2 エリックの場合
あの日、セリーナは私に言いました。
『殿下と私は愛し合っているの。お前は殿下に憎まれて可哀そうね』
そんな、酷い言葉。
私は、聞き返しました。
『シリウス様はご存じなのですか?』
セリーナは、少しも悪びれずに笑いました。
『ふふ、もちろん黙認されてるわ。政略婚ですもの、お互いどうしようもないのよ』
シリウス様は、とても優しい、誠実な方。
私にも丁寧に接して下さる、数少ない一人。
結婚すればきっと、
セリーナは幸福になるのでしょう。
その心が――
エリック殿下のものであっても。
いつだったか、イザベラ様は仰いました。
政略婚とは、家と家の結びつき。
愛や心は関係ない。
けれど。
男女の仲は、結婚すれば変わっていくのだと。
いつか、エリック殿下の心も、
私を受け入れてくれるはずだと。
……私は、その言葉を信じたかった。
まやかしでもいいから。
でも。
殿下は、死ぬほど私を嫌っていた。
そんな方が、これから私を受け入れるなんて、
あり得ない。
──私は決めました。
この婚約を終わらせようと。
だから。
「母上、もしセリーナと結婚できなければ、もう一度、私は死を選びます」
エリック殿下だって、
きっと、そう思うに違いありません。
私は身を引き、殿下とセリーナを結ばせてあげます。
そうすれば――
きっと私は元の体に戻れる。
どうしてか分かりませんが、そう確信していました。
今、私の体にはエリック殿下がいる。
私達は入れ替わっている。
これは、お互いの運命を変えるべく、起こった奇跡なのだと。
*****
目を覚ました瞬間、体が石のように重かった。
空気が足りない。
喉の奥が焼けるみたいに痛む。
「はあ……はぁ……」
浅い呼吸が、情けないほど弱く漏れた。
「お嬢様、気がつかれましたか?」
優しい声に顔を向ける。
そこには、若い女性が立っていた。
質素な服。控えめな姿勢。
どう見ても、使用人だ。
今、彼女はなんと言った?
お嬢様だと?
私は、この国の第二王子だ。
エリック・ローワン。
17歳。
ここはどこだ?
くそっ! ――声が出ない。
胸の奥で、不安がゆっくりと膨らんでいく。
……まさか。
私は、誘拐されたのか?
「今すぐ医師をお呼びします」
女は慌てた様子で部屋を出ていった。
残された私は、ただ天井を見つめる。
そして、必死に記憶を探る。
私は……。
そうだ。
落ちたんだ。
バルコニーから。
手すりが壊れた。
あれは事故だった。
その直前――私は母上と口論していた。
『アーシャとの婚約を解消して下さい! 彼女を妻にするくらいなら、死んだ方がマシです』
今思えば、あまりにも幼稚な言葉だ。
けれど母上は、いつも通りだった。
『脅しても無駄です。解消は出来ません』
これは、王太子の座を巡る、大切な政略婚だ。
そのことくらい、私だって理解している。
それでも――
私はアーシャを愛せない。
『明日は必ずアーシャの見舞いに行くのです。いいですね!』
彼女は肺炎で重体らしい。
別に、私は彼女を憎んでいるわけじゃない。
アーシャは、可愛らしいご令嬢だ。
ただ――。
彼女は、16歳にもなって読み書きが出来ない。
未だに、乳母に絵本を読んでもらっているらしい。
これは、
彼女の兄姉から直接聞いた、確かな話だ。
──彼女は王子妃として相応しくない。
そして私は――
アーシャの姉、セリーナを愛してきた。
けれど彼女には、すでに婚約者がいる。
だから。
セリーナをきっぱり忘れるためにも、
アーシャと婚約を解消したかった。
セリーナが義姉になるなど、耐えられない。
『私が死んでも良いのですね?』
『エリック!』
怒った母上の声を背に、私はバルコニーに出た。
そして勢いに任せて、手すりに足を掛けたのだ。
もちろん、本気で死ぬつもりなんてなかった。
ただ、知って欲しかった。
どれほど強く、婚約を解消したいのかを。
そして、体重を預けた――その瞬間。
バキッ!
手すりが、折れた。
次の瞬間、体が空中に放り出される。
落ちる。
真っ逆さまに。
夜空が回転する。
それから先の記憶は――何もない。
馬鹿なことをしてしまった。
呼吸は苦しい。
けれど、体に怪我をしている感覚はない。
しばらくして、医師がやってきた。
診察のために腕を取られたとき、私は違和感を覚える。
細い。
あまりにも華奢な腕だった。
私の腕じゃない。
そして――胸。
柔らかい膨らみが、確かにそこにある。
息が止まりそうになる。
心臓が、胸を突き破りそうに暴れた。
私は――
女性になっていた。
信じられない。
「わた…し、だ……れ?」
絞り出したのは、完全に他人の声だ。
「アーシャお嬢様? 先生、これは記憶喪失ですか?」
アーシャだと⁈
「《せん妄》状態ですね。回復すれば元通りになりますよ」
医師は落ち着いた声でそう言った。
けれど私の頭の中は混乱していた。
アーシャは肺炎で重体だと聞いた。
まさか――
アーシャは死んだのか?
だから私の魂が……呼ばれた?
いや、私の体は?
私は、どうなった?
医師に薬を飲まされた。
すぐに瞼が重くなる。
意識が、深く沈んでいく。
これは夢だ。
きっと夢だ。
次に目を覚ましたら――
すべて元通りになっている。
そう信じながら。
私は、深い眠りの中へ落ちていった。
読んでいただいて、ありがとうございました。




