3 不安と孤独
翌朝、目を覚ました瞬間に理解した。
これは夢じゃない。
私はまだ――アーシャの体の中にいる。
胸の奥が重く沈んでいく。
鏡を見せてもらった。
──映っていた顔はアーシャ。
疲れきった顔。
血の気を失った唇。
美しい金髪は汗で湿り、額に貼りついている。
そして、大きな緑の瞳。
いつも私を見つめていた目だ。
まるで、何か言いたそうに。
……あの目を、私は何度見ただろう。
月に一度の親睦の時間。
それだけが、婚約者として顔を合わせる唯一の機会。
紅茶を飲むだけで、私は彼女を無視し続けた。
アーシャの呪いなのか?
それとも神の悪戯か?
信じ難いが……これは現実だ。
肺の痛みは、昨日より少しだけ楽だった。
アーシャの専属侍女はポーラと名乗った。
どうやら彼女は、私を完全に《せん妄》状態だと信じている。
それはむしろ都合がよかった。
そしてポーラは――
私が一番知りたかった話を、あっさり口にした。
「お嬢様、エリック殿下が昨夜、大怪我をなさったそうです」
心臓が強く跳ねた。
「それで、それでどうなった?」
「重体ですが生きています。ホント……残念でございますね」
「は?」
この侍女は何を言ってる。
「亡くなれば、婚約が解消されましたのに」
「不敬な! ……ゴホッ、ゲホッ……」
「すみません……でも、ちっともお嬢様を大事にしない、冷血漢で最低な男でございます」
……何も言い返せない。
それも当然だ。
アーシャに嫌われるよう、わざと無視していた。
好かれたいとも思わなかった。
けれど――。
少なくとも、私は生きているらしい。
早く母上に伝えなければ。
この異常な状況を。
この、狂った現実を。
そのためにも、まず回復することだ。
そう考えている間も、ポーラは喋り続けている。
「今朝も、シリウス様からお見舞いの花束が届いています。あの方はお優しいですね。お嬢様が倒れたと聞いて、名医を差し向けて下さったのも、シリウス様です」
「シリウス……」
思わず呟く。
セリーナの婚約者。
地味で、印象の薄いアーヴァイン公爵令息。
きっと優しいセリーナが、妹のために彼へ相談したのだろう。
そう思って、私は聞いた。
「セリーナは来ないのか?」
ポーラは即答した。
「旦那様が、接見禁止にしております」
「なぜ?」
「あんなに虐められたのも、お忘れですか? 3年前に、旦那様が心配されて、この離れ屋に移して下さったんですよ?」
私は思わず眉をひそめた。
「虐めた? セリーナが?」
「そうです。兄のレオン様も、それはそれは意地悪で」
「う、嘘だ。そんなはずない」
ポーラはきっぱり首を振る。
「回復したら、きっと思い出されますよ」
……レオンもセリーナも誠実で、優しい人間だ。
けれど――。
……いや。
こんな使用人の言葉を信じるなんて、馬鹿げている。
私は顔を背けた。
「もう下がっていい。一人にして欲しい」
「いいえ、熱が下がるまではお傍にいます」
無礼な侍女だ。
そう思ったが、ポーラは一日中、
驚くほど丁寧に看病をしてくれた。
食事を運び、着替えや薬を用意し、
額に当てた濡れタオルを、何度も取り替えた。
この離れ屋でアーシャの面倒を見る使用人は、ポーラだけだった。
多分、アーシャは侯爵家の厄介者なので、使用人からも嫌われているに違いない。
この日――
シリウスの花束以外、何も届かなかった。
誰も見舞いに来なかった。
次の日。
私が眠っている間に、
アーシャの父である侯爵が様子を見に来たらしい。
「本当に、旦那様は心配されていましたよ」と、ポーラが言った。
翌々日。
やはり誰も来ない。
熱はまだ下がらない。
そしてまた、シリウスから花束が届いた。
「<早くお元気になられますよう>と、メッセージがありますよ」
そう、ポーラが言った。
ふと思った。
もし――。
私が見舞いに来ていたら。
アーシャは、喜んだだろうか。
読んでいただいて、ありがとうございました。




