夜の底で知る親の愛
――side. 井神 凉――
夜の九時を回った頃。
玲茄、茉依、悠希、そして美琴がそれぞれの家へ帰り、我が家には久しぶりに、俺たち家族三人だけの時間が訪れていた。
数時間前までの、あの異様な熱気と狂信、そして張り詰めた知性のぶつかり合いが嘘のように、リビングには静寂が落ちている。
「……私は、先に部屋へ行くわ」
母さんが立ち上がり、静かな声で言った。
一日がかりの面談で、さすがの彼女も疲労の色が隠せないようだった。
「あとは、男同士で話しなさい」
母さんは俺と父さんを交互に見て、それだけ言い残し、二階の寝室へと上がっていった。
――パタン、と扉の閉まる音。
リビングには、俺と父さんの二人だけが残された。
「……ふぅ」
父さんはソファに深く身を沈め、天井を仰いで小さく息を吐いた。
それから、ゆっくりと首を巡らせ、俺の目を真っ直ぐに捕らえた。
その目には、昼間の"分析者"の光はない。ただ純粋な、ひとりの"父親"としての静かな熱が宿っていた。
「どうやら、今回は腹が決まっているみたいだからさ」
穏やかな声だった。
「昼間は智里の手前、あえて厳しいことも言ったけど……今のタイミングで、父親としてしっかり話しておこうか」
「……ああ」
自然と背筋が伸びる。
「凉。お前が中学であの子たちを連れてきてから今まで……僕たちが、親としてどう思ってきたか。わかるかい」
父さんの口から紡がれたのは、予想外の言葉だった。
「智里はね、最初――毎日泣いていたんだよ」
「え……?」
俺は思わず目を見開いた。
「信じられないだろうけどね。……一人息子のお前が、どうなるのか。壊れてしまうんじゃないかって、ずっと怖がっていた」
胸の奥を、鋭い針で刺されたような痛みが走った。
あの時の母さんの言葉。視線。圧力。
全部が"監査"だと思っていた。
「……っ」
喉が、わずかに詰まる。
「だから智里は、必死でお前を縛ろうとした。壊れないように。取り返しがつかなくならないように。それが、この"箱庭"なのさ」
父さんの言葉は淡々としていた。
だが、その一つ一つが、重かった。
「……」
俺は何も言えず、ただ拳を握る。
「……今の凉を取り巻く環境は、どう贔屓目に見ても"普通"じゃない。異常だ。だが、お前たちにとっては、それがすっかり"普通"になってしまっている」
父さんは、テーブルの上で両手を組んだ。
「普通じゃないと自覚しているものを、人は隠そうとする。……お前たちも、今までそうやって守ってきたんじゃないか?」
父さんの目が、俺の奥底を射抜く。
俺の脳裏に、嵐田を屈服させたあの光景がフラッシュバックした。
「……」
「だが、僕が問いたいのはそこじゃない」
再び、視線が突き刺さる。
「その結果について、お前は後悔していないな?」
「してない」
即答だった。
「誰かの恨みを買うような、致命的なミスはしていないな?」
「……ない」
確かな覚悟を混ぜて、俺は父さんの目を見返した。
父さんは俺の目をじっと見つめ、やがて「そうか」と短く頷いた。
「僕はこの状況を、"実験"だと言ったことがあったね」
父さんの口元が、少しだけ緩んだ。
「針のむしろのような状態からスタートし、ほんの小さなほころび一つで、すべてがドミノ倒しのように崩れ去る、そんなバランスだった。……それを、お前はここまで持ってきた」
それは、親としての、そして"分析者"としての評価だった。
「だが、健全とは言えない。ひどく歪で、光の当たらない水溜まりのように澱んでいるんだ。……でも、壊れていない。見事にね」
澱んでいる。でも、壊れていない。
その言葉が、俺たちのこの数年間のすべてを正確に言い表していた。
「以前交わした"三つの約束"。そして、今日のお前たちの話を聞いて、点と点は繋がったよ。自分たちの安全地帯を社会の中に構築する。……いい線まできているな、と思った」
父さんはそこで言葉を切り、表情を引き締めた。
「今の時点でここまできているのなら、今回の面談の結果は、現状維持を認める、という評価だよ」
「……」
その言葉に、一瞬息が抜けた。
「……だが」
すぐに、父さんの次の言葉が続く。
「それはまだ"理想"の域を出ない。現実的に考えたら、尋常じゃないほど険しい道だ。お前か、あの子たちの誰か一人でも踏み外したら、その人生計画は一瞬で破綻する」
「……わかってる」
「なら、いい。凉、お前は"少しでもずれた場合"のケア、つまりバックアッププランを、常に考え続けているんだろうね。その危機感だけは、絶対に捨てるなよ」
父さんの言葉には、先を歩く大人としての圧倒的な説得力があった。
「君たちの理想通りにいけば、期限である来年の十二月には、全員の進路が確定した状態になるだろう。……でも、その前に最大の難関が待っているからね」
「最大の難関……」
「そう。君に立ち塞がるのは、僕と智里じゃない」
父さんは、ゆっくりと首を横に振った。
「あの子たちの親だ。そして、社会だ。……彼らを真っ向から納得させられるだけの"答え"を、出せるようにしておきなさい。それができなければ、君たちの箱庭は今度こそ本当に解体される」
あの子たちの親。
茉依と悠希の親。玲茄の親。そして、美琴の親。
その重圧に、俺は無意識に拳を強く握りしめた。
俺が守らなければならないのは、彼女たちの心だけじゃない。彼女たちの人生そのものを、彼女たちの親から勝ち取らなければならないのだ。
「……ああ。必ず、答えを出す」
俺がはっきりとそう宣言すると、父さんは満足そうに「よし」と頷き、ソファの背もたれに寄りかかった。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
親子としての、真剣で重い対話はこれで終わりだ。
俺も肩の力を抜こうとした、その時だった。
「――ところでさ」
父さんが、急にそわそわとした様子で、俺の方へ身を乗り出してきた。
「明日、僕もお母さんと一緒に学校へ行くでしょ? その後、姉さん……みこちゃんのお母さんに会って挨拶する予定なんだけどさ」
父さんは、顔を青ざめさせ、本気で怯えたような声を上げた。
「冗談抜きで心配なんだけど、僕、殺されないよね? どう考えても悪い予感しかしないんだ」
「……気をつけてくれ、としか言えない」
俺は呆れたようにため息をつき、小さく笑いをこぼした。
すると、顔を両手で覆っていた父さんは、ゆっくりと手を離すと、不意に、その顔から一切の笑みを消した。
「……みこちゃんのためにも、僕がどうにかするしかないな」
独り言のように低く呟き、父さんは再び俺を真っ直ぐに見据える。
「凉。次の僕たちの帰国からが、本番だよ」
「……ああ」
俺は静かに頷く。
この夜を越えた先にあるのは、もう“家庭内の問題”じゃない。
冷たい冬の空気の中で、俺の決意は、より鋭く、硬く、形を成していった。




