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「どちらへおいでですか?」
まだ玄関にも行き着かないってのに、おじさんの声に止められてしまった。
祖父母の住む、とんでもなく封建的な家に着いて十時間。既に何回言われたかわかんなくなりつつある台詞に、これまた何回ついたかわかんない悪態をついた。
「家へ帰るんですよ、平沢さん」
すっかり覚えてしまった名前を繰り返して、あたしは振り返る。
平沢さんとはここん家の運転手さんだそうで、三十半ばくらいの立派な体躯のお人だ。
お出かけの無い今日はお祖父ちゃんに命じられたとかで、つかず離れずあたしを見張ってる、つまり敵。
「早希さんの家はこちらです。お帰りになる必要は無いと思いますが」
にこりともしないいかつい顔でのたまうと、彼は視線を廊下の奥、あたしに与えられた離れに送った。
「ここはあたしの家じゃありません。止めても無駄」
言いざま庭に続くガラスの引き戸を開け放つと、一瞬反応の遅れて平沢さんを出し抜いて一気に走り出す。
ふふん。何度も脱走を試みていたのはあたしが学習しないお馬鹿だからじゃない、逃走経路を頭に叩き込んでたからなのよ。
離れの窓の外はでっかい犬が放してあるし、出入り口は平沢さんが固めてる。家の中は始終使用人がウロウロしてるし、庭には高い塀が巡らされてる。
唯一安全に脱出できる玄関は正面から出るのは困難だけど、でも庭から駆け抜ければすぐそこで、それには平沢さんの追撃をかわす足がなきゃいけないけど、あたしには平凡な運動神経しかない。
だから、数回目の脱出劇の時こっそり庭に続くガラス窓の鍵を開けといたんだ。八枚全部、見つかって締めてあったらと思ったけど確認したらノーチェック。部屋は広いが縁側を兼ねてる廊下はそんなに広くはない。
抱きしめていたでっかいカバンを投げ捨てて飛び出せば、平沢さんに数秒のロスタイムを作ってもらえる寸法で。作戦は見事大当たりで、裸足なのが気になったけど構わす玄関へ続く小路を駆け抜ける予定だったのに…。
「おっと!」
ぶつかりましたー!この感触は男の人だと思われます!
だって声は頭一個分高いところから、胸板はやたら硬いもん。こんな低音で筋肉質なお姉さんがいたら、イヤよ。
「どこへ行くの?お嬢さん」
「近衛様、申し訳ありませんがお放しにならないで下さい」
問いかけとお願いはほぼ同時。
くっそー!平沢さんに追いつかれたじゃないか!
万力の如く掴んだら放さない筋肉の塊みたいな腕の中、恨みがましく見上げた男は、綺麗だった。ええ、それもむかつくくらいすかした笑顔の美人!あたしより全然美人とか、腹立つんですけど!
「放してよ!」
女でも…いや女だからこそ、裸足で逃げ出したくなっちゃう美貌を睨み上げた。
「駄目」
簡潔に答えを述べると、そいつはあたしを抱き上げる。ふわりと軽い荷物だとでも言いたげに、容姿とはあまりに不釣り合いな力を以て。
「こらっふざけんな!はーなーせー!」
じたばたと無駄に足掻いてみたけれど、口汚い言葉で牽制してみたけれど、こいつ怯みもしない。
笑顔を絶やすことなく、近衛様っと声をかけてきた平沢さんを振り返る。
「ありがとうございました。代わります」
差し出されたごつい腕が檻に見えるのは、幻覚なのかな?…違う、現実だ…。
最早ここまでと観念したあたしはそっと息を吐き、引き渡される罪人よろしく抵抗を止めた。
負け戦は主義じゃない。男二人から逃げるだけの脚力も体力も無いんだから、次の機会でも伺うのが利口ってもんでしょう。
ところが、男は平沢さんの手を断って、こともあろうか抱いたあたしに耳を寄せるとそれはそれは色っぽく、気色悪い事をいうんだ。
「いや、僕が連れて行く。君が僕の奥さんになる人でしょ?じっくり、親交を深めようね」
あたし、反射的にひっかいちゃったわよ。手近にあった、お綺麗な顔を。これぞ防衛本能のなせる技、だねぇ。
見事な四本のみみず腫れをね、血を滲ます勢いでつけちゃったんだから。
だってそりゃそうでしょう。ナーバスになってる幼気な乙女をからかうなんて地雷を踏んだんだから、当然の報いよ。バカにすんじゃないっての。
「嫁はほかで見繕って下さい」
ふくれっ面のまま言い放ったあたしに、それでも笑顔を崩さない男。
……いや、この笑顔なんか底冷えがする。さっきと質が違うぞ…。
「猫は嫌いじゃない。でも野良は躾けないと飼えないなぁ」
ぞっとね、しましたよ。背中ににね、いやぁな汗、かきました。怖くて返事なんかできるかっての。この人、目が据わってますけど?まさか、犯罪者だったりしないようねぇ?
「急に元気がなくなったね、どうかした?」
…いけしゃーしゃーと。あんたのせいだって!わかってて言うな!
じじばばもある意味怖かったけど、あの人達にはこんな底知れなさは無い。
この男、相手に抵抗をさせず自分の意のままにする術を知っている、とってもヤバイ人種だ。本能が逃げろと叫んでる。
「……嫁は嫌です。祖父母にも言ったけど聞いてくれません。あなたがおばあちゃん言う所の婿ってのなら、断ってもらえませんか」
なので、とりあえず下手に出てみることにした。負わせた傷のことは、都合良く忘れて。
関わりたくないけど、関わらなきゃならない相手のようだし、そんならうまいこと利用して乗り切ろうって算段よ。
だってほら、こんだけの見かけしてて、お祖母ちゃんがイチオシならお金持ちなわけでしょ?年頃のお姉様方をよりどりみどりなんだから、乱暴で口が悪くて頭が悪くて顔は10人並、性格にだって多少難ありなあたしを選ぶ必要性がないよ。
わざわざ野良猫なんて飼わずに、血統書付きをゲットすべきだ。絶対!
つーわけで、2割良心から、8割自己保身からご忠告申し上げたんですがね。
「うん、そのつもりで来たんだけど、気が変わった。君ならいいよ」
黒いものがにじみ出した笑顔で、こんなこと言うんだよ!
なんで?どこで、そのありがたいお気持ちがひっくり返ったんで?全く覚えがないよ!
「冗談!断りましょう、今すぐ!」
どうして気が変わる?!普通こんな女見たら引くじゃん、てか、引いて!お願い!
あたしの声にならない悲鳴と、憐れな瞳がヤツの更なる興味をそそったのか、数分前より一割り増し(当社比)でご機嫌になるといらん説明をくれるんだ。
「お嬢様はたくさん見たけど、動物は初めてで楽しそうじゃない?女性と暮らすよりペットと暮らす方が快適に決まってるし」
「おまえもかー!!」
誰があたしを責められましょう?
ここへ来てから人権無視され続け、果てはペット扱いだって言うんだよ?
ええ、ええ、恐怖なんて一瞬で吹き飛びましたよ。手が出て当然、こんなヤツは成敗されて当然だ!
不安定な体制から繰り出された怒りの鉄拳は、だけど当たることはなかった。横から伸ばされた平沢さんの手に阻まれちゃったから。
力で叶わないことを知って、あたしを捕らえるとはひどいじゃないか!ええい、離せ!一発入れなきゃ気が済まないんだ!
振り返りぎっと睨み付けると、平沢さんはなんとも読みがたい表情で、ふるふる首を横に振っている。
「いい加減になさい」
(これ以上は逆効果ですよ)
あたしにだけ聞こえるように囁かれた言葉の意味はすぐにわかった。
「どうして止めちゃったの?僕たくさんお仕置き考えてたのに」
………今日始めて、他人に感謝したくなった。
マジ、ありがとー、平沢さん………。