した。すると彼女の表情に一筋かげりが走った。
俺は彼女に近づこうともう一歩、前に進んだ。彼女は口元を歪ませ、視線を足元に落とした。俺と彼女の間はあと一歩進めば触れられる距離になった。
さやは視線を落としたままに、口を開いた。しかしその声は無音に掻き消され、俺の耳には届かなかった。
俺はついに最後の一歩の距離を埋めようと、右足を前に出そうとした。
「ニャー」俺の後ろで声がした。初めての聞こえた音に俺は驚き、足を止めて振り返った。そこには白い猫がいた。染み一つない真っ白な猫で、それは俺の視線に気づくと、すぐに石塀を乗り越えて、目の前の家の敷地に入って行ってしまった。同時に俺の耳には堰を切ったように雑音が流れ込んできた。それは生活の音だった。誰かが蛇口をひねって水を飲み、誰かがワイドショーを見て、誰かが家を出て鍵をかけた。そんな音が一気に溢れ出して、俺を取り巻いた。
俺はハッとして、視線を戻した。
さやはまだそこにいた。俺は胸を撫で下ろし、もう一度足を出そうとした。
彼女の腕からスルスルと白い布切れがほどけて、地面に落ちていった。
彼女は俺を見た。俺も彼女を見た。その横をトラックが通った。もう世界は二人のものではなくなっていた。彼女は笑ったが、その瞳は何も映してはいなかった。とても悲しい気分になった。
不意に、雨の音がして夢はそこでぷつりと終わった。
起きると両肩と背中が痛んだ。二時間ほどが経過していた。ハンバーガーのパンがパサパサに乾いていたが、最初からそうなのかもしれない気がした。携帯電話を見るとメールが一件来ていた。さやからだったが、俺には眠気もあって、何が書いてあるのか分からなかった。返信することもなく携帯をポケットにしまった。
夜が来ると、俺は傘を差して、町に出かけた。自動車が法定速度を守って行き交い、その両脇にはビル群が立ち並んでいた。ビルのネオンは雨に反射して、幻想的な光を視界に映しだしていた。そんな中を帰りのサラリーマンやOLたちが急ぎ足で歩いていた。俺は路地裏で見つけた、薄汚れた看板がピカピカ光るホテルに入った。無人フロントを横切り、部屋に着くと電話帳で調べてデリヘルを呼んだ。
女が来たのは一時間後だった。俺は待つ間、シャワーに入り、髭を剃って、それからベッドに腰掛けてバッグに入っていた飲みかけの角瓶を少しずつ口に含みながら文庫本を読んで過ごしていた。
女はなかなかの美人だった。歳は二十一歳と言ったが、そう言われるとそうとしか見えなかった。髪は長く背中に垂れ、服装はそんなに派手ではなかったが胸元の大きく開いた格好をしていた。大学の講義を隣で受けていたとしても全く不自然ではないような気がする女だった。髪は辛うじて茶色だし、化粧も濃いけれど、おそらく店の中でも地味な方なのだろう。
「どうもありがとう。あなたに会えてとても嬉しい」女はまず、そんな感じの定式ばった挨拶をした。それが終わるとこちらを眺めた。「それで今日は?」
俺はもっとそれなりの女性が来たらどうしようかと思っていたが、目の前の女はそれなりの雰囲気を半分ほどしか有していない女性だったので(もう半分は落ち着いた雰囲気だ)、なんとか思っていたことを口に出すことができた。
「君には悪いけど、一緒に寝てくれないかな」
それを訊くと彼女は立ったまま不思議そうな顔をした。背は高くなかったが細身で、小柄な女性だった。
「もちろん、一緒に寝てもいいよ。けど、うちのルールで本番は駄目なの。それでいいかな?」
「うん。というより、つまり何もしなくていいんだ。一緒に横で寝てくれるだけでいい。服も脱がなくていいからさ」
彼女は俺の横に腰を下ろすと、片足をぶらつかせてこっちを見た。
「それって、本当に言ってるの?」
「そうだね」俺は答えた。
少し唖然とした顔を見せてから、彼女はにっこりと笑った。
「あなたがいいなら、もちろん私はいいよ」
「名前を訊いてもいい?」
「私はミカ」彼女は俺の服の裾を手で弄びながら言った。
「ミカ」
「そう」彼女は笑って頷いた。
灯りを枕元の電気スタンドだけにして、俺は布団の中に身を潜り込ませた。そばにはミカが身を寄り添わせていた。俺はどちらでもよかったが、彼女は下着姿になっていて、背中に手を回すと彼女の体内の器官が正常に働いていることが手に取るように分かった。
ミカの身体は細く、しなやかだった。どこに触れても骨の感触がした。彼女を抱きしめると、干上がった地表のような心のひびに濃密な液体が浸み込んでくるようだった。雨が更に強さを増しているのが、薄い窓を通して分かった。そこから逃げるように俺はミカの髪を撫でた。
「本当に何もしなくていいの?」彼女は俺の腕の中で不安そうに訊ねた。
「したいの?」
「いや、そうじゃないけど。こんなお客、初めてだからさ」
「しなくていいよ。したくない気分なんだ」
「ふうん」そう言いながら、ミカは太腿を俺の膝の上に乗せ、俺の胸に頬をつけた。「変なの」
そんな声を聞きながら、俺は息を吐いて、ざらざらした天井の表面を眺めた。そこには何の記号も表象もなかった。
「なんで私を呼んだの?」
「うーん。そういう時ってないかな」
「私はホテルに泊まって女性を呼んだ経験ないから分からないね」
「そっか、それは残念だ。つまりさ……」俺は眠くなりかけた頭を使って、今の心境をうまく伝えようと苦心した。
「つまり、何もしたくない気分だったんだよ。でも何もしないのも許されない気がしてさ」
「許されない?」彼女は顔を伏せたまま訊いた。
「うん、なんとなくね。ミカはどうしようもない感じって分からない?」
彼女は随分考えてから、口を開いた。口が開かれるまで俺は雨の音と時計の音を聞いた。
「私は怪獣って好きだよ」
「怪獣?」俺は少々面食らって訊ねた。
「そう、怪獣がやってきて街を踏み潰して、壊していくの」
彼女は職業柄に似合わず、考える仕草が妙に似合っていた。
「壊して、それでどうするの?」
「どうもしないけど。でも、君の思ってること、ちょっと分かる気がする。私もね、なんだか分からないけど、このままでも嫌って気になったりするの。そんな時って私は心の中で怪獣が来るのを待ってるんだなあって思うの。ゴジラとかウルトラマンみたいな怪獣がさ、やってきて、私が育ってきた小学校とか商店街とか潰して回って何もなかったことにするの。こんなの俺らの前では無力だぞって叫びながら壊していくの。だってそれってとっても気持ちのいいことじゃない?」
「ウルトラマンは怪獣じゃないよ」俺は笑った。
「どっちだって同じよ。そんなの」彼女は顔を上げて、俺の目を見て笑った。
そうして俺らは二人で眠った。
朝になると、ミカはいなくなっていた。机の上には紙切れがあって、女の子っぽい丸文字で「財布からお金はもらいました。あなたみたいな人、初めてだったから少し驚いたけど、気持ちよく眠っちゃった。ちょっとは割り引いてあげたからまた誘ってよね」なんて書かれていた。その下にはメールアドレスが綴られていたが、俺はそれにマッチで火を点け、灰皿の中で燃やして、ホテルを出た。雨は上がっていた。
俺は財布を広げ残りの金銭を確認し、駅に戻って実家がある埼玉への切符を手配してもらった。ミカはほんの少しのお金しか持っていってなかった。
その駅から東京までは新幹線で二駅ほどだったので意外と早く着きそうだった。鈍行でも行けるには行けるのだが、東京から実家の近くまでが結構遠いし、疲れもたまってきていたので新幹線に乗った。
東京までは早かった。席に座ると頭はすぐにうとうとしだした。けれど頭の一部分は醒めていて驚くほどに冷え切っていた。あらゆる音楽が不快に聞こえそうで、イヤホンも耳から外していた。はっきり何かを思うことはなかったが、俺はおぼろげにミカのことを思い出していた。疲れや恨みや悲しさみたいな黒々とした感情が頭の半分ほどを支配し、もう半分は彼女の輪郭や肌に触れた感覚や声の抑揚なんかが支配していた。しかしそれもじきに眠気に覆われて、気がつくと車内アナウンスは終点東京を知らせていた。
新幹線と違い、東京からの各駅停車は人で混んでいた。俺は延々と吊革につかまり、窓の外の雲の様子を眺めて時を過ごした。灰色の雲はなく、五月にふさわしい明るい白雲が細く棚引いていた。その隙間からはしっかりと太陽が顔を見せ、地上を光で洗い流していた。俺はふと昨日届いたさやからのメールを思い出し、携帯を見た。そこには「最近見かけないけれど、大丈夫? 何かあるのなら私にも言ってよ。嫌なことは二人で分ければ、それだけで半分は消えるんだから」と書いてあった。
嬉しい内容だとは思ったが、感情は心の内側に沁み出してくることはなかった。なぜなら俺はおいそれとそれを肯定することはできなかったからだ。俺はさやに助けてもらうことはできないのだ。さやを巻き込むわけにはいかない。陥ってしまったのは俺の責任であり、これが関係するところ全て俺の問題なのだ。心には最早希望の入る余地はなかった。そう思うと、昨日まで降ってた雨の音が鼓膜のそばで鳴った気がした。
京浜東北線を走る電車は上野を越え、王子を越えて、北上を続けた。窓の外は見慣れない風景が続いていたが、赤羽を過ぎて東京を抜けた辺りからどこかしら馴染みのあるような景色に変わっていった。
南浦和で乗り換えて東川口駅に着くと、時間は午後四時の少し前だった。駅前は買い物袋を提げた主婦や帰りがけの学生たちが若干いるくらいでほとんど閑散としていた。バスロータリーに上がるまでの幅の広い階段ではハトが数羽、あたたかい地面をついばんでいた。俺はとりあえずコンビニで煙草を買い、すぐ近くのモスバーガーに入った。席に座って、アップルパイを食べ、アイスコーヒーを飲むとようやく帰ってきたという実感が湧いてきた。きわだったものがなにもなく、家だけが多い空っぽで満たされた平和な土地だ。そして俺の居場所があった場所。
俺は煙草を吸いながら、これからどうするべきかを考えた。ここまできたら実家に帰るしか方法はないような気がしたが、それが答えではないような気もした。答えとは何なのだろう。どうすることがこの場合、正解だというのだろうか。俺は考えられる全ての手段を模索したが、どれもこれといった手応えはなかった。そこで俺は環境を変化させて、これまで得たもののことを考えた。
煙が漂って、天井の隅についた送風機から出てきた空気に押し流されて、どこかに吸い込まれていった。俺は空気の川の真ん中にいて、いつしか仕組みの一部になっていたことを知った。しかしそれも悪い気はしなかった。仕組みの一部となることは、役割が決められ、責任が与えられているということで、俺には誰かのために何かをする権利を持っていることになるからだ。グラスで水を飲むと、結露した水滴がテーブルの上に落ちた。俺は決心をして店を出た。店から出ると、もう俺は空気の川の流れの中にはいなかった。どこの中にも俺はいなかった。
俺は西川口まで戻り、その夜も風俗の女とベッドで寝た。
しかしミカのようにすんなりとはいかなかった。俺は女に身体を求めたし、女もそれに応えようとしたからだ。女は業務内容に沿って、お世辞を言い、舌を突っ込んだ口づけを交わし、フェラをして、背を向けバックで俺を中へといざなった。それらは自然さをもってある段階から次の段階へ移りゆくことが理想とされたが、残念なことにそれらは全く関係ないものとして一つずつ別々に裁断されてしまい、二人の間の空間も終始ぎこちないものとなった。一連の作業工程が終わると、俺らは余すところなく疲れていた。それはまるで小学校の遠足のようだった。与えられたことをこなして、その分の喜びを享受することが求められていた。俺はそれを辛うじて達成しようと、隣で背を向けて横たわる女の髪を撫でた。報酬としての喜びを得ようと、藁にも縋る思いだったのだ。雨の音が聞こえてるわけではなかったし、ちゃんとしていればちゃんとなるはずだった。しかし俺が女の背に腕をかぶせて近づくと、女の手元で何かが不自然に光っているのが見えた。それは携帯電話の光だった。女は俺の知らないところで、携帯電話を弄っていたのだった。俺はそっと手を引っ込め、諦めて仰向けになって天井を眺めた。身体の芯が急速に冷えていくのを感じた。俺は持っていた角瓶の残りを一気に呷り、無理やりに眠ろうとした。女は俺よりも先に寝息をたてていた。
次の日の朝、俺は目が覚めるとすぐに身支度をして、女に金を払い、ホテルを出て実家に向かった。
東川口駅に着くと、結局最後まで女の名前も知らなかったし、もう既にさっき別れたのが、どんな女だったのかも分からなくなっていることに気づいた。しかしそんなことは考えてみれば当たり前のことだった。役割を全うしたとしても、それが必ず本質的に重要だとは限らないのだ。
四十分ほど駅から歩くと、記憶よりも上から薄い膜を一つ被せた感じに、くすんだ白い外壁に覆われた二階建ての一軒家に到着した。玄関を開けて入ると、母親が働きに出ようと荷物の準備をしていた。見たところ、父は朝早く仕事に向かい、妹は高校に行った後だと思われた。母は俺の姿を見ると驚いた顔をした。しかし別にこれといって言うべきことがあるわけでもないらしく、すぐに車に乗って浦和にある仕事場へと出かけてしまった。
残された家はしんとしていて、知らない匂いがそこら中にさまよっていた。匂いは洗面所にあったかと思うと、リビングにあり、玄関にあり、キッチンにその存在を表した。それはおそらく俺がいつか感じていた匂いだった。俺は落ち着かないので、荷物を家に置いて散歩に出かけることにした。
俺は南に向かって歩いたが、どこに向かってもあるのはうんざりするような住宅の群れとそれらの隙間隙間にある申し訳程度の木々だけだった。団地こそないものの、ところ狭しと一軒家が立ち並び、飽きた頃にはアパートが影をつくって立ち、その隣からはまた一軒家の群れが地表を覆っていた。それらはやはり屋根の色や玄関の位置や車庫スペースの大きさなどで個性を主張しようとしていたが、どこからどうみてもそれらは同類の域を出ていなかった。そうしてみれば、中に住む人間もここらの地域一帯のスラングでしか話せない種族であろうと思われた。しかし、それは高校を卒業するまでの俺には見慣れたものであるはずだった。俺は確かにこの自然も碌にない住宅だらけのベッドタウンで生まれ、育ってきたはずだったのだ。ただ、今自分をここに順応させることは俺の中に好まれざる二律背反を生み出した。つまり今はまだこの土地の空気に俺の肌が馴染めていないということは俺にも分かったが、だからといってこんなつまらない環境に意識の居場所が移ったからといって何かが改善するとは思えず、むしろそうであれば以前の山の見える町にいた方がいいような気がするのだった。
俺は気持ちを抑えようと、歩きながら大きく息を肺に取り込んで、ゆっくりと吐いた。それは紛れもなく陽気な五月の、それも平日の空気だった。近くの小学校から子供の声が聞こえてきていた。
思えば下宿していた町を出て実に丸三日が終わり、四日目が始まっていた。当初の一週間の計画からいえば、今日は折り返し地点となる。しかし振り出しに戻りたくなっている俺が、あと三日で革新的なことが為せるとはあまり思えなかった。
思っていた通り、実家に来てから無意味に二日が過ぎていった。その間、俺が分かったことといえば、栄養バランスのとれた食事をとっても空腹が紛れるだけで満足感は得られないことや、糸電話をするために相手に紙コップを耳にあてがうことを求める感じで、常時自分以外のなにものかにコミュニケーションの一端を担わせようと試みていなければ気が済まない人間がいることや、俺が家を出るまでは何の不満も不安もないようにユラユラ佇んでいた玄関先の金魚が一年前に死んだことくらいだった。元々一匹しか入ってなかった水槽はいまだ玄関先に置かれていた。水槽には乾いた砂利が敷き詰められ、ぶくぶくがあり、壁との間にはそよいでいる藻や光に透き通る水の中の様子がプリントされた厚紙が挟み込まれていた。そこには金魚と水だけがなかった。玄関の靴箱の上の一画には、かつて日常を忘却させるなごみの空間が存在していたが、今となっては極めて人為的な空間が吐き捨てられたように現れているだけだった。しかしこちらの方が充分すぎるほどに辺りのものと調和している気もした。外に開く扉があり、三和土には靴が無造作に放られ、プラスチック製のオレンジ色の靴ベラがあり、水と金魚のない水槽があった。それはすこぶる自然な風景だった。俺は金魚の名前がサリーだったことを思い出した。サリーがいたことを思わせるものはもうどこにもなかった。失われたものは金魚であって、サリーではなかった。俺は静かに目を瞑った。
俺は昼夜を問わず散歩に出かけた。日中の間はそのくらいしかすることはなかったし、夜はどこかに出かけたい気分になった。
夕方の五時頃に、俺は家から歩いて十五分ほどのスーパーマーケットに来ていた。全ては気分転換のためにあった。そもそもこちらに来たのが気分転換のためなのだから、こちらで行なう全てが気分転換以外のものになるはずはなかった。しかしそれは路地裏のマンホールが終日陽の目を見ないように、叶うことはなかった。
俺はスーパーマーケットで発泡酒を一本買い、中に併設されたベーカリーでレモン風味のパンを一つ買った。外に出ると、通りを挟んだところにある寂れた感じの自動車修理工場の上から、夕暮れの眩い日が射し込んできていた。前に広がる店舗の敷地の一.五倍はあろう駐車場は全体が薄い橙色に照らされ、極めて平面的に浮かび上がっていた。
俺は駐車場を抜けて店の横の道路を歩いて、アスファルトで覆われた前方後円墳のような形をした公園に向かった。
その場所はかつて貯水池として使われていたところで、道路より低い位置にあり、窪んだ構造になっている。しかしずっと昔に廃貯水池になってからは公園として利用され、北側にある円の部分は噴水が置かれ、人工的なちょっとした川も作られていた。俺が子供の頃に遊んだのもその状態になってからだ。俺は階段を下りてアスファルトを囲む斜面の芝生で、夕陽が沈むと空の明るさも遮られ、俺はスポットライトの外にいる形になった。公園の真ん中は、雲があまりない藍色の空と要所要所に立つ薄汚れた電灯とではっきりとして見えた。発泡酒を飲んでレモンパンを齧ると、口の中にはレモンの風味と夜の空気が入り混じって溶けあった。食べ終わると俺はパンの包装紙をわきに置き、喉にアルコールを押し流しながら、目の前の景色をじっと見つめた。スポットライトのように照らされたアスファルトがあり、その向こうには雑草が蔓延った中から突き出た噴水が見えた。その左には住宅が広がり、右には木々の隙間から墓場が見えた。だからどうした、といわんばかりの風景だった。ここには祠の一つすらなかった。きっと祀るべき祈りを思いつかなかったのだろう。俺はなんとなく下宿の近くにあった小さな神社を思い浮かべた。山の麓にある神社で、確か稲作を願うクシナダヒメノミコトだかウカノミタマノカミだかを祀っていた。その神社の前には石でできた白い鳥居が立てられていた。そして次にサリーのことを思い出した。
手元の携帯を見るとまたメールが来ていた。ここ数日は、一日に二通は同じようなメールが届いていた。送り主は総じて緒川小夜子だった。
俺は一度もそれに返信してはいなかった。したところで良い方向に物事が進むとはどうしても思えなかったからだ。そんな意地を張りながらとうとう家を出て七日目になってしまった。俺はそっと携帯電話をポケットに戻した。そして煙草に火を点けた。
しばらくすると向こうの噴水の辺りに人影が見えた。雑草を踏み歩く、カサカサという音もした。どうやら箒で地面に葉や枝やゴミを集めているようだった。奥の階段の下にはゴミ袋らしきものも見えた。その人物は手際よくゴミを集め、袋に詰め、それを持って少しずつ移動していた。スポットライトに近づくにつれてそれはまるで端の暗幕から劇中の壇上に飛び出していく劇役者を思わせた。彼は五十歳くらいの年老いた男で、短髪の白髪がライトに照らされて透けていた。窪んだ貯水池には彼と自分の二人しか動くものがいなかったが、どうにもそれは白々しく嘘っぽく思えた。次第に俺と彼の距離は縮まっていき、くっきりと彼の姿が確認できるようになった。
彼がすぐ近くを掃除し始めると、俺は立ち上がって彼に煙草を勧めた。彼は動きを止めて驚いた表情をしたが、すぐに皺を寄せて「ありがとう」と微笑んだ。俺らはコンクリートの段差に並んで腰かけた。
「いつも掃除しているんですか?」俺は訊ねた。
「うん、まあね」
俺らは黙って煙草を吸った。暗闇に白い煙が二本貫こうとして消えた。
「週に四日は掃除してる」彼は付け足した。「この頃はまだいいが、秋の頃には骨の折れる作業になる」
「誰かに頼まれてるのですか?」
「いいや」彼は足元の小石を蹴った。
「好きでやってるんだ。いわば慈善事業だよ」
「慈善? 週の半分以上も大変じゃないですか?」
「いやあ、好きでやってるからね、慣れたもんだよ。趣味みたいなものかな」
俺は人生とは進むにつれて、かつてでたらめに広げた手をだんだんと仕舞い込み、収斂していくものなのかと考えてみた。彼は続けた。
「もう妻もいなくなったからね。生きていくためには生きがいを見つけていった方が、生きやすいんだ」
いないというのはまさか逃げられたわけでもないのだろう。
「映画と同じですね」
「映画?」彼はこちらを見た。瞳の下の目袋に影ができてくっきりと映えていた。
「そう。……つまり、どんな映画もただ主人公の人生を綴るだけでは映画にならないってことです。目的があって、それに伴った脚色があって、それで初めて映画になるんです」
それを聞くと、彼は目を伏せて軽く笑った。それには年老いた者特有の情緒があり、雨に打たれるアザミが何もかもを許すような、あるいは何もかもを手放すような響きを持っていた。
彼は言った。
「個々人の人生がそんな仰々しいものだとは思わないけれど、そういうものなのかもしれないね。人は自分の人生にどんなものであっても意味を持たせなければ、やっていけないのかもしれない」
俺は持っていた煙草がフィルターまで燃え尽きたことに気づいて、地面に捨てて一応靴で踏んだ。
「自分に意味を持たせるということに必死になる人生があるとしたら、それはきっと本末転倒なんでしょうね」
「全くだね」
そして彼は煙を吐いた。
俺はためいきを吐いた。
俺は自室で窓を開けて机の上に灰皿を置き、煙草を吸っていた。
青い月光がベッドの上や机やそこら中に降り注いでいた。
俺はラジカセに手近にあったCDを適当に入れて再生した。高校時代によく聴いたポップソングが暗い部屋に流れ出した。それらは暗いことがあっても明るく振る舞うことの大切さを軽やかに歌い上げていた。気丈で、健気なリリックとメロディーだった。しかし最早俺にはそれらの真っすぐさは病的に映り、物事を選び取ることを正当化する暴力性を窺わせた。灰皿に預けた煙草からは紫煙がゆらゆらと心もとなく立ち上り、部屋の中を行ったり来たりした。
時計の針は十二時を指していた。
メロディーは流れ続けていた。夜が肺の中に流れ込んで、心の芯を独特の色に染め上げていくのを感じた。このままではいけないと思った。何もかもがいけないと思った。
――こんなことではいけない。
俺は灰皿をつかんで窓の外に乗り出し、二階から灰をばら撒いた。そしてポップソングが流れる自室を後にして階段を下りて、玄関から外に出た。
そこには俺の古びた自転車と家族の自転車があった。いつも二台ある車は、父が仕事のために遠出しているために一台しか止まっていなかった。俺は自室から持ってきた、五冊のハードカバーの本をその空いたスペースに投げた。そしてしゃがんで、その小説のページ一枚一枚を破った。それはなかなか手のかかる作業で初めの方は一枚ずつしっかりと破っていたが、後半に差し掛かってくると二枚か三枚をまとめてビリビリと破り捨てた。破ったものはできるだけくしゃっと潰して丸みを帯びるようにした。十分くらいかかると、ようやく全てのページが厚い表紙から切り離され、散り散りになった。五冊全てを破っても思ったほどの紙の山にはならなかった。
電灯が近くにあったが、その光の下でも書いてある文字列は判別不可能だった。実に辺りは静かだった。近くの家々からは死んだような沈黙しか感じられなかった。誰もが無理にでも寝静ろうとしているようだった。たまに遠くの通りに車が走る音が聞こえるくらいだった。
俺はそのゴミとなった本の残骸をしばらく眺めた。そして玄関先の小さな庭にあったアジサイやら枝垂れ桜から落ちた葉や枝を集めてそこに付け加えた。数が乏しかったのでまだ生えているのもいくらか千切った。そうしてみると、それは公園の砂山のくらいのちょっとしたふくらみになった。そしてアジサイの葉にライターで火を点けて、そこに落とした。
火は鮮やかに燃え上がった。紙や葉は踊るようにメラメラと身をよじって燃え、枝はパチパチと音を立てた。それには静かな夜に初めて光が灯るような趣きがあった。俺は腰を屈めて、その様子をじっと見つめていた。燃えろ、燃えてしまえ、と俺は思った。どんなにつまらないものでも燃えだしてから消えるまでの短い間は意味を持っていられる。だから全ては焼却されるべきなのだ。命だってどうせ儚く、夢だって気づいた時には消えているものだ。そうであれば、あらゆるものは早々にその干からびた身体の切れ端に見ず知らずの人から黒い火を点けてもらうべきなのだ。そして自分も知らぬうちに火は広がり、背を振り返ったらもう取り返しのつかないことになっている。彼にできるのはそこでただ叫びを上げることだけなのだ。誰にも届かない醜い叫びでも、すぐに途切れる叫びでも、そのためだけにあらゆるものは存在している。それは、とても常識的なことだが、それは、とても、くだらないことだ。俺は拳を強く握った。
火が青く、赤く、燃えていくにつれ、初めは怒りや憎しみだったものが、じきにその色を失っていくのを感じた。まるで炎は俺の感情を俺の代わりに表してくれているようだった。それは今まで身体のどこかが塞き止め、外に出ることを拒んでいた感情の波を、はっきりと現実に示してくれているようだった。じっと見ていると、逆説的かもしれないが、触発されたように俺の胸の内の感情が溢れ出してくるのを感じた。急に喉がキュッと絞められ、涙が零れてぼたぼたと地面に落ちた。俺は悲しいのか、寂しいのかも分からなかったが、ただ出てくる感情の勢いに身を任せて泣いた。久しぶりの涙だった。いつ以来かも分からなかった。涙は途切れることなく次から次へと出てきた。視界が滲むと、炎のきらめきが余計に眩しく網膜に映った。すぐに鼻水が喉に引っかかり始め、息を噛み殺すような嗚咽も止まらなくなった。俺は無理してそれらを抑えずに、燃え上がる炎と一緒に泣いた。ぼやけた視界に、今までの色々なことが次々と浮かび上がっては霞んでいった。過去に感じた、様々な感情も一緒にフラッシュバックした。それらは取りとめのない小さなことがらで、普段であれば目を瞑るような些細なものごとたちだった。かつて胸の中に秘めていたそれらが、いつしか時間が経つにつれて積み重なり、様々な色合いを帯びていっていたことを俺は知った。それらは今や純度の高い罪悪感や痛みや切なさに姿を変え、行き場のない嘆きに成長し、俺の心を内側から侵していっていたのだ。そしてそれらが俺のことを叩きのめし、袋小路に追い込んで、言葉も発せないほどにぐずぐずにしてしまったのだ。サリーだって死んだのは俺の所為だった! 何もかもが俺の所為だったんだ! 悪いことは全て。うまくいかないことは全部が全部、俺の所為だった――。夜の空気に俺はそれを吐きだした。胸のつっかえといったものを全て外に出してしまいたかった。地面に敷かれたタイルに勢いよく右の拳をぶつけた。痛かったけれど何度も殴った。すりむいた手の甲で涙が滑り落ちた。大きな声を上げたかったが、喉はスースーと空気を通すだけで、うまくはいかず不器用な嗚咽となって漏れ出した。俺は子供のように、しばらく混濁した感情をそのまま辺りに撒き散らした。
夜は夜で、淡々と深まりを見せていた。肌を包む空気が、層一枚剥がれ落ちた感じがした。しかしどのくらい時間が経ったのかは見当もつかなかった。つく必要もなかった。
次第に俺は泣き疲れ、近くのブロックに腰を下ろした。その頃には炎はとっくに燃え尽きていた。あとには黒い灰と枝の燃えカスだけがみじめな形で残っているだけだった。まだ涙は時折目の縁から溢れ落ちていたが、俺は気分が落ち着いてきたのを感じ、ポケットから煙草を取り出して吸った。煙は喉にしみて、痛みを伴った。上を見上げると流れゆく細雲といくつかの星がそこにあった。
俺は煙草を二本吸い終わると、胸が空っぽになった思いがした。あらゆる感情は色褪せ、憂鬱ですら消え失せていた。本来であれば、今のを試しにして次に庭を燃やし、家にも火を点けようかとも予定していたが、そんなことをする気もどこかに去ってしまっていた。
ぼんやりと燃えた跡を眺め、沈殿した空気を吸い込んで三本目の煙草に火を点けようと思って、ポケットに手を入れると携帯電話が震えていることに気がついた。
着信が来ていた。液晶には見知らぬ番号が映し出されていた。
耳に当てると、相手はそっと話しかけてきた。少なくとも刺々しい印象は一切しない、素直さを持った声だった。
「土谷シンヤさんの携帯ですか?」
「……はい」
返事をすると、まだ喉が震えた。
「藻香です、吉野藻香」
「もか?」
「うん、そうだよ」
相手はほっとしたようで、息がこちらにも伝わった。
俺は予期しない相手に少し驚いた。しかし考えてみれば、こんな夜半に電話をかけてくる者などはかなり限られているのだった。
もかは俺の大学がある県にこの春引っ越してそろそろ落ち着いてきたから、近くにいるならそのうち会おうと言ってきた。
「今どこにいるの?」彼女は訊ねた。その声は二年前の記憶のままの調子で俺を安心させた。
「今? 今は……ちょっとうちからは離れているかな」
「そうなんだ。シンヤ、最近もうまくやってる?」
「何を?」
「色々なことだよ。周りのこととか自分のこととか」
俺は喉元に込み上げてくる感情を押しとどめて、言った。
「やってるよ。うまいこと、全部やってる」
「そう。それならよかった」
相変わらず無邪気な声でもかは電話を切った。
俺は辺りを眺め、吸い殻を道路側の排水溝に落とし、次の日には荷物をまとめて下宿に帰った。
もかと取りとめのないメールをした。それは日常にありふれた些細なことではあったが、もかと話すとそれらはまるで違ったもののように見えた。ある時は穏やかな色のベールを被せた柔らかなものになり、ある時にはパステルカラーの心を動かすものになった。そうしていると、今にも空から真っ白な羽がふわりふわりと落ちてくるような錯覚にとらわれた。
二週間ほどメールを交わす日々が続いた後、俺は彼女の下宿先を訪ねた。そこは俺の下宿の最寄りである緑横山駅から二駅先の新台駅からバスで二十分のところにあった。彼女が住むのは町の中心地からは少し外れた静かな住宅地の中にある二階建てのアパートだった。
部屋はベッドが置かれた七畳の他には、キッチンとユニットバスと通りに面した小さなベランダがついていて、さっぱりとした雰囲気だった。家具や小物は壁紙に合わせた白を基調としたものになっていて、その中に淡い緑や薄いブラウンといった爽やかな色使いが佇んでいた。それは休日のピクニックの休憩地点にはもってこいの空間のように思えた。
「シンプルな部屋だね」と俺はなるべく良いふうに聞こえるように言った。
彼女はベッドわきに座って机に肘をついた。俺はその対面に腰を下ろした。
「あんまりゴチャゴチャしないようにはしてるかな」
俺はもかの出してくれたティーバッグのレモンティーを飲んだ。窓にかかるレールカーテンを通して陽光が部屋の中に広がっていた。ここではあらゆるものがその角を落とし、丸みを帯びたようになっている気がした。
「もかはこっちに来てうまくやれてる?」俺は訊ねた。
彼女はぼんやりと宙を眺めてから、口を開いた。
「うん。大丈夫だと思うよ。何かをうまくやることは捉え方によれば、あんまり難しいことじゃないから」
「捉え方?」
彼女は机に置いた右手の指先に左手の指先を重ねて、擦り合わせた。
「何かをうまくやってるかを判断するのは、両の手で水を掬ってるのを見るようなものだよ。いくらたくさん掬っても、それは光り方の加減によってどうとでもとれるし。効率的な問題じゃなくて、要は気持ちの問題なんだよ」
全く彼女の言う通りだった。彼女は時にビリヤードで球の芯を打つように正確なことを言った。
俺らは二人で彼女が冷蔵庫から取り出したカップのヨーグルトを食べた。食べ終わって、俺が小物類が入った茶色の編み込みのバスケットやらデザイン学校の教科書類やらが詰め込まれたスチールラックを見ていると、思いがけないものを見つけた。それはガラス製でできた円形の黒い灰皿だった。丁寧に拭われていたが、中心には灰のこびりついたあとが薄く残り、指で触るとざらりとした。
「これ、彼氏のとか?」
俺の言葉の意味に気づくと、彼女は言った。
「ああ、それ? うん、最近吸い始めてみた」
「誰が?」
「私が」
俺は彼女のイメージと煙草がどうにも結びつかなかったので、驚いた。彼女は明るく振る舞うけれど、自分の中に骨のある哲学を持っているような人間だった。少しして、俺は却ってその哲学のようなものが彼女に煙草を吸わせたのだろうと思い直した。そうであったのならば仕方がない。責任があるとすれば、それは彼女にではなく、彼女の周りにある無力なものたちの中にあるからだ。
「ふむ」と俺は言った。「煙草は身体に良くないと聞いたことがある」
彼女は軽く笑みをつくって言った。
「でも、うまくやるってそういうことだよ。内側から見て最適だと思えることでも、外側からだとむしろ悪くなってるように見えることもある。そうは思わない?」
どうやら彼女は俺の知らない間に、随分と自分の中にある哲学を持っているだけではなく、外の世界に向けて表せるようになったみたいだった。気軽な身のこなしや甘い物事が好きそうな見た目の中で、それは光を放っていた。
俺は「そうだね」と頷いた。
俺は少し勘違いをしていた。うまくいっていると思っていたのだ。何もかもが見事に苦痛の重みに耐えきり終わって、次に来るのは重力からも解放された幸福を祝う羽を生やした何ものかだと、俺は信じて疑わなかったのだ。なぜなら世界は論理的で整合性の取れた仕組みをしているし、何かの下降運動が終われば、何かの上昇運動が始まると相場が決まっているからだ。それ自体は確かに間違ってはいなかった。しかし俺は甘かったのだ。他の可能性を全く考えられていなかった。誰かが笑えば誰かが泣くのだ。
俺はそのことを同じ専攻で唯一いくらか交流のあった蔵畑という男の電話で知った。それは土曜日の昼過ぎだった。
「おい、お前、もう見舞いには行ったのか」
それが久し振りの彼の第一声だった。俺には当たり前のように何のことかは分からなかった。
「どういうこと?」俺は訊き返した。彼から伝わる緊迫感でこちらも声が上ずってしまう。
「昨日、友達から聞いたんだけど、病院に運ばれたそうじゃねえか」
「だから、何がだよ」
蔵畑はそんな返答は思いもよらなかったというふうに息を飲んだ。
「だから、緒川さんだよ。お前、彼女と仲良かっただろ?」
頭が一気に混乱し始めた。
「緒川? 緒川小夜子がどうしたって?」
「だから」彼はそこで一息ついた。「運ばれたらしいぞ。昨日の晩、いや一昨日の晩か。なんだか大変なことになってるって……。ていうかお前、本当に知らなかったのかよ。まだ行ってないなら早く行け、と言うつもりだったんだが――」
手の力が抜けて電話を落としそうになった。ざわめく嫌な予感が一気に身体中を駆け巡っていた。少し頭の端が痛んだ。
俺はとりあえず電話を切り、彼から聞いた病院の名前をインターネットで場所を調べ、髭も剃らずに家を飛び出した。外は細かな雨が降っていたが、そんなことはどうでもよかった。緒川小夜子。さや。さや! 俺は自分のことしか考えていなかった。脳の隅々にまでさやのイメージが広がって、いつかの首筋の匂いが鼻腔の奥をついた。俺はバスに乗って、一回の乗り継ぎを挟んで、病院に向かった。一分一秒が本来の自分の役割を忘れ、遅れ気味になっているようだった。雨粒の一つがバスの窓ガラスにぶつかってから窓枠の下に落ちるまでが、とてつもなく長く感じられた。
指定された病院は市の総合病院で規模もそれなりに大きかった。俺が病院に着く頃には、雨はさらに強まりを見せ、あらゆる建物や人々を灰色に覆い隠していた。俺は肩口を濡らしながら自動ドアに駆け込んだ。受付で訊くと、さやはどうやら裏側にある別棟に入るようだった。別棟ということは彼女はすっかり入院患者だということだった。俺はさやの長い髪を思い浮かべ、頬に触れた時の感覚を思い浮かべた。そして彼女の伏し目がちに微笑む切ない仕草。
俺は受付で言われた通り、二階に上がって別棟へと続く廊下を渡った。そして突き当たりを右に曲がり、空調なんかのための重いガラス扉を開け、C列の部屋番号が並ぶエリアに入った。しかしそこは普通の入院患者が過ごすエリアではなかった。右手には緊急処置室が置かれ、左手にはナースステーションがあり、急に症状が悪化した時にすぐに対応がとれるようになっていた。緒川と書かれたプレートの下がった個室はC‐5だった。隣の部屋はC‐3とC‐6であり4はなかった。ささやかな心使いだった。
とにかく俺はノックを二回してから、横引きの扉を開けて中へと踏み込んだ。
病室の中には三人の人間がいて、その内の二人は反射的に振り返って俺を見た。こちらをみないのはさやだけだった。俺はベッド横に立っていた医師と看護婦に軽く挨拶し、自分の身の上を簡単に説明した。するとひっそりとした目をした彼らは、意外にもすぐに俺のことを認めてくれた。
さやはカーテンの退けられたベッドに仰向けに横たわっていた。右腕には管が取り付けられ、すぐ横の点滴スタンドに繋げられていた。また口には透明なゴム製のマスクが取り付けられ、そこから出た管はベッドわきの医師の手元に置かれた箱状の装置に伸びていた。その箱状の装置は薬品なんかを乗せるような可動式のスチール棚に据えられていた。
「大分、落ち着いたよ」医師は静かに俺に言った。看護婦は集中して装置のダイアルを弄っていた。
「どうなってるんですか、一体」
「出血多量で、脳の機能が麻痺するところだったんだ。呼吸器官もかなり弱っていた。昨日は大変だったよ。でももう大丈夫だろう」
俺は黙って、さやの顔を見た。それはよく見れば、頬骨が浮き上がり記憶よりも幾分やつれて見えた。長い髪はつやを失い、ぱさついて茶色っぽくなり、端には枝毛が目立っていた。彼はさやの額に手を当て、一度深く頷いた。そして自らの手を揉み、少し躊躇したような間をおいてから、口を開いた。
「手首を剃刀で切って自殺するつもりだったらしい。腕にもいくつか試し傷のようなものがついていた。傷口もうまい具合に開いていて見つかるのがもう少し遅かったら完全にアウトだった。幸運にもそれが大学のトイレだったから、たまたま入ってきた女子がタイルに流れる血に気づいてぐったりしているのを発見されたらしいけどね」
「自殺未遂ってことですか」
「おそらくは、ね」
そして彼は俺の方を向いて、目を細めた。顔の皺が彼のこれまでの疲労感を強調させていた。
「君があまり重く受け止める必要はない。何事も重く考えればいいというものではないんだ。でも君は聞くところによると、彼女と決して遠くない距離にいるようだから言っておくが、彼女が何かを知らせようとしている時は、しっかりと耳を傾けてあげることが大切なんだ。何も人生相談を毎日受けるとかじゃなく、あくまで軽い意味でね。それこそ挨拶だってかなり効果的があるんだ。もし君がこの子に何かしてあげたいと思うのであれば、そういったことをしてあげるといい」
俺は医師の言葉を聞きながら、今まで自分のしてきたことを思った。俺にはこうなることを未然に防ぐことだって容易にできたはずなのだ。方法はいくらでもあった。むしろ俺は自らその可能性たちを手のひらを傾けて落としていったのだ。自分のことで精いっぱいなんていう腐った盾で耳の穴を塞いできたのだ。
「間違ってもあまり刺激を与えては駄目だよ」そう言い残すと医師はスチール棚を転がす看護婦を連れて、部屋から出て行ってしまった。
マスクを外されたさやが目を瞑ってそこにいた。彼女は薄いブルーの患者用の衣服を身に纏い、胸元まで白い布団をかけられていた。周りの輝きを美しく取り込む長い睫毛、小さな唇、柔らかな頬。それらは元々備えていた雑多な機能を失い、最早誰かに愛される機能だけが残されているように見えた。その性格は風化するにつれて余計な部分が削ぎ落とされていく芸術品を連想させた。彼女の骨ばってしまった左頬を、俺は右の人差し指を折り曲げて軽くなぞった。それは紛れもなく俺の好きだったさやだった。実に一カ月ぶりの再会だった。俺は手のひらを開いて、今度は包むように頬を撫でた。
外では雨の音が聞こえていた。
「もう間違うことなんてないさ」誰にともなく呟いた。
さやは二日も寝ていると、すっかり元の状態に戻ったようだった。やはり不安定なのは身体よりも精神のようで、医師からもそのことを心配されていた。あと一日すれば退院といった日になって、彼女は上半身を上げて、窓を見ていた。彼女は具合が回復してからは何をするでもなく、そうしていた。空はどんよりと重く、細い雨が昨晩からしとしとと降り続いていた。彼女は少し怒っているようだった。確かに彼女は誰かに怒るべきだった。できればもう少し早く怒るべきだったくらいだ。
「土谷君は何をやってたの? 学校にも来ないで」彼女は窓越しの空を眺めて静かに訊いた。その姿の纏う雰囲気に四月頃の嬉しげな空気感というべきものはもう残っていなかった。彼女は知らない間に多くを失ってしまったように見えた。
「実家に帰ってたんだ」俺は理科室にあるような丸椅子に座って正直に言った。
「実家に? 本当なの、それ」
「本当さ。さやに嘘をついたことなんて一度もない」
それを聞くと彼女はこちらを見て、少し笑った。けれどすぐに表情を六月に入った空のようなくぐもったものに戻した。
「私だって嘘なんてつきたくないし、つかないよ。でもそうじゃないね? 土谷君は嘘をよくつくよね、誰が分かってなくても私は知ってるよ。それで私は悲しいんだよ。分からないかな、こういうこと」
「……ごめん」
「君がいない間、私どうしてたと思う? どうしたらいいか分からなくなっちゃったんだよ? どうして毎日を過ごしていいか分からなくなっちゃって、なんだか悲しい気持ちになってきちゃったんだ。高校ではこんなことなくて、何でも一人で解決できたのになんだかおかしなことなんだけどさ。きっと幸せの味が分かっちゃって、それがないとだめになっちゃったんだよね。中毒みたいなものだよ。それで君に頼りたい気持ちが濃くなって、何度もメールしちゃったんだ。何度も止めようとも思ったんだけど、結局止められなかったよ。でも、底のない井戸に石を投げ込んだみたいに、土谷君からは何の音沙汰も返ってこなくて、それも仕方のないことなんだけれど、だって幸せなんて瞬間的なものなんだからさ。だから幸せを手に入れようと思っちゃいけないんだとも思ったよ。そうしようとするからつらくなるんだって思って。でもそれに耐えられるほどに私は強くなかったんだ。それで、どうしようもないほどに悲しくなって、もう昨日のことも思い出せないほどに毎日を生きることが難しくなってきて、毎日を生きるのが難しいのなら何で私は生きていかなければならないんだろうと思えてきたの。ねえ、土谷君は何で生きていかなければならないんだと思う?」
彼女が黙ると、雨が何も知らずに天の雲から生まれ、地面に落ちて死ぬ音が聞こえた。
「そうしなければならないと思うとあらゆることが面倒になるし、つまりそういうことなんじゃないかな」
「それってつまりはぐらかさないと返答に困るような質問ってことだよね」彼女は冷ややかに言った。
俺は彼女の目を見て答えた。
「違うよ。なんで『生きなければならないのか』と言えば、それに対する回答は『生きなければならないから』だ。定言命法だよ。そうしなくてはならないから、そうしなければならない。悪いことよりは善い方がいい。当たり前のことなんだ。それでも、あらゆる人を納得に導けるようにはできていない。それも何でも疑っちゃうような人にはね。疑いだしたらどこまでも疑える、そんな真実だって世の中にはある。それを権威主義的と言う人もいるかもしれないけれど、そんなことを言ったらこの世に産まれ落ちたこと、それ自体が倫理的には不条理だし、そういった人の目に映る景色全てが権威主義的に見えるだろうよ」
「だから私は怒っちゃいけないの?」
「怒ってもいいよ」
「それは許されることなの?」
雨の音。彼女には雨の音がよく似合っていた。
「誰にだい?」俺は彼女の布団の柄を確かめながら訊いた。
「誰かによ」彼女は言った。「そんなの誰にでもいいの」
「いいんじゃないかな、怒っても」
「迷惑がかからない?」
「誰かに迷惑がかかるからやらない、というのはナンセンスかもしれないけれど、確かにそれで実際的な問題が生じるのなら面倒だね」
「面倒なことはたくさんある」彼女はためいきを吐いた。「それこそとても面倒なことだわ」
六月の蒸す空気は苦手だった。湿気は本の紙片をふやかし、視界をけぶらせ、服を生乾きにするからだ。それはあらゆる人々を不幸にする。
俺は掛け布団の質感をつまんで確かめてみた。それはつるつるとしていて、掛け布団の持つ無機質な性格を強めていた。そこに湿気は感じられなかった。そして彼女が他の人に迷惑をかけないようにしたために、俺に連絡を寄越し、それは底のない井戸に石を投げる結果に終わったことを考えた。俺も弱いのかもしれないが、彼女もまた弱いのだ。あるいは彼女は中途半端に強いのだ、とも思えた。誰ともかまわず弱音を吐く弱さはないが、かといってそれを一人で飲み下せるほど強くはない。それはまるで俺と同じだった。俺は俺と同じ立場にいる人のことですらまともに考えられてなかったのだ。
俺はこれが無責任な物言いであることを承知で言葉を選んだ。そしてこれ以上無責任にならないことを祈った。
「だからさ、迷惑は俺にかければいいんだ」
彼女は憂え気な視線を手元に落として、後ろ髪を点滴のついていない方で触った。
「でも君は、」
「誰もさやを見捨てたわけじゃない」
「そんなことないよ。誰も私なんか見てない」
「ここにいるよ」
「でも、だからさ、」息を詰まらせかけたような声で彼女は言いかけた。
「頑張るからまた信じて欲しいって言っても嘘くさいかな」
「頑張ることならしなくていいよ」
「そうしたいんだよ」
俺は彼女の今にも震えだしそうな手を上から軽くおさえた。ココアのようにあたたかい手だった。こんなあたたかい手で冷たい心を止めようとしていたと思うと胸が痛んだ。
「でも」彼女は口を開いた。「私が信じるのが一人でも、君が信じてる人はたくさんいるんでしょう? それを受け入れるってつらくはないかな」
事実確認はおいとくにしても、確かにそれはつらくもなりそうな状況だった。しかしここで「そんなことない」なんて言ったって、こういう話題では全くの真実も全くの虚偽も存在しないのだ。疑いたくなるか、そうでないかの違いしかない。それでも俺は何かを守らなくてはいけない。もう失敗は許されないのだ。忘れ去られたサリーは死んだ。もう俺は大切なものを見失いたくはなかった。目的がない人生が空虚であるというのならば、そこに目的を足すしか方法はない。それで失敗したとしても、挫けて手さぐりに違う方法を探すべきではないのだ。結局それは向き合うべきものに向き合っていないということに過ぎない。だから今俺にできることと言えば、再び問題に向き直り、今度はもう目を逸らしたりはしないと誓うことだけなのだ。それに、俺だって心の底からそれを望んでいる。それならば、それを、しよう。
俺は口を開いた。
「俺はさやを信じるし、さやは俺を信じてくれれば、それで良いんだと思うよ。だけどそれで気持ちが晴れないのなら、もっと良いのはさやもたくさんの信じられる人をつくることじゃないかな」
「そんなの簡単にはいかないよ」
「それも分かるさ。でも、」
俺にできることを俺はするだけだ。
「それでもやっていけれることはやっていくべきだと思う。それで良い方向に行けるのであれば、それは良いことだということなのだろうし。それでさ、俺はさやに知って欲しい人がいるんだ」
「知って欲しい人?」
「うん」
空は六月だが、六月の良さがある。俺はそれを認めるべきだ。
さやが退院すると、俺は彼女をもかの家にいざなった。外には雨が降っており、さやは電車に乗る前に畳んだ傘をふるふると回して雨粒を落とした。
電車に揺られる少しの間、俺は今しようとしていることがどういったことか考えていた。もかは以前付き合っていた彼女でさやは今付き合っている彼女だ。その二人を突き合わせることは、新たな問題を生み出しはしないのだろうか。しかし、やれることはやってみるべきなのだ。俺がさや以外に信用できるのは今のところもかしかいない。そしてさやも信用できる人間が増えれば、いくらか気分も晴れるに違いない。しかしそうであればもかはどうか。俺は昨晩の電話を思い出し、首を振る。いいや、大丈夫だ。こんなの。
「大丈夫だよ、そんなの」昨晩の電話の時、彼女は快活に笑って答えた。
それでも俺は何も失いたくないことに必死だった。もかにも俺が知らないうちに傷をつけているのではないかと思ってしまう。彼女は俺の思いを察して言った。
「それはね、シンヤが私を心配してるんじゃなくて、結局シンヤのことを心配してるんだよ」
「俺のこと?」
「そうだよ。失敗したくないのは誰でも同じだからね、分かるよ」
彼女の言うことは正しかった。また俺は俺のことしか考えていなかったのだ。どうやら俺はまだまだ未熟であるようだった。自分のことと身近な人の境目を見定めるのは難しい。
「私のことも信じてるんなら、何にも心配せずに信じきればいいよ。誰もがそういう心持ちだったら、きっとうまくいくよ」
そして彼女の言う通り、俺の気持ちは杞憂に終わり、全ての物事はうまくいった。俺とさやが彼女の家に着くと、もかは煙草を吸って朗らかに出迎えた。さやも素直に状況を受け入れようと俺ともかの関係も飲みこんだ。そうもすれば、あとは組み合わせの問題であり、それは容易な問題だった。さやももかも好意的で、素直な人間なのだ。
「雨は好き?」三人でテーブルを囲み、もかはさやに訊ねた。
「うーん、湿気で髪が気になるかな」
もかは微笑んで片目を軽く瞑り、窓の方を見た。
「そうだね。私も雨水は苦手かも。だけど、遠くから見ている分には好きだよ」
「遠く?」俺は二本の吸い殻の入った灰皿のふちを指でなぞりながら、訊いた。
「うん。例えば雨が木々の葉を濡らすのを見てるのとか、雨の音とかを聞くのがね。雨の音を聞きながら料理をするのも好きだし、本を読むのも好き」
「ああ、それなら私も好き」さやは手を合わせて言った。「自分が雨に濡れるのは嫌だけど、見てるだけなら」
もかは頷いた。
「そういうことって意外とたくさんあるのかもね。自分が嫌いだと思ってることでも、違う面からみればそうじゃないのかもしれない」
「捉え方の問題だね」俺は言った。
「そういうこと」もかは笑った。
その後は、さやともかの関係は予想以上に順調だった。さやはもかを信頼し、もかもそれを受け入れた。もかは元々そういうことが好きな体質らしかった。彼女は万人と仲良くなれるなら、そうしたいと思っている人間なのだ。
それと退院してから一週間もたたないうちに、さやは髪をばっさりと切った。背の中程までありいつも縛っていた黒髪は、肩に届くか届かないかの長さになり、縛る必要もなくなった。雰囲気はガラッと変わったが、それも彼女には似合っていた。
俺が理由を訊くと、彼女は微笑んだ。
「新しい気分になるっていうのもいいもんだよ。いつまでもくすんじゃったものを身につけてるわけにはいかないもの」
「そういうものかな」
「そういうものだよ」
それでも少しは気になるようで、さやは前髪をつまんで見つめた。
「似合ってるかな」
俺は首を傾げて、彼女を様々な角度から見た。前の髪型より、明るくなった印象がした。前の、かげりが光に潜むような髪型も好きだったが、この爽やかな髪型も悪くない。
「似合ってるよ」と俺は言った。
「本当に?」彼女の髪の裾がちらりと揺れた。
「本当に」
そして大学を卒業した今に至るまで彼女の髪型は変わらない。
思えば遠くに来たものだ、と俺は思った。
あれから実に四年と数カ月の月日が流れた。




