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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第七章 最適化された依存、完成された生態系
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夜の底で知る親の愛

 ――side. 井神 凉――


 夜の九時を回った頃。

 玲茄、茉依、悠希、そして美琴がそれぞれの家へ帰り、我が家には久しぶりに、俺たち家族三人だけの時間が訪れていた。


 数時間前までの、あの異様な熱気と狂信、そして張り詰めた知性のぶつかり合いが嘘のように、リビングには静寂が落ちている。


「……私は、先に部屋へ行くわ」


 母さんが立ち上がり、静かな声で言った。

 一日がかりの面談で、さすがの彼女も疲労の色が隠せないようだった。


「あとは、男同士で話しなさい」


 母さんは俺と父さんを交互に見て、それだけ言い残し、二階の寝室へと上がっていった。


 ――パタン、と扉の閉まる音。


 リビングには、俺と父さんの二人だけが残された。


「……ふぅ」


 父さんはソファに深く身を沈め、天井を仰いで小さく息を吐いた。

 それから、ゆっくりと首を巡らせ、俺の目を真っ直ぐに捕らえた。

 その目には、昼間の"分析者"の光はない。ただ純粋な、ひとりの"父親"としての静かな熱が宿っていた。


「どうやら、今回は腹が決まっているみたいだからさ」


 穏やかな声だった。


「昼間は智里の手前、あえて厳しいことも言ったけど……今のタイミングで、父親としてしっかり話しておこうか」

「……ああ」


 自然と背筋が伸びる。


「凉。お前が中学であの子たちを連れてきてから今まで……僕たちが、親としてどう思ってきたか。わかるかい」


 父さんの口から紡がれたのは、予想外の言葉だった。


「智里はね、最初――毎日泣いていたんだよ」

「え……?」


 俺は思わず目を見開いた。


「信じられないだろうけどね。……一人息子のお前が、どうなるのか。壊れてしまうんじゃないかって、ずっと怖がっていた」


 胸の奥を、鋭い針で刺されたような痛みが走った。


 あの時の母さんの言葉。視線。圧力。

 全部が"監査"だと思っていた。


「……っ」


 喉が、わずかに詰まる。


「だから智里は、必死でお前を縛ろうとした。壊れないように。取り返しがつかなくならないように。それが、この"箱庭"なのさ」


 父さんの言葉は淡々としていた。

 だが、その一つ一つが、重かった。


「……」


 俺は何も言えず、ただ拳を握る。


「……今の凉を取り巻く環境は、どう贔屓目に見ても"普通"じゃない。異常だ。だが、お前たちにとっては、それがすっかり"普通(にちじょう)"になってしまっている」


 父さんは、テーブルの上で両手を組んだ。


「普通じゃないと自覚しているものを、人は隠そうとする。……お前たちも、今までそうやって守ってきたんじゃないか?」


 父さんの目が、俺の奥底を射抜く。

 俺の脳裏に、嵐田を屈服させたあの光景がフラッシュバックした。


「……」

「だが、僕が問いたいのはそこじゃない」


 再び、視線が突き刺さる。


「その結果について、お前は後悔していないな?」

「してない」


 即答だった。


「誰かの恨みを買うような、致命的なミスはしていないな?」

「……ない」


 確かな覚悟を混ぜて、俺は父さんの目を見返した。

 父さんは俺の目をじっと見つめ、やがて「そうか」と短く頷いた。


「僕はこの状況を、"実験"だと言ったことがあったね」


 父さんの口元が、少しだけ緩んだ。


「針のむしろのような状態からスタートし、ほんの小さなほころび一つで、すべてがドミノ倒しのように崩れ去る、そんなバランスだった。……それを、お前はここまで持ってきた」


 それは、親としての、そして"分析者"としての評価だった。


「だが、健全とは言えない。ひどく歪で、光の当たらない水溜まりのように澱んでいるんだ。……でも、壊れていない。見事にね」


 澱んでいる。でも、壊れていない。

 その言葉が、俺たちのこの数年間のすべてを正確に言い表していた。


「以前交わした"三つの約束"。そして、今日のお前たちの話を聞いて、点と点は繋がったよ。自分たちの安全地帯を社会の中に構築する。……いい線まできているな、と思った」


 父さんはそこで言葉を切り、表情を引き締めた。


「今の時点でここまできているのなら、今回の面談の結果は、現状維持を認める、という評価だよ」

「……」


 その言葉に、一瞬息が抜けた。


「……だが」


 すぐに、父さんの次の言葉が続く。


「それはまだ"理想"の域を出ない。現実的に考えたら、尋常じゃないほど険しい道だ。お前か、あの子たちの誰か一人でも踏み外したら、その人生計画は一瞬で破綻する」


「……わかってる」

「なら、いい。凉、お前は"少しでもずれた場合"のケア、つまりバックアッププランを、常に考え続けているんだろうね。その危機感だけは、絶対に捨てるなよ」


 父さんの言葉には、先を歩く大人としての圧倒的な説得力があった。


「君たちの理想通りにいけば、期限である来年の十二月には、全員の進路が確定した状態になるだろう。……でも、その前に最大の難関が待っているからね」


「最大の難関……」


「そう。君に立ち塞がるのは、僕と智里じゃない」


 父さんは、ゆっくりと首を横に振った。


「あの子たちの親だ。そして、社会だ。……彼らを真っ向から納得させられるだけの"答え(実績)"を、出せるようにしておきなさい。それができなければ、君たちの箱庭は今度こそ本当に解体される」


 あの子たちの親。

 茉依と悠希の親。玲茄の親。そして、美琴の親。

 その重圧に、俺は無意識に拳を強く握りしめた。

 俺が守らなければならないのは、彼女たちの心だけじゃない。彼女たちの人生そのものを、彼女たちの親から勝ち取らなければならないのだ。


「……ああ。必ず、答えを出す」


 俺がはっきりとそう宣言すると、父さんは満足そうに「よし」と頷き、ソファの背もたれに寄りかかった。


 張り詰めていた空気が、ふっと緩む。

 親子としての、真剣で重い対話はこれで終わりだ。

 俺も肩の力を抜こうとした、その時だった。


「――ところでさ」


 父さんが、急にそわそわとした様子で、俺の方へ身を乗り出してきた。


「明日、僕もお母さんと一緒に学校へ行くでしょ? その後、姉さん……みこちゃんのお母さんに会って挨拶する予定なんだけどさ」


 父さんは、顔を青ざめさせ、本気で怯えたような声を上げた。


「冗談抜きで心配なんだけど、僕、殺されないよね? どう考えても悪い予感しかしないんだ」


「……気をつけてくれ、としか言えない」


 俺は呆れたようにため息をつき、小さく笑いをこぼした。


 すると、顔を両手で覆っていた父さんは、ゆっくりと手を離すと、不意に、その顔から一切の笑みを消した。


「……みこちゃんのためにも、僕がどうにかするしかないな」

 独り言のように低く呟き、父さんは再び俺を真っ直ぐに見据える。

「凉。次の僕たちの帰国からが、本番だよ」


「……ああ」


 俺は静かに頷く。


 この夜を越えた先にあるのは、もう“家庭内の問題”じゃない。

 冷たい冬の空気の中で、俺の決意は、より鋭く、硬く、形を成していった。

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