10話 安堵
糸が切れるように、急激な加速が止まった。
次の瞬間、空は地面を踏みしめる。
いや、踏みしめたつもりだった。
だが、身体はもうまともに言うことを聞かなかった。
「――っ」
美景を抱えたまま数歩よろめき、そのまま石畳のない参道脇の地面へ膝をつく。
さっきまで無理やり押さえ込んでいた痛みと疲労が、一気に全身へ押し寄せてきた。
肺が焼けるように熱い。
腹を蹴られた痛みも、転がった時の背中の痛みも、無理やり”感覚”を行使した反動も、全部が遅れて噛みついてくる。
「蒼月くん!」
美景の声がすぐ近くで響いた。
抱えられていた腕が外れ、美景が慌てて体勢を立て直す。
そのまま空の肩へ手を伸ばした。
空は地面に片手をつき、荒い呼吸のまま顔を上げる。
ここまで来れば、すぐには追ってこない。
少なくとも、あの場にとどまることを考えれば幾分か安全なはずだ。
その確信が、ほんの一瞬だけ身体の緊張を解いてしまった。
「悪い……」
掠れた声が落ちる。
「ここまで来ればって、気が緩んだ」
美景が目を見開く。
空の状態は、自分でも分かるくらいひどかった。
腹部を蹴り抜かれた痛みで呼吸は浅い。
背中や肩はさっき吹き飛ばされた時の衝撃でまともに感覚が残っていない。
その上、限界寸前の状態で”操糸”を使った反動まで重なっている。
満身創痍だった。
美景が何か言おうとする。
けれど、その前に遠くから足音が聞こえてきた。
複数人。
迷いなくこちらへ向かってくる。
補助隊員たちだ。
どうやら、ここまでは辿り着けたらしい。
その事実を認識した瞬間、空の意識が急激に遠のく。
張りつめていたものが切れた。
もう、身体を支えているだけの力が残っていない。
視界の端で、美景の銀髪が揺れる。
「蒼月くん!」
名前を呼ぶ声が、どこか遠かった。
駆けつけてくる足音。
ざわつく気配。
誰かが何かを叫ぶ声。
その全部を、空はもうまともに拾えなかった。
最後に聞こえたのは、美景の焦った声だけだった。
そして空は、そのまま意識を手放した。
◇
意識が浮かび上がる。
最初に感じたのは、ぼやけた白さだった。
薄く目を開けると、視界いっぱいに白い天井が広がっている。
鼻先をかすめるのは、消毒液と薬品の匂い。
身体のあちこちが重い。だが、動かそうとするより先に、すぐ傍から軽い声が降ってきた。
「お、起きた?」
聞き覚えのある声だった。
空はゆっくりと視線を横へ向ける。
「……猫屋さん」
「うん、猫屋さんだよ」
相変わらずの軽い口調。
けれど、その声を聞いた瞬間、空の意識は一気にはっきりした。
「ここは……医務室……?」
上体を起こそうとして、すぐに身体のあちこちが軋む。
「っ!?」
「そう、春日部隊室だ」
猫屋がすぐに言う。
「まだ治療途中だから、あんまり体は動かしちゃだめだよ」
その言葉に、空は無理に起き上がるのをやめた。
代わりに首だけ動かして、周囲を見渡す。
見慣れた白衣の棚。薬品。治療用のベッド。
たしかに春日部隊の隊室だった。
そこで、空は気づく。
「……白雪は」
猫屋は少しだけ目を細める。
「白雪ちゃんなら、一足先に帰らせたよ」
空の視線が猫屋へ戻る。
「君ほどの怪我じゃなかったから、治療自体はすぐ終わったんだけどね」
そこで猫屋は、少しだけ間を置いた。
「君が重症だったのもあって、寝ずに看病してたんだ。さすがに体に毒だから帰らせた」
「寝ずにって……!?」
思わず声が上ずる。
「俺、どのくらい寝てたんですか!?」
「丸一日ってとこかな」
猫屋はあっさりと言った。
「まぁ仕方ないよ。ただでさえ疲労困憊なところを、陽奈ちゃんの”活性”で無理やり治療した部分もあるから」
その言葉で、空はようやく自分の身体の妙な重さに納得した。
痛みはかなり引いている。
だが、その代わりに身体の芯が鉛みたいに重い。
ただ眠っていただけじゃない。限界を超えた状態から無理やり引き戻されたのだと分かる感覚だった。
空が黙り込んだのを見て、猫屋は少しだけ視線を落とした。
それから、静かに言う。
「今回の件は完全に僕のミスだ」
空が目を向ける。
「本当にすまない」
その声には、いつもの軽薄さが欠片もなかった。
軽口も、冗談めいた笑みもない。
ただ真っ直ぐに謝罪している。
それがあまりにもらしくなくて、空は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……いえ」
何とかそう返す。
「あんなのがいるなんて、予想できません」
それは本心だった。
あれは、今まで見てきた異形とは明らかに何もかもが違った。
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