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7月2日。
この日、奥木大学の講堂には学生だけでなく多くの研究者やマスコミ関係者がいた。
加代子を中心とし、司や正人も所属する10名程の研究グループ。
その論文発表がこれから行われようとしているのだ。
「そんなに緊張するな」
大半の話は加代子がする事になっている。
しかし、加代子は表情も固く、そんな大役をこなせそうには見えない。
加代子は大勢の前で何か話をするといった事が苦手で、まともに話せなくなってしまうのだ。
そんな加代子の緊張を解くつもりで昨日は正人が気を使い、司も含めて3人でアミューズメントパークへ行った。
しかし、それによる効果はほとんどなかったようだ。
「緊張する時は掌に『人』って3回書いて飲み込めば良いんだよ」
「古いな……」
加代子に対する正人のアドバイスに司は冷たい言葉をぶつけた。
しかし、実際に加代子がそれを始めた時には何も言わなかった。
当然、効果はなかったようで加代子の表情は変わらない。
もうすぐ論文発表が始まる事を考えると、このままの状態でいるのは良くない。
そこで司は加代子の頭を撫でる。
「加代子、俺達がそばにいるんだ。いざって時はサポートするから安心しろ」
その言葉に加代子はやっと笑顔を見せる。
「ありがとう……」
そこで時間になり、加代子は壇上に向かった。
「さすが彼氏が励ますと効果があるね。僕が言うのとは違うよ」
「うるさい」
いつもの事ではあるが、正人のからかいに司はそれだけ返した。
「本日はお集まり頂き、ありがとうございます。皆様の中には既にご存じの方もいるかと思いますが、人の記憶について現在まで明らかになっている事を簡単に話したいと思います」
詳細に書かれた台本と一字一句同じだったが、加代子は順調に話し始めた。
人の脳についての研究は古くから行われている。
その中で記憶のメカニズムを研究する者も多くいた。
人が何かを記憶する時、脳はどのように働くか。
記憶した内容は脳の中でどのように保存され、そうした情報をいかにして思い出すのか。
それらの謎が探求心を誘い、多くの研究者によって少しずつ明らかになった事もある。
さらにそうした研究が成果を生み出してもいる。
「こうした研究の中で1番の飛躍と言える事は人の記憶をデータとして保存出来るようになった事です」
人の記憶をパソコン等でも扱える、一般的なデータとして保存する事に成功したのは今から10年前の事だ。
加代子の言う通り、これにより人の記憶に関する研究は飛躍的な進歩を見せた。
そしてさらなる研究が進められる事になった。
まず、記憶をデータとして保存する際の方法について研究が進められた。
当初は外科的な処置を要し、さらに特定の記憶のみを保存対象とする事が出来なかったため、データ容量が膨大になってしまう等不便なものだった。
しかし、研究が進むに連れ、条件さえ揃えば外科的な処置を要する事なく特定の記憶のみをデータとして保存する事が可能になった。
併せてデータの圧縮方法が発見されただけでなく、SDカードを初めとした記録メディアの大容量化も進んだ事で、記憶をデータとして扱う事がさらに容易となっていった。
そうした経緯から次第にこうした研究が手軽に行えるようになり、さらに多くの研究者を生み出した。
そして別のアプローチから研究が行われる事も多くなっていった。
加代子達が研究していた事もその1つだ。
「私達はデータとして保存した記憶を、誰か別の人物の記憶として持たせる事は出来ないか。そんな研究をしてきました」
この先、加代子の話す事が今日の本題だ。
ここに来ている者もそれを理解しているようで、少しだけ空気が緊張したものに変わった。
そんな周りの様子に加代子自身の緊張が高まってしまったのか、少しだけ言葉を詰まらせる。
しかし、軽く深呼吸をした後、加代子は話を再開した。
データとして保存した記憶を誰か別の人物に持たせる事は研究者達の間で不可能な事だと言われていた。
記憶をデータとして保存するだけなら、記憶を参照するだけで事足りる。
しかし、記憶として持たせるという事は、記憶を更新する必要があるという事だ。
そうした参照と更新の違いは大きなもので、これまで多くの研究者が挑戦しては諦めてきた経緯がある。
「私達の研究によりまだ簡単な記憶だけですが、データとして保存した記憶を別の人物に持たせる事が出来たんです。今回、私達は実験として……」
そこで加代子は全員に配った資料を使い、ゆっくりと説明した。
実験として行った事は簡単な記号当てだ。
まず、紙に記号を描き、それを誰かに記憶させた後、その記憶をデータとして保存する。
次に複数の被験者に対して、そのデータを記憶として持たせた。
そうした準備をした後、紙に書かれた記号が何だったのか、被験者に尋ねた。
そして実験は成功し、全員が記号を言い当てたのだ。
加代子達はこうした実験を繰り返し行い、その全てで想定通りの結果を得る事が出来た。
「以上の結果より私達の論文が正しいと……」
そこで1人の人物が手を挙げる。
加代子はそれを確認し、困ったような表情を見せる。
「すいません、質問は後で……」
「資料を見たところ、もっと大容量の記憶を使う事も可能だったと感じられます。何故そうしなかったんですか?」
加代子の言葉を無視し、その人物は質問を投げ掛けた。
確かにその人物が言う通り、今回実験に用いた記憶は紙に描かれた記号が何かという事だけだ。
容量としては当然小さなものになっている。
「あ、えっと……」
こうした質問が来る事を予想していたため、事前に答えは用意している。
しかし、ここで質問されると思っていなかったためか、加代子は頭の切り替えが出来ないようで固まってしまった。
そこで司が壇上に上がる。
「すいません、私が代わりに答えます」
司は加代子の方を見ると、目で大丈夫だと伝えた。
「そうした理由は影響を考えての事です。大容量の記憶を使用する事により、本来その人が持っていた記憶が消えてしまう可能性も考えられます。また記憶は覚えるだけでなく、思い出す事が出来なければ意味がありません。容量の大きい記憶では思い出すために多くの時間を要する可能性もあり、今回の実験に適さないと判断したんです」
「そうは言っても、こんな小さな記憶で実験しただけで満足だったのか? 本当は色々実験して事故でも起こしたんじゃないか? あんたらはそれを隠してるんだろ?」
挑発するような事を言われ、司は理解した。
この質問をしている者は自分達と同じ研究をしていて、今回の論文発表を邪魔したいのだ。
研究者の中には周りをライバル視し、他の者が成果を上げようとすれば足を引っ張る者もいる。
彼もその1人らしい。
しかし、司は至って冷静だった。
「勘違いされているようなので説明します。今回、私達は皆様に種火を提供しているんです」
司は周りを見ながら反応を窺う。
予想通り、司の発言の意図が理解出来ていないようで、考察するような表情が読み取れた。
「この大学の設備は嬉しい事に充実しています。しかし、私達だけで研究する事は非効率だと考えています。そのため、この論文を基に多くの方にさらなる研究をお願いしたいんです」
司は加代子と違い、こうした場で話をする事が得意だ。
周りの反応を確認しながら、自分の意図する方向で人を引き込む事も出来る。
今もそうした司の力が発揮されていた。
「今回、私達は地位や名誉を得よう等考えていません。先程の例えを改めて言えば、この論文を種火に皆様の力で大きな炎を上げてもらいたいという事です」
そこまで話した頃にはここにいる全員が司の話に聞き入っていた。
「質問は最後にまとめて受けます。今は小泉の話を引き続きお聞き下さい」
司は軽く頭を下げた後、加代子の肩を叩いた。
「司、ありがと」
「礼は良いから頑張れ」
そして加代子は嬉しそうに笑った後、話を再開させた。




