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人間、やってやれないことはない…はず。
どうしたって消えない赤い跡は、入学式以来閉めたことのない第一ボタンと、首が絞まるってくらいきっちり結んだネクタイで隠して、暑くたって髪も降ろして。
「うん、いいね。隙がなくて」
校門で車から降ろしたあたしを満足そうに見やった悪魔は徹底無視。
アンタ、今何月だか知ってる?犬だってサマーカットで丸坊主になっちゃう真夏よ!
なにが悲しくてこんな優等生みたいなカッコしなくちゃなんないんだか…。
にこやかに手を振る近衛氏とは真反対の、惨憺たる気持ちで校門を潜ったあたしは、
「具合でも悪いの?」
なんて友達に心配されてもホントのことも言えず、体育も女の子の日で貧血なのとか誤魔化して(寝不足で顔色悪いから案外すんなり信じてもらえたけど)神経使いまくりの1日を過ごしたわけですよ。
だからね、実行委員はバックれてさっさと下校しようとしたのに。
「どこいくんだよ、早希ちゃん」
脳天気な声に呼び止められて、顔を顰める。
「帰るに決まってんでしょ」
振り返ることなく立ち去ろうとしても、ずーずーしい手に腕を捕らえられちゃそれもままならなくて。
「だめだろー、みんないっそがしいんだからサボっちゃ」
「ならアンタも戻んなさいよ」
力の限り腕を振り回しながら己は棚に上げちゃってる先輩を振り返ると、相変わらずの薄ら笑いが苦しげな首周りを注視していた。
「なんで隠すんだよ。ダンナのマーキングは堂々と晒しても、俺がつけた印は見せられないって?」
そんな訳あるか!昨日のだって不可抗力で、気づいてたら必死に隠すに決まってんじゃん。 …第一、今日はアンタのおかげでさりげに見えちゃう程度じゃすまない数なんだから。
「先輩のおもちゃになる気分じゃないの。放して」
できる限りの殺気を込めて睨みつけても、余裕の態度を崩さない奴は、伸ばした指で器用にあたしのネクタイを弛めていく。
「やめて!ばか!スケベ!痴漢!」
カバンを取り落としてまで暴れてるってのに、易々と一括りに捕らえられた両手首はあっという間に役に立たなくなるわ、慣れた手つきはむかつくくらい素早いわ…。
数秒かからずにいつものだらしない襟元が出来上がると、ビミョウに不機嫌に陰る先輩の顔。
って、腹立ってるのはこっちだつーの。せっかく隠してたのに台無しじゃない!
「バカでスケベで痴漢な俺としては、その上行くダンナの昨夜の所業が気になるとこなんだけど、教えてくれよ」
そんなもん、いちいち聞かずとも理解しなさい。
剣呑な光りを宿した視線に怯むことなく(日頃鍛えられてるからね)真っ向勝負で挑んだあたしは自由になる足でヤツの向こうずねを蹴り上げた。
それでも手を離さない先輩には、ちょっと呆れちゃうんだけど。
「好きなように想像したら?因みに頂いたプレゼントも波風立てるコトはできなかったし」
べろっと舌を出して、強気な自分でいられるのがありがたい。
昨日と違って衆人監視の下だからね、いくらなんでもあんな悪さはできないでしょ。
…とまあ、こんな風に考えたあたしは近衛氏に言わせるとつくづく甘いんだろう。
そりゃあもう、ケーキの上に大福トッピングしてグラニュー糖まぶしたくらいには。
「そんならもう1つ、やるよ」
どどど、どうして顔近づけるのっ!しかも今度の狙いは…そのまま行ったら唇になっちゃうじゃない!!
やばいって、場所も!まずいって、行動も!
この場合どうすればピンチを切り抜けられるのっ!!誰か、教えて~~!
体を捩っても片手で捕らえられた顎が解放されることはない。捕まれた腕も痛みが走るばっかりで偶然にも逃げられることはない。
万事休す。目をつぶるのは条件反射で決して本意じゃないけれど、固く外界を閉ざして一緒に現実から逃避してみたり。
「はい、ストップ」
割り込んだ聞き慣れた声が、神々しさを纏っていたのは初めてのことなんじゃなかろうか。
そろりと目蓋を上げれば、妙な方向にひん曲がった先輩の顔と、指先が白くなるくらい力の入ったおっきな手。
「昨日に引き続き今日も悪さをするなんて、なかなか大胆な人だね」
皮肉に歪む口元も、嫌みを吐くその姿も、泣けちゃうくらい格好いいよ、近衛氏!
ダークスーツで綺麗な顔で、威圧感たっぷりに高校生を見下す本領発揮の魔王様は、あたしを戒める腕を軽々と捻り上げその腕の中に憐れな小鳥(あたしのことよ!)を抱き込んだ。
「人の物と自分の物の区別もつかない?」
「…欲しい物がたまたま人のモンだってだけで、アンタは諦めんのか?」
しょ、消防車1台プリーズ!ここ火花が飛んでんですけどっ!引火しそうなんですけど!
「諦めはしないだろうけど、相手は見るね」
「勝算はあるぜ?」
これで自分が絡んでなきゃ、口笛の1つも吹いて見学するところなんだけどね。現に周囲はそんな野次馬が徐々に増えて来てんだけどね。
…当事者になったところを想像して下さい。
魔王様とぷち悪魔は、傍目には余裕かまして睨み合ってるし、取り巻く生徒の人垣に異常を悟った先生まで出張ってくるとあっちゃ、笑えない。
幸い言い合いに夢中であたしの行動までチェック入ってないみたいだし、やっぱこれでしょ。
マックスダッシュ!後ろは見ない、ついでに前もよく見ないでとにかく走れ!
「あ、こら!」
「早希!」
人を押しのけて何故だかカバンを死守しながら近衛氏の抱擁をスルリと抜けたあたしは、駅に向かう人波を縫うように進む。
小さな段差に足を取られ、追いすがる声に怯え、そんでも敷地内から逃げおおせればこっちのもんよ。
騒ぎが起こるのはいいわ、もう諦めたもん。学園生活に支障をきたさなければ多少のことには動じない自信があるけど、教師にばれたらピンチよ。
行き着く先がどこかなんてこの際構わない。どうせ追いつかれるのは計算の内。とにかく人目のないとこへ、ひたすら走って後は野となれ山となれってね。
「なに、してんだ…っ」
ゼイゼイ息切れしながら人影まばらな公園に後一歩で踏み込めるってとこで、先輩に捕まった。
予想外…近衛氏はどこよ?
「そっちこそ!…なんで、追ってくるの」
苦しい息の下、睨み上げた奴は不思議そうに首を傾げる。
「戦利品が逃げたら、追うだろ?あの会話ん中じゃお前、最重要人物じゃん」
わかんねえ?って聞かれたら、うんって言っちゃうもんねぇ。
だって、2人ともあたし抜きですっごい楽しそうだったじゃない。獲物がどうの言うより、牽制したり際どいとこ突いたり、どっちがより根性悪か競ってた感じ?
「この際あたしは忘れて、2人で気が済むまで戦ってみたらどう?」
その間、平和は訪れるからさ。より高度な嫌みの応酬に神経すり減らすのも一興よ。
「早希ちゃんいないんじゃ、あの男と争う意味ないだろ。男は欲しい物あると燃えるんだから」
楽しそうに笑った先輩をどつき倒したい。落ちてゆく夕日にバカヤローって怒鳴りたい。
お願い、早いとこ自分の望みに気づいて下さい。アンタたちは人をダシに駆け引きを楽しんでるんですよ。困難だから手に入れたい、奪われそうだから護りたい、その程度の感情しかないに決まってるんだ、絶対だ。
そこに愛はないっ!…たぶん。
「姑息なライバルから自分の物を死守する時も燃えるんだよ?」
汗一つかかず、息一つ乱さず、華麗に登場した近衛氏のセリフに目に見えて先輩の顔が楽しそうに歪んだ。
ほら見ろ、互いを見やる瞳が楽しそうにに輝いてるぞ。
かくして、帰路につく小学生の好奇の目に晒されたお馬鹿な大人が、第2ラウンドを始める鐘を鳴らしたのをあたしは聞いた。
…ホントに当事者に入ってるんでしょうか?あたし…やだな。