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監視付き…。
宣言は形だけじゃなかった。
イヤってくらい早く帰ってくるのよね、ここんとこ。思わず、仕事はどうしたって聞いたらば、
「優秀な兄さんがやってるよ」
って。
あんたの報復はどうしてそう、陰険なの?
兄さんて絶対大嗣さんじゃないよ。将彦さんはいるんだからさ、家に。
「そこ違ってる。なんで同じとこで間違えるのかな?」
近衛氏のプライベートルームにて現在…7時。始めてから既に1時間が経過してる数学の復習は、一向に成果を上げることはない。
ソファーの置かれた部屋の隣、寝室になっているここには普段彼の使っている大きな机がある。
どこからか引っ張ってきた木製の豪華な椅子を机の真横に貼り付けて、尊大にふんぞり返る近衛氏を見てると、部屋のシチュエーションてものが気にならなくていい。
普通はさ、ベッドがでんと構えてたら警戒するのが常識じゃん?
でも、この人ね、1日おきに通ってくるあたしを捕まえて、数字で殺そうって魂胆らしいの。
食事の用意してるの無理矢理引っ張ってきて監禁してさ、鞭でも使いそうな勢いで叩き込むのよ方程式。
オーバーヒート寸前のあたしは、優しかった大嗣さんに思いを馳せた。
言動の是非はともかく、彼に教わった時はスラスラ解けた問題が、近衛氏になってから亀の歩みほども進まないってのは問題よね。
あんた教師には向いていない。絶対。
「上の空だね。お仕置き考えなきゃ覚えられない?」
ぼけっと中空を見つめてたあたしの視界に、サタン降臨。
今、お仕置きって言った?何、その時代錯誤な言葉!
「全然全く必要ないです!頑張りますんで…」
どんな事されるのかわかったもんじゃないから慌ててノートに向かい合っちゃったわよ。
うぉう…数字怖い。
でも、この男の方がもっと怖い。…あたしこの人のどこが好きなの?日に日にそんな疑問が沸いてくるよ…。
「うん、もう面倒くさいし頑張らなくていいや。教科書と見つめ合ってもできないでしょ?」
突然投げやりになった大王様は、立ち上がりあたしからシャープペンとノートを取り上げると、鎮座するベッドを意味ありげに流し見た。
「学校辞めちゃいなさい。僕の子供でも産んだ方が君の為になる」
それかー!それがお仕置きかー!!
首が落ちるんじゃないかってくらい激しく振りながら、逃げ道を模索するあたしを見るのは本当楽しそう。根っからのサド…。
「勘弁して下さい、真面目にやるから、死ぬ気で覚えるから!」
懇願するのに極上スマイルは崩れない。どころかジリジリ距離がなくなってるし。
悲しいかな、後退しても椅子の背もたれが壁に阻まれて後がない。近くに扉もないと来た日には、どこへ逃げればいいのやら…。
「大嗣兄さんに教わった時は、随分すんなりできたんだってね?」
ぶつかり合った膝に動揺する間もなく、威圧的に見下ろす近衛氏は豹変の理由を吐露した。
そんな自分の無能をあたしにぶつけられても…比較対象が兄ちゃんになると人変わるんだからなぁ。
「人間には、向き不向きがあるじゃない」
励ますつもりで不用意に口にした言葉は、火に油注いじゃったらしい。
すっと細められた近衛氏の目が、嫌な光り方したもん。…地雷、踏んだ?
「僕に勉強を教えるのは、無理だって言いたいんだ」
「めめめっ滅相もございませーん!!」
変わった声のトーンに全身チキン肌化しちゃったら、逃走!
右は机が邪魔してるけど、左はフリーだから近衛氏をかいくぐって行くのも不可能じゃないはず…だったのに目の前にニュッと現れた彼の腕があたしの動きをせき止めた。
「逃がさないよ。早希に教えてあげなくちゃいけないからね」
耳元で囁かないで、おねがいだから。
ときめくほど近くに好きな人がいるはずなのに、何故冷や汗が流れるのかな。
ってか、数学教わってたはずなのにこの展開って理解の範疇越えると思わない?
無駄に広い部屋の中、隅に固まって硬直する女と、追いつめて楽しむ男。
階下には、おば様だって将彦さんだっているのに全く意に介さない強引野郎に身の危険をひしひし感じつつ、この先を考えることさえできない。
「こっちを向いて」
胸焼けしそうに甘い声に諦めを悟った。
だめだ、こいつの気が済むまでは解放されそうもない。
おとなしく従いながら次のチャンスを窺う方が、余計な体力を使わなくて済む。
音がしそうなくらいゆっくりと近衛氏に向き直ると、予想以上に近くにあった顔は唇が触れそうだった。
吐息のかかる距離、音が消えたような世界、恋愛に夢いっぱい抱いちゃってるあたしとしてはこの上なく流されそうなムード。
いつになく柔らかな表情で、綺麗な顔に微笑みまで浮かべられた日には…まずいなぁ。
「早希…」
囁き声が呪文のようにあたしの体を縛った時、邪魔か助けか陽気な叫びが響いた。
「ふたりとも、食事だよ!」
家でもラフなスタイルを好まない、優男登場。
至近距離で近衛氏が舌打ちをするのが聞こえる。
「兄さん、ノックって知ってる?」
怒りを隠そうともしない弟に、全くめげることのない将彦さんはオーバーに肩をすくめると、したよっと笑う。
「そりゃあもう、僕の繊細な拳が腫れ上がるほど叩いたのに、返事をしないから入ってきたんじゃないか」
あー…気がそがれるなぁ…反論するのもバカらしいくらい自分の世界だなぁ。
オーバーアクションに加えてナルシスト入っちゃってる将彦さんは、用もないのに前髪を掻き上げると一人ポーズを作ってる。
脱力してるのは近衛氏も御同様らしくて、無言であたしから離れると振り返りもせずに部屋を出て行った。
取り残していかないでよ、こんな奇妙な生物と一緒にさ。
「やれやれ、相変わらずよくわからない弟だな」
己を顧みたことはないらしい将彦さんは、去りゆく近衛氏を見送った後、ステージの上のスター顔負けの仕草であたしに手を差し出した。
「では、参りましょうか?お嬢さん」
輝く微笑みも、時に頭痛の種にしかならないことを知った瞬間だった。
…近衛氏がまともに思えるようじゃ、あたしもお仕舞いね…。