底知れぬ女たちの盤面
――side. 井神 智里――
玄関の扉が閉まる音から数秒後。
静まり返ったリビングのドアが開き、美琴が一人で入ってきた。
美琴は玲茄の隣に、優雅な動作で腰を下ろした。
凉と和哉のいないこの空間は、女同士の、互いの知性と腹の底を探り合う、極めて高度な盤面へと変貌していた。
「……さて」
私が口を開きかけた、その瞬間だった。
「智里さん。一つだけ、誤解のないように申し上げておきます」
玲茄が、私を遮るように先手を打った。
その顔には、あの完璧な微笑みが貼り付いている。
「美琴さんの件については、私は一切、噛んでいませんよ」
「……どういう意味かしら」
「言葉通りの意味です。彼女をこの箱庭に引き入れたのは、凉自身の選択であり、結果です。……正直、私にとっても想定外だったんですよ?」
玲茄は、隣に座る美琴をチラリと見て、ふふっと楽しげに笑った。
「私が、凉の背中を押して彼女を組み込んだわけではない。そこだけは、正確にお伝えしておこうと思いまして」
(……なるほど)
私は内心で舌を巻いた。
あの日、この場で私に"お薬手帳"を突きつけ、凉の倫理観を自分たちに合わせて"上書き"していることを証明してみせた、底知れない少女。
その彼女が、「美琴の加入だけは、私のコントロール外で起きたイレギュラーだ」と宣言したのだ。それはつまり、凉がただ神輿として担がれているだけでなく、自らの意志でこの箱庭を拡張し始めたという事実の証明でもある。
「玲茄ちゃんの言う通りです」
玲茄の言葉を受け、今度は美琴が涼やかな声で続けた。
「むしろ彼女は、私という"異物"をこの箱庭から追い出そうとしていましたからね。……私と彼女の間で、どれほど熾烈な牽制と盤面の奪い合いがあったか。今こうして、隣に座っているのが不思議なくらいですよ」
美琴は、かつての敵対関係を隠すどころか、誇らしげにさえ語ってみせた。
「……はぁ」
私は、堪えきれずに深く、重いため息をつき、目頭を押さえた。
「わかったわ。あなたたちが互いを牽制し合いながらも、今は凉という一点において見事な結託を見せていることは、痛いほど理解できたわ」
私は手元の家計簿――先ほど、思わず目が止まってしまった部分に視線を落とした。
「そして、その結託の"深度"についても、ね。……美琴、あなた」
私がその先を言葉にしようとした、その時だった。
スッ、と。
美琴がポケットから小さな冊子を取り出し、テーブルの上、私の目の前へと置いた。
それは、見覚えのあるデザインの"お薬手帳"だった。
「……っ」
「ご安心ください、智里さん。私の分は、しっかりと私個人の資産で管理していきますので」
美琴は、私が指摘するより早く、自らその証拠を提示してみせたのだ。
あのときの玲茄と全く同じ、有無を言わさぬ先手必勝。
それは「私はすでに凉に抱かれており、そのリスク管理も終えている」という、親に対する究極の事後報告だった。
「……あなたたち、本当に……」
私は再び深いため息をつき、今度は玲茄の方を見た。
「……玲茄さん。美琴の分も、家計の"サプリメント代"に含めておきなさい。……管理系統を分けるのは、リスクでしかないわ」
「承知いたしました」
玲茄は、あのときと同じように、美しく頭を下げた。
私は、目の前に並ぶ二人の才女を、半ば呆然と見つめた。
どちらも、社会に出れば間違いなくトップに立てる、一握りの才覚を持った人間だ。
「……どうして」
私は、テーブルに両肘を突き、思わずポツリと本音をこぼしてしまった。
「どうして、あなたたちのような聡明な子たちがこぞって、私の息子にそこまで入れあげるのかしら。……理解に苦しむわ」
私のそのぼやきに対し。
玲茄と美琴は、まるで打ち合わせたかのように顔を見合わせ、そして同時に、極上の笑みを浮かべて私を見た。
「「凉だからですよ」」
二人の声が、完璧に重なる。
そこに一切の論理はない。ただの純粋で、狂おしいほどの執着だけが、重低音のようにリビングに響いた。
「それに、智里さん」
玲茄が、楽しげに目を細めながら、とんでもない言葉を付け足した。
「来年の春頃までには……もう一人、増えるかもしれませんしね」
「……は?」
「ほお」
私の間抜けな声と、美琴の興味深そうな声が重なる。
美琴が玲茄の方へ身を乗り出した。
「それは……初耳だな、玲茄ちゃん」
「ふふっ、凉のキャパシティがどこまで保つか、見ものだと思いません?」
「……っ、もう、勘弁して……」
私は、完全に許容量を超えた頭を抱え、テーブルの上に突っ伏した。
これ以上、この恐ろしい女たちの狂気に付き合っていれば、私自身の精神が保たない。
息子の築き上げた箱庭は、私の想像など遥かに超えた次元で、恐ろしく強固に、そして美しく完成されていたのだ。




