1-7 上杉 美咲
買ってきた荷物を持って、家へと繋がる坂をゆっくりと下っていく。
帰りは都立公園を通らずに、この坂を利用するのが定番。
昔、玉葱やレモンを転がしたこともある意地の悪い坂だけど、帰りはどうしてもここを通らないといけない気分になる。
「荷物重い?」
「重いけど大丈夫」
「そう」
「それにしても直、いっぱい買ったね」
「春が来ないから」
「そっか」
あの後、絵里ちゃんと僕の奮闘を遠目から見守っていた直が、すべての材料をカゴの中に入れ終えて待っていた。
直は律儀に重いカゴを持ちながら、精肉売り場の少し手前でこっちを見ていた。
「あのさ直」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「うん」
直の返事を受けて、僕は言う。
「僕が直を忘れて会話に興じていたのがいけないんだけど、どうして待ってることを言ってくれなかったの?」
「二人が楽しそうだったから」
「それで?」
「それを見守っていたかった」
「どうして?」
「なんとなく」
一応答えは予想できたが、その通り。
しかし直は、ときどき僕には思いつきもしないようなことをする。
「まあ、そう思うなら直の好きなようにすればいいか」
「ん」
坂を下り終え、僕と直が住んでいる東風荘はもうすぐ。
東風荘はけっして贅沢な建物ではなく、築三十二年の鉄筋コンクリート。部屋の数は一号室から八号室。トイレは共同で、風呂は完備していない。
なので住人の多くは、近くの銭湯を利用している。
そんなボロアパートだ。
「ただいま」
「ただいま」
三号室。
表札の坂本をいつもどおりに確認し、僕達は部屋に入る。
買い物で買ってきた荷物を一旦床に置き、部屋のカーテンを開けようとしたその矢先。
ピンポンと古臭いチャイムがなった。
「二人が帰ってくるの、待ってたよ」
まだ玄関を開けてないのに声が聞こえてくる。
「どんだけ暇なんですか」
「そう、油断すると大学生はすぐ暇になるのね」
やはり、声の主は美咲さん。
通名は、上杉美咲。
彼女は隣の二号室の住人で、世話になっているんだかわからないぐらいこの部屋に入り浸る人である。
まあ、総じて交流が深い人。
「で、開けて」
「はいはい」
「お、その声は春坊だな」
「今さらですか」
「ていうか、直っちに開けてほしい」
「わがまま言わないでください」
そう言うとともに、僕は玄関のドアを開ける。
するとその瞬間、三和土の上にどさーっと大きな段ボールを下ろす美咲さん。
やけに凛々しい表情で、かいてもいない汗をぬぐうふりをする。
「はい、これじゃがいも」
「って、なんなんですかこの量は」
「あげるよ」
「じゃがいも?」
直も何事かとこっちにやってくる。
それだけで、この狭い玄関は許容オーバーになっていく。
「ん? メークインはだめなのかい?」
「いや、そういう問題じゃなくってですね。嬉しいですけど、量が半端ないというか多すぎるというか」
「いいじゃん」
「よくないですよ」
「ほら、中にはじゃがいも以外も入っているぞ」
がさごそと段ボールを開ける美咲さん。
どんどんと中の物を取り出していく。
「お、こんなのが入っていたとは」
「はぁ、ここに持ってくる前に確認してください」
ため息をつきつつも彼女を見やる。
今日も相変わらず、美咲さんは美咲さん。
これで彼氏持ちなのはよく見れば美人なのだからだろう。しかし、その素材を生かさないだけではなく、持って生まれたずぼら気質が魅力を殺している。
髪もうねるように伸び放題。もっとも、本人は無造作でボリューミなヘアスタイルと公言している。
「春坊」
「なんですか」
「今、なんか失礼なこと考えたんじゃないの」
「い、いえ」
「それじゃあエロいことか」
つん、つんと鼻を突っついてくる。
そんな美咲さんは、やはりうっとおしい。
「そうそう、この前春坊が読みたいと言ってたアレどうなった?」
「なんですか? それ」
「『親愛なる義妹』というタイトルの官能小説」
「って、何を言ってんですか。違うでしょ。あれ、美咲さんが勝手に置いてったやつじゃないですか」
美咲さん相手には、普段温厚な僕もつっこみを入れてしまう。
「い・も・う・と」
「だからなんなんですか。だいたい『親愛なる義妹』なんてふざけたタイトルで――じゃなくて! とにかく、こっちはほとほと困っていたんですからね」
「そんなー、ほんとは熟読しているんじゃないの?」
「なわけないでしょ」
「またまたぁー、ムキになるところ怪しいなあ」
「ムキになっていません」
「春」
直までかわいそうな目で見つめてくる。
「何さ、直」
「ほどほどにしないと悪影響だからね」
「違うーっ」
いくら直の方がしっかりしているからって、無表情でそんなことを言われたらたまったもんじゃない。
こっちのプライドがずたずたになる。
「まあ、うまく春坊も直っちも上手く付き合いなさいな」
「ん」
「だからそんなふうにまとめないで」
僕は必死になって主張するのだった。