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花嫁ってのんびりしてていいなぁ。
神社の控え室での感想はこれ。
祖父母、両親、共に挨拶回りでいないし、お姉ちゃんも久しぶりに会う、田舎のお祖父ちゃん達の相手をしてるし。
ここに座ってると、一月続いた喧噪が現実とは思えない。
学校行って、親戚への挨拶回りに引きずり回され、やれエステだ離れのリフォームだって気を休める暇もないくらい忙しかった。
その間近衛氏と2人きりになることはなくて、常に家族の誰が一緒にいて。
やっぱ、少し物足りなかったかな。せっかくその気になったんだしデートの1つもしたかったと言うか、ちょぴっとでいいから恋人の時間を楽しんでみたかったじゃない。
だって、今朝婚姻届を提出した時点で、あたし達は法的に夫婦でしょ?
恋人には2度となれないんだもん。なんか損した気がする。
普通の花嫁さんとはほど遠い、場違いな感傷に浸っていると、細く開いた窓からざわめく人達の声が運ばれてきた。
出席者控えの間と花嫁とを仕切るのは狭い中庭だけで、窓越しにこちらの様子が伺えないようきっちりブラインドが下ろされているから声だけ。
初夏の熱気が化粧を落とさないよう、がんがんにクーラーが効いていたけど、みんなが出て行くとき人の気配がないのは寂しいからと、少しだけ窓を開けてもらったのだ。
広い部屋でたった1人、静かでいいと思っていたけどなんか心細くなってきたな。
これから、結婚するんだよね?
名字は変わらないけど、無条件に大人に甘えていた子供時代が終わっちゃう。お祖父ちゃん達と敷地は同じだけど、リフォームされた離れは完全に独立してて、2人だけで生活を始めるんだ。
……果てしなく不安。どうしよう、逃げ出したくなってきた……。
急に全身を襲った先の見えない恐怖に、息苦しいほど帯で締め付けられた体が冷たい汗で濡れていく。
周りでうるさいくらいに騒がれて、目眩するほど忙しかった時にはこんな気持ちなかったのに、1人で考える時間をもらったらあれもこれも全部、自分には無理だと思えてくるんだから、不思議だ。
これって話に聞く、マリッジブルーってやつ?
頭でわかっていても膨らんでいく不安に押しつぶされそうで、あたしは壁に掛かったシンプルな時計で式の開始時間を確認していた。
現在9時10分。お母さんが迎えに来るって言ったのは9時45分。
まだ、間に合う…。
邪魔な白無垢の裾をはしたなく持ち上げて、かつらで重い頭に四苦八苦しながら、あたしは発作的に控え室を抜け出していた。
当然、後先なんて考えずに。
「隆人さん、ちょっと」
早希を迎えに言ったはずの母親が、顔色をなくして花婿の元に駆け込んできたのは、10時の式まで後10分ほどとなった時だった。
「何かあったんですか?」
社殿へ移動する列を抜け出した隆人は、近くの空き部屋に彼女を引き込み、穏やかな口調で問う。
時間的にも、状況から見ても良くないことが起こったのは一目瞭然だ。
しかも間違いなく花嫁がらみだと言うことも。
だが、ここで彼が感情を露わにしては、ただでさえ取り乱している彼女を更に混乱させるだけ。
内心の動揺を映すことのないポーカーフェイスに感謝しつつ、隆人は静かに次の言葉を待った。
「早希が…早希がいないんです。控え室に迎えに行ったらもぬけの殻で、主人と有希が捜しているんですがお式に間に合うかどうか…」
狼狽して今にも泣き出しそうな母親の肩をそっと叩いて励ますと、隆人は素早く最善の策に思いを巡らせた。
(あの格好だから遠くに行くというのは考えづらいな、とすれば敷地内にいる。招待客にも少しの遅れであればなんとでもごまかしが利くし、僕が行っても誤魔化せる範囲なら、自分で行った方が見つけ出せる確率が高いな)
短い付き合いだが、それなりに彼女の行動パターンを理解できるようになったと自負していた彼はそんな風に結論づけて、先の母親に微笑んで見せた。
「お母さん、花嫁が緊張で貧血を起こしたと、会長に伝えてもらえませんか?僕も心配でついていると。後は何とかしてくれるはずです。その間に必ず見つけますから」
だから、安心して待っていて下さい。小さくそう付け加えると、隆人は社殿の裏に足早に向かう。
これまで不安の1つも口にしなかった早希を、彼はそれなりに心配してはいた。
表面上は姦しい女性陣の愚痴を言ったり、時間の無さを怒ってはいたが、会うたび霞んだように光りをなくす瞳は奧に闇を抱え込んでいくようで、それがいつ爆発するのか落ち着かない思いで眺めていたのだ。
(何とか時間を作って、話を聞いていれば)
気づいていたのに、忙しさにかまけて彼女を一人にした自分に責任がある。
しっかりしていても、早希はまだ16にしかならないというのに。
舌打ちしたくなる後悔を抱えて、隆人は消えた花嫁を捜すため、いつか全力で駆け出していた。
まずい、やらかしちゃった…。
狭い物置の隅にうずくまりながら、既にあたしは激しく後悔している。
逃げたって事態が好転するわけじゃなし、式はともかくこの後に待つ披露宴に至っちゃ、やたらめったら大量の客がひな壇に座る新郎新婦を祝おうと群れをなしてやってくるのだ。
その場に花嫁が不在じゃ家族に多大な迷惑がかかる。
わかってる、わかってるけど今更どうしたらいいのよ!
思うように歩けない体を引きずって隠れた先は、荷物の詰め込まれた小さな部屋。
パニックを起こしていたのが幸いして、タクシーで家に帰ろうとか、白無垢を脱ごうとか取り返しのつかない事態だけは引き起こしてないけれど、ドア一枚隔てた先から聞こえるお父さんやお姉ちゃんの必死 の叫びは余計にあたしの体を動けなくした。
怖い…出て行ったら、あの不安の中で一生を過ごさなきゃいけない。
どんな泣き言を言ったところで、見つかれば否応なく祭殿に引っ張り出される。それはいや、考えただけで胃が引きつっちゃう。
かといって、逃げ続けることに解決なんかないっていうのだって、わかってる。
だからこそ起こるジレンマ。迷惑をかけて申し訳ない気持ちと、グルグルしてる不安と。
恐怖と動揺で頬に涙が流れた時、呼び声の中に近衛氏の声が微かに混じった。
「早希、どこにいるの?」
くぐもった呼びかけが、奧からドアを一枚ずつ開けて、確実にあたしの元へ近づいてる。
当事者が2人ともいなくて大丈夫?いや、そんなことより見つかったら怒られる?
体をできる限り縮めて壁に張り付きながら、再びパニックを起こしたあたしは、襲いくるその時に備えて息をひそめた。
見ツケテ。見ツケナイデ。ドウカ、オ願イ。
「早希?」
不意に鮮度を増した声が、頭上に響いた。
緊張で扉が開く音にさえ気づけなかったのに、伏せた顔に覆い被さる近衛氏の温度だけは、全身が感じて。
「こんなところに、いたんだね」
純粋な安堵だけを滲ませて回された彼の腕があたしを包み、恐怖に強ばった体をゆっくりと溶かしていく。
「ひとりぼっちにしてごめん。怖くなっちゃったんだよね」
言い当てられた本心に、緩んだ涙腺を止める術はなくて、ついには子供の様に大声を上げて泣きじゃくってしまった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
優しく背を撫でる手に全てをゆだねて、不安を涙に替えて泣き続けるあたしを近衛氏はひたすらに慰めている。
泣いて泣いて、お化粧が取れちゃうのも忘れて泣き叫んだあたしは、やがて耳元で囁かれる言葉に意識を奪われていった。
「早希の不安はわかっていたのに、話を聞いてあげられなくて、ごめん」
違う、自分の心が追いつめられてるなんて思いもしなかったあたしのミス。
「話せる時間はあったのに、1人で君を騒ぎの中に取り残した」
そんな余裕2人ともなかった。近衛氏だって大変だったんだもん。
「今日だって、客なんて放ってでも、君に会いに行けたのに」
できるわけないじゃない、自分達の為に集まってくれた人達なのに。
「本当に、ごめんね。この先はずっと一緒にいるよ。式の間もその後も、絶対1人にはさせないから」
「…ホントに?」
枯れてしまった声で問いかけると、抱きしめる腕に強い力が込められた。
ぼろぼろであろう顔を上げると、近衛氏の瞳が驚くほど柔らかな光りをたたえてあたしの視線を絡め取る。
「一生一人にしない?怖い時はずっと側にいてくれる?」
今日だけの事じゃないの、長い人生必ず待ってる不安な時間、必ず一緒にいてくれる?
言葉にできない思いを見透かしたように、近衛氏が世にも貴重な天使の微笑みをくれた。
「約束する。どんなときでも手を伸ばせば僕がいるから」
どうしても消せなかった大きな胸のつかえが、その瞬間溶けてなくなった気がした。
そうだよね、ちょっと待ってればよかったんだ。
祭殿に行けば近衛氏がいる、これからずっと一緒にこの人がいてくれる。
なんでそんな簡単なこと、思い出せずにいたんだろう。
あたし、1人じゃないのに。
「大騒ぎして、バカみたい」
愚かな行動の顛末が、笑っちゃうくらいお粗末なんて…あたし、救えないわね。
「安心できたなら、祭殿に行けるかな?」
のんびりとした近衛氏の声に、はたと思い出した今の状況はそんな悠長なものじゃなくて。
「ちょっと、いちゃいちゃするのは後にしなさいよ!もう予定時間から20分も過ぎてんのよ!!」
戸口に陣取ったお姉ちゃんとお父さんが、鬼の形相でこっちを睨んでた。
ひーっ!どうしよう?
「ここまで遅れたら、慌てても仕方ないよ」
慌てろよ!…いや、あたしのせいだけどさ…。
崩れた化粧を美容師さんの神業で直してもらって、祭殿に近衛氏と入ったのはそれから5分と立たないうち。
波乱含みの結婚生活第一歩だな…。もう逃げやしないけどね。
ここで一部は終わります。
少々時間をいただいて、二部を始めます。
お付き合いありがとうございました。