4 ディスレクシア
アーシャになって、一週間が過ぎた。
長かったのか、短かったのか、よく分からない。
私の体はどうなっているのだろうか。
そればかり心配していた。
──辿り着いた結論。
恐らく、私の体の中にはアーシャがいる。
重傷を負って、辛い目に合っているはずだ。
それは、申し訳ないと思う。
ようやく熱が下がり、体が少し軽くなった朝。
私はポーラに言った。
「紙とペンを用意してくれ」
「代筆ですね?」
「いや、自分で書く」
「え?」
その顔は、明らかに怪しんでいた。
まるで、私が別人になったみたいに。
……ある意味、間違っていないのだけれど。
「イザベラ様に手紙を出す。お見舞いの花束のお礼だ」
「はぁ……用意は致しますが」
どこか歯切れの悪い声。
そしてそのまま部屋を出ていった。
……本当に、無礼な侍女だ。
そう思いながら、私はぼんやり天井を見上げる。
さて。
何と書くべきだろう。
正直に書いて、母上は信じてくれるだろうか。
いろいろ考えているうちに、ポーラが戻ってきた。
小テーブルをベッドの横に運び、紙とペンを並べる。
私はゆっくりとペンを握った。
そして――
固まった。
「どういうことだ……」
手が動かない。
いや、動くのだけれど。
書けない。
何かを書こうとするたび、
紙の上には意味不明な線が並ぶだけだった。
文字にならない。
「だから代筆致しますと……」
ポーラの声が、どこか諦めたように響く。
私は顔を上げた。
「本、本を持ってきてくれ。早く!」
「何を、お読みされますか?」
「絵本だろう? 早く持ってこい!」
「絵本はございませんが?」
「何でもいいから!」
数分後、ポーラが何かの本を持って戻ってくる。
私はそれを奪うように受け取り、
慌ててページをめくった。
そして。
「読めない……」
思わず声が漏れた。
まったく読めない。
二歳児並みとか、そういう問題じゃない。
文字が全部、逆さまなのだ。
鏡に映したみたいに見える。
頭の中で形がひっくり返り、意味を失っていく。
「これはなんだ?」
ポーラは小声で答えた。
「お嬢様は、文字を正確に認識できないのです」
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
「知らなかった……」
ポーラは少しだけ優しい声になった。
「大丈夫ですよ。代筆致します。本だってお読みしますから。それにお嬢様は記憶力が抜群なんです。本を1冊、丸暗記できるのです。凄いことですよ?」
私はゆっくり瞬きをした。
「そうなのか」
「はい。楽器の演奏も一度聞いただけで、何でも弾けます。手先も器用で、刺繍の腕は誰よりも優れています」
「それは、大したものだ」
体験して分かった。
アーシャは――障害を抱えていた。
文字の読み書きが、全く分からないのではない。
ただ、それが困難であって、
決して無能では無かったのだ。
それなのに。
私はずっと彼女を愚か者だと思っていた。
王家にはふさわしくないと。
……いや。
違う。
私は、そう思わされていたのだ。
レオンとセリーナに。
──疑いもしなかった。
愚かなのは、私の方だった。
母上には、手紙を出さなかった。
直接会って、全てを話そうと決めた。
そして――この日の午後。
落ち込んでいる私の元に、
レオンとセリーナがやって来た。
レオンとセリーナ。
誰が見ても、完璧な兄妹だった。
レオンは、私の側近。親友のような関係だ。
聡明で、誇り高くて、誰よりも信頼していた男。
そして――セリーナ。
初めて会った瞬間――私の女神だと思った。
聡明で、美しくて。
どこか憂いを帯びた横顔は、触れたら消えてしまいそうなほど儚かった。
もし、もっと早く出会っていたなら。
私は迷わず求婚していた。
そう思うたび、胸の奥がひどく痛んだ。
アーシャのことを、
レオンはこう言った。
『無能なのです。我が家の厄介者。父も嫌悪して全く無視しています』
嘘だ。
侯爵は肺炎のアーシャを心配していた。
そして私とアーシャの婚約が決まったとき。
セリーナは、優しい声で言った。
『殿下はお気の毒です。でも、妹は可哀そうな子なのです。どうか、大事にしてやって下さいね』
あの時の私は、それをセリーナの真心だと思ったのに。
全く違った。
二人は、私とアーシャの婚約を、まるで悲劇みたいに語りながら――
ずっと、私を嘲笑っていたのだ。
読んでいただいて、ありがとうございました。




