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一章

 優しいだけじゃ世界は変わらない。

 俺が一人悲しくなっても、それで日常が少しでも変わるわけじゃない。

 なおも言ってしまえば、俺が一人死んだところでそれでも誰も涙を流さないだろうし、生きていたって手を叩いて笑うことはないのだろう。

 誰が何をしたところで、世界は回るし日常だって続いていく。

 それが諦めたくって離れたくても、そんなの全然関係なくてどうしようもなくて何もできない。


 携帯を見るが、メールはない。

 俺らはいつか自分でも気づかぬ内に勘違いを始めて、自分がまるで世界の中心にいるのではないかと錯覚する。いつの間にかあらゆることが自分において生まれているという錯覚。自分は自分の考えを持って、世界を持って、そこで息をする。人の前には水平線彼方、広大な海洋が口を開けているが、それはそいつの毒が染み込んだ海だ。他の誰かが一舐めでもしようものなら、塩分過多やなんかで途端に倒れ伏してしまうだろう。そんな、自分本位の幻想だ。幻覚・妄念・想像の類。俺らはハッと気づくとその手垢にまみれた錯覚をさも隠された真実さながら、大事に抱えて、知ったふうな顔をして、だから他人と心から通じ合うことなんてないんだ、もう他に道はない、などと中途半端に間違える。

 これはいわば現代人に蔓延する一種の病魔かもしれない。

 そんなことを思いながら煙草の火を消し、缶コーヒーをまた一口啜る。空にはうっすらと薄雲が広がってはいるが、その隙間から差し込む陽光はほのかにあたたかく、公園には心地のいい午後が流れていた。平日だからか他に人はいなくて、周りの住宅地のどこかから主婦達だかの歓談が紛れこんでくる。砂場には作りかけの山。ささくれが目立つシーソー。銀が寂しいジャングルジム。ベンチから見るちっぽけな十一月の景色はずいぶん平和に目に映り込んでくる。

 俺は徹夜明けの眠い目を擦った。

 携帯を見るが、メールはまだない。


 結局俺は一時間ほど、谷山公園をうろついた挙げ句、家に帰ることに決めた。六畳余りの下宿先にいると、なんだかその部屋の周りに目には見えない分厚いバリア、それも電波だけではなく他人から自分への視線の一切を打ち消してしまう強力なやつが張り巡らされてる感じがして、世界から追い出された気分になるから帰るのは気が進まなかったのだが、もうそろそろ頭に凝った眠気も限界に来ていた。手首の時計を見ると今は午後の二時だが、俺は昨晩だって丸っきり寝てないのだ。寝れなかったとはいうものの、何か重要なタスクがあったわけではなく、実際は駅前の満喫で時間を潰していたに過ぎない。俺はさやからのメールが来ない不安を必死にマンガのページを繰ることで紛らわせようとしていたのだった。夜は基本的には気分が落ち着くが、一旦ゾクッとするくらい冷たい寂しさや出所の分からない苦しさが到来すると、どうしようもないほどに真っ暗に落ち込んでしまうのだった。その所為で集中力が散漫して同じページを何回も読み返す羽目になった。それでも満喫を出る午前九時頃には、来た時に読み始めた最終兵器彼女全七巻を読み終えていた。その後、近くにあったマクドナルドに寄って、更に無為な時間を過ごして今に至る。

 俺は谷山公園を出て家に向かって歩き出しながら、もう本当に返信は来ないのかもしれないと、でもそれもさやは俺じゃないんだから当たり前のことなのかもと、いくら繰り返しても明るくなれない考えを再度取り出していた。他人と分かり合えないなんてことは自分が作った恣意的な防空壕に過ぎないって頭では分かってるつもりでも、状況が改善しない限り、「だからなんだっていうんだ、俺が悲しいことには変わりはないじゃないか」という思いが理性を上回ってしまう。

 しかしこの思いはなにも俺の心が過度に打たれ弱いというよりは、適切な状況把握からきていると言った方が、合っていると思われた。まあ、そもそもからして精神が脆弱だということは否定の余地がないけれど。

 とにかく俺が最後にさやに送ったメールは酷いものだった。その文面はこうだ。

「緒川さんは結局のところ自分のことしか考えてないんですね。分かります、それが普通であることも。誰しも人間ですからね。君の気持ちは了解しましたが、やはりそれはこちらを無視した物言いであるし、なんとなく少しだけがっかりした気がします。期待の大きかった自分のせいですね。ごめんなさい。それでは」

 うわあ……、とつい声を上げ、携帯の画面から目を逸らしてしまう。何度見ても酷いものには変わりなかった。ほんと、このメールを送る直前の自分を殴って目を覚ませと言ってやりたい。なんなんだこれは。いつもはさやって呼んでいるのになぜか名字だし、それも敬語。「それでは」なんて、気取ったつもりかもしれないが、書いてあることが幼稚過ぎて全く逆効果だ。独りよがりもいいところ。感情というのは強いくせに後先を考えないからたちが悪い。

 ……いや、それにしてもこれはないだろう。

 とはいえ俺はこのメールを打っている時、さやのことなんかもう嫌いになって果ては忘れたくなっていたのだ。気分が高まり、自分のことしか考えられず、最早今の俺とも違う自分がそこにいたのだ。もちろん過去に向かって応答を期待した問いかけなんてできないに決まっているが、そういった自分だけの状態になった時は、自分の都合のいい情報以外を尽くシャットアウトしてしまうため、他人が発した言葉だけでなく、客観的な自分すらも殻の外に追いやられ、思いを届けることがほとんど叶わないのだ。

 俺はすぐ人を嫌いになる癖があった。正確には、嫌いになりたがる癖だ。信用している人ほど、自分に目を向けていないと分かると、胸がやけに苦しくなって、もうその人との関係を断ち切りたくなるのだ。人生を不幸にする過剰な期待など抱けぬように。今回もメールを打ってる時はこの気持ちが北風のように心の中に吹きつけていた。俺の過去と現在と未来からさやの存在を消して、忘れて、何もそこには連関関係がなく、一匙の相互関係すら生じていない状況に飛んでしまいたかった。互いを縛ることは自由を生み出し、楽しみすら増幅させてくれるけれど、もっと心の根本的な地層で孤独を叫ぶ動物が時折ソフィストごとく、いちゃもんのような疑いを叫んでくるのだ。「――お前は本当に相手のことを信用しているのか」「――相手が本当にお前を信じているなんてことありえると思ってるのか」俺は返す。「いいや、信じている関係というのは目に見えはしない。だからこそ貴重で大切なものだ。それはその意味通り、互いに信じ合うことで成り立っている。そこに疑いが挟まる余地なんてない。そんなことをすればそれはとっくに信頼ではない」しかし俺の力説を聞くとそいつら洞窟の化け物は目をにやにやさせて、本当に楽しそうにゲラゲラ笑うのだ。「――俺はそんなことは訊いてないぞ。俺が本当に聞きたいのはお前が相手を疑いたいかどうかだ。お前は、信頼が大事だの疑うことは語義上あり得ないとか口先では言っておきながら、実のところ相手を疑いたくて仕方がないんじゃないのか。おい、言ってしまえよ。本当は誰のことも信用したくないんだろう? だって分からないことは不安だものな。ずっと一人でいたいんだろう? ずっとここで、くたびれた洞窟で一生過ごしていたいんだろう? ずっとここで、つまらないけど安全で、誰が誰を傷つけることもないここで、閉じこもっていたいんだろう? そうなんだろう? 言ってしまえよ」ゲラゲラゲラゲラと、その笑い声は俺の腹の中で不快に響く。これは俺の最も醜い部分で、真の気持ちなのかもしれない。けれどこんなことは冷静になってみると、裏を返せば信頼関係を築きたくなる相手であるだけ反動も大きいということであって、俺の感情がここまで哀しく発露するのは、それほどまでに俺がさやのことを好きということであるとも言えるはずだった。そう、俺は緒川小夜子が好きで好きで仕方がない。

 そんなことは分かっていた。

 俺はさやが大好きなんだ。


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