1-1 春と直
「春、春」
それは優しくも低音な直の声。
さらには、揺り起こすような軽い振動。
何度かあった光景だと思いつつも、ゆるゆるとしたまどろみに浸る。
けど、その状況がとにかくおかしい。
「あっ」
僕は、ようやく今の状況に気がつく。
こんなところで、うたた寝をしている場合ではない。
「直」
「ん」
「ごめん」
「春、いい」
直は、心の底から謝る必要なんかないという表情。
ただ、直の場合は無表情。
だから、普通の人に見分けはつきにくい。
僕と後一人、幼馴染だけが判断できる。
「それよりも、春」
「ん?」
「気分は?」
「え?」
「気分」
「ああ、問題ないよ」
こんなときでも、こっちの心配をしてくれるのが直。
「うん、大丈夫だな」
頭の一番深いところを意識して、僕はもう一度つぶやく。
「大丈夫だ」
すると直は、僕の手を握ってくる。
「よかった」
しかし僕は、とにかく両手をのばし、さらに意識を覚醒させる。
もちろん、照れくささもある。
目前には、いつもよりとりすました表情の直。
あいかわらず可愛いよりも美人に分類される顔立ち。
いつもと変わらない、世の中の曖昧な事象をすべて見通していそうな瞳。それは目元ぱっちりではなく、一重の奥ゆかしいかんじの瞳。
黒目の中の僕が透けて見えている。
「春、それで」
「うん?」
「どうしたの?」
「あ、そうだね。なんて説明すればいいんだろう」
「なんか起こったの?」
「ああ。でも、言葉にすれば全然たいしたことないよ」
直が首を傾げる。
そのまっすぐな黒髪が糸を引くように流れていく。
「今さ、ちょっと眠ってたんだ。ただ、それだけ。……ほら、一瞬だけ意識を持ってかれることってない?」
「あるかな」
「うん、あるよ。きっとさ。こう、なんでもない瞬間に持っていかれるようなかんじでさ。自分でもああ、持っていかれたなってかんじのやつ。そんな会心のうたた寝に誘われたんだ。これ、直もあるでしょ」
「ん。あるかも」
「でもさ、そのときに直の声が、頭上から降ってきたんだよ。なんかのフラッシュをたかれたみたいだった。こう光が一点に収束するような感覚でさ」
僕はそう言うが、直はいつものように無表情。
「どう思う?」
「わかんない」
やはり直の表情は変わらない。
そして、あいかわらずの口調。
でも直は、口数が少ないことで、息詰まることがない。
そんな不思議な雰囲気を備えていた。
「でもね、春」
「ん?」
「ここで寝てはいけない」
「あ、そうだよね」
それもそのはず。
今、僕達は屋上の一角にある給水タンクに身を隠している。
この大玉みたいな給水タンクのタラップを登ると、人二人分くらいのスペースがあってそこにいる。
もっとも、人二人分といってもぎりぎりのスペース。
直と僕は、互いに身を寄せ合って隠れていた。
「ところでさ直、なんでこんなところに給水タンクがあるんだと思う?」
「春、それは真理」
「どういう意味?」
「水は高いところから低いところ」
「そっか」
僕は納得してうなずく。
直はまるで姉みたいだが、年子の妹である。
僕の生まれが四月、直が三月。
同じ学年という珍しい兄妹。
その割には、僕が直に付き従っている。
なぜなら、直は賢かったが、僕はそうでもないから。
直に心の偏差値というのがあれば、間違いなくその値は高い。相手を思いやる気持ちと、誰かを幸せにする能力。この二つは格段に抜けている。
つまり何が言いたいのかと言うと、僕の自慢の妹だということだ。
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