表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

三章

「また喧嘩したのー? もうどうしようもないなー」

「だから、喧嘩じゃないって。ちょっとした擦れ違い。それにメール返してこないのは向こうだし」

「メール返ってこないからって……。中学生かよ」

 吉野藻香はキッチンに立ち、コタツに座る俺に振り向き、紅茶かコーヒーのどちらがいいかを訊いた。俺はコーヒーを頼みながら、ちかちか光るテレビを眺めた。画面では、再放送の二時間サスペンスドラマが佳境に差しかかっていて、主人公の刑事が犯人に同情しながらも説教を始めたところだった。テレビの横のベランダに続くガラス戸からはまだ四時過ぎなのにもかかわらず、夕暮れの様相が漂ってきていた。冬の夜は早い。

 じきに部屋着であろうジャージ姿のもかが二つのマグカップを持って戻ってきて、片方を俺に差しだした。

「さんきゅ」

「でも、だからって小夜子から逃げて毎回うちに来るというのはどうなんだろうか」

「い、いや、さやから逃げてるわけじゃないから。決して、全然。それに、もかも元気でやってるか気になるし。そ、それに別れても友達で言ってくれたのももかじゃん」

 慌てて手を上げて弁解をすると、もかも俺の隣に腰を下ろしコタツに足を入れた。湯気の上がるカップを両手で持って、興味なさげにテレビを眺める。

「まあ、いいけどねー。別に」

 吉野藻香と俺は高校三年の終わりまで一年半ほど友達以上の関係にあった。


 もかは気遣いができ、大人しめで、でも明るくて適当で、その気軽さが俺にはよかった。それに打算ありきで始めた付き合いではあったものの、恋愛の確かな熱もあった。高校三年のクラス替えで一緒になれなかったことに切なさを覚えたのも懐かしい。

 それでも永遠に続くものがあるはずもなく、流星が見えなくなるように二人はあっさりと別れることになった。受験期でなかなか一緒にいられず、間が空いて、なんとなくバラバラになるよくあるパターンだ。感じていた熱は何事もなかった顔をして立ち消えて、思い返せば喧嘩をしたことすら一度もなかった。愛しい十五カ月続いた歳月の最期だってとても爽やかなものだった。

「ほんとにもかが好きだったのか分からないまま、告白したんだ」

 打ち明けると俺より少し背の低いもかは、ゆっくりと微笑んだ。

「うん、知ってた。私も、自分の気持ちも分からないまま頷いた」

「でも、楽しかった」

「楽しかったね」

 こんな感じだ。

 わずか二言三言でまとめられる別れ。でもそれでもかとの縁が切れたわけではなかった。高校卒業後、俺は下宿して他県の大学へ、もかは地元のデザイン系の専門学校へと、完全に進路を異にして春を迎えたのだが、もかはすぐにその学校をやめ、バイトをしながら勉強をし、その筋では有名らしいこちらの芸術系の大学を再度受験し、めでたく一年越しの入学を果たしたのだった。彼女も一人暮らしを始め、時折メールをやり取りしてた俺は、互いの下宿が駅二つほどしか離れていないことを知って、そこへちょくちょく遊びに行くようになった。もかは一応元カノにあたるわけで、気まずいかなとも思っていたが、実際一年ぶりに会ってみると、二人の間の空気は終始穏やかで、ともすれば昔よりも肩の荷が下りた関係ができているのでは、と思うほどだった。俺たちには恋人なんていう責任の伴うレッテルが貼られた濃密な間柄より、擦れ違いざま声を掛け合うくらいの堅苦しくない付き合いの方が合っていたのかもしれない。それかあるいは、恋愛という共通項を経験した二人だったからこそ、このような理想的な友達へ昇華できたのかもしれない。そうであれば、少しでも成長したってことで心持ちポジティブにもなれそうだ。

 ただ二人の心が高校の時より離れた事実も状況的に見れば、あった。俺には既にさやがいて、もかも通う学校に付き合っている相手がいた。そんな一方で、さやをもかの家に連れていくとたちまちに両者は意気投合した。高校の頃は知り合ってはいたもののクラスも違ったこともあり、あまり交流はなかったらしいが、どちらも友好的で一緒に並ぶと似た者同士の雰囲気を強くした。意志も薄弱な俺だけど、案外好きなタイプは一貫しているらしい。一回連れて行ってからというもの、さやはもう俺を介さずとももかと連絡を取るようになり、二人は二人で楽しくやっているようだった。


 窓の外の赤は瞬く間に連れ去られて、灰色混じりの藍が到来した。それもじきに黒に染まる。テレビはドラマが終わり、本日を振り返る全国のニュースが始まっていた。

「で、その理由は何なの」

「理由って?」

「だから、口論の原因」

「ちょっと煙草吸っていい?」

「いいよ」

 俺がさっき買って、既に半分以上なくなったラークを一本取り出すと、もかは背後の棚から灰皿を取りだした。それから、同じ棚にあったピアニッシモを一つ咥えて、火を点けた。俺は立ち上がってガラス戸を半分ほど開ける。夜の冷気がそっと頬を刺した。

「もか、お前、禁煙してなかったっけ」

「なんのこと?」

 もかはとぼけながら、コタツに戻った俺に近づいて、手をかざして、火を点けてくれた。

「彼に怒られるんじゃないの?」

「まー、そんな縛る人じゃないし」

「そうか」

 もかは慣れた手つきで灰を落とし、もう一方の手で頬杖をついた。付き合ってた頃は、俺も、おそらくもかだって自分が煙草なんて吸うわけないって思ってたんだろう。時間は静かに水かさを増し、俺らを確かに変えていった。

「それで?」

「ああ……。いや、大したことじゃないんだけど、それにいつものことと言えばいつものことなんだけど、発端はさやからそろそろ仕事に就けって言われて」

「就けよ!」

 もかは机を軽く叩いた。

「絶賛無職中のお前に言われてもな……」

「いや、私は頑張ってるから! 毎週面接行ってるし! シンヤは今就活さえやってないんでしょ?」

「俺はだって二年も会社に勤めてたんだぜ? もうやめて一カ月だけど。せめて半年くらいは休んでたいっていうか……。ギリギリ貯金はあるんだし……」

「それでもさやは不安になるでしょーが」

「そこまで俺に犠牲になれと?」

「社会に出るのが怖いの?」

「てゆーか、俺は出てたんだって。よく知ってんだろ。……でもまあ、怖いっちゃあ怖いし、疲れるところだし、みんなよくやってるよなーって思う」

 俺は煙草の先を灰皿のふちで軽く叩いた。彼女は少しだけ、目線を下の方に落とした。

「……そうだねー、先のことも考えろっつっても、そんな簡単にはいかないよねえ」

「あれ? もっと怒るかと思ったのに」

 もかはテレビをぼんやりと眺めながら、煙草を灰皿に置いて「う~~~」っといううめき声と共に、両腕を机上に滑らせながら真っすぐに伸ばした。

「いやさー、なんとなく……、てゆうかものすごく、働きたくないってのも分かるしさ。何より働いて何かが変わる気がしないのが問題でさ、シンヤがどうかは知らないけど、私は最近そう思うんだ」

 テレビでは熱川のバナナワニ園のワニの様子が映し出されている。カメラが向けられているのに、寒さからか全く動じていない。口を開いたやつも、言葉そのまま寸分足りとも動かない。

「シンヤは最近、死にたいって思う?」

 もかが、ふと言った。

「いや、別に?」

「さやにも言ってない?」

「そりゃあ思うことはあるけど、口に出すまでは」

 もかは口を結んで、じっと俺を見つめた。

「も、もしかして、もかに俺、そんなこと言ってた?」

 もかはわざとらしい咳をした後、俺の箱から一本を抜き取ると火を点け、面倒そうに口につけると、ためいき混じりに煙を吐いた。

「まあ、言っちゃうとさ……」

「ん?」

「誰もみんな、楽しいことして家に帰った後は、なにも心配も不安もないまま、そのまま眠るように死んでしまいたいと思ってるもんなんだよね。何も私たちが特別なわけじゃなくてさ」

 彼女の目は窓の外に向けられていた。窓の外はもはや、何も見えず真っ暗で、彼が飲みこんだものすら俺らには分からないほどだった。もかの吐く白い煙が、網戸向こうの暗闇を裂こうとしては儚く溶けて消えていく。

「私たちはどうしたって日常にいて、そこから抜け出す手段なんて持ち合わせてないんだから」

 夜の風がカーテンを揺らして、満ち引く波を連想させた。

「だからさ、結局死にたいだなんてこと言ったって、そんな遠いとこに手が届くはずもなくて、それってやっぱり私らがつくった偽物でしかないんだよね、残念だけど」


 もかの家にお邪魔した夜は下宿に帰るやいなや、シャワーも浴びぬまま敷きっぱなしの布団をかぶりこんで、そのまま十数時間眠り続けた挙げ句、起きるとまた陽は落ちていた。

 携帯を見てもメールが来てない気持ちを誤魔化すために、俺は暇そうで近くに住む蔵畑を谷山公園に呼びだした。彼は口を尖らせていた。

「えー、もかちゃん、まだその男と付き合ってんのかよー」

「そうらしいな」

「だってアレだろ、そいつオタクらしいし、どうせもかちゃんのことだってそういう目で見てるんだろ。キモいにもほどがある」

「まー、いいんじゃね? もかもまんざらじゃないんだろうし。大体、お前が口出しすることでもねーだろ」

「ちっ、もうとっくに別れてるもんだと思ってたのに」

 蔵畑は大学の同級生だったやつで、卒業した二年後である今は週四日くらいでスーパーマーケットでカート運びやら清掃やらのアルバイトを仕事としている。要するに彼はフリーターであり、そして母数未知数の吉野藻香ファンの一人でもあった。

 しかしもかは蔵畑のことは知らなかった。だからきわめて一般的に状況を説明すれば、蔵畑の立ち位置は世にありがちな一方的な片思いとして把握されるものだった。もかは俺らが大学生の時、長いことファミレスでアルバイトをしていた。そこは蔵畑の深夜の行きつけであり、その時々の店員の一人はもかだった。もかは、いちいちつまらないことに躓く俺とは違って接客業の向く人間なのだ。さやも明るい気質だが、もかほど強さはない。もかは外に自分の弱さを見せることを許さない強さを持っていた。何かに悩んだら、その上からドロドロの甘いシロップをかけるような性格だった。だからこそ、昨日みたく虚ろさの混じった顔をするのは珍しい。当然もかだって一介の人間なのだから弱い面が出てしまうのも分かるが、いつ以来だろうと考えると、はっきりした記憶は見当たらなかった。あったことは確実で、一度思うと気にも成りだしかけていたが、頭の中の暗闇は、手を伸ばすごとに形を変え、迷路は複雑さを増すようで俺はあっさり考えるのを諦めた。

「しかし、もかにそんな魅力があるかねえ。どこに惚れたわけ? 胸だってさほど大きくないし」

「付き合ってたお前に言われたかねーよ。大体お前だって好きだったから告ったんだろ」

「やっぱそうなんのかねー」

「そりゃそうだろ」

「じゃあ、多分そうだ」

「多分ってなんだよ」

 蔵畑は分かったような分かんないような苦い顔をして、煙草に火を点けた。

「俺は、あの笑顔に惹かれるんだよなあ」

 蔵畑が空に少しだけ散らばった星屑だか衛星だかを見上げて言った。染められた金髪が夜にくすんで見えた。

「楽しいことを楽しいって言える人が好きなんだ、俺は」

「なんだそれ」

「分かんねーか? 世の中にゃそんな明るいことばっかじゃねーから、あんま人って笑ってられねんだ。で、気づいたら本当は楽しいことなのに変に身構えちまったりする。学んだつもりになって怯えちまうんだ。でももかちゃんはそうじゃないじゃんか」

 街灯の方でする微かな音が気になって目をやると、電球に蛾が繰り返しぶつかっていた。道路脇のジーッと鳴る自動販売機のモーター音の中に、コツンコツンという音が変調的に混ざる。

 違う、と俺は思った。蔵畑はまだもかのことが見えてない。多分もかはそんな強くはいられない。もかが賢く笑って見えるのは、二人の関係が店の中のホストとゲストの関係でしか成り立ってないからだ。おそらく笑ってることを期待されたりなんかしたら、笑顔が引き攣るようになり、息苦しさでパンクしてしまうだろう。自分で選ぶことと他人に押しつけられることは、似つつも同じものではない。そういったことに人一倍敏感な彼女は自分をそういう環境には決して置かないだろう。

「しっかし、お前のどこが良かったんかねー。なんかずば抜けた才能もなさそうだし」

「まあ高校生なんてノリだからな。付き合う付き合わないに、いちいち理由なんてあるわけないだろ。んなことより、なんか最近変わったこととかないのかよ」

 俺は流石にうんざりし始めてきたので違う話がしたくなった。蔵畑とは気のおけない関係だが、もかの話をすると止まらなくなるのが難点だ。

 彼は左手をベンチのヘリにおいて、ジャングルジムの格子の隙間に充満する闇に目を凝らした。その横顔は何かを考えているというよりは、ただぼーっとしているふうに見える。

「あー、そうだな。特にないな」

「……だよな」

 俺と蔵畑はしばらく、ベンチから値踏みするように暗闇を眺めて、じっとしていたが、ふと思い出したように彼が言った。

「そういや、バイト先で正社員の誘い、受けた。やる気ないかって」

「え、まじかよ。やったな!」

 俺は驚いて、蔵畑の方を見やると、口元が微かに歪んでいたが目はそんなに楽しそうではなかった。

「まあな。……ただ」

「ただ?」

 蔵畑はベンチから立ち上がって、大きく伸びをした。

「ただ、そしたらバンドは辞めなくちゃなんねえ」

「……あー、そうだったな」

 彼は視線を先に向けながら、頷いた。

「ああ。正社員になって忙殺される毎日になったら、その合間合間で練習するなんてとてもじゃないけどできないだろうな」

 俺は本当にすっかり忘れていた。彼は普段、批判される若者の典型のようなだらしない雰囲気しか見せていないのだが、蔵畑は二十代では珍しく、まだ夢を持っている種類の人間だった。彼は他の県から来た俺らとは違い、ここいらが地元で、バンドは幼い頃からの友人たちと組んでいるらしい。ライブは月一で行ない、客の入りもまあまあだと聞いていた。

 そうして、立ち上がった彼は今夜も練習があるから帰らねばならないと言った。時計を見ると九時半で、俺はわざわざ来てくれたことに礼を言った。

「こんなの大したことじゃないだろ」

 彼は照れたように言うと、手を上げて公園の出入り口の方へ背を向けて歩き出した。

 と、公園の中程を過ぎ去り、俺は自販機で飲み物を買おうか思案しだした頃、急に彼は振り返って、早足で引き返してきた。

「ん、どーした?」

「そういや、こないだテレビのニュースでやってた連続傷害事件、被害にあってるのって、この辺りらしいから、もかちゃんに気をつけるよう言っといてくれ。あと緒川さんにもな」

「はーい、りょうかーい」

 俺が手を上げて答えると、彼は満足したように踵を返した。その影を見送りながら、なんてもか思いのやつなんだと俺はしみじみ感慨に耽った。そして、少し悲しさを感じた。実際は思っているのでも、声に出さねば届かない。声に出さない限り、思いの度合いは誰にも見られないし、そうであればそんなものは全くもって意味がないのかもしれないのだ。

「人生は難しい、か」


 俺は自宅に帰ってもすることがなかった。何かをしようという気がまるで起こらないのだ。仕方なしに、灰皿の中の吸い殻に今吸ってる煙草の先をくっつけたり離したりしながら、頭の引き出しを慎重に探り、過去の記憶を蘇らせていた。

 今年で俺は二十四だから五年から六年前の記憶、つまり大学生の時のことで、特にさやのことについての記憶だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ