二章
二
思えばさやと初めて出会った時も、俺は直感的に嫌いになろうと試みていたのかもしれない。
あの頃のさやはまだ髪が長かった。前髪は眉の下で切り揃えていてその左右には少しばかりの束の髪が下に垂れ、後ろ髪は二本に縛り、お下げにしていた。
俺とさやは高校二年で一緒のクラスになり、その時に俺は初めてさやを知った。始業式の後、名前順の座席、右斜め前で楽しそうに後ろの席の女子と喋る彼女を見て、その時から既に人知れず心に何かを感じていた。それは最初から輪郭が定まったものではなく、もっと暗澹たる雰囲気を帯びたもので、つつけばいつ蛇が飛び出てもおかしくないと思われた。それは、ある意味留め金のなくなった時限発火装置であり、俺は興味というより恐怖をなんとなく感じていた。
だから俺はなかなか緒川小夜子に近づこうとはしなかった。休み時間も遠巻きに眺め、掃除のグループが一緒でもわざと会話を避けた。そうするとさやも誰彼構わずにちょっかいをかける暴力的な積極さを持っているわけではなかったから、俺たちの間に相互的なコミュニケーションが発生することはなかった。さやは、話しかけられなければ話しかけてこないが、話しかけられたらそのちょっと揃いの悪い八重歯を見せて必ず微笑み返してくれる、そういうやつだ。
そうして俺は高校二年生の二学期には、さやから逃げるように昨年クラスメイトだった女と付き合うことにして、視界を自分の都合に合うように切り取っていった。だから――次の年も偶然俺とさやは同じクラスだったのだが――高校時代のさやとの記憶は初めの頃以外ほとんどはっきり覚えていない。おそらく、無意識あるいは意識的にかけられたフィルターにより俺の脳内に入ることがそもそも叶わなかったのだろう。
けれどそのフィルターが造作もないように焼き払われ、彼女が音もなく中に踏み込んでくるのは、時が来ればあっという間だった。さやと俺は偶然にも知らないうちに同じ大学を受験し、合格し、同じ学科の同じ専攻に入ることになって、俺は専門科目の小集団授業の折に彼女から初めて話しかけられたのだ。
「土谷君、また一緒だね」
さやはそう言って、小声でよろしくと呟いて、自分の左手で右手を揉んだ。白く細い指が艶めかしそうにくねる。俺は初めて間近で見るその仕草に目を取られ、顔を上げるのが少し遅れてしまった。
「緒川も同じだったなんてな」
そう返してから、さやの背景に目を逸らして彼女がしたように、よろしくと口の中で言った。
彼女は会話が成立したことに安心を覚えたらしく、話しかけてくる直前の硬かった表情がほだされていくのが見えた。
「土谷君がいるってことは、もかちゃんもいるの?」
「いや、もかは専門学校だから。地元のとこに行ったよ。こっちの学校も志望してたらしいけど、落ちたって」
「ああ、そうなんだ」
彼女は首を天井の方へ傾けて、そっと言った。
「じゃあ、次の時間暇?」
「うん。まあ」
さやは口元を綻ばせた。
「それならお昼、一緒に食べない? まだあんまり友達できてないからさ」
俺は同じ大学に進んだやつを他に知らなかったことから、さやもそうなのかもしれないと思った。未来への突破口をどこかで見つけなければならないとしても、全くの他人よりは少しでも見知った相手の方が気が休まるのだろうことは俺にも分かったし、この大学はうちの高校から幾分離れていたので、さやが下宿であることも想像に難くなかった。女の子の一人暮らしというのは、捨てるものなどない俺なんかと違って、様々な危惧を持つものかもしれない。だから俺は頷いた。
その授業が終わった後、俺とさやは人混みを掻きわけるようにして生協のコンビニでおにぎりやら菓子パンやらを買って、文学部棟裏の芝生が広がる広場の隅のベンチに腰をかけた。
さやと俺の隙間はおおよそ十数センチしかなく、胸は正直揺り動かされていた。高校時代の俺は、さやを避け、その存在を彼女がこちらを目に留めるよりも先に認めておきながら、敢えて関わることをしなかったわけだが、それは一ミリぽっちも拒絶ではなかった。敵意による拒絶ではなく護身のための敬遠であり、疎外であるよりむしろ逃亡だったのだ。しかしそんな後ろ向きな虚構の壁は、内側から見た際に米粒ほどの安心が得られるだけであって、外側からの侵入には驚くほどに弱かった。彼女が話しかけた時、既に二人を遮るあらゆるものは取っ払われ、壁なんてどこにもなくなっていたのだ。
太陽があたたかく照らし、芝生は静かに風にそよいでいた。
さやの睫毛は上に跳ね上がり、その長さが彼女の頬に影を作っていた。その奥から透き通る眼はわずかに潤み、誰かが手を伸ばすことさえ能わない愛しさを含んでいた。会った時から感じた恐れは錯覚ではなく、彼女ははっきりと俺を動かす何かを持っていた。春の陽気が奏でられる中、俺は確かにそれを思った。
「ん、どうかした?」
レジ袋から取り出したサンドイッチを頬張りながら彼女は訊いた。
俺は咄嗟に彼女の向こうにあるがっしりしたケヤキに目を向け、心を落ち着け、ゆっくりと息を吐きながら彼女の瞳に目を戻した。
「ううん、なんでも」
芝生を撫でた風はいつしか彼女の髪をさらりと揺らした。ぼんやりと俺は時間が死んだことを理解した。
大学生活はそんなふうに幕を開けた。蓋を開けてしまえば冗談みたいにとはよく言ったもので、それまでの俺とさやの距離は磁石が引き合う自然さを持って、元からなかったようにいつしか消えていった。
俺は車の通行が多い大通りを真っすぐに進み、公園を出てから二十分ほどで下宿先であるアパートの見えるところまでたどりついた。
ポケットに手を突っ込むと、すぐ手の先に百円ライターの感触があり、一粒のノドアメの存在を確かめることはできたが、肝心の煙草はもうなかった。俺はためいきを車の騒音にかき消されながら、アパートから徒歩二分のローソンに入った。
店内は暖房が効いていて、歩いてきた俺にはいくらか暑いほどだった。俺はまず店の後ろ側に進んで、冷蔵棚の隣のあたためられた棚からジョージアのブラックコーヒーを手に取ってから、レジに向かった。
レジには若い大学生ふうの店員が立っていた。
「百二十円です」
「あと八十三番」
「えっ」
「煙草、八十三と九十二番、お願いします」
「あっ、はい」
手慣れた様子で、彼は背後の陳列棚に腕を伸ばし、言われた番号の箱に人差し指をつけながら、首をこちらに向けた。
「マルボロメンソールとラークのマイルドでいいですか」
「はい、ボックスで」
俺は彼の一挙手一投足を見ながら、大した意図もなく彼が普段どういう生活をしているかを思った。髪が若干茶色で、指は骨ぼったい。しかし、格好としては背が高めで瘦身だ。口からは明るい印象が垣間見え、目元ははっきりしている。瞳が幾分曇って見えるのは、おそらくバイト疲れのせいだろう。もしかしたら大学でハンドボールでもやっているのかもしれない。女に人気のあることだろうことが雰囲気からでも読み取れる。全体のオーラは、男らしいというよりは中性的だが、その分気軽で屈託がない。それでいて純粋で、女に可愛がられるほど恋愛の駆け引きには驚くほど不慣れ――、あれあれなんだか嫉妬じみてきたなと思ったところで俺の思考は打ち消された。目の前には彼の戸惑った表情があった。
「――九百七十円です」
「……ああ、はい」
大学生って自由でいいよな、と感じる一方、自分は誰かに嫉妬して誰かを憎む口実をつくりたいのかもしれないという嫌な心の動きを悟った。
自動ドアを抜け、寒い外気に再び包まれると俺はすぐにラークのパッケージをゴミ箱に押し込んで、一本に火を点けた。そして店の横に据え置きの灰皿に立ち止まった。行くとこなんてない、そう思った。
イヤホンを耳に着けると大槻ケンヂが「この世を燃やしたって一番ダメな自分が残るぜ」と歌っていた。今の時代、たとえ爆弾を投げたところで幸せは来ないのだ。そんなの全然馬鹿らしいことだってみんな分かってる。こんな世の中、実際の俺らにできることなんてもう散々なほどに切り取られちゃって、今じゃあ片手に収まるくらいのホントちっぽけなものしか残っていない。しかし、それすらを見つけるのにだって俺らはいちいち苦悩するのだ。
日常は宇宙のように無制限で嫌気がさすほど続く癖に、細々としたルールはきっちり存在する。俺たちは縛られながらも、繰り返す。自由があると錯覚して、古臭いカピカピの希望を持たされて。底の見えない海を渡り、鬱蒼とした森を抜け、砂漠を歩き、街を出て、毎日という名の長い長い旅を続ける。だけどいつか、きっと俺らは急に立ち止まり、辺りをきょろきょろと見回したりする。そうして不意に思うのだ。
「あれ、俺、今何やってんだろ?」
目の前にはいつか見たとしか思えない風景が広がり、他の人が構わず過ぎていくのを横目に、俺はもう進めないことを知る。本当にこの道で合ってたのか、根拠もなしに疑わしくなる。
まあ、いいか。そう思えれば、楽にもなるんだろうけれど。




